竹田街道

                                    2011年8月27日

           京都駅近くの塩小路交差点から伏見公園旧伏見港まで

 鳥羽街道を完歩して羅生門跡から次の竹田街道の起点京都駅近くの塩小路交差点まで約30分ほどかけて歩く。途中激しいゲリラ豪雨にあったが直ぐ止んだ。竹田街道は伏見地区以外はあまり見るところが少なく、新しい民家が建ち並び広くない道路の車量が多く街道らしさが無くなっている。前回から続いて、伏見・宇治・鳥羽・竹田街道と歩き念願の京都市街から伏見方面の街道を歩くことが出来て満足感で一杯。鳥羽街道の道間違い、竹田街道の中書島からの補足分を、直ぐ後8月30日に3時間ほどかけて歩くことができた。

竹田街道は、東の伏見街道、西の鳥羽街道(鳥羽作り道)とともに江戸時代には京から南に延びる幹線道路として大いに賑わった。竹田街道が宇治川派流とぶつかる地点に京橋が掛けられていたが、江戸時代この一帯は船宿や商人の蔵が建ち並び活況を極めたといわれる。幕末にはその名も知られる寺田屋もその船宿の一つであった。伏見港からは、水路で大坂へとつながっていた。また明治28年、京都市最初の路面電車が京都駅~伏見に開通したのも竹田街道であった。

  竹田街道12時スタート 到着4時51分 27.074歩  16.03km   

  

                       京都駅北北側

                    京都駅前塩小路通り

                   竹田街道スタート起点

京都駅の東側、地下鉄烏丸線の通る信号交差点より更に次の信号の塩小路通りを右(南)に折れる。昔の街道面影は全くなく、新しいビルやホテルが建ち並んでいるので旧道は完全に消滅している

交差点の南西の角に電気鉄道事業発祥の地の石碑が立っている当初京都駅はこの塩小路辺りにあり伏見に向けて走っていた(後の市電)竹田街道もこの辺りが起点であった

真っ直ぐ南に進むと、左にセンチュリーホテル、右にホテルグランブウィア京都の間を進む。直ぐに駅に隣接する建物にぶつかる。この辺りに御土居の竹田口があった場所

その先の道道は京都駅からの線路で完全に突き当たりとなるので、左に迂回して線路を越え高架橋を渡る。当初は京都駅より北側にあったようです。高架橋に沿って右に曲がり、更に左に折れて京都駅南側の八条通り竹田街道八条交差点に出ます。交差点を南に真直ぐの道を進む。左にエルイン京都、右にホテル京阪京都の間の車道を進む。明治時代は辺り田んぼや畑ばかりで、見通しの良い長閑な街道風景であった。

東寺通り交差点の町並みを進む

南図書館があり、道を挟んだ向かい街道左に 祠

東九条烏丸地区の交差点右手東角に 北向不動明王(長増寺)

左側にレストランさとを過ぎたところ、九条通りと交差する大石橋交差点。

T字路の交差点手前左に陶化小学校、明治5年創立で京都の公家九条家の陶化殿の邸宅を借りて開校したのでその名がついた。開校当初は東九条学校と呼ばれた。右に入ると九条駅。小学校の正門前に竹田街道に敷かれた車石が残っている。伏見港と京都との物資輸送を担う牛舎が泥濘で動かなくならないよう一定の幅で6㎞の感覚で敷いた。隣に立つ石敢当と刻まれた、安政元年(1854)の常夜灯が建つ。元鴨川に架かる勧進橋に建っていた。

その先少し歩いていくと竹田街道札の辻交差点に出る、昔ながらの地名で嬉しいこの辺りに来ると、道の両側に建つビルも少なくなり、道幅もやや狭くなる。また煙り出しを乗せた大きな屋根に虫籠窓、格子、駒寄せを添えた風格のある町家のたたすまいが旧街道の風情を見せる。

交差点の角に宇賀神社参道の道標が立っている

交差点の角に宇賀神社参道の道標が立っている交差点の札辻通りを少し左(東)に入ると宇賀神社この辺り一帯は藤原鎌足の家系、藤原家の名門九条家の一門が屋敷を並べていた。

神社の少し南にある 浄土宗地蔵院

街道に戻り先に進み、竹田街道十条交差点で国道24号線と合流する。

合流した旧道は、前方の高速道ICを左に見て、交差点の直ぐ先で国道を左に分かれ町工場の脇を右に折れて直ぐ左に折れる。左に折れずに真っ直ぐ行くと十条駅

左に折れた細い旧道、右手角に 祠 が祀られている。

久世橋通りの広い道に突き当たるので、注意しながら久世橋通りを横切って高架道路を潜る。

鴨川の堤防に突き当たる、かつては勧進橋が架かっていたが今は左に迂回して24号線の橋を渡り、堤防の対岸に出る。この付近に架かっていた。

堤防を進むと深草勧進橋町の所で左斜めに下る旧道が復活します。

更にその先で旧道が分岐するので右の旧道を進む。

その先再び緑地帯を挟んで左右に道が分かれるので、左の旧道を進み緑地帯を右に見る。緑地帯途中右手に 祠 がある。

緑地帯途中右にある 祠

その先、京都市のぞみ学園を右に見ていくと川の手前の町工場で突き当たるので止むえなく左に折れる。多分旧道は真っ直ぐであったと思われるが消失してる。

左に折れて国道24号線に合流して右に折れる

国道24号線を右に折れて直ぐ東高瀬川を渡るこの辺り少し旧道は消失。

東高瀬川に架かる橋より消失した旧道方向を見る。

東高瀬川を渡りすぐの辻を右に折れます。

右に折れた左に 祠 があります。祠の所で少し右にカーブして100m程住宅を進むと突き当りとなり左に折れます。

更に100m程進むと竹田久保町で突き当たり左からの道と合流して右に折れる。

その先の十字路で左に竹田久保町の信号交差点を見て、そのまま横断して旧道を南に進んでいく

交差点の渡った左手にキリン堂を見て久保町の町並みを進む

右手に 祠

やがて右から東高瀬川が合流し右手に沿って旧道を進む

東高瀬川は門倉了以が開いた伏見と京都を結ぶ運河のうち鴨川以南を呼ぶ。かつては鴨川を横切る一本の水系であったが昭和になり鴨川に分断され、南北別々の水流となった。鴨川以北の京都木屋町をながれる情緒あふれる高瀬川と違って、伏見区の東高瀬川は排水路のようで、かつて高瀬舟が行き来した川とは想像できなくなっている。

その先で広い道路を横断、続いて名神高速道路を潜る。高速道路を潜る手前左角に、竹田中川原町の 祠

高速道を越えた先も東高瀬川に沿って進む。暫く進むと旧道は左に分岐する。

分岐で左の旧道を進むと右手に、弁財天。

その先で、左からの国道24号線に合流するその手前に、地蔵尊。

国道に合流して右に進む十条交差点からここまで旧道をたどってきたが、旧跡や古民家などもなくただ道順を間違わないよう歩くのみであった。国道24号線を少し歩くと右手に、城南宮参詣道と刻まれた 石柱 がたっている。参詣道を真っ直ぐ西に行けば城南宮に至る。

城南宮参詣道の入り口にもう一つ大きな石碑 北向不動尊が建つ。

大きな石碑の袂に、鳥羽天皇・近衛天皇御陵の道標。

もう一基は、右北向不動・左城南宮も道標。

国道24号線を進んでいくと、深草加賀屋敷町の交差点に出て国道24号線は左へ分かれ、旧道は真っ直ぐすぐの近鉄京都線の高架

その先で七瀬川のれんしん橋を渡る。

橋を渡った先の交差点が棒鼻交差点、ここは竹田村と伏見領との境界であった。駕籠の立継場所があったところから棒鼻の名がついたとされる。竹田街道は二手の道に分かれているが、左側の真っ直ぐな旧道を進む。

旧道に入り直ぐ右手にはお地蔵さんが祀られている

棒鼻から雁金町の町並みを進むと、広い道の交差点を横断します。

その先で神泉苑橋を渡る。

橋の手前左の 祠。

橋から左(西)を見ると小さく伏見城が遠望できる。

その先、上板橋通り交差点手前の右手にある 祠

古い旧家の建物はあまり見当たらないが、街道雰囲気は残っている

更に左手に白銀町の 祠。

暫く街並みを進んでいくと北尼崎町にある 祠 が左手にある。やはり京都なのか町には沢山の祠が祀られています

左手に玉乃光酒造の蔵が建っている。

その先で土橋町に入り、濠川に架かる土橋を渡る。

濠川は豊臣秀吉が伏見城築城にあたり、築城物資の輸送水路として伏見城の外堀を兼ねて開削した川。

土橋の手前右手ににも祠があります。土橋を渡りすぐ先の交差点右手角にも 祠.  土橋を真直ぐ進んだ交差点を左に折れる。

少し広い道を東に進んでいくと、左手に 浄土真宗西養寺とその門前にある 祠。西養寺の本堂は真宗の一般寺院の中では最古の歴史を持つ

西養寺を過ぎた先で広い道を右に折れる。

右に折れて真直ぐ進むと右に 浄土宗西光寺があります。

毛利橋通りの西町交差点を越えます。

その先右手に、月桂冠の昭和蔵工場が続いています。

工場が切れるところで伏見城から延びてきている、大手筋通りの交差点に出て街道は真っ直ぐ進む

大手筋の交差点で少し寄り道で、左に入ると浄土宗阿弥陀寺、その隣に浄土宗願生寺、またその隣に柳谷観世音菩薩と地蔵堂があります。その先は伏見大手筋商店街で、商店街が切れると京阪電車の伏見桃山駅、その先伏見街道をを交差し越えたところ左手に近鉄桃山御領駅へ通じています。

竹田街道大手筋交差点に戻り南へすすみます。

左に京都大橋総合病院を過ぎた先に油懸け通りの交差点に出る。そこを左におれた左手奥まったところに、油懸け地蔵の浄土宗西岸寺があります。1590年の創建、地蔵堂には俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊が安置されています。また境内には  「我衣にふしみの桃のしづくせよ」  松尾芭蕉の自然石に刻まれた句碑があります。

交差点に戻りその角店先には、電気鉄道事業発祥の地記念碑が建っています

竹田街道起点の京都駅近くの東洞院小路の碑と対をなすもので明治28年日本で初めての営業電車が京都駅前から伏見油懸け通りまでの約6kmの区間に開通した。

その先で、宇治川源流に架かる京橋を渡るその橋の手前左に入る道を進むと100m程で寺田屋がある街道は真っ直ぐ

京橋の手前袂に戊辰戦争鳥羽伏見の戦い 伏見口の戦い激戦地跡の碑

 京橋 

橋下の流れは宇治川に注ぎ淀川に通じている。淀川の水運は京・大坂を結び、また琵琶湖を経て遠くは東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが。慶長年間(1596~1615年)門倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。淀川を上り下りする三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟や、更に宇治川を下ってきた柴舟などがこの辺りにひしめき数十軒の船宿も立ち並んだ。しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するにあたり次第に寂れ、今は往時の盛観はみられないが、ここから東約50mのところにある船宿寺田屋がわずかに昔の名残りを留めている。

京橋から寺田屋方向を見る(左柳の向こう側)

京橋を渡り直ぐのところ右手に、新しい石碑で、伏見長州藩邸跡の碑が建っている

その先進むと右にローソンがありその前が左の側道、中央の自動車道、右の側道に分かれているので、ローソンの前の右の側道を通る。

中書島の交差点で左側道の先が京阪中書島駅

右手側道の所の 祠。

中書島交差点から街道を振り返る中書島は船宿があり旅人も多く必然的に昔は遊郭が立ち並ぶ遊郭街であった。

竹田街道を歩くには伏見の街を少し回る必要が不可避で、ここで(寄り道)をして伏見を見学

先ほどの京橋手前の道を左に入る正面にある観音さんの像

寺田屋の前

寺田屋境内には沢山の石碑が集められている。小振りの坂本龍馬像。

女将お登勢と寺田屋の由来碑。

維新当時のままの井戸。

お登勢明神坂本龍馬とお龍さんを結んだ寺田屋の女将お登勢は百年祭を記念に神と祀られ将来の若き男女の守り神となりました(寺田屋保存会)

詳細は省くが、ここ寺田屋では幕末2つの事件が発生した。1つは) 1862年の寺田屋騒動。薩摩藩急進派の9名が公武合体をもくろむ島津藩主島津久光によって粛清された。薩摩藩九列士殉難の碑餓立つ。1つは)1866年の坂本龍馬襲撃事件、恋人お龍が風呂から裸で飛び出して危機をしらせて逃した事件。庭には龍馬の小さな像と、十代の頃に詠んだ歌碑がある。  「世の人はわれを 何とも言はばいへ わがなすことは我のみぞ知る」   

寺田屋の前の宇治川支流、かつて十石船や三十石船が行き来して賑わった

寺田屋の前の通り(右側二軒目)。

寺田屋から少し東の龍馬通りの宇治川派流に架かる蓬莱橋を渡り川に沿って左に進んだ右手にある。赤い土塀と竜宮門がなやましい真言宗長建寺。本尊の弁財天は水の神であり、また遊女の守り神でもあった。三方を川に囲まれたここ中書島は元禄のころに遊郭ができ、近代になっても新地として名を馳せた。

向かいの川には十石舟サイズの舟が繋がれている。

対岸には月桂冠の酒蔵が並ぶ。

月桂冠酒蔵正面、酒の博物館として酒造りや日本酒の歴史、昔の酒蔵用具を展示している。建物は虫籠窓、格子、犬矢来を備えた厨子二階で典型的な京町家造りである。とても美しい造りである

正面向かいの 松林院

沢山の観光客がいる、正面の奥が月桂冠

手前を少し入ると、伏見土佐藩邸跡の碑。

龍馬通り商店街。

北に進んだ毛利橋通りに近い 西方寺

街道の濠川に架かる土橋まで戻り土橋を渡り直ぐ右に折れ、濠川に沿って進み先で川に沿って左に折れたT地路の左角に、 薩摩島津伏見屋敷跡の石碑横面には、坂本龍馬寺田屋脱出後避難の地と刻む。

薩摩藩邸址から濠川に架かる橋を渡って西へ3本目の筋を右に入ると金礼宮

道を挟んだ向かい側に、真言宗大黒寺。

空海の開基と伝えられる。秀吉初め武家の信仰が厚かった。江戸時代初めより、近くに伏見薩摩藩邸があり島津家の守り神、大黒天が祀られているところから1615年に島津藩の祈願所と定められた。本尊・秘仏大黒天は、金張の厨子に安置された小さな像で、六十年に一度、甲子の年に開帳される。幕末に西郷隆盛や大久保利通らが国事を論じたという一室もある。また明治維新の志士の遺墨等を所蔵する。境内には、西郷隆盛が建てたという、有馬新七ら寺田屋事件で犠牲となった九列士の墓碑をはじめ、伏見義民の文珠九助、木曾川治水工事で切腹した薩摩藩家老・平田ゆき負の墓、また「金運清水」と命名された井戸がある。

金運清水

伏見寺田屋殉難九烈士之墓。

 1752年徳川幕府に木曾・長良・揖斐川の治水工事を命じられ見事難工事の末完成。しかし予想以上の莫大な費用が入り、藩に迷惑をかけたと築いた堤の上で、はるか西の方 300里の薩摩の空を望んで三拝して静かに切腹して果てた。  平田靱負の墓

大黒寺の隣に、 松林院

松林院の墓地には、寺田屋の女将お登勢の墓と一族の墓が並ぶ

金礼宮・大黒寺・松林寺が並ぶ街並み

少し離れていたが、大手筋通りを東へ京阪、近鉄の踏切を越したところを右に折れて進んだ左手に、伏見奉行所跡の碑が立っている

伏見見学終わり、再び中書島の交差点に戻り、竹田街道をもう少し進み伏見港まですすむ。

一番右の道に入る

左に 祠があります。

京阪本線の踏切を渡る、左手に中書島駅があります

踏切を渡った右手の 祠。

踏切を振り返ったところ。

直ぐ先右手が伏見港公園昔は伏見の浜と呼ばれ三十石舟などで賑わった港。

公園を右に見て進むと直ぐ宇治川に突き当たる。京都外環状線道路で車が多い京都外環状線へ左から竹田街道が合流突き当たる

合流地点から左に伏見港公園と竹田街道を振り返る

竹田街道と京都外環状線の合流点、その先は宇治川

                     竹田街道完歩



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