2013年5月12日
和泉市松尾寺町の松尾寺~貝塚市紀州街道西町交差点
和泉市松尾寺町んの松尾寺~西へ東松尾川・松尾川を渡る~岸和田和泉ICの南側で阪和道を潜り~稲葉町~蜻鈴池と大池の間~岸和田市門前町~中島池北~土生町~津田川の犬前橋~貝塚市堀で南海本線を渡り~南に折れて中町で貝塚駅北側~西町交差点の紀州街道で合流
自宅4時40分に出て林間駅へ~北野田駅~泉北高速線で和泉中央駅へ、そこからバスの便が一日数本しか出ていないので時間的に合わないのでタクシー1500円に乗る、タクシーに乗ることは余ほどのことがない限り乗らないが今日は仕方ない。和泉中央駅 6時10分に着く。松尾寺6時35分境内見学して
松尾寺を 7時05分 出発
貝塚の紀州街道の分岐点 11時15分
そして暫く貝塚駅へ移動。貝塚駅にて完歩
24.923歩 14.96km
その後引き続き、久米田街道を歩くべく貝塚駅から春木駅に電車移動。
泉北和泉中央駅 タクシーで松尾寺前まで行く
阿弥陀山天台宗松尾寺
和泉市松尾寺町にあり本尊は如意輪観世音菩薩、672年創建、開基は役行者。最盛期は南北朝~室町時代にかけて、寺領7000石、寺坊308名、僧兵数千人を数えたと伝えられている。
信長の高野山攻めの時、当社も焼失した。現在の松尾寺は、その後、豊臣秀頼によって再建された。
金堂
1602年豊臣秀頼によって再建されたと伝わる。内部は礼堂と内陣に分かれ内陣廻りは極彩色が施されている。
三天堂
山門
不動尊堂
首堂
源義経が源平一の谷合戦に戦死した将兵の首舟一艘を当寺に送りこの地に葬り菩提を弔った、他の二艘は堺の港寺と大阪の四天王寺に納められた。
境内の 春日神社
松尾寺は松尾観音と称し役小角の開基にかかると伝えられる。往昔勅願寺として歴代皇室の御尊信武将の崇敬厚く元弘建武より吉野朝時代を通じ祈祷に戦闘に終始勤皇護国の忠誠を捧げし泉州著名な古刹。
門前を出た左に天台宗 宝瓶院
大雅殿
境内に聳える大木
閼伽井 行基菩薩へのお供え水の掘り
行基水掛地蔵尊
門前少し右に入ると天台宗 明往院
見学で時間をとったがスタート 松尾寺前起点
左に皇太子殿下御降誕記念碑
右角に立派な門構の建物
すぐ左に 大木と尾崎稲荷大明神白龍大善神
くす 樹高30m、幹回り10m 樹齢推定700年の巨木
すぐ左にある 笠松地蔵尊
看板ミカドの先を左に鋭角に折れて東松尾川を渡る
東松尾川の小さな橋を渡り街道は丘を上っていく
竹林の中の細い道を進む
池を右に見ながら進んでいく(池の先で振り返る)
集落内の狭い道を通ります
226号線に交差するのでの横断する
三友商運を左にみて進みます
その先で広々とした耕地に出る
松尾川を井ノ木坂橋で渡ります
春木町の気持ち良い田畑の中の街道を進む、車も通らないしのんびりと歩ける
少し進んだ先で、広い新しい道に出る手前で振り返る
広い道に出たところ、この辺り工事がされていて、広い道を越えた正面の市池の北側を進むのだが、道は消失しており柵がされていて入れない。広い道を左に進み迂回する
迂回してきて南西から広池を見る。旧道は池の対岸を通っていた
池の西の端から旧道へ出るべく荒れた道を右に池を見て少し行くと金網のした旧道に復活するので左に折れる
左に折れたところで振り返ると、池の北側の旧道はこの先完全に消失している
復活した旧道を進む
200mほど先で阪和道の高架下のトンネルを潜る
阪和道を潜ったの先の街道
所々工事中の中を西に進むが、数年後再度来たとしたら様変わりしているだろう。
一番標高の高いところから下りに入り、稲葉町が前方に見える
十兵衛坂を下る
下ったところ右に 地蔵尊の小詞があり、突当りを左へ
左に曲がり、すぐに突き当たるので右に折れる、更にすぐの十字路で左に折れて小川の橋を渡ると右角に地蔵堂があり右に折れ西に進む
突当り右へ
十字路の細い道を左へ
集落の中を通る
小川を渡る
右角に 地蔵尊が祀られている
地蔵尊の角を右に折れ西への集落の中の風情ある街道を抜けていく
祭りが近いのか、山車の車庫で集落の地区の人が集まっている、左に見て真っ直ぐ進む
40号線の山瀧地区公民館前交差点を越える
交差点手前右手にカメラに収めきれない大きな旧家が建つ
40号線の広い交差点を越え左に池を見て山滝地区公民館を抜けると、信号交差点に出るので横断、左に藤井たばこ店の前を通る。
変則の辻に出るので左の道を下っていく。元の旧道は少し右側を通っていたが今は民家で消失している
この道の右斜めに旧道は下っていた
旧道は正面の民家の右辺りを進んでいた
やがて橋を渡る
橋から東を見る、橋を渡り川沿いに右に進む
橋を渡って右に折れる左角に 小詞
1478年創建の 菅原神社
神社北側の川沿い街道左に 極楽寺
そのすぐ先でT字路となり右に下橋を見て左に折れる
下橋から振り返る、旧道はこの対岸辺りに出てきていた
下橋を左に折れたところで、すぐ先で旧道らしい道が右に分岐していたので、旧道と思って右を進むと、稲葉町霊園への道であった。真っ直ぐの230号線を進む
暫く左側に広大な蜻蛉池公園が続く
公園に沿った新道を進みます
蜻蛉池公園内
大池の北側を通り、左にスポーツハウスやテニスコースが見える
左にテニスコート
左の公園が切れたところ右の高台に、いちご狩り園
ながい公園沿いも終わり真っ直ぐ進んだところでログハウスのところで、
左に下る道を進む、少し下った先で川に出るので川の手前道を右に折れ川沿いに進む
川沿いの先に三角形の建物の所で道が分岐しているので左の細い道を進む。右に行けばすぐ新道に合流
左に川を見て右にカーブして新道に合流する
新道に合流して左へ
すぐ先でT字路で左に折れる
水路沿いに100mほど進みます
右の原政酒店の前を通り、東西橋を渡る
この辺り屈曲した集落内であるが、新旧の建物が混在しているが街道風情が残る街並み
右に深井瓦店、左に福嶋商店の前を抜けて、暫く歩く。やがて信号交差点に出るので横断
門前町で右に南池と明神池を見ながら進む
2つの池を抜け土生町に入る
門前町公民館前のポストの陰に「教育勅語四十年記念」碑
大木の角を左に折れる、その左に泉光寺
臨済宗 泉光寺 岸和田城主 岡部氏歴代の廟所
手水鉢
泉光寺はもと初代岸和田城主岡部宣勝公の隠居邸であったが遺言によりここに葬る。二代行隆がこの手水鉢を設けここで身を浄めて父宣勝の菩提を弔ったという。その後350年歴代の城主がここで身を浄め先祖の墓に参拝した。これより奥に歴代藩主十三基が立てられている。
岸和田藩主歴代の墓所入り口門
長景公墓国東塔、大分県国東半島富貴寺に現存する石造宝塔で平安後期よりその優雅さは有名
歴代藩主の墓が並ぶ
長泰公とだんじり
1,703年長泰が京都伏見稲荷を岸和田城三の丸に迎え移した、伏見からの稲荷勧請には領内挙げてその工事を祝い、だんじり祭りはその時の領民に対する慰安の意味であった。また秋の実りを感謝し五穀豊穣を祝うためでもあった。
寺の前を通りみぎにロータリーを見て左に折れ、岩城商店の前を通るとすぐ先で門前町1丁目で小さな児童公園の手前を右に折れる
右に折れて新しい旧宅地の道を進む
やがて道は新日本ビルの建物に突き当たるので右に迂回していく
左の中島池に沿って進んでいく
中島池が切れたところで新道を横断する
続いて左に孟正池が、池に沿って進む。右に土生中学校
2つの池を過ぎた先の街道筋
この先はまた複雑に道は屈曲して進む。道なりに左にカーブしすぐ先で左からの道が合流するところで右に折れる。更に少し進んで左にカーブするところで、左角に道標があり、左から粉河越道が合流してくる。重複して西に進む。
左にカーブするところ
右に折れる所
変則十字路で、左手前から貝塚街道が合流、粉河越道が左正面から合流してきて、右向こう側の街道を西北へ重複しながら暫く進む。十字路左角に道標が残る
変則十字路
左角の 道標
貝塚街道の十字路へ入る所振り返る
粉河越道が十字路に入る所の道筋
十字路から先の貝塚街道の町並み
暫く進むと点滅信号があり、ここで右から熊野街道が合流してこの先少し重複して歩く
信号より熊野街道の道筋をみる
更に100mほど進むと車道に出る、かつて旧道は真っ直ぐ進んでいたが今はビル等で消失しているので、左に折れて土生交差点に迂回する
土生交差点で熊野街道は広い道を西へ進む貝塚・粉河越道は交差点を右に折れて北に進む
踏切手前辺りに先ほどの旧道が出てきていた
北に進むと200m弱でJR阪和線の踏切を横断すぐ右に東岸和田駅がある
踏切を越えて粉河越道は真っ直ぐで分岐する、踏切を越え貝塚街道は左に折れ線路沿いに100m弱歩きイオンの手前で右に折れる
イオンを左にして北側の角を左に回り込む
旧道はイオンの東角から西角に通っていた
もうこの付近で、旧道跡の道筋は整備されて残っていない。
イオンの東角の交差点を見る
イオン西側の道より一筋西側の道を北西に進む
100mほど先の初めての十字路で、左角に村尾診療所の角を左に折れる
そして突当り弥園商店の所を右に折れる
右池の手前に 小詞がある
そのすぐ先で十字路となり左に折れる
右に阿理莫神社がある
阿理莫神社
神社の先で信号交差点を右に折れ、100m余り先で国道26号線の久保交差点を歩道橋で渡る
歩道橋から今来た東の街道を見る
歩道橋を渡り正面の道を進む
久保の町筋を進む、岸和田だんじりの山車の準備中
津田川のいぬまえ橋を渡る
右に地蔵さんの 小詞
その先左に浄土真宗 無量寺
すぐ先左にお地蔵さんの 小詞
西への真っ直ぐな町並みを進む
暫く真っ直ぐの道を進んだところで五差路を右に折れる(右手前鋭角の細い道でなく)
右に浄土宗 専念寺
すぐ先で右へ、左と鍵の手の道を進む
またすぐ先で信号交差点に出る。旧道は真っ直ぐか、左に曲がるか迷ったが、真っ直ぐ進むこととした
交差点を越えた真っ直ぐの道
南海本線の踏切を越える
踏切を越えて一つ目の信号交差点を左へ曲がる右角に白龍大明神がある
右角の 白龍大明神
左に曲がった先のほぼ真っ直ぐ道、右に貝塚病院が建つこの辺りの街道は残っていないようだ
病院の先で小さな感田橋を渡る
感田橋をすぎた先で、左に見えるシテイーホテルサンライズの少し北側の交差点に出るので右に折れる。その途中交差点付近にお寺が集中している。まず街道沿い右には「真宗泉光寺」、交差点に出て左に曲がり南海本線の手前には「感田神社」、交差点に戻り街道を北西に進み左一筋目を左に入っていくと右に「浄土真宗要眼寺」、また街道に戻り次の右に入る筋を行くと左に「浄土真宗正福寺」、街道に戻り更に次の筋を右に入ると右に「真宗満泉寺」、左に大きなお寺の「浄土宗願泉寺」、さらに奥右に「浄土真宗尊光寺」、更に街道に戻り進み岩崎外科医院の所を左に入っていくと「浄土宗上善寺」と市内唯一の「日蓮宗妙泉寺」がある。
浄土宗 願泉寺
1545年無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎了珍を迎え、一向宗の町づくりが始められた。石山本願寺から地内町にとりたてられた後、1577年にはその支城として織田信長と戦い町は焦土と化した。その後、寺も町も再興され1583年から2年の間、紀州鷲の森より顕如上人を迎えて本願寺御堂となった。江戸時代には町は寺領とされ住職の卜半家の支配が続いた。願泉寺の名は1607年准如上人から授けられた。境内にある梵鐘は鎌倉時代のものである。
願泉寺の門前
本堂
太鼓堂
お寺は全て見てまわったが、残念ながら写真の整理が不十分で、お寺と写真が判断できないので願泉寺のみ掲載する。
広い道に出る右手前に 中町鍛冶お地蔵
右にお地蔵さんを見て広い通りに出る、街道は右に折れる。感田神社は左に折れてすぐ
感田神社
広い道に出て北西に進む
右に折れて200mほど進んだところで、204号線の西町交差点。紀州街道と交差合流する。
貝塚街道の終点(起点)
西町交差点より少し西に寄ったところの歩道橋より紀州街道を見る
西側和歌山方面
東側堺方面
紀州街道は先の信号で(木の所)右斜めへ
南海本線貝塚駅へ移動
貝塚駅前広場にある 道標
貝塚街道 完歩
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