【2日目】 7月10日
岸和田城~和歌山城
3日目・4日目・5日目も重複して構成しています。
自宅4時30分出発、和歌山市駅近くに車を預け南海線で岸和田駅へ、6月9日に続き紀州街道を歩く。なんとか和歌山城まで行きたい。
6時40分岸和田駅より先日の起点まで歩き和歌山城まで長く山越えでもあったし非常に厳しい1日であった。
和歌山城の京橋に着いたのは日も暮れかけ12時間も歩きました。でも後半は歩くだけで写真も撮れなく、結局再度後日歩く羽目となる。
75.562歩 49.11㎞
南海岸和田駅前のアーケドの中に入り西方寺北側の前回の起点に進む
前回の起点
北町の町通りを進む。
右手にGTLBANK(有形文化財)。
北町の街筋を進んでいくと、やがて街道は39号線の広い交差点に出ます。
古城川に架かる 欄干橋に出ます。
欄干橋から今歩いてきた街道を振り返る。
道路の向かい右角に、成協信用組合は大正8年に建てられた、旧四十三銀行。街道は真直ぐ横断。
交差点左への道は、 府中道、牛滝嶺道(いずれも歩き済み)
欄干橋
この橋は古城川にかかる、上手の橋を茜屋橋、下手の橋を船津橋と呼ぶ。紀伊の国より難波に至る重要路の一つ。紀州街道とも岸姫松街道とも呼ばれた。何時頃から欄干橋と呼ばれたかは定かでないが、城下町に中心であった。この橋は「道路元標」とされていた。
大橋の少ないこの街に、当時、欄干まで石橋で出来たことに驚いたようで、このような俗謡が今も伝承されている。
「石の欄干橋ドンと踏めばにくや雪駄の一緒が切れた」
藩政時代には参勤交代の道して岸和田藩や紀州藩の行列が橋を渡り、また熊野詣にも沢山の旅人が行き交じったことだろう。
堺町に入り街道は 鍵形に曲がる。江戸時代に 堺口門があったところ。
すぐ右に、きしわだ自然資料館があり、更にそのすぐ先で、左に折れて右に曲がる鍵の辻です。
岸和田本町の町並み。
十字路に出るので左に曲がると「こなから坂」で岸和田市役所・岸和田城に行き着く。
角に立つ 新しい 道標
「左 こなから坂 右 紀州街道」左へは、 粉河越道(歩き済み) への街道。
ここで一旦街道歩き中断して【寄り道】岸和田城へ
城下町岸和田は、300年の伝統をもつ「だんじり」祭りに賑わう。
岸和田城は平城で本丸・二の丸の石垣と堀が残る。天守閣は昭和29年再建された。藩政期は岡部氏13代の城下町。男たちの掛け声とともに、だんじり(地車)と呼ばれる大きな山車が街々を回。元禄16年(1703)三代藩主長泰が城内に京の伏見稲荷を勧請。五穀豊穣を祈願したことに始まると伝わる。毎年9月に行われる。
岸和田城 千亀利(ちぎり)城とも呼ばれた。
城の創建は建武元年(1334)といわれ、楠木正成が摂津・河内・和泉の守護に任命されたとき、岸の和田氏(岸和田の発祥)に、この近くの現野田町に城を築いたのが始まりといわれる。城主は中村一氏、小出秀間政、岡部宣勝で岡部家十三代が明治維新まで続いた。
五風荘
岸和田市長をつとめた寺田利吉が昭和4年から10年の歳月をかけて造った邸宅。元藩主岡部氏の屋敷跡で、本丸堀の東南部に建つ。維新後、寺田財閥が入手したもので、現在は市の所有。
天守閣の東側にある 岸城神社
隣に建つ 岸和田戎神社
本丸の東側に岸和田市役所があり、その東側のこんまから坂を下っていきます。
寄り道を終わり元の街道筋、本町の十字路に戻り再スタート。余りゆっくりしてると和歌山城まであるけない。
100m余り進むと右に、 長栄山 圓成寺
綺麗で落ち着いた街道雰囲気の残る本町の街並、藩政期には城下町としての中心で賑わったところ。
久住 邸 久住家は屋号を「粉川屋」といい、藩政期には両替商を営む。
久住清子邸 当家は明治三十年代後半に当地に移住し建てたという。
山内 邸 代々池田屋九郎兵衛を襲名し、藩御用の薬種商を営む。過去帳には元禄十年の記録がある所からそれ以前からの古い家柄である。
松村千鶴子邸 明治初期の町家。
金納ミサ邸 元魚問屋(屋号かねや)を営み、明治期の建物。
この本町通りにはまだまだ多くの旧家が残る。
紀州街道本町 一里塚跡・弁財天
一里塚跡の前の街道。
街道よりすこし左に曲がると204号線沿いに 岸和田だんじり会館
街道に戻る、川崎喜陸邸屋号「八阪屋」で八百屋の卸業を営んでいた、それ以前は両替商。現在は二十一代目という。
阪口和彦邸 明治初期の町家移行。
やがて本町も終わるころ右に、遍照山 光明寺
そのすぐ先十字路を、街道より右に入っていくと左角に 曹洞宗 梅渓寺 岡部宣勝の生母の位牌と墓碑がある。
前の道を少し左に曲がた隣に 浄土宗護持山朝光院 天性寺 蛸地蔵を祀る、伝説も残る。
参道入り口には 「たこちそう」の石標。
天性寺の入り口参道。
堂の前に、十三重の石塔と蛸地蔵縁起が刻まれた 石碑がある。
街道に戻り交差点を進む交差点を左に入る道は、蛸地蔵駅を通る 水間道。
街道沿いの蛸地蔵の参道と街道。
その先、南町に入り、蛸地蔵参道口から100mほど進んだところの辻を、左に入る更に20mほどで右に折れて街道は進む。
500mほど町筋を進むと、津田川に架かる岩見橋に出るので渡る。
岩見橋から右を見るとすぐ貝塚港。
橋の手前津田北町で貝塚市に入り橋を渡ると、左角に 道標「忠臣捕鳥部萬墓 犬塚 是ヨリ三十丁」用明天皇期の守屋と蘇我氏の戦いの中での伝承ち。
津田南町を進んでいくと堀新交差点で、左からの204号線の車道に合流する。
合流した先から、左の街道と204号線の車道を振り返る。交差点で小さな川の橋を渡り、堀、北町を204号線を進む。
暫く進むと左に 旧家
ト半役所跡と姫松
西町交差点を左に折れて願成寺の南側を進み南海本線を渡る道が、 貝塚街道(歩きました) 204号線を進んで行くと、広い西町交差点に出る。
ここでまた街道歩きを一旦中断して 【寄り道】をする。
【寄り道】をする。西町交差点を左に折れて広い道を300mほど進むと南海本線が見えてくる。右に貝塚駅、その手前左に感田神社がある。神社の向かって前にシテイホテルサンライズイン。
貝塚駅に程近く、南門を入ると、海幸戎神社と感田神社があります。
旧宗福寺山門(感田神社東門)
感田神社の南門
南門を入ると感田神社と海幸戎神社が並ぶ。
神社の北側社務所に向かうと濠があり石橋が架かる、貝塚寺内町としての環濠の面影を残す遺構。
神社の表門の通りにある鳥居を出て右に道をとり、最初の十字路を左に曲がり、そして最初の辻を左にとると
並河家の旧家がある。卜半斎に仕えた屋敷この先に願成寺の表門が見える。
浄土真宗二位山 尊光寺
貝塚寺内町の中心寺。信長に焼かれ、秀吉・家康が保護した。 願泉寺
残念ながら平成22年まで改装中で中に入れなかった。願泉寺は僧行基の応仁年間に開創と伝わり、繁栄は天文十四年(1545)に紀州の根来寺から卜半斎了珍が道場を開いてからである。天文二十四年(1555)三月、石山本願寺から寺内町としてとりたてられ、貝塚寺内町として環濠城塞都市を造り勢威を拡大した。天正に入り織田信長に反抗したため寺内町は焼土と化したが、その後、秀吉・家康により保護を受けて明治に至るまで、寺内は御坊主職卜半斎が支配して明治維新まで存在を傍示した。
貝塚御坊 願泉寺表門
表門・太鼓櫓・本堂・鐘楼(国の重文)
願成寺南側に 満泉寺
さらに南側に 清泰山 泉光寺
西側には 正福寺
寄り道も終わり元の街道、204号線に出て100mほど進むと貝塚駅下り信号交差点に出る。その先50mほどの一つ目の信号で、左に204号線を分け右の旧道に入る。分岐する角に貝塚南町郵便局。
暫らく町筋の旧道を進むと、左に宮本内科医院、そのすぐ先右に石野石材店がある、その右奥に見える、 龍雲寺
石野石材店から300mほど進むと交差点に出る。脇浜地区に入り、更に150mほど進むと道は分岐する。街道は右にすすむが、左への道は 粉河街道(歩いています)。
粉河街道の旧道。
粉河街道の道筋、その分岐の角に木に覆われている
道標 「左 粉河街道 犬鳴山不動 粉川道」 「右 国道廿九号路線佐野加太和歌山道」
右の道を暫く進むと、脇浜1丁目西の広い道路の交差点を越える。
交差点を越えると左に池があり、その先右に西小学校がある東側を進む。信号交差点を越えて暫く進んでいきます。
近木川の永久橋を渡ります。
150mほど先の十字路を横断します。
その先暫く道は緩やかに蛇行を繰り返しながら南に進んでいきます。初めての信号交差点に出ます、交差点左少し先に204号線の二色の浜交差点が見えます。街道は真っ直ぐ進みます。少し進んだ先十字路に出ます、左角にファミリーマートがあります、真っ直ぐ進みます。更にまた大きく蛇行をしながら暫く進んでいくと、右にジョーシンサービスのところで左からの204号線に合流します。沢地区です。
沢地区で左からの204号線に合流。
204号線を50mほど進むと再び分岐するので右の旧道に入る。
100m弱で見出川に架かる見出橋を渡る、橋を渡った右手には共和泉佐野工場があり、見出川をわたると鶴原に入る。
橋の先すぐ右に、諦徳地蔵菩薩。
其の先、数十m先で道は分岐する。右の道が 紀州街道で、孝子越え街道・大川峠越え街道への道でもある。(いずれも歩きました)左のは熊野街道に合流する旧道。
分岐道の正面角に 道標と祠 「左 紀州わか山 右 大川あはしま」。
左に進むとすぐ204号線の鶴沢橋南交差点に出ます。
204号線を斜めに横断した先に、左への旧道がある。旧道を進むと南海本線の踏切に出る、左に鶴原駅が見える。更に南西に細い道を進むと、泉佐野市下瓦屋の第三中学校のところに出る。学校の横を抜けると道の池の北側で熊野街道と合流する。この道も旧道と思われる。
先ほどの分岐点に戻り右の道を進み。紀州街道を進む。暫く西に向かって進んでいきます。
先ほどの分岐点に戻り右の道を進み紀州街道を進む。暫く西に向かって鶴原の集落を進んでいくと左に北中小学校があります。鶴原2丁目1に出ると、右手に鶴原の共同墓地がありそこと向かい合って 地蔵堂があります。
南地蔵尊 地元の人がこの道を整備した時、地中から六体の地蔵尊が掘り出され祀られている。
その先を進むと街道右に重厚な旧家。
下瓦屋地区に入り広い中央分離帯のある信。号交差点を横断した先すぐ左に
住吉神社の杜が見える、街道右は大きなグルメシテイ。
住吉神社 航海の守護神
佐野川に架かる住吉橋を渡る川の右手は、佐野漁港。
橋を渡った先左に大きな木の下に小さな 神社。
すぐ先左に 浄土真宗 教蓮寺
湊地区に入り、泉佐野打田線の信号交差点を横断し、左に山陽マルナカの前を過ぎ、右手に中西自転車店の前を左に折れる。
左に折れて暫く進むと左に、泉佐野旭郵便局。その先で左にカーブするところ左に、旧家。
左に曲がると左すぐ道が分岐するので右(南西)に道を進む。
少し先で川を渡ると左に、日蓮宗 妙浄寺
梵鐘 この梵鐘は天和二年(1682)5月泉佐野市の豪商唐金氏が奉納したもので、市内最古の梵鐘。
街道北側に入ると 春日神社
春日通り商店街に入る。
左に 上善寺
上善寺の過ぎたすぐのところで、右の野出町へ【寄り道】をします。
甘露山 西方寺 おかごよせあとの石碑が建つ
浄土真宗本願寺派昇龍山 明厳寺
西の野出町へ行くと。 浄土真宗本願寺派逝濯山 妙安寺
更にその西に第一小学校があるところが、 食野家跡
元禄時代、大坂商人は富裕を極めたが、泉州佐野も富裕の商人が多かった。その代表的な豪商は食野家と唐金家で、食野家は楠氏の後裔といわれている。屋敷の中で道に迷うことは多々あったようで、それほど宏大な屋敷であった。でも明治維新で諸大名、藩士への融通金、新政府への用立て金もご破算とされ十一代を以て没落した。
邸宅は現在の第一小学校辺りにあり、今は往時を偲ぶものはないが、松の古木が寂しく残っているだけ。玄関わきにあったと言われている。
屋敷跡より北東海岸沿いに「いろは蔵通り・いろは四十八蔵」(本町)、食野一族の墓が「野出共同墓地」(野出町)に遺跡として残る。
屋敷跡より少し北西の海岸よりに 高野山真言宗 法薬寺
野出町の共同墓地内に 食野家一族の墓がある。
法楽寺の西側の車道を南に進むと信号交差点があります。交差点右に中央保育園があります、旧道は保育園の中を南西に通っていたが今は消失しています。交差点を真っ直ぐ進み204号線の大西2丁目交差点に出て、204号線の手前の道を鋭角に右に折れます。中央保育園の南側を通ることになります。そしてすぐ辻で旧道に復します。道なりに進み笠松地区を進む。右に笠松公園が見えます。
やがて南海線、JR関空線、関西空港自動車道の高架を潜ります。
その先、松原で左の63号線に近づきますが合流はしません。再び63号線と少し離れ並行して進みます。その先、羽倉崎の町並みを進みます。
羽倉埼3、小さい川を渡った右に入ったところに
その先、左にマックスを見て、信号交差点を横断します。更に左奥にコーナンが見えてきます。
田尻町に入ると街道より左に入ると、 嘉祥神社があります。
神社の南には 浄土真宗本願寺派光明山 真光寺
街道に戻り田尻の町並みを進むと右に大きな旧家。
その先で小さな橋を渡る。
すぐ左に、田尻歴史館 この建物は、大正十二年に大阪合同紡績の元社長である谷口房蔵氏の別邸であった。関西繊維業界の発展に尽力し田尻に紡績の産業を興した。平成五年田尻町が取得して愛らんどハウスと名付けた。
少し先左に 春日神社 境内地は1万7千坪と広大明治初年、内6000坪を遠藤氏が吉見藩を立藩し廃藩後は神社に返却。春日神社に隣接する地は 吉見藩陣屋跡。
吉見の地区を暫く歩くと、樫井川に架かる江永橋を渡る。橋を渡ると泉南市の岡田浦集落の集落にはいる。
橋より左(南)方向を見る上流に3㎞ほど溯ると、大坂夏の陣で名高い、樫井川古戦場である
右はりんくうポート方向の海。
岡田地区の真っ直ぐな街道を進む。
橋を渡って200mほど進むと右に 泉州山 日限寺 本尊は地蔵菩薩。
日限寺を過ぎて暫く進むと小さな橋を渡ると岡田5の集落にはいる。
橋の先右に 真宗西本願寺派日根山岡田院 西光寺 が見えます。
この大きくない岡田の集落内には、日限寺・西光寺・安楽寺・明覚寺・浄泉寺と五つもの寺が維持されてきた。いかに漁業と商業で繁栄したかわかる。
橋を渡って100m弱、岡田5丁目の西光寺の前を十字路を紀州街道は左に曲がる。
十字路真っ直ぐの道は、紀州街道の脇道、孝子峠越え街道、大川峠越え街道・浜街道とも呼ばれた。(いずれも歩きました)
この辻、左に折れる十字路には道標がない、この先進んだのか、熊野街道と合流して山中渓を経て和歌山市の山口宿から和歌山城下への古い道である。ただ参勤交代の紀州街道はこの道を通ったのか、または、前述した道標があった鶴原の分岐点を左に進み、熊野街道に合流したのか分からない。左に折れた先の紀州街道
街道沿い右に 浄土真宗本願寺派龍雲山 明覚寺
南海本線の岡田浦駅が右に、踏切を渡ると旧街道の面影が残る筋。
右に堀越内科医院があり、そこを右に入ると 浄土宗光明山 浄泉寺この道は大苗代・岡田浦停車場線と呼ばれる府道252号線。
街道を更に少し進んだ次の辻を左に150mほど入ると西信達中学校の南側に
里外神社 泉州は機織りの発祥地で守護神として崇拝されてきた。神社の創建は古く仁徳天皇時代と伝わる。
神社の東側には 長安寺
街道に戻り南に進む、堀越内科医院から150mほどで252号線は左に折れて150mほど東に進む、途中左に里外神社の森が見えます。すぐ先で道が分岐、正面に南商店があるので、右側の道を南に曲がり南に200mほど進む途中、左に北野区民会館・右に南海寺・左に稲葉医院があり、やがて旧国道の北の交差点に出ます。交差点を横断して100m余り進むとT字路となり停車場線252号線は左に折れます。300m余り右に大きく弓なりにカーブしながら南に進むと、新しい国道26号線の大苗代西交差点に出ます。
大苗代西26号線交差点。
国道から200mほど先の信号交差点を紀州街道は真っ直ぐ進む。交差点を左にすすむと 一岡神社・海会寺跡に出ます、そこで東からの熊野街道と合流しますが、熊野街道とはこの先100m余り先で合流します。
熊野街道と合流地点を振り返ってみたところで向って右から 熊野街道 左から紀州街道。
丁度合流辻の右手に、了安寺が、反対の西には大きな海営宮池がある。浄土宗 了安寺
更に暫く進んだ右に、浄土真宗本願寺派本乗山 弘誓寺
合流した南への道は、重複しながら古代から近世にかけての熊野街道でまた、藩政期途中よりの紀州藩主参勤交代の本街道でもあった。この辺りは信達街道とも小栗判官に因み小栗街道とも呼ばれ、古い民家も残り街道の面影を残す。
この先、和歌山市の山口宿手前まで、熊野街道と重複するので詳細は熊野街道をも参照してください。
更に進んでいった右手に、信達宿本陣跡長屋門 この地は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には、紀州家の参勤交代の紀州街道となり、本陣・旅籠などが設けられました。現在でも往時の姿を偲ばせる街道筋です。
本陣跡前の街道筋と振り返った街筋。
その先進むと左奥に 浄土宗鎮西派法性山寂静院 真如寺
境内の 宝篋印塔
境内に 徳川吉宗の手植えの樹 貝塚いぶ木 樹齢300年以上。
交差点を横断した左に お地蔵さん
旧家が残る信達宿の街並み。
暫く歩くと信達牧野交差点を横断、交差点を左に行くとJR和泉砂川駅がる。。街道は真っ直ぐ。
左に白鳳八年(679)天武天皇の勅命で百済から渡来した道昭が創立したと伝わる。明王山大日寺往生院
すぐ先に大鳥居交差点に出る、真っ直ぐ進む。左に山手へ進む道は、浜街道と樽井で分岐してきた道がここの交差点で交差し、風吹峠を越えて紀州岩出に出る、三ヶ畑越え紀州街道。(歩きました)
大鳥居交差点。
少し進むと右手ブロック塀内の広場に、楠の大木、二基の祠、地蔵菩薩、馬頭観音が祀られている。
熊野街道九十九王子の一つ、 信達一之瀬王子跡
右に 常夜灯
坂を少し下ったところに信号交差点、交差点の向かいは道光寺池で、真っ直ぐの布施屋貝塚線を分け交差点を左に折れる。
この辺りは信達岡中地区、右に池を見ながら150mほど先でJR阪和線が見えるので、高架を潜る。
高架を潜ると道は分岐しているが紀州街道は右に曲がります。左に 石標があります。そこの突当りを右に曲がります。
右に折れた先の街道筋。
右に折れて200m余り集落を進み金熊川に架かる西出橋を渡る。川から150mほどで63号線の中央分離帯のある広い車道を横断します。
田園を見ながら暫く進んでいきます。途中左から30号線が合流します。
合流した先、左に鬼来池があります、池のすぐ先で道は変則四差路になっていますが、真っ直ぐの道を進みます。続いて200mほど先、左にイムラマンションがある角を道なりに左にカーブします。左にカーブすると、左側の濁池を見ながら150mほど進むと。一つ目の分岐道で右に折れます。右に折れて道なりに左にカーブすると右側にJR阪和線が見え、和泉鳥取駅が見えます。
街道沿い右の和泉鳥取駅との間に、波太神社の伏拝大鳥居が建つ。
【3回目補足分と重複】 2010年9月15日
2,010年7月10日、2回目の紀州街道、岸和田~和歌山城まで歩きましたが、距離的にも遠く時間的に和泉鳥取の伏拝大鳥居から和歌城まで急ぎ足となり、道を間違ったり史跡等を逸した部分が多かったため資料が歯抜けになりました。
その為、3回目2010年9月15日、ここ和泉鳥取から2回目を重複しながら(補足)として歩きました。
5時15分自宅車で出発、和歌山駅発6時36分で和泉鳥取駅へ。7時大鳥居をスタート16時和歌山城に着きました。
本日 50.608歩 32.89㎞
山中川に架かる山中橋を渡る。熊野街道を歩いた時、この山中橋の手前から、左の山中川に沿って旧熊野街道の崩れかかった道を歩いた。
山中橋から300mほど進んで、再び山中川に架かるなめした橋を渡ります。途中右から64号線が合流してきます。
〖ここで参考までに山中橋に戻り熊野街道時に歩いた古道を掲載します。〗
山中橋の手前ところに熊野古道の案内標示があります。はっきりした知識はありませんが、藩政期まではこの道を 歩き、江戸期に入り紀州藩主の参勤交代時期になったとき改修されたのではないだろうかと想像しますが。
地道の旧道らしい道です、右下は山中川。
素晴らしい古道続きます。
熊野古道・平安の小径熊野参詣の、昔のままの面影を今も残している 琵琶ヶ岸縣の小径。
琵琶ヶ岸懸
昔、琵琶法師が熊野詣でを思い立ち、琵琶を背にこの谷まで来た時、一陣の突風に思わず杖をとられて真っ逆さまに山中川に転落してしまった。法師の亡骸は川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。
その後谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶の奏でるように聞こえるので、人々はこの淵を「琵琶ヶ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられている。
熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、極めて危険で熊野参詣の難所の一つと言われていました。今もわずかに人一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり、廃道となっています。
(足元が極めて危険です、見学される方は十分注意してください)(説明看板文より)
右下の崖の山中川を望む。
琶ヶ岸懸を抜けた所から振り返る。とても雨の時やその後では危険です。
出たところを振り返る。
その先、右の小さな公園に 熊野古道 地藏堂王子
その先、先ほど分岐した64号線に出ます、左に折れます。ここで新しい道と合流して進みます。
左に折れてさらに進んだ先、左に 馬目王子跡ががあります。
熊野詣でが盛んにおこなわれていた平安時代後期(1200年ごろ)その道筋に熊野権現の分神が祀られました。これを「王子」といい、浪速から熊野までの間におかれ、総称として「九十九王子」と呼ばれた。
阪和自動車道の高架を潜ります、JR線は右がわに沿っています。
暫く右にJR、左に阪和高速道の間の街道を進みます。
再び左の阪和道の高架を潜り山中渓に入ります。
高架を越えた左に登る石段があります、分からないのですが山城があったようで、その登山口のようです
三澤家奥津城 入り口の石碑が立っています。
その少し先左に。 田中武八翁碑 山中村庄屋田中家の十二代目を継承。明治に入り地元の発展に尽力。
山中渓・宿
和泉国と紀伊國を結ぶ紀州街道沿いの山間の地にできた集落。現在ではJR阪和線の山中渓駅が、また府道が駅前を南北に通り、西側の山麓を阪和道が走り、山間の集落の雰囲気も変わりつつある。
この集落内の道は、古代の南海道が通り、中世期には熊野街道の道としての古道である。江戸時代(1700年)になると紀州徳川藩の参勤交代のルートが大和街道からこの紀州街道に移り、宿として本陣が設けられ、旅籠も軒を並べた。山中集落はそのような経過から非常に長い歴史を辿って来たといえる。近代に入り鉄道や高速道の開通により集落の様相も変わったが、旧街道が国の指定する「歴史の道」に選定され旧街道筋を整備、古い旧道情緒が甦った。400mほどの旧街道沿い(集落内)を石畳で舗装されている。
暫く進んだ先、前方に、歴史ある山中渓集落が見えて来た。私も比較的近くにあるこの集落は知らなかった。街道歩きを初めて知った次第で恥ずかしい。
集落にはいる入口で道は分岐する。右の道は新道で集落の西側に沿って進んだバイパス。街道は左の道を進む、石畳で整備されている。宿場には本陣があり、旅籠も数十軒あった。
宿に入り少し進むと左に、 子安地蔵尊の石碑
お堂に安置している子安地蔵尊は平安期嘉承年間に小野薫卿の自作と伝わる。
山中公立小学校跡 明治五年六月新政府の学制発布により寺小屋に変わり小学校が設置された。
筆神 小学校の手習いで使い古した筆をここに祀った。
旧庄屋屋敷
江戸時代中期の建物で、当時の庄屋屋敷である。広い土間、数多くの部屋、太い梁の木組、土蔵、煉瓦づくりのアーチ型の裏門、広い庭園など泉州路屈指の屋敷である。一般には関西では庄屋、関東では名主と呼ばれたそうです。
さすがに重厚な建物です。
左手奥の山裾に 山中神社 承暦三年(1079)ごろより祀る古社 八王子社・馬目王子社・八王子社観音堂(奥の院)を祀る。
八王子社
八王子社観音堂(奥の院)の石碑
馬目王子社
祭りがあるようでその準備の提灯。
宿場の街並み。
旅籠 とうふや跡
山中宿には二十余軒の旅籠が軒を連ねていたが、時代とともに姿を消し、最後まで残っていたこの地の「とうふや」も昭和の終わりに姿を消した。
土塀に囲まれた大きな屋敷がある。 山中宿本陣跡地建物 は建て替えられているが、かつての偉容さが偲ばれる。
更に緩やかな宿場跡の坂を上る。
板状の石を屋根にした小社、 道祖神(塞之神)宿の南の入り口に鎮座して南からの邪神・疫病をさえぎり、蟻の熊野詣でから旅人の安全を守って来た。
南の宿への入り口真っ直ぐ振り返る、左は新道。すぐ手前右に山中渓駅がある。
宿場を抜け山中渓駅を右に見て南に街道を進むとすぐ先、左手の山裾に 山中関跡碑 正平二十四年(1369)に関所があったと伝わる。
熊野街道の山中関所跡地で東西から山が迫り、間に川が流れ関所としての立地に適していた。南北朝時代に岸の和田氏の一族、橋本正高が関所を設けたのが最初と伝わる。江戸時代に入り廃止された。
その先、新道に改修された道を進むが、歩道がなく車も結構多いので注意が必要。
再び阪和道を潜り進みます。
街道沿い斜面に石造り物。
山中渓駅から約1.7㎞のところで大阪府と和歌山県の境となる。そこには小さな橋 境橋が架けられている。
その境橋の袂、大阪府側に史蹟・日本最後の仇討ち場の碑 土佐藩士の広井磐之助が父の仇である同藩士の棚橋三郎を六年の歳月の後、文久三年(1863)に敵討ちを果たした地。これは、日本で許された最後の仇討ちであると伝わる。
暫く新道を進みます。
旧道の跡だろうか、わからないのでそのまま新道を進みます。
この道は歩道も白線もないので車には十分注意が必要、車が多いということもないが。
少し進んだ先の滝畑地区で右斜めに折れて、阪和線を渡り集落を進む旧道があるので入ります。
踏切を渡った右に線路の際に 中山王子跡
滝畑の集落内を進む。
集落内を過ぎたところで道なりに左に曲り、再びJR阪和線の踏切を渡る。
踏切を渡るとすぐ車道に出るので右に折れる。
JR線は間もなく雄ノ山トンネルに入るが、街道は阪和道架の上下線を潜り峠への車道を進む。
二本の上下線の高架を潜る。
右に線路、さらに右に阪和道と並行して暫く進む。
右の阪和道に沿って進むと 雄ノ山峠 今は自動車道で改修され峠の面影はないおそらく厳しい峠道であったのだろう、道の左は大きく削られた切通となり、右は深い谷で容易に想像ができる。
紀ノ関(湯屋谷)雄ノ山峠(標高約180m)は、古代から重要な交通路すぁり、峠道は平安時代の熊野街道、江戸時代には、紀州街道で(上方、大坂街道ともよばれる)あった。「万葉集」では紀ノ関と呼ばれ、関守がいたことが知られている、また中世には白鳥ノ関とも呼ばれていた。紀ノ関は、山口王子社の近くに位置していたと推定されている。
峠の先で左にカーブしながら下る。
岩出市・和歌山市方面の眺望。
右斜面に旅の安全を祈る 幸福地蔵尊
JR阪和線の高架を潜る。
その先を下っていくと県道を右に分け、左への旧道を進む下り道がある。左には雄ノ山川。
左へ下るところで振り返ると、京奈和自動車道と阪和高速の)ICの工事中。
【4回目補足分】 2016年10月6日
この分岐に来るのは3回目です。2,010年7月10日・9月15日ともここを通過しています。両日ともここから熊野古道を進み、布施屋で熊野古道と分かれ大和街道で和歌山城に進んでいました。資料の確認を怠ったようです。
今回随分前回より年数が空きましたが、紀州街道完成すべく4回目に挑戦しました。
ところが交通の便が悪く、車を国道24号線沿いのスーパーいずみやに置かせてもらったので、今日の紀州街道は止む無く紀ノ川の田井ノ瀬橋の出島までとしました。
時間があるので、河南大和街道の桃山大橋周辺を少し歩きました。
結果的には1日のトータル距離は 47.702歩 31㎞ とよく歩きました。
ここから暫くは、紀州街道と熊野古道と重複しながら下って行きます。
右に、 山口王子社跡 がありますこの辺りから湯屋谷集落に入ります。
山口廃寺跡
段丘上の標高約36mに位置する古代寺院跡、かつて当寺院の東には、雄ノ山峠越えの旧街道が、またすぐ南には東西に走る官道である古代南海道が通っていた。
伝・小野小町の墓(湯屋谷)
年老いた小野小町が熊野参詣の途中でこの地で亡くなったため、村人がお堂を建てて弔ったという言い伝えがある。小町堂と刻まれた石碑が山口王子社跡の南東約100mの墓地にあります。
湯屋谷の集落にはいる左の台地あたりが山口廃寺跡。
街道左に道標らしきものがありますが詳細はわかりません。
湯屋谷の集落を下っていきます。
湯屋谷の集落内、街道から100mほど離れた池の南側に入っていくと、池の前会館がありその近くにある。
安楽寺
隣り合わせに 薬師寺
薬師寺の裏を上ると墓地があり、その中に小野小町の墓といわれるのがあるようだがよく分かりません。
街道に戻り右手の山を見ると、山裾に 霊限寺と光明院、更に山手にひと際目立つ霊現寺の お堂。
少し下って集落の途中で、写真の左T字路を右の細い下り道を入り【寄り道】をしました。
右に折れて県道を横断して、細い道をさらに西に暫く進んだ先。
山口神社
山口神社の正面の参道を南に下る道。
下りきった参道の入り口に 山口神社の鳥居 熊野街道を進む旅人はここに寄った人が多いだろう。鳥居よりすこし南に下ると熊野古道・上淡路街道にでる。今は車道になっています。
元の街道の辻に戻り真っ直ぐ南に進む。振り返ったところ、正面左が、雄ノ山峠
下って行くと右に雄山川が接近します。その先で中筋地区に入り、右T字路の辻に出ます
左への道が 上淡路街道です。(淡輪の淡島神社~粉河で大和街道に合流。歩きました)
東へ進む上淡路街道の道筋で根来寺・粉河寺へ行きます。
T字路のすぐ右に、元庄屋の谷本氏宅の門、山口本陣の門を移築したもの。
T字路より100m程進むと、今度は左T字路の辻に出ます。紀州街道は真っ直ぐ進みますが、右への道は熊野街道と上淡路街道が分岐していきます。上淡路街道の西への道は、加太淡島神社の至ります。
角に熊野古道と山口神社への案内があります。山口神社へはこの熊野街道が本道でしょう。本来なら上淡路街道の案内があればいいのですが、あまり知られていないので載っていませんが、でも道路地図には載っています。
グロックの内の角内側(墓地)に 道標 「右 加太淡島神社道」「左 和歌山及紀三井寺」
熊野街道・上淡路街道の西への道。
辻から150m程進むと県道7号線の粉河・加太線の信号交差点にでます、横断して南へ紀州街道山口宿へ。
川沿いに下っていきます。この辺りに「紀伊続風土紀」に、和歌山城の京橋から三番目の一里塚があり、松の大木があったようですが台風で倒木して道も改修されているので所在ははっきりしません。
信号交差点から200m近くで右に折れます。
右に折れるところの也計橋を渡り宿内に入りますが、新しい住宅に変わっています。すぐ右T字路で左の古い家の角を左に折れます。左に折れて100m近く進みます。当然この道筋も宿内ですが新しい住宅に変わっています。
その先T字路となり右に折れます。
右に折れてすぐまた左に折れます。宿場特有の 鍵の辻 が残っています。
左に折れて宿場らしくなった旧道、真っ直ぐ南に300m程続きます。「ひだかや」があり、その先「ぜにや」古い建築の残る作り酒屋。その前に「やなせ」の屋号の山口氏宅で旅籠で重厚な構え、「ふじや」の屋号を持つ古い民家が軒を並べている。この道筋は庶民路と呼ばれた。
宿場内で東西に通る十字路を越えて。100m余り先の突当りを右に折れるのが庶民路。
宿場内途中、右の旧家の手前右に入る細い道があります。ここ山口の里集落内で、右手の細い道が大名路、真っ直ぐの道が庶民路の二筋に分かれていた。庶民路は250m程進み突当りを右に折れて、50m程で大名路と合流する。現在は庶民路の方が広く表通りとなっている。
この旧家の手前を右に折れるのが大名路。
左角の家の屋敷が大きな旧家、大名路を進みます
大名路を70m程入ったところで振り返る広場ですが道はなく左に折れる(向かって右)。
左に折れた先の道40m程先で右にカーブしている。
右にカーブしてその先左に折れます、折れた右に山口幼稚園があります。
左に折れた幼稚園の前から振り返ったところ。先ほどの角の大きな旧家で確かに大きい。
すぐ隣に山口小学校が続きます、T字路を右に折れます。左からの道は庶民路の途中の十字路の道を右に来るとこの道と合流します。
右に折れると山口小学校の正門の前に出ます。小学校が 旧山口御殿・本陣跡・山口御殿の石橋。
紀州徳川家の別邸跡
小学校の正門前で左に折れる。
左に折れて少し先から振り返る、小学校が山口御殿跡。
150m程進むとT字路を左に折れ、すぐ右に折れるところを振り返ります。山口の里宿場、南の入り口の 鍵の辻。
ここで庶民路が正面からきて、ここで合流して右に折れる。
合流して南に進みますが、川の橋手前右に 祠
橋を渡ったところ真っ直ぐ進みますが、左から車道が合流してきます、結構車が多いので注意してください。橋を渡ったところ真っ直ぐ進みますが、左から車道が合流してきます、結構車が多いので注意してくださ
右に紀陽銀行を見てその先、国道24号線の山口交差点に出ます、左手前角にファミリーマートがあります。
24号線を右斜めに横断して進む、右にケーズデンキ裏側を通る。
その先で右への新道と分岐します、左への旧道を進みます。右角に 灯籠。
川辺の集落に入り、街道の雰囲気があります。この辺り右に紀ノ川の筏流しの人が泊まった宿屋が昭和の初めごろまであったそうです。
右に大きな豪邸を見て、その先右に 浄土宗妙台山 大蓮寺
その先右から、上淡路街道と共に分岐した熊野街道がここで合流する。暫く重複して歩きます。
右の熊野街道の筋、正面に お堂。
右の熊野街道沿いの、 お堂と祠 がある。
街道沿いの
街道をすこし進んだ十字路左手前角に、地主の古い長屋門の構えた大きな旧家があります。
家の周りを堀があります。
修復中で門から中をのぞく。
長屋門のある十字路左角に 道標 「左北 大坂みち」 「新義本山 根来寺 三国一錐鑚不動尊」
十字路の道標の角を右折れする。
右に折れ50m程右に進む。
熊野街道は左に分岐する。紀州街道は真っ直ぐ進む分岐。
熊野街道が左に折れて進む古道。
熊野街道への入り口右に道標のようなものがあるが読めない。
暫く西への旧道を進むと右に 祠
国道24号線の川辺信号交差点に出ますので左へ。
国道24号線を永穂東交差点を越え、暫く歩いたところで、次の永穂信号交差点に出ます。国道を右に分け、左斜めに入る旧道があります。左側には昭和シェルGSがあります。
左に折れて永穂の集落を暫く真直ぐ進みます。新しい住宅に変わっています。
集落の途切れたところ、左前方に土塀に囲まれた凄く大きな旧家が見えます。 吉増氏宅
少し左に入って塀の切れ目から中をのぞきました。かつて京橋から二番目の 一里塚 があった。戦後の台風で松が倒れ、切り株と塚の盛り土が塀の中の庭にあるとのことだが、まだ残っているのか外からは見えない。
その先100m余りで永穂西の集落を抜けます。道が左へ曲がる道と、真っ直ぐの道が分岐します。
その先100m余りで永穂西の集落を抜けます。道が左へ曲がる道と、真っ直ぐの道が分岐します。
左に折れた道、先を進むと堤防に出て右に折れる。
何方が正しいか分かりませんが真直ぐな道を進む。
地道で畦道です、途中から草が脛辺りまで茂っています。
堤防まで畦道を進み振り返ります、やはり旧道でなかったかと思います。
250m程先で堤防に出ます、先ほどの左への道が堤防上で合流しますが、結構車が多く危険です。堤防の斜面に段道跡があるのでそちらを歩きます。
草がきつく止む無く堤防に上がり進む。
左の紀ノ川この辺りから紀ノ川の 田井ノ瀬渡し場があったと想像する、何も残っていない。
前方に田井ノ瀬橋が見えてきた。
小豆島地区に入り、右堤防下に集落が広がる。
堤防の北側に広がる小豆島地区内の北に 西山浄土宗天福山 毘沙門寺
竹林山 善勝寺
毘沙門寺から橋に架かる高架の側道を紀ノ川にい向かって進む左に お地蔵さん
紀ノ川に架かる北田井ノ瀬橋より左側小豆島をみる。紀ノ川は幅が広く間に小豆島の中洲がある。それで北田井ノ瀬橋と南田井ノ瀬橋に繋がる。
北田井ノ瀬橋を渡ると橋の南詰、小豆島。
左(東)の島の先端に神社があるので寄ってみる。 塞の神神社
小豆島の南側の堤防から神社を振り返る島といっても結構面積も広く、田畑や中洲集落に新しい住宅が建っている。
中洲の集落から、南田井ノ瀬橋を渡る、この橋の下は本格的に水が流れている。
中洲の中の堤防道この東の方にかつての、紀州街道の参勤交代の田井ノ瀬の渡し場があったがはっきりした位置が判明できない。
紀ノ川の河口(西)方向を見る。
南側の 田井ノ瀬渡し場跡 あたりを見る。
江戸初期の紀州藩主の参勤交代道で大和街道の布施屋までの道の一つ、またこの先布施屋で熊野街道の 布施屋の渡し場に通じる。しかし今は堤防上の旧24号線は車が多くて危険で歩けないので遠望する。
南田井ノ瀬橋を渡り、24号線の田井ノ瀬信号交差点に出て右にお折れます。
24号線は進まず右の堤防を歩き、すぐ先で堤防から別れ左に下る旧道があるので、その道を進みます。
分岐から300m程真っ直ぐ下っていきますこの辺りは出島地区。
国道24号線の和歌山バイパスの高架の手前左が少し広くなった場所があります。
延命地藏の祠 と 宝篋印塔が横に建つ。喜善上人が天明6年(1786)12月この地で入滅、地蔵堂2宇
また公園内反対側にも お稲荷さん
すぐ先の高架手前の辻左に2mの大きな 道標
正面に 「新義本山 根来寺不動明王 世云三国一錐鑚不動」
北面に 「是より十二丁所田井瀬わたし 左へ王多り夫よ里祢ごろへ二里十三町 根来よ利粉河へ二里半すぐ辻なり」東面に 「是よ里岩出へ弐里半 岩出より粉河へ二里半」
南面 「寛政十戊午(1798)九月建之」
ここからは、紀州街道と大和街道が重複して、城下の京橋まで重複します。
高架下より辻を振り返ったところ。向かって左から紀州街道を歩いてきた、旧街道はここで分岐するが、向かって左は前述したように、ここより堤防に出て1300m程先の田井ノ瀬の渡しを渡っていた。さらに堤防に沿って進むと布施屋の渡し場に出て熊野街道に合流した。根来寺や粉河寺への参詣も便利であったようです。
向かって右の旧道は、江戸期に入り紀州街道の田井ノ瀬の渡しが整備される前、紀州徳川藩主の江戸参勤交代の道であった大和街道です。徳川吉宗が将軍になるまでの藩主の参勤交代道は、右の大和街道を紀ノ川沿いに進み、橋本から五條、吉野に入り、高見山を越えて松阪に抜けていました。(大和街道歩き済みで参考にしてください)
高架を潜ると 八軒屋宿跡 に入る、街道筋には立派な旧家が残り街道情緒がある。
右に長屋門のある旧家は、松本園氏宅もと 庄屋 で地元の人は「もとじゃ」と呼ぶそういです。
その先右に、もと旅籠のまつもと店があり、
向かい側に 道標
西面 「高野山 すぐ こかわ寺 大坂 道」
北面 「和歌山 加太阿わし満 道 是ヨリ四国江船渡・・」
東面 「紀三井寺ヨリ和歌山十八丁 西国三十三所道 熊野日前宮」
明治十八年酉(1885)十一月吉日
右に道標を見て左への道を見る。この辻、左の道は江戸中期までの大和街道の道の辻の一つでもあった。
近畿自動車道の高架下を潜る。
【5回目】 2016年11月3日
2回目の2010年7月10日 岸和田城下から和歌山城の京橋まで歩いた時、間違って、熊野街道と大和街道を歩いて京橋に歩いてしまったので、その補足を3回目、4回目に引き続いて今回、八軒家~京橋まで歩きました。
今回一緒に、大川峠越えの補足、紀州浜街道孝子越の補足も歩きました。
一日のトータル 43.039歩 27.97㎞
近畿自動車道の高架を潜る前に、早々に【寄り道】元庄屋の松本園氏宅の手前まで戻り、その横の細い道を北に入ります。
北に入る道で真っ直ぐ北に進み、紀ノ川に出ていた。
この辺りが 八軒家の地名の発祥です。寛永14年(1637)藩の命令により8軒の家を建てたことから八軒家と呼ばれる、それまでは民家がなかった。その後、大和街道・紀州街道の分岐点で茶屋や旅籠ができて賑わったという。
さらに北に進み新しい住宅の向こう側は、紀ノ川になりますが、かつてはこの辺りから、四国への道の舟渡し場があった。
近畿自動車道の高架下に戻ります。高架を潜ると左から国道24号線が合流します。その先は24号線と重複して歩きます。
右に、松島浄水場の建物。すぐ先右に、2010年に歩いたとき、交番の手前に地蔵尊の祠があったのですが無くなっています。移転したのだろう。
暫く国道を進むと左に、和歌山女子刑務所の新しい建物があります。
刑務所の過ぎた西角に 身代わり地藏の地蔵堂 があります。
少し先、新在家にある国道を挟んで 両側に四箇郷一里松 江戸時代、和歌山城下の外堀(現在の市堀川)に架かる京橋から一里(約4㎞)ごとに街道の距離目安として両脇に作られました。
四箇郷一里塚 は最初に通る一里塚です。街を挟んで北塚・南塚が良好に残っています。新しい松は、北に昭和54年、南に昭和59年に植え替えられました。
大きさは、両塚とも直径約10m、高さは北塚が2.5m、南塚が2.2mあります。国道24号線をつくる際に、盛土がおこなわれ、0.7mほど道路の下に埋まっているとのこと。そのため、当時の塚は今よりより大きなものです。
一里塚の周辺の当時の道路幅は6~7mあり、本町御門から嘉家作丁までは12mあったとされています。参勤交代は原則一年おきに、紀州藩でも初代藩主頼宣が49年間に20往復、2代藩主光貞は38年間に19往復しています。当時は大和街道を通っていた。藩士たちは藩主の参勤交代の送迎には、この四箇郷一里塚で送迎していた。
塚に建つ 石標
有本地区を進む、前方にJR阪和線のガードが見える。
ガードを潜った右側に 松原地蔵尊 昭和43年の台風時に紀ノ川の増水で、六十谷橋下流に流れ着いた地蔵をここに祀った。不老長寿・無病息災の功徳があるという。
ガードを潜り暫く先に、 地蔵の辻 という交差点がある、以前この辻の右角に、道標・地蔵堂 おわかれ地蔵兼道標があったが、道路拡張で南のJRガード横に移設した(熊野街道時に見学)。おわかれ地蔵は城下の牢獄から田井ノ瀬の処刑場に送られる罪人を地蔵の辻まで親族・縁者が見送り涙の別れをしたと伝えられている。
地藏の辻の交差点、左を見たところで地蔵堂は前方高架に手前右にある。明治に入り道は、地蔵の辻~JR踏切~志磨神社の南~伊勢橋~真田堀川に架かる甫斎橋~北ぶらくり町への道ができたようです。
街道は地蔵に辻の交差点を真っ直ぐ進み、神田町東に入ります。右側の側道は桜並木が続きます。
神田町東に入ると、どの路地も国道より左に下っています。またこの辺りは、私たち小さい時分には、天王新地と呼ばれ夜の街として賑わったようです。
歩道橋より西側を見る、国道右が桜並木、左の先が嘉家作丁へ以前この左にも福寿延命地藏があったが見当たらない。
嘉家作丁(かけづくりちょう)に入ります。
ここには普段、半農半士が住み、平時は家の裏にある農地を耕し、非常時は武士になる。城下の北東の防備に努めた。この辺りは大戦の戦火を免れたため、昔の家並みが残るが、年数を立つごとにその家並みも新しく変わってきた。昔は前の国道が紀ノ川の堤防であった。堤防の南側ののり面を利用した独特の建築様式で、間口が狭く奥行きが深い間取りを持っていた。
奥行きの屋敷の間取り。非常に奥行きが長い。
嘉家作り丁 一文字の軒 家の軒先が揃っている通路で、参勤交代の人の休憩スペースで一文字の軒と称す。
真田堀川を渡る。
春泉堂・嘉家作り御成屋敷
旧藩時代萬町の青物卸納屋、通称おん善こと村橋善平の別邸であった頃、藩公が岩出や粉河の別館に御成りの途中、度々休息せられ或いは、本願寺門跡や堂上公卿、諸侯が紀府出向の際、立寄られた所である。
後、廃藩となって維新の先覚、我が国の徴兵制の創始者となった津田出が住居し、上京してからその弟で初代の県権令津田正臣が住んだ家である。おん善の別邸以来の造作をそのままに玄関式台に駕籠を横付けにした装置や堀の内風、二畳台目の茶室、御成座敷なども昔通りに遺っている。(説明板より)
嘉家作交差点の国道26号線の紀ノ國大橋の下の交差点を左に折れる。かつてここに城下に入る 本町御門 があったが、今は都市開発道路のため全く当時の面影は偲べない。
高架下を潜り東側の側道に出て左に折れる。
交差点右を見ると紀ノ川に架かる、国道26号線の紀ノ國大橋。
紀ノ國大橋の東側でかつて大橋に沿って 宇治の渡し があった。
交差点を横断して高架下を潜り左に折れた側道を見る。すぐ先ミラーのある辻を右に入る
右に折れた道筋。
少し進むとT字路で左に折れるの街道で城下町入り口の 鍵の手曲り。このT字路を右折れて【寄り道】をする。
右に折れるとすぐT字路になり右に折れる。数十m先で左堤防に上る、堤防に出た右に 紀ノ川延命地藏
もと嘉家作り北の河川敷にあったのをここに移した。
隣に 祠
お堂の軒下にたくさんの お地蔵さんが並ぶ
この近くの河川敷は 鉄砲場跡 かつては鉄砲の試射や馬場に使われていた、南側一帯は竹藪であったという。
もとの鍵の手の曲りに戻りT字路を左に、この辺りに 本町御門、お城への北東からの入り口であった。御門は明治6年に撤去された。
すぐまた右に折れる本町通りのT字路に出る。T字路を左に折れる。
左に折れて本町通りを真っ直ぐ南に進む、かつてはここから和歌山城の勇姿が一望できたことだろう。
少し先でJRの高架を潜ります。
本町通りは城下町のメイン通りであったJRの高架を潜った右に、天長島村酒造があります。
本町通りを進んでいくと、北大通りの24号線と交差点を横断する。この先の本町通りは広くなる。
この交差点までの街道は、両側にイチョウ並木が立ち並び旧道の雰囲気が漂う。
昔はこの辺りの筋には 和傘屋 が並び、またJR線より北側(紀ノ川より)は一面、傘の干場であったという。城北通りの信号交差点を横断する。
今も残る、傘(洋傘)、提灯のお店中には創業元禄元年とある。
北ぶらくり丁、私たちが小さい時分には蒸気機関車でここに来るのが楽しみだった。かつては大変賑わった商店街。
明治時代の大和街道はここから入り、前述の地蔵の辻に出ていた。
さらに南側の筋が、ぶらくり丁角にかつて、丸正百貨店があった、大阪よりも和歌山の方が便利であったので楽しみな買い物に連れてきてもらう店であった。60年以上も前の話しになる。
市堀川に架かる 【京橋】 紀州街道(上方街道)の起点で、この付近は納屋河岸と呼ばれたところで、丸正百貨店の西側一帯にあった問屋の商品荷揚げ場があり、各問屋の倉庫まで幾条にも商品搬送車のレールが敷かれ活況を呈していたという。また市堀川の西側は(城内)武家屋敷が並んでいた。
市堀川に沿って西からは、京橋の起点に、紀州脇街道(浜街道)の大川峠越え・孝子峠越え街道が合流していた。
京橋の上のモニュメントの駕籠。(両街道あるきました)
京橋から西の市堀川。
京橋の南西詰に建つ 石標
正面「京橋門址」 側面「和歌山城内郭の正門なる京橋門の在し所、京橋の名は元和年中に起こるという」。
かつては、北詰に番所 があって 札ノ辻 と呼ばれた、諸街道の起点であった。
京橋の古写真。
京橋を南から見る、京橋で紀州街道は終了ですがもう少しお城に進む。
左に 多賀神社
京橋より300m程南に進むと、けやき通りの公園前交差点に出ます、左に行くとJR和歌山駅へ。
大手門から東堀、左は中央郵便局の建物。
かつての、 一の橋と大手門 の古写真
現在の 一の橋と大手門
現在の 一の橋と大手門
大手門の景観
天守閣
大天守と小天守 等の立つ天守曲輪、 御橋廊下
紀州街道完歩
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