2010年10月11日
泉南市岡田浦で紀州街道と分岐~孝子峠越え~和歌山城京橋
朝早く車で和歌山市駅近くの駐車場に預け、南海本線で岡田浦駅へ、ところがとんだハプニングにあった、人身事故で電車が約一時間半遅れる。8時10分 紀州街道との分岐点である岡田浦をスタート。
泉南地区は岸和田を中心にダンジリ祭り一色でどの町も沢山の人が出ており、それぞれの趣向を懲らした山車を見せてもらった。特に泉南地区はだんじり祭りが派手である。天侯に恵まれ最高の歩き日和にも恵まれた。ただ孝子峠越えの国道は歩道がなく車も多く緊張の連続であった。どこの道もそうであるように峠越えの道は歩道がないのが普通である。
紀州街道との分岐岡田浦 8時10分スタート 和歌山城に着いたのが 17時時25分着
52.205歩 33.28km
資料によると孝子畑越街道と呼ばれ奈良時代にから存在した古道で熊野古道と共に賑わった。
藩政期時代、泉州と紀州を結ぶ街道で参勤交代道である紀州街道の脇往還であった。旧孝子村から孝子峠を越えて、貴志中村・向村・次郎丸村・梶取村・北島村から紀ノ川の北島渡しを経て、和歌山城下に入る街道。
紀州徳川家の参勤交代の行列にたまたまめぐり合わせたら何時間も歩けないので、このような時は脇往還などを利用したのだろう。
紀州街道で歩いた南海岡田浦駅の前の街道で駅から北に歩き、西光寺の南側の紀州街道との分岐点へ進む。
岡田の街並みを進む。丁度岸和田から泉南にかけ10月はだんじり祭り一色となる。 豪壮な山車。
岡田の旧道を進む、右方向はりんくう南浜。
暫く進んでいくと南海本線の踏切を渡ります。線路の東側に沿って歩きます。
街道沿いの お地蔵さん。
暫く坦々と鳥取吉見泉佐野線を歩きます、やがて樽井に入り右に泉南郵便局がある所で道が分岐しますので左の道を入り、その先で高架道路を潜ります。
少し歩いたら、交差点に出ます。
右に曲がれば樽井駅へ、左手前角に三井住友銀行、街道は真っ直ぐ進みます。
交差点の右正面には南海樽井駅。左の道は商店街です。
交差点を真直ぐ進みます。
交差点より100mほど先に十字路があります。真直ぐです。
左への道は 根来街道 (歩きました)
左への根来街道筋の右角に 道標 「すぐ 大川 左 紀州いせきこえ」 「右 大坂」「すぐ大坂」
垂井の旧家が残る雰囲気のある街並み。
左に大きな旧家がある。
暫く西に歩いていくと、南海本線の踏切と中央分離帯のある広い63号線を渡る。
街道を西に進んだ右奥に、 男神社
神社の先で小さな藤之川を渡る川を渡り左斜めにカーブして兎砥橋北詰交差点に出る。
男里川に架かる兎砥橋を渡る、橋を渡ると阪南市尾崎町に入ると、すぐ右は海岸線で昔は多分浜辺を歩いていたのだろう。
尾崎町の町並みに入る。
町筋左に 福島日限地蔵尊
橋の先、左手の尾崎中学小学校の北側に沿って進むが、新しく区割りのされた住宅地で、この先の旧道が消えているようです。バス停と左にファミリーマートがあるすぐ先右側に小さな側溝がある所で、右に10m余りよった道に入り進むこととする。
尾崎町6、右がすぐ尾崎漁港のところでのだんじりに沢山の人が出ている。
街道沿いに 祠
その先の道は狭いが、旧家の家が残る。
尾崎漁港から200mほど先で、一筋左側の筋に入った。
玉井内科クリニックの東南にある 浄土真宗日根山地藏院 善性寺
尾崎町2丁目 その西側に位置する 浄土真宗本願寺 尾崎別院
小さな山車を幼児が引っ張っている可愛い各家庭とも力が入っている。
大西の山車庫の傍に 祠
西本願寺尾崎別院前の道と、その一筋北側の道が合流する地点が広場になっていてここでも祭りの人達と山車が、各家庭総出の人々だろう。
合流して南西に進むと突き当たる、正面に 泉養寺 があり、T字路を左に折れて、すぐのT字路を右に折れる。T字路を左に折れるところの正面、泉養寺正面に 川端の地蔵尊 が沢山並ぶ。
左に折れた先の新町のT字路を右に曲がる。左は新町の街筋。
十字路左角に見本米穀店。
十字路を越えた左に 称念寺 街道右奥には、北野神社・宝林寺があります。
旧家が点在する街並みを進む。左に西鳥取小学校の前を過ぎる上波有三橋を渡る。
その少し先右に新谷商店の前で、旧道は左(南)に折れている。右にも旧家が残る。
南に進み、小さな川を渡り少し西南に方向を変えて進むと、南海本線鳥取ノ荘駅の西側の踏切に出る。踏切を渡り街道は右斜めに進む70mほど先で、左からの道が鋭角に合流してくる。
その道を東に進むのが、信長街道 (歩きました)右に西鳥取郵便局があります。
街道はすぐ左にコープいずみを見て貝掛の町並みを進む。その先暫く進み大きく緩やかにカーブしながら国道26号線に接近する。合流せずに左の南海団地口の信号交差点を見て並行に進む。
平行に歩いた少し先の貝掛交差点で26号線に合流するが、交差点を斜めに横断して国道の南側に出て斜めに西南に進む。
少し先で小さな川橋を渡ると、道は分岐するので右の旧道を進む。
のんびりとした旧道を大きく蛇行しながら進む。
左に 指出森神社 境内の大きなクスノキ幹回り8m、高さ55m。
神社の前で右からの26号線に合流。
国道を400m余り重複して進むと、前方に歩道橋があり右に箱作駅がその前の道を右の細い道を入る。右の線路に沿う、阪南箱作郵便局があります。
その先で茶屋川に架かる茶屋橋を渡る。
暫く進むと道が分岐します、街道は真っ直ぐで、右に入ると 加茂神社 の前に出ます。
加茂神社創建は弘仁4年(813)と伝わる古社。
街道に戻り静かな街道を進む。
右の池を過ぎたところの左に 石碑。
400mほど進むと、左からの26号線に合流する。26号線の東側に箱作小学校が見えます。
箱作小学校前交差点を南西に26号線を進む。交差点の右手に赤い鳥居が建つ 田山稲荷神社の鳥居参道 少し遠いので寄りません。
200mほど進んだ先で国道を左に分け、右の旧道を迂回して、箱ノ浦ランプ北の交差点に出て合流する。距離にして100m余り。その先、箱の浦東・箱の浦信号交差点を過ぎると暫く国道を進む。
250mほど国道を進むと、南山中新獄交差点で右に入る旧道がある100m余りで再び国道に合流する。更に150mほど進むと望海坂信号交差点に出ます。交差点から70mほど先で国道を右に分け左に入る旧道を進む。左に入る国道の右手はゴルフパートナー阪南練習場があります。
ここを左に入る、岬町です。
岬町淡輪に入ります。
淡輪山中地区を道なりに進んでいくと、右からの国道26号線に出ます。
ここから旧道は失われているのか、一応私の想像から地図を頼って少し進みます。街道かどうかわかりませんが。国道に出たところで横断して向かいの上図にある道を40mほど北に進みます。T字路になりますので鋭角に左に折れます。再び40mほどで国道に出て、今度は南側に国道を斜めに横断します。100mほど、くの字に進むと、再び今度は国道の信号交差点を斜めに横断して、北西に70mほど進むと変則の交差点に出ますので、道なりに左にカーブして40mほど進んだところで信号交差点に出ます。
左角にセブンイレブン、信号左に国道の淡輪中交差点が見えます。街道は信号交差点の広い道を右に折れます。
国道の向かい側の道。(前述の文章に沿って少し写真案内します)
信号で国道を北側に斜めに横断するところ。
信号交差点に出たところ。
広い道を北に進みます、次に信号の左に、真心会みさきクリニックがあります。
その西側、淡輪駅の南側に 宇度墓 周濠と六基の陪墓をもつ墳丘長百七十m、五世紀中頃の前方後円墳。垂仁天皇の第一皇子で 五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)墓が通説。
また、もう一つ雄略天皇期に新羅に遠征して没した、紀小弓の墓といわれる、宇度墓の西方に周濠をもつ西陵古墳と呼ばれる、全国十九位の全長二百十mの前方後円墳がある。宇度墓よりやや古い。
信号から北に200mほど進むと南海本線の踏切を越える、左に淡輪駅が見える。
踏切のすぐ先で左(西)に曲り200mほどで淡輪駅から北に通っている道の信号交差点に出る、街道は真っ直ぐ進む。
黒崎の松原
この交差点を右の海岸まで行くと黒崎の海岸である。ヨットハーバーや淡輪漁港であるが、土佐を出た紀貫之は四十日目にこの祖先墳墓の地に降り立った。貫之は淡輪の鎮守「船守神社」の主神である桓武天皇の寵臣、紀船守より五世の孫で名族であった。
信号交差点を真っ直ぐ横断するところは、歴史の道(浜街道)
お堂 があります。
右に 浄土宗 西林寺 東の寺ともいわれる。
左に 淡輪邸跡
ここより南東一帯の約千五百平方米の敷地は「城の藪」と呼ばれ、この地を領した淡輪氏の邸跡であった。元久年間(1204)頃にこの地の地頭として土着した。南北朝時代から有力武士として成長する。豊臣期には秀次の妻妾として淡輪徹斎の娘を贈っている、小督の局と呼ばれたが、秀次の切腹により連座して三条河原で斬首された一人。
また、徹斎の次男淡輪重正は大坂夏の陣で塙団右衛門とともに「樫井川の合戦」で壮烈な死を遂げている。秀次との間に阿菊という娘がいたが、後に紀ノ川の河原で斬首されている。戦乱に巻き込まれた一人の悲しい女性の物語がある。
西林寺の前の淡輪の街道街筋。
西林寺より淡輪の歴史の道を300m余り進んだ十字路を右に100mほど入ると。
浄土宗 西教寺 西の寺ともいわれる、江戸前期の五輪塔初め石造り物が沢山ある。
十字路の街道に戻る、十字路の西南にある 船守神社。豊臣秀頼が片桐且元に命じ再建された本殿は桃山様式の国の重文。
境内を覆う四本の幹が一本になった 楠の大木(樹齢八百年)毎年10月鳥居の前で地車がもみ合う、淡輪のケンカ祭りが行われる。
西教寺から十字路に戻り150mほど西に進むとT字路となり左に折れると来田川に架かる祇園橋を渡る。
橋を渡ると、左への旧道のような狭い道があるが分からないので、真っ直ぐの道を進みました。祇園橋を越えたすぐ右手に 石の鳥居と祠 がある。
祇園橋から真っ直ぐの道を西に400m余り住宅地の中を進むと、正面にみさき公園が見えてくる。みさき公園も私がまだ子供の頃に開園したからもう60年ほどの歴史がある。
公園に突き当たるので、左にカーブして進むと左に村田接骨院があります。
暫く南に歩いていくと、南海本線の高架を潜るとすぐの先でT字路に出るので右に折れる。
右に折れて200mほど進むと、左から国道26号線が岬公園駅前交差点で合流する。26号線を右に進む。
すぐ先で右に南海本線みさき公園駅、駅の高架下の国道を西に進む。
右のみさき公園を過ぎて、それから暫く坦々と車の多い国道を進んでいく。
深日北信号交差点、商工会館の前に 石の祠
次の筋を右に少し入っていくと 浄土真宗 金乗寺 境内にイチョウの大木幹回り約3.5m、樹高17m、樹齢五百年以上。
国道26号線に戻る、左奥に深日小学校が見える、その先に大川に架かる昭南橋が見える手前、バス停の所の左への細い道に入る。ここで真っ直ぐ進むと 大川峠越え脇街道(歩きました)と分岐点。
左に150m入ると左の高台の森に、 国玉神社 名産の谷川瓦の扁額を掲げる鳥居を潜り石段を上る。ここでも勇壮なだんじり祭りが行われている。国玉神社も古く、かつて神社石段下には 深日行宮跡(天平時代・757年)があったというから歴史がある。称徳女帝の行幸時の伝承も残る。
この地車を高い石段を下していくところ、結構危険なので気を緩められない、見ていても手が汗でにじむ。
国玉神社を後にして、南側の多奈川線のガードを潜りすぐ左に折れる。左に折れて少し先で、右に折れて大川に架かる千歳橋を渡り国道26号線に出ることもできるが、車が大変多いので、大川の北側を沿って旧道らしい道を進む。26号線は車が多いので出来る限り歩きたくない。
道は左に大川を沿いながら点在する深日(ふけ)地区の集落と田畑の畦道を進んでいく。
暫く大川沿いの堤防を進んでいくとやがて右からの26号線と合流する。
国道から右に案内板に従って、山側の道を少し上ると天正(1573)以前の古い祠
石投げ地蔵と子安地蔵尊
合流して少し国道を歩くと喫茶豪留登がある分岐点を旧道は左に入る。
左に川、その東側に南海本線、右に26号線との間を暫く進んでいく、再び左への道と交差する辻で右からの国道に合流。
すぐ先で国道より右に入る旧道跡が見えるので入るが、途中、川で道が無くなる。国道に戻り橋を渡って進みます。
橘逸勢公・孝女橘氏墓
国道を更に暫く進んでいきますと下孝子の家が見えてくる。左手にモーテルがあります。モーテルの裏側を南海本線が走っており、その近くの荒地の草むらの中に、橘逸勢親娘の墓があるが見つけにくい。橘逸勢は、嵯峨天皇・空海とともに平安の三筆と称せられた、橘諸兄の子といわれている。空海、最澄と入唐、大同元年(806)空海と帰国した。逸勢にはあやめとよぶ娘がいた。二人の墓がここにあることについては伝承が残る。
モーテルの過ぎたところ左に下る道があります、踏切を越えた右手の木立の中に、「贈従四位下橘逸勢墓」と刻んだ墓石がある。さらに踏切の手前右(東側)の雑草の茂った中に「孝女橘氏墓」(あやめ)がある。親娘が線路を挟んで相対している。貴重な遺跡もう少し整備保全が出来ないものだろうか。
橘逸勢の墓
孝女橘氏の墓
暫く進むと、国道より右に入る旧道があるのでそちらを進む。
下孝子の集落を抜けた先で左の国道に合流するところを振り返る。
国道を進むと右に お地蔵さん
更に暫く進んでいくと、国道が左にカーブするところで、畦道を広くしたような地道が真っ直ぐ延びているが、すぐ道は消失しているので止む無く国道を進む。途中で消失した道がここに出て来た。そして国道を横断して南海本線を渡りこの地に出てきているところを見る。途中左に折れたところは道が残っているようだ。
踏切を渡るとすぐ右に折れる先の旧道。小さな川橋を渡る。
更にその先で大川を渡り、右の大川に沿って暫く進む。
孝子駅手前の線路沿いに立つ 孝子越え街道の石標
間もなく孝子駅の手前で線路を右に、越えて国道に出る。この辺りは中孝子集落、暫く線路を左に国道を上っていきます。
国道に出てすぐ国道の右への旧道に入る上孝子への旧道。
駅の付近の旧道は、西から大川・旧道・国道・南海本線と並行している。
その先で左からの国道と南海本線が接近して合流、大川も国道、線路の下を流れ東へ分かれていく。街道は線路の手前の国道に沿って、いよいよ孝子峠に進む。その前に、線路の踏切の渡った辻に道標が建つ踏切の先の道は上孝子集落への道。
道標 「くハんおむみち」と刻んだ自然石孝子観音こと高仙寺への示す道標
この先、国道26号線を進むが、峠までは1㎞ほどで着く。途中左手を国道に沿って走っていた南海本線は孝子峠の東側の下を抜けている。
孝子峠
和歌山県和歌山市と大阪府岬町の県境、。峠道は国道で抜け街道の面影はないが道が整備されていて歩道もあり助かった。
南海本線の孝子トンネルが和歌山側に出たところを見る。かつての街道はこの辺りの急坂を峠に登ってきた。今はその形跡を偲ぶこともできな。
トンネルの和歌山県側で出口の上を国道は東側ていまます。
国道26号線は新しく拡張された広い道が下っているのでその道を進む。右に分岐してトンネルに入る道があるが、右に見て過ごす。そのさきで再び高架で南海本線を越えて西側に出て下っています。すぐ南側には和歌山大学前駅があり、隣にスーパーが建っています。
この先和歌山城まで歩きましたが、後日資料を調べたところ道を間違えたようです。
改めて本日、2016年11月3日に和歌山大学前駅~和歌山城京橋まで歩きました。
【紀州浜街道孝子峠越え 2日目】
2010年10月11日の続きを 2016年11月3日歩きました。
南海和歌山大学駅前~和歌山城京橋まで、10時6分スタートして京橋12時6分着。
和歌山大学駅前の西側、かつての街道はこの右側の建物(駅舎含む)の下あたりを通っていたが、今はその形跡を見ることはできない。この辺りは両側を山に挟まれた深い谷であったのだろう。想像ができない変わりようで、駅の東側には大きなイオンモールができている。
少し南に下り、国道26号線との交差点に出て振り返ったところ。街道は向かって右の建物下あたりから、南海電鉄の孝子トンネル入り口辺りに進み、ここから一気急坂をに孝子峠に登っていた。26号線はその東側につけられている。
少し線路沿いの駐車場に出て大きな駐車場内を南に歩いてみる。
大きな長い三笠池が右下に深い谷となってあるが、かつての旧道はこ池の底を通っていた、そして線路沿いに進んで登っていた、この三笠池は明治初めごろまではここにはなく、ここより北へ400m程上った駅の北西側の街道西側にあったのをここに変わったそうだ。対岸に26号線が走る。
駐車場の南を進むが、道がなく線路側から下に下ることはできない、ここを真っ直ぐ街道は下っていた。やむなく交差点の26号線に戻る。正面は和歌山市街地が見える。
国道26号線に出て池の西側に出る。国道からの三笠池を見たところ。
三笠池の南側まで下ってくると、左から道が合流してきます、途中の工場まででその先は消失していますが、この道がかつての街道の面影だろうか。
坂を下って行きます。
交差点の左は、和歌山大学入り口、また大きな住宅地のふじと台の入り口を左に見て進む。
すぐ先歩道橋まで進みます。歩道橋で横断して左に出ます。歩道橋の階段を下りたところ左に入る道を進みます。
左に入る狭い旧道です。
左に 浄土真宗本願寺派 建徳寺
道なりに緩やかに右にカーブしていく、途中左への分岐もあるが右を進む。
やがて15号線の歩道橋のある信号交差点にでて横断するが。そのすぐ手前に小さな橋があるところの東西の十字路が、
上淡路街道(歩いています) となる
上淡路街道の右(西)側の道。
上淡路街道の左(東)側の道。
歩道橋で向こう側に出る、その手前が土入川に架かる市場橋。ここはもと貴志中村の水陸交通の中心で物資の積み出し、陸揚げしたところといわれる。
信号交差点から100m余り先で道が分岐するので左の道に入る。
左に進んだ先に工場か何かあったのか、取り壊されて改修中のようです。
道路らしく無い空き地を100m程進みます。暫くしてきたとしたら様子が変わっているだろう。
突当で道が左右にありますので右に折れます。
右に進んで100m余り行くと右から側溝が合流します。その先すこし進むとT字路に出ます。
溝側に沿ってT字路を左に折れます。
側溝に沿って200m程進みます。
真っ直ぐ進むと車の多い15号線に出ますが、その手前10m程のお所で、側溝が右に曲がっていきます、それに沿って旧道がありますので、15号線の手前で右に折れます、道は地道です。
150m程先で左からの15号線が合流します。
次郎丸バス停です。
旧道を出てきて15号線に合流したところを振り返る。15号線の左側に建つ二階建ての建物の裏側の川沿いが旧道です。
すぐ先の次郎丸交差点を横断して暫く15号線を進みます。
左にタイヤ館があるところで、打手川に架かる梶取橋を渡ります。
南海電鉄加太線の踏切を渡るとすぐ左に折れる。
左に折れた右角にセブンイレブン。
橋の所で分岐しているが、右の橋を渡って進む。
右にゆるやかに大きくカーブしながら進みます。
その先で橋を渡ります。
橋の左奥に 西山浄土宗 常福寺
ここから先の道は暫く折れ曲がり少しややこしいです。橋の先でT字路となりますので左に曲がる。
左に折れるとそのすぐ先のT字路を右に折れます。
右に折れてすぐまた左に曲がる。
少し真っ直ぐ進むと再び側溝に沿ったT字路となり右に折れる。
右に折れてすぐ左の側溝の橋を渡ります。
橋を渡り100m程西に進みます。
152号線の十字路に出ますが信号はありません。右に行くとすぐ梶取の五差路交差点に出ます。街道は横断して右斜めに進みます。
福島地区を進んでいきます。
は関西電力北島変電所。
右にカーブして左にカーブします。
尾谷産婦人科の看板の先で左からの道が合流します。
北島の信号交差点に出ます。交差点を横断した先、左斜めに進む道があります。
または左の北島橋の方へ100m程進んだ先を右に折れる道があります。どちらが正しいかわかりませんが、取り合えず両道歩くこととします。
〖まず手前の道から進みます〗。
すぐ右に 日蓮宗 妙瑞寺
400mほど進むと左に 西光寺
その隣に 住吉神社
少し先右に 浄土真宗本願寺派法流山 浄源寺
さらに進みますと、交差点に出ます、正面から交差点へ合流する街道は 大川越え街道 (歩きました)です。ここで左鋭角に堤防に上がります。
結論として、孝子越え街道はここまで来て真っ直ぐ進むのは加太や淡島神社へ行く旅人が通ったと思う。城下に入る場合は、前述の北島橋へ進み右に折れる道が近い。現在鋭角に折れずに左に折れて進むと、紀ノ川に突き当たり、二輪・歩行者専用の河西橋が架かっています。
〖北島交差点に戻り後者の道を入ります〗。
北島交差点に戻り後者の道を入ります。
右に折れた先の道。
左の道を上り堤防下の道に出ます。
堤防に上ります、堤防上で先ほどの道から堤防を来た大川峠越え街道と合流します。
北島渡し場跡 孝子越え街道はこの道が正しいようです。ここまで近いです。
かつてこの辺りに、北島渡しの舟着場 があった、現在の北島橋の下流約300mあたりの所。北島付近に旅館も多く、加太に行く人はここで一泊したといわれている。
ここから、紀州街道浜街道、孝子峠越え・大川峠越えは合流して和歌山城下京橋口まで重複する。
下流方向を見ると河西橋と和歌山市駅を遠望できる。
堤防を下流方向に大川峠越えを戻り、河西橋を渡り対岸に進む。
河西橋
河西橋より左の北島橋を見る。橋の手前300m程の所が 渡し跡。
河西橋を渡ると堤防道を横断して進む。
堤防を下りすぐのT字路左に折れ100m程先の分岐を左の道を進みます、堤防下の道になりなります。
分岐から100m余り進むと、左に石段があります。右橋丁で城下側の 北島の渡し場跡
上ったところの景色で、多分ここが渡し跡のようです。
堤防上から城下(東)を見ると、真っ直ぐ伸びる石橋丁の旧道が見えます。
狭い道が広くなります。
100m弱の先、右からに道が合流してくる角に 高倉大神
和歌山市駅の北東の踏切を渡る。
150m程で宇治の交差点に出ますので、交差点を渡り広い車道を南に進む。
南に進んでいったところで、舟大工町の交差点に出ます、右鋭角に和歌山市駅前の大通りが合流します。この交差点を右に折れると橋丁です。
ここの交差点を右に折れる左角にローソンがあります。
右に折れて二筋目100m余り進みます、市堀川で行きどまりのT字路となり左に折れる。
左に折れる左角に銅像があります。
南方熊楠生誕地の胸像と碑文
紀州和歌山が生んだ巨人・南方熊楠は慶応3年(1867)1月15日、ここ橋丁で誕生した。5年後南隣の寄合町に移転、この周辺で少年時代を過ごす。青年時代にアメリカ、イギリスで独学し、帰国後は田辺に居住、昭和16年(1941)に死去した。隠花植物の世界的な学者であり、また日本の民俗学創設においても重要な役割を果たした。他方、環境保護に先駆的に取り組み、近代日本の独創的な思想家として高い評価を受けている。
左に折れて進む道で、100m弱の交差点で左におれる。交差点右手に市堀川に架かる寄合橋。
交差点を左に折れた先の街道。城下町の屈曲した街筋がよく表れている。
100m程進んだ二筋目で、寄合町から先ほどの中央通りの広い道に出ますので右に折れます。
右に折れてすぐ一筋目の交差点、市堀川に架かる城北橋の北詰を左に折れます。
城北橋から左の京橋方向を見る。
城北橋手前で左に折れて、ト半町を東に進む。
150m程先で市堀川に架かる中橋を右に見る。右を見ると真っ直ぐ南に和歌山城の天守閣が見える。かつてビルがない時代には、お城の雄姿が見え素晴らしかったことだろうと想像する。
和歌山城の北外堀(現、市堀川)は長さ約1.5㎞、幅約32m~37mで、紀ノ川と和歌川を結んでいた。物資を積み降ろすための雁木(石段)も設けています。船の行き来が盛んで、堀沿いの納屋河岸には大商店が並び、毎朝米市が開かれ活気ある場所であった。
北外堀には西から伝法橋・寄合橋・中橋・京橋・堀詰橋が架かっています。特に中橋と京橋は城内への入り口で同心が監視していた。
外堀は西外堀、東外堀もありましたが明治期にうめられました。北外堀は市堀川として残っていますが川幅が約25mと縮小されています。
寄合橋周辺の古地図
納屋河岸付近の古地図
中橋の交差点から200m程で京橋北詰交差点、本町通りに出る。
右に折れたところが京橋、橋より右の市堀川。
京橋付近の古地図
京橋
京へ向かう各地の起点となる橋 「京橋」です。藩政時代の京橋は、幅3間2尺(約6.5m)、長さ18間2尺6寸(約36.3m)の高麗擬宝珠付の橋でした。京橋の北詰東側には火之見櫓と番所がありました。番所の脇には制札を掲げる札場となっていました。
京橋は浅野家の城主時代にはすでに京橋矢倉と呼ばれていたようです。関ヶ原の戦い後、浅野家が入国し大手門を岡口門から一の橋の門へ、大手筋を現在の三年坂 通りから本町通りに変更しています。その際、起点として京橋が設けられたようで、それまでこの辺り一帯は芦が生い茂った河原だったと伝わっている。
京橋の南詰に 京橋御門 がありました。京橋御門からは三の丸で城内であり重要な門であった。門は二階建てで両脇に石垣を積み、白壁の土塀を構えていた。御門は付家老の安藤家と水野家の家臣が番をしていた。
京橋より左の市堀川を見る。
橋にある籠のモニュメント。
籠の下、時計の下には、鞠と殿様の歌 小さいときにはよく聞いた歌です。
橋を渡って南に進むと和歌山城の 大手門 に出ます。
紀州浜街道:孝子越 完歩
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