熊野古道 紀伊路 7日目

2014年12月14日

JR和歌山駅から海南駅へ8時15分着、前回の起点まで歩きスタート。一日ほとんど山道でミカン畑が多かった。でも厳しい峠越えであった。
         海南の起点  8時30分 スタート
   湯浅駅の近くの街道  16時 着
          37,674歩  22,6km    1,599kl

海南駅~藤白神社~下津町・拝ノ峠~有田川の宮川橋~糸我峠~湯浅駅

前回の起点の、一の鳥居の分岐点

生け垣に立つ刻まれている文字が判明できない 熊野一の鳥居を示す  石碑

並んで立つ 熊野古道の道標

分岐点より左の鳥居集落の街並みを進みます

やがて分岐に出ます、案内表示が立っているので古道は右に取りますが

左の表示に従って400m程日限山の山腹に上っていきます

祓戸(はらえど)王子跡 の碑が立ちます

ここの王子跡は、熊野本宮大社の入口の聖域として、垢離をとって心と体を清める場所でした。当時は、藤白王子の大楠、藤白坂の筆捨松や藤白峠が一望できるところであった。

王子跡から今登ってきた道を400mほど下ります古道らしい雰囲気の気持ち良い道です、足元も枯葉が敷き詰められ足に優しい左に 石仏

12月であるので、熊も蛇もいなくて安心して歩けます

古道らしく、至る所に 石仏 が並んでいます

前を古道歩きの人が歩いています。珍しく会った

左の道、案内表示があるので間違うことはありませんでもなければ迷う所だろう

また沢山の 石仏 が並んでいる

祓戸王子の案内板が立っています。

寄り道で時間をとった、元の分岐点まで戻りました

分岐点右の古道を進みます

小栗街道
雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道と呼ばれています。不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め、熊野を目指してこの道を通ったためです。判官は熊野本宮に参詣し湯の峰の湯を浴びてすっかり元気になり照手姫と結ばれた。判官は、後に、畿内五か国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。この話は、説教節や和讃、浄瑠璃などに脚色され伝えられている。(海南市案内文)

暫く歩いていくと右に 鈴木屋敷の案内板 があります

鈴木屋敷 
ここは全国二百万といわれる鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいたところです。平安末期ごろ(1150頃)上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなり熊野の鈴木氏がこの地に移り住み熊野三山への案内役をつとめたり、熊野信仰を全国に普及すべく、3300余りの熊野神社建立につとめたと伝わっている。
なかでも鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟は有名で、源義経の家臣として奥州衣川の戦いで共に生涯を終えた話は有名です。(海南市説明板より)

屋敷内の 義経弓掛け松

曲水泉  
旧鈴木邸庭園は「曲水泉」といわれ今も残る貴重な庭園。造園の年代時期は室町時代でないかと推定されている

旧鈴木邸の前の古道を進みます

やがて左に藤白神社が見えてきました 藤白神社のクスノキ群 境内に樹齢千年に及ぶ クスノキの大木 が五本覆い茂っています

藤白王子跡 
藤白神社は九十九王子社の中でも格式が高い、五躰王子社のひとつ

境内より海南市街地を見る

藤白神社

芭蕉翁藤塚

御歌塚 後鳥羽上皇建仁元年(1201)熊野御幸の際に行われた、藤白王子和歌会の熊野絵紙がおさめられている。
聖皇三代重石 平安時代、宇多・花山・白河三上皇の熊野御幸を記念してたてられたもの、稀な記念塔

楠神社

藤白王子権現本堂
藤代五躰王子の神宮寺として栄えた中道寺の熊野三所権現と藤代若一王子の本地仏(熊野路で唯一現存する最古の造像といわれる)を祀る

有間皇子神社 
千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった、皇位継承の争いで十九才の若さで散った悲運な皇子。

背後に海南IC高速道のバイパスが通る

有間皇子神社の横の熊野古道を抜けていきます。熊野古道の 道標

紫川に架かる橋を渡り高速道バイパスの下を潜り進みます

少し坂を上っていくと右手囲いの中に 有間皇子の墓

孝徳天皇の皇子で、斉明四年(658)十一月皇位継承に巻き込まれ、白浜湯崎温泉の帰り道に、この藤白坂で絞殺された、十九歳の若さであった。皇子が護送途中に詠んだ二首の歌の一首の歌碑が佐々木信綱博士の筆で刻まれている。
      家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を
        草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

木田道太郎氏の墓畔
1  はるさめよ 音もなく  ふりそそげ おくつきの 

     かたわらの つらつばき   花咲きて 香えかし
2  つらつばき はなひらけ   幸うすく わかくして 
     はかなくも ゆきましし   みこころに ねむります
3  ゆめおおき おとめごよ   ちしおなす べにつばき 
     糸にさし 輪となして    をくつきを かざれかし
4  ゆきづりの たびびとよ   つばきもて かざられし 
     をくつきに くさまくら   たびごろも うるおせや

また傍らに 藤白坂の丁石地蔵

海南市名高の専念寺住職、全長上人により元禄期(1688~1704)に藤白坂の距離を明確にするため、また憩いの場所とし、道中の安全を祈願するために、十七体の地蔵を一丁ごとに安置しました。

当時、藤白坂には駕籠屋がいてこの丁石により峠越えの目安、導きに利用された。駕籠屋もなくなり、以後二百五十年余りの間に丁石地蔵も消失したりして、昭和五十六年に四体しか現存せず、新しい地蔵を加え十七体が復元されました。この「一丁地蔵」は当時、享保の初め頃のもので「一丁石」としては全国的に珍しい遺産であります。(説明文より)
市街地を振り返る

徳本上人名号碑と2丁石地蔵 右に 

藤白坂をドンドン登っていきます海南市街地よりかなり登りました

この先古道の説明が難しく写真を参考にしてください
古道は左の階段を登ります、案内がありますこの辺りからさらに古道は急な坂道となっていきます

右に 道標地蔵尊

四丁石地蔵と熊野古道道標

急坂の藤白坂を上っていきます

やがて 五丁石地蔵

六丁石地蔵

眼下に海南港と住友海南鋼管・富士興産が見えます

熊野古道の道標 竹林に入っていきます

左に朽朽ちかけた小屋

左小屋の中に沢山の 地蔵と七丁石地蔵

その先 八丁石地蔵 丁石地蔵は皆小さく手入れしなければすぐ草に隠れそう。でもすべてy徳整備されていてありがたいです地元の方たちのご努力に感謝です

ミカン畑が広がります

九丁地蔵

十丁地蔵

十一丁地蔵の前の古道

十一丁地蔵

綺麗な竹林の古道です、藤白坂が続きます十二丁地蔵が見当たらなかった

十三丁地蔵

十四丁地蔵

投げ松・筆捨松
舒明天皇(635)、熊野参詣時の伝承と平安前期の仁和年間(885~888)絵師の巨勢金岡の伝承地
硯石
伝承遺蹟の一つ、紀州徳川初代藩主頼宜の命により硯の形を彫らせという伝承

急な坂道を上ります。上から、筆捨松付近を振り返ったところ

十五丁地蔵

十六丁地蔵

十七丁地蔵

十七丁地蔵前の古道

竹林を抜けます

岩に組み込まれている 地蔵尊三体 まもなく峠につきます

藤白峠 に着きました

左に屋根に覆われた 宝篋印塔 が迎えてくれる

石造宝篋印塔
この地はもともと地蔵峯寺の境内であったところで、寺の境内に建てられたもので年代は15世紀前半頃と推定される。県下四大宝篋印塔の一つ

峠に建つ 地蔵峯寺 標高291mの高所に建つ、「峠の地蔵さん」で親しまれている。 本堂 は(重要文化財)で室町時代中期の建立と考えられている。禅宗様式の優れた建築。また、本堂に安置されている本尊の石造地蔵菩薩坐像も日本有数の貴重な仏像で(重要文化財)

傍に 藤代塔下王子跡

王子の案内文の背後を回ると絶景の広がる 御所の芝へ

和歌山県朝日夕陽百選の碑

御所の芝の絶景 
熊野古道の美景のひとつ、眼下には、和歌の浦・海南港・紀伊水道・四国方面の雄大な展望にしばし足を留めん

十数軒の塔下の集落を下っていきます左に池があります

その先右T字路に出ますが古道は真っ直ぐ進みます。右に案内板が立っています

池を過ぎ、右T字路を過ぎたすぐ先、左に道標と案内表示がある、左に下る細い道があります。なにも案内がなければ分からないでしょう

左を下ると、垣根と左のミカン畑の間の人一人歩けるかの古道を進みます。足元に注意してください
この先も引き続き暫く、古道が細かく蛇行して分かりにくいが、案内標示を見逃さず進んでください

農道に交差しますが横断して下ります

右角に熊野古道の 道標 があります

谷間も利用してミカン畑が広がります下っていきます、前方を見るとかなり山深い山間を進んでいます

大木が古道に覆いかぶさっています

やがて農道に出ます。右手前角に 道標 正面にも案内表示があります。農道を右に折れます

右に折れた農道、右の道標のある坂を下ってきました、一面ミカン畑です。

下ってきた上の古道を見たところです

ここからの景色も素晴らしく、みかん畑が広広がっています

農道を数十m進んだところで、左に案内表示があり左に下るのですが、私はうっかり表示を逸し間違って真っ直ぐ暫く歩き近くで山仕事している人に聞いて間違っているのがわかりまたここまで戻って、左に下りました
左足元下るところに表示があります

急な下り道で足元が悪いので注意が必要ですが、左斜面がきついが谷ではなくミカン畑ですのでまだ助かります

右に 道標と地蔵

農道に合流します、女性二人連れの古道歩きの人と会いました。一人は何回か歩いているベテランの方のようです。

結構足取りも軽く歩いています

道なりに山道を下っていきます

美味しそうな奥手のミカンがなっています、一つ食べてみたいがダメです

下津町橘本集落に入ります

古道沿いブロック塀の角に 石佛

道標 「右 岩屋山道」

古道から道標の辻を右に入り、古道よりそれます

突当りに 阿弥陀寺(橘本王子)と福勝寺の案内に従って進む

浄土宗 阿弥陀寺

橘本(きつもと)王子跡

さらに西北の岩屋山腹に見えるのが 岩屋山金剛寿院 福勝寺 裏見の滝があるという
少し離れて登らなければいけないので寄れません

元の古道、阿弥陀寺の東北側の十字路を北から下ってきた古道を左に折れます(左に折れた十字の道が撮れていない)。真っ直ぐ集落の中を下ってきますと。新しい道の県道を越えて、加茂川に出ます。
かつて峠を下りきったところの加茂川に土橋が架かっていた。この付近から一壷王子まで間には伝馬所や旅籠が軒を連ねていたと思われる。
また、熊野詣でが終わりその帰途の、今来た藤白坂の峠越があまりに厳しいので、加茂川に沿って下り、舟の津(いまの塩津)に出て、舟で和歌浦に到るルートもできていた。

加茂川に架かる第一橘本橋がありますが、その左側に土橋跡の橋を渡ります

橋の袂の南側に 三界萬霊碑(寛政5年1793)、北側にお地蔵さんがあったが、今は一ヶ所に集められたのか

土橋跡の橋を渡るとT字路になるので左に折れると、すぐ右からの道が合流して南東に進みます150m程進むと右に橘本公民館があります、その前を通りすぐ先で、加茂川の支流、市坪川が左から接近して、川を左に沿って南に進んでいきます

下津町橘本地区の集落を進みます

公民館前から150m程先右に 橘本神社

所坂王子跡

今から1900年前、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の命を受け、常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)はこの橘樹であり、今のミカンの原種であります

神社より左に市坪川に沿い100m程先で左に橋を見て渡らず真っ直ぐ進んでいきます

次の橋まで150m程進むと、旧道は道なりに市坪川に架かる橋を渡ります

すぐ左に 浄満寺

浄満寺から右に市坪川を沿いながら、南へ暫く歩きます。左に市坪児童会館があります。振り返ったところ

学校が見える手前の市坪中橋で川を渡り川の右(西)側に出て進みます。橋を渡った先右に海南市立加茂第二小学校・幼稚園があります

学校の先で左に165号線が市坪新橋を渡って分岐していきます。古道は真っ直ぐ進みます

お地蔵さんの立派な 祠 があります

すぐ先右の山裾に 山路王子神社(一壺王子)跡 泣き相撲で知られている、往時の王子社の原型を色濃く残している貴重な遺産

一坪王子とも沓掛王子 ともいわれ、現在は市坪、沓掛の氏神で 山路王子神社 という

神社前の古道で宮前橋を渡る。

右の川向かいに旧家があります

少し上っていくと再び、とりかみ橋を渡ります。

再び登りがだんだん厳しくなってきました

左に川が接近しています
川を渡り分岐する道を右に上っていきます

右の一坪川に沿って200m程進みます

ここから沓掛の登口に入ります。かつては急峻な拝ノ峠への道で、這いながら上っていったといわれている難所。今は舗装がされています。分岐の左は農道で右の旧道に入ります

更に分岐を左の道を上ります

上っていくと熊野古道の 提灯 が吊られています

右背後の沓掛の集落、一面ミカン畑です

向かって右から登ってきて、右にUターンして上ります、この先で左に急カーブしています

左に急カーブする左角の斜面に石で組まれた小さな 地蔵の祠 

続いて右にも石造りの 地蔵祠

石仏の先の古道ですが舗装されていて、往時の厳しい山道ではありません

左に沓掛児童会館

沓掛の松
沓掛とは、この地蔵堂から拝ノ峠までの険しい坂道を登るためにここで沓を脱いでわらじに履きかえ、脱いだ沓をこの松に掛けて登っていった。この松も何代か続く。近くに弘法井戸があります

爪書地蔵

山深いところの沓掛の集落、沢山の軒戸があります

集落の中を抜けて行きます

坂の途中右角に 拝ノ峠道路竣工記念碑 が建っています

分岐していますが、記念碑を右に真っ直ぐの坂を上ります。

一気に急な坂道になります、集落内が少し平坦で少し一休みしておけばいいでしょう

一面のミカン畑の登り坂を進みます、苦しいが景色が最高で吹き飛びます。12月の時期とは思われない素晴らしい天気にも恵まれました

集落を抜けて暫く進むと様相が一変に変わります。道も地道となり竹藪に入っていきます
石垣もあり、かつては民家が建っていたのだろう

今まで上ってきた方向を振り返ります。海南市街地を抜け、ずーと山深く入ってきたのがよくわかります

気持ち良い竹藪を進みます、道は舗装されています

拝ノ峠頂上 に着きました
車道に出ますので右に20m程折れると左に入る獣柵道があり、それが熊野古道です。

ここで驚いたのが、正面の軽トラックの人が、この古道上にかがみ左の竹藪に猟犬を放ち竹藪むいて猟銃を構えていたことです。常識的には人が来れば筒を下に向けて通らすのですが、その人はそのままの姿勢で早く通れという態度でした。少し後ろから来る、先ほどの女性二人も驚くことでしょう。狩猟期間は12月14日からなのでいいのですが。海南市の行政に連絡しようかと思ったが、非常識な人にかかわると怖いのでそのまま通り過ぎました。女性もどうだったのだろうか。竹藪で猟犬が吠えていました

車道を西(海側)に下って数キロ行くと、長保寺 に出ます。紀州徳川家の墓所です
合流点右角に案内板があります

合流点を右に少し進んだところ、左に入る道が熊野古道です。少し進むと

右の柵を開けて入りますと道は竹林の中を下っていく道があります、長保寺への近道の下り道です。
表示に従って左熊野古道を進みます

熊野古道は左の舗装に道、右下の道は長保寺から下津駅方面

気持ち良い古道を下っていきます

遥か西の眼下に有田川に下津港方面の絶景

左に 供養碑「奉供養四州須拝 妙延尼 仙了尼」二人がここで亡くなったのかわからないが

右に 万葉歌碑

供養碑と万葉歌碑の抜けた熊野古道

その先左に 石碑

碑の前の綺麗な古道を振り返る

左には有田川の河口、有田市の西の先端、宮崎ノ鼻の半島が見える絶景絶景の見える展望場所

そのさき古道は雑木に入ります

石仏 が石組の上に

海南市下津町から有田市に入る境界
蕪坂峠(かぶらさか)で藤白坂・拝ノ峠と続く熊野古道の難所

反対側から見た峠

境界を越えたすぐ先で広くなっていて、道は分岐していますが道なりに、古道は右への道を進みます。
東(左)には 白倉山(455m)がありますトイレがあります

左の道を行くと、岩室城址の案内 がありますこの辺り白倉山を背にして広くなっています。茶店があったのだろうか

坂を下る左角に 蕪坂塔下王子跡

坂を下る右手に 報恩寺 今もつかわれているのだろうか

右に農道が分岐する、真っ直ぐの道を下っていきます
右角に案内表示があります

ミカン畑の石垣が続きます、右に 太刀の宮

右左に枝分かれの道がありますが、熊野古道の案内に従って進んでいくと間違いません

ここの辻にもしっかり案内表示がありますので指示に従い間違わないように。ここの辻は右へ

手前に折れ振り返ったところ

右に折れた急な坂を下っていきます

前方に有田川がよく見えます

左に下ります

向かって左の道を下ってきました、ここの辻も何本かに道が分かれるので注意してください

赤く舗装された道が古道です

右に 爪かき地蔵
古く遍照山金剛寺と称していたがお堂のみ残っている。四米余りの自然石に阿弥陀と地蔵とを線刻している。室町時代の作であるが、弘法大師が爪で描いたと伝承されている。熊野古道の蕪坂の中腹に位置し、旅人の疫病を癒すといわれた

お堂の横の急坂を下っていきます

赤色の舗装道が続いています

だいぶん下ってきたようです

下ってきたところで、左に急カーブして下ります。その辻を振り返り写したところです。向かって右に下りますので、真っ直ぐ手前に進まないように。間違いやすいです

左に下るところ左に案内表示があります(要注意点)

地道を下っていきます

左は景色の広がる、狭い古道です

道が入り組んで間違いやすいので、標示をしっかり見てください。文章での道順説明も難しく写真に沿って進んでください。ここは変則的な十字路です。農道が後方の左下から交差して右上に進んでいきます

熊野古道は前方の左下へ進みます

一つ道を間違うと、とんでも方向に進むので要注意

交差した先の石垣沿いの古道

交差した辻から200m程下っていくと突き当たるので左に下ります

左に折れて数十m下ると道が右に下っていきます

下りきると小さな谷川に架かる橋を渡ると、T字路になりますので右に折れます

向かって右の上から下ってきました。T字路手前で谷川を渡り右に折れたところを見る

50m程下った左に 山口王子跡
蕪坂の麓にあり、かつて茶店が二軒あった

王子跡のところで南に方向を変えて新しく改修された旧道を真っ直ぐ下っていきます

150m程下ると、露谷川に架かる渡り郷橋を渡ります宮原町道の集落に入ります

橋を渡ったすぐ先で道は分岐しますので、左の旧道に入ります

150m程進んだ右に 伏原の墓

地元の人々や縁者が、熊野参詣の途次、不幸にして行き倒れ亡くなった旅人の霊を祀るため集められたもので、丹波篠山・遠江などの地名が彫られた墓石や板碑がみられる。
昔の旅人は、長旅をするとき水杯をかわして家を出た。そして旅費のほかに万一道中で亡くなったときのための費用を着物の襟に縫い込んでいたという。旅人のたしなみ、心がけであったといわれている。

その先で、左からの道と合流しながら宮原町道の集落を南に進む。街道筋らしい街並み

街道より少し右奥に 浄土宗 善国寺

やがて左からの川が接近します

すぐ先で、小さな川に架かる夕暮橋を渡ります右に宮原小学校が見えます

そして宮原警察駐在所前交差点に出ます。旧道は交差点を越えたすぐ左斜めに進みます。オレンジ色の屋根の建物の手前の筋

宮原町新町に入り200m程進み十字路を横断します

十字路の先、数十mでJR紀勢線の橘踏切を横断します、右300m程に紀伊宮原駅が見えます

踏切りを渡るとすぐ先で480号線が通る、有田川右岸(北)に突き当たります

突き当たった右角に札場地蔵 暴れ川の異名をとった有田川、大雨で増水し川止めの札を立て、渡し船の休止を示した地蔵さん

車道を渡った有田川沿いには、お茶屋の芝という広場があり、上皇や法皇が熊野御幸の時の 頓宮の跡 で現在天神社があります。またこの付近は 宮原の渡し場跡  天神社

天神社の少し西側の有田川に架かる宮原橋北詰交差点に出て橋を渡ります

宮原橋北詰

橋より右(西海側)の方向

橋より左(東)の有田川、この先、熊野街道は右の山を越えて湯浅に抜けます

橋を渡りすぐ左に折れ堤を歩きます、右には国道42号線が通っています

堤を少し歩く

土手から有田川の対岸を見たところで、左に宮原橋があり、この辺りに対岸の 天神社の渡し場跡 より渡っていました

堤防を300m余り進んだ、右にケーズデンキが過ぎたところで土手より右に下る道があります

熊野街道の道標と案内板が立っています

堤防を右に下っていきます

42号線に出る右角に中将姫寺の大きな看板が建てられています

42号線を横断した左角の看板の袂に右 熊野参詣道の道標 が立っています

42号線を横断した先から振りかえる

横断した街道すぐ右に 西山浄土宗雲雀山 得生寺 奈良の当麻寺と並び、中将姫ゆかりのお寺

得生寺のすぐ先に 糸我村の一里塚 江戸時代の初め紀州徳川藩が、熊野街道整備に当たり築いたもので、城下より五里の位置にある。明治初年まで街道を挟んで両塚が残っていたが、道路拡張等によりなくなった

糸我の集落を進む。右に糸我小学校が見えた先で大木の杜があります。十字路手前右に、当地の産土神社の
糸我稲荷神社 現在境内に三本の樹齢500年程の楠の大木が境内を覆っている

糸我稲荷神社の前には 石碑 が並んでいます

十字路東南の角に 道標 「すく(まっすぐ)熊の道」神社の裏にくまの古道歴史民俗資料館があります

道標すぐ先左に 徳本上人碑

その先左にひばり山への 道標 中将姫が隠れ住んだ雲雀山、山には関連遺蹟が沢山あるそうです

機会があったら雲雀山(201m)に登っ見たいと思っています

その先を進むと道が分岐しているので古道は左へ その左に

道標と題目碑  「左 くまの道」

題目碑は「南無阿弥陀仏」と刻まれている

糸我町中番の集落内を振り返る

中番沖の集落をすぎたところ左に 糸我王子跡 山裾に佇んでいる

王子社から200mほど進むと道は分岐します。正面角に 糸我の道標 「左 くまの道 右 すはら道」 左が熊野古道で糸我峠への道、右に新池があり鹿打坂へ

この分岐の左側の畑の中にあったが、現在が古道沿いに碑と説明版が立つのみ
糸我王子社跡
明治四十年に稲荷神社に合祀された。江戸時代は手前の水王子神社に対して上王子社と呼ばれた

左の糸我峠への道、入り口の両側の碑

ミカン畑の坂道を登っていく途中で振り返る往時は海岸線でなく山深い道を通っていたのだ

急なコンクリート道です、ミカン畑に変わります、この辻確か右だったと思いますが ⁇ 標識があればいいのに

振り返る

左、石積みコンクリートで敷かれた古道を上っていきます

表示がありましたここにあるのであれば、先ほどの分岐の方がありがたいのだが

分岐道がありますが表示があります、真っ直ぐで左に案内表示があり、ここから地道に変わります

急坂を登っていく途中に屋根付きの休憩所があります

さらにここからの急坂で竹藪の中に入っていきます手摺があるので間違うこともありません

古道は細くて結構厳しい古道です

やっと平坦な十字路、糸我峠(標高195m) に着きました。正面に案内板かつてこの峠にあった二軒の茶屋跡右に行くと鹿打坂へ、左に行くと雲雀山(標高201m)へ

峠道から今登ってきた竹藪の中の古道

鹿内坂方向を見ると、右から木の手摺に沿って登ってきた古道が合流しています。

糸我峠の石碑

峠の茶屋跡 に大きな看板の絵

峠より、急な下り坂を南東に進む

下って行く途中にある説明版

前方に湯浅の町が、手前に北谷池が見える

右の北谷池を背後に 伝説夜泣松跡の碑 戦前までここに松の大木が立っ立って

夜泣松跡のところで右のカーブしますその左に 石仏

北谷池を右に見てその先で少し左に方向を変える。吉川地区を下っていきます

その先、右、左と変則十字路は真っ直ぐ道なりに下ります

右の吉川憩いの家前の庭に 行者石

祓いの井戸と行者石

左に田栖川小学校分校があり、すぐ十字路にでます

十字路に出ました

十字路角に 道標二基 立っているが読めない

十字路を右(西)に少し入ると 逆川王子跡(逆川神社 立派な王子社が残っている

また境内には、梛(なぎ)の老樹が立つ

十字路に戻り真っ直ぐ進みます

逆川に架かる巡礼橋があります通常川は海に向かって流れるが、この川は反対の方向に流れているので逆川と名がついた。この川に架かる橋の欄干で巡礼者が休んだことから、巡礼橋と呼ばれた。村は逆川の名が悪いとして吉川としたと伝わる。1230年の記録に残る。

巡礼者はここの欄干で一休みをしたという

その少し先左から合流してくる道の角に伝説 後白河法皇腰掛岩の跡下二十米碑

碑と腰掛岩の前の街道を振り返る

緩やかな坂を登ります

右に 弘法井戸

暫く坂を登ると、方津戸峠(方寸峠)につきます。旧道が改修されているので峠の感じが薄いです。峠の左の山が  広保山城跡

峠から下るところで道は分岐しています右に降りる道は近道で迂回路です。左真っ直ぐ進む道も遠回りですが迂回路です。先で合流します

分岐を右に下らず、左の真っ直ぐの道を少し進んでいきます。果たして歩けるかどうか古道を検証してみます。冬場だから大丈夫かも、
右に 地蔵と案内板 がありますが、案内板の表面が消えかかっています

地蔵前を振り返ったところ地蔵の先すぐ右に

熊野古道の立派な案内標柱が立っているので心配ないようです。右の茂みに入って下ります

車道より右に入ったところです

やはり熊野古道です、道跡が残っていますが左はミカン畑、右の茂みが結構厳しい。夏場は厳しいかも

でもすぐこのような古道に変わりますので大丈夫のようです。何とか迂回せずに済みました。

先ほど分岐した遠い方のう回路が左から合流します。この間の古道は100m余りと短いです

合流する左角に案内板があります下ってきたところを見る

右に折れたすぐ右、ミカン畑の一角に 一字一石碑

70m程で右から前述の峠で右に分岐して下る道がここに出てきます。そこから70m程進むと

右角に花莚レストランがあります。その角に熊野古道 瓦屋の辻の標柱 があります。

辻を真っ直ぐ150mほどすすみます、途中右に湯浅警察署の建物
辻から歩いてきた古道を振り返ったところ白い建物が花莚

その先で、東(左)から山田川が接近してきて流れが南に曲がります。山田川に沿って50m程進む。右に湯浅法務局出張所があり、交差点に出ます

交差点左には山田川に架かる飛越橋、

飛越橋を左に見て交差点を右に折れます。山田川は交差点真っ直ぐ流れている。交差点を右に折れた旧道です。

100m程進みT字路を左に折れます。T字路を左に折れて、左に湯浅スポーツセンターの大きな建物を左に100m程進みます

再び山田川のT字路に出て右に川沿いに進みます。迂回しただけです

T字路左角に

右に曲がる前にT字路左を見ると山田川に架かる一里松橋

川沿いを右に折れるとすぐ先右に 延命地蔵菩薩の祠

山田川に沿って、左に宮後橋・宮西橋と過ぎていきます

やがて山田川が右(西)に流れが変わる左に、北栄橋で熊野古道は左に橋を渡ります

その左橋の袂に 熊野古道の案内標柱 その袂に 自然石の道標 があるようですが刻まれた字が消えています

橋を渡るとすぐ信号交差点に出ますので真っ直ぐ南に道町通りを進んでいきます湯浅市街地も古い街並みが残っています

少し進んだところ右に、重伝建地区の標柱が建っています。

ここで【寄り道】して市街地を回ってみます。熊野古道は真っ直ぐです。
市街地は、熊野古道の道町、その西側から、鍛冶屋町・仲町・浜町・新屋敷・海岸通りと南北にあり、東西には北町・蔵町が交差している町です。 

標柱の辻を右に入っていきます境内に大木のある 宝林寺

その前に 地蔵尊の祠

旧岡正酒店 鍛冶町通りと北町通りが交差する角地建築年代は江戸末期か明治初期

北町通りの旧家のならぶ見ごたえのある街並み指定地域

恵比須神社

少し回ってみたが時間がなく、思うように回れなかったいつか機会を見つけて市街地をゆっくり回ることとします
熊野古道の道町通りに出ます

交差点右角に大きな 立石の道標 湯浅町の中心地で道町筋と寺町通りの交差点にあります 「すぐ熊野道」天保九年(1828)の銘

袂に 護摩壇の跡

交差点北西角に 浄土宗 深専寺

交差点から南に150m程先、左に湯浅町役場が見える十字路で左に折れます

左に折れた道筋です

その先でJR線のガードを古道は潜りますが

今日はここで終了とします。すぐ左に行くと湯浅駅です。
         湯浅駅 16時着  37.675歩  22.6㎞

距離としてはあまり長くないが、殆んどが山道で時間がかかっている


         


  

    

  

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