2013年12月8日
麻生津道を完歩し矢立から町石道を約1時間30分二つ鳥居まで移動。二つ鳥居を14時45分スタート。
鳥居から天野の里まで細い急こう配の八町坂道を下る。旧道らしい山道が残る。
時間的にも厳しくなってきた、里の史跡を見て回りたいが暗くなってくるので山道は危険だから後日とする。天野の里から旧道の残る笠松峠を超え新しい109号線をひたすら下る。途中でこの道は旧道でないのが気が付いたがどうすることもできない。紀ノ川にかかる三谷橋に着くと辺りは暗くなってきた大和街道との合流点まで歩き。JR妙寺駅から2駅で高野口駅に帰る予定であったが自宅まで歩くことにする。
自宅17時30分着
天野~自宅 21.107歩 11.00㎞
1日トータル 61.762歩 35.90㎞ 2.716kl山道をよく歩いた、
体中が少し痛い。
天野・三谷坂道完歩というわけにいかないので、日を改めて天野の里と旧道の三谷坂道を歩くことにする。

二つ鳥居
高野山町石道の西側に二基の石造りの鳥居が並んで建っている。丹生明神と高野明神と高野明神の鳥居。弘法大師が高野山を開いた819年に建てられた。最初は木造であったが、何度か繰り返し造られ現在に至る。
江戸時代初期の1649年5月に、補陀洛院そう遍が資財で石造に改めたものが現在の鳥居


自然石の道標 「左 志なんいん・・・」

二つ鳥居の前の町石道、慈尊院への古道

天野の里への古道、八町坂の下り道

天野の里遠望

途中に、金剛童子杖の跡

枯葉が古道に積り足足に優しい道




よく踏みならされた素晴らしい八町坂

天野の里の集落に入る、この辺りは舗装もされているが、旧道はむしろ地道のほうがいい

八町坂を下ったところ右手に、待賢門院の墓の案内 がある

案内板の前から下ってきた八町坂を見る

院の墓
鳥羽上皇の皇后、待賢門院に仕えた中納言の局が1149年頃、西行とのかかわりも深く天野に療養した、その後亡くなるまでここに住まいした。


田園風景の穏やかな里を見ながら歩く



院の墓

院の墓からの八町坂の登り口

至る所に案内板が建てているので見学は楽

有王丸の墓
平家打倒を企てて鬼界ヶ島に流罪となった、僧俊寛の遺骨を弟子の有王丸は1179年に高野山に納め天野で生涯を終えた。また伴なってきた、俊寛の娘も天野で生涯をおえる。

少し道より雑木の中に入っていくと 中ノ沢明神、丹生明神 を祀り、南村垣内の垣内神で天野三沢明神の一つ。






大念仏宝筐院塔
1416年、大念仏講衆によって建てられた、以後大念仏講が盛んとなり、神社の山王堂と地蔵寺を中心に行われた。


天野の里の散策は時間が迫っているので、後日として、天野の里より三谷坂道を下る。
町石道の 二つ鳥居~八町坂~天野の里~三谷坂道
天野の里を後にして、県道志賀三谷線を少し北に進むと、左に入るT字路の三叉路があり、そこに標識があるので左に曲がり、旧道の笠松峠越えをする。

左に折れた辻から峠方向の道

峠入口で道が二股に分かれているので、左の道を進む

分かれ道の右沿いに 標示と 石仏

雑木林の峠の入口

古道らしいよく踏みならされた登り道



真っ直ぐの旧道を進んだが途中で消失しているので、笠松峠の標示にしたがって、右に折れる。

右への道は無理に造った崖道で注意しながら下り、下の舗装の新道に降りる。新道に降りるとそこは笠松峠

笠松峠

旧道の笠松峠はここでなく、おそらくもう少し左にあったと想像する

三谷坂の下りの旧道はここを左に降りていくのであるが、私は間違って、そのまま新道を下ってしまった。後で気が付くが後の祭りであった。仕方なくそのまま新道を下り、改めて後日、旧道を登ることになった。

この先は新道の自自動車道をひたすら下ります

ひたすら舗装のみちを曲がりくねりながら下る

かつらご町教良寺までおりてきました


だいぶん下ってきた

かつらぎ町が見えてきた


ようやく民家が見えてきました

自動車は余余りのぼってきません

右手に 狩場明神矢根研石と鳥居

二股道を左に、右の角に 石碑 読めない


農道の陸橋、かなり日が落ちてきました

紀ノ川が見える、前方東西に走るのが京奈和自動車道

県道13号和歌山橋本線に出た。紀ノ川に沿って南側を走る新道

河南大和街道を交交差します
自宅に帰り後から調べたら、最後まで道は間違っていた。
県道13号から紀ノ川に架かる、三谷橋を渡る

三谷橋を渡り、すぐ先の交差点を真っ直ぐ進む

三谷橋からの紀ノ川の夕暮れ

南側、今下りてきた山並み

100mほど進むと、大和街道との交差点に合流。大和街道は東西に通る。

大和街道の東方向

三谷橋からの道

大和街道の西側の道

天野の里・新道三谷坂 完歩
古道の完歩という訳に至らなかったので、後日2014年3月8日、再度三谷坂の古道に挑戦しました。
この辻から大和街道を東に40分程かけて自宅に帰ります
天野の里・三谷坂 2回目
2014年3月8日
2013年12月8日に麻生津道~天野の里~三谷坂で完歩したが、天野~三谷坂の下りの旧道を間違って新道を下ってしまったので、今日は再度、三谷坂・天野の里を登る。
自宅から車でかつらぎ町妙寺の観音さんの駐車場に車を置いて、紀ノ川の三谷橋を渡り歩き始める。ひたすら山道を登る。天野の里を見て回り、帰りは再び新道を下ってきた。天野の里は白洲正子が「天の一廓に開けた夢の園」と表現されている隠れ里、天野を訪ねる魅力的な道。
スタート 9時10分
往復完歩着 14時40分
26.104歩 15.56㎞ 1.170kl
かつらぎ公園、JR妙寺駅・大和街道から少し南に向かい、紀ノ川に突き当たったところにある公園。


公園の南側の紀ノ川の堤防を東に歩き、三谷橋を目指す

三谷橋の北詰、前回下ってきたときはこの橋を渡って、北へ200m程の交差点で大和街道と合流した

三谷橋より紀ノ川・南の山の遠望、橋の100m程下流に 三谷の渡し跡 があったようだ

三谷橋の南詰交差点、旧道は交差点の手前に細い道が東西に 河南大和街道 が通っています。右に折れる

細い道が旧道で河南大和街道、紀ノ川の北側をとおる大和街道に対して紀ノ川の南側を通る、岩出橋(岩出の渡し)から奈良吉野山への道として利用された。(詳細は公開しています河南大和街道を参照)

河南大和街道は集落の中を200m程進むが、50mほど手前で三谷坂は左に折れる

左に折れる右手に、常夜灯とお堂 があるここが 紀ノ川の三谷の渡し場跡 常夜灯の右の細い道を下ると渡し場跡

常夜灯を右に見て左に曲がり下っていく

山手の里では時折見かけるが墓石の全くない墓地

この先で県道13号線、和歌山・橋本線に出るが、そこから西南への旧道が住宅でなくなっており。少し迂回しながら13号線のバイパスの新道の信号交差点へ進む。
信号を横断し、右の坂を登りかけすぐ分岐を右に進む。前回は分岐の左の正面の県道志賀・三谷線を降りてきた

更に少し先、二股になっているので右の道へ

右に紀ノ川、三谷集落を見て進みます

その先で小さな川の橋を渡り道なりに進む。川に沿って右に折れる道があるが間違わないよう

右手に 高野山真言宗 龍谷寺

すぐ左に 丹生酒殿神社
天野の丹生都比売神社と同じ丹生都比売(丹生明神)、高野御子(高野明神)らを祀る神社である、この辺り一帯にはこの2神を祭神とする神社が多い。



鎌八幡宮
丹生酒殿神社本殿の背後には、鳥居と一本の巨木があり、この木が鎌八幡宮の御神体で、表面に多くの鎌が刺さっている珍しい光景である。






三谷坂
平安時代、三谷坂は高野山参詣の最短の道であった、丹生都比売神が天野へ遷幸したときの道であったという伝承があり、古くは三谷と天野を結ぶ主要道路で、地元では天野道と呼んでいた。
平安時代末期の1145~1150年には、京都の仁和寺に入寺した覚法法親王は、数度にわたり、この道を登って高野山に参詣している。1148年の「高野山参籠日記」には宿を立ち三谷の前に到り下船す。三谷坂を経、天野に到るとある。
また、この道筋には多くの文化遺産が存在している。(解説板より)
神社の前の道を少し西に進むと、二股道になるので左に折れて坂を登る

その向かい角にある 天野大社参道の碑

左に折れる辻からの坂道

三谷の集落の細い坂道を進む

小さな川の橋の左袂に、今にもこけそうな 常夜灯が一基 少し上流の所に、宮滝があるが見えない



左の滝の音を聞きながら登っていく

暫く登ると二股に分かれるので、左の道をとる

更にその先の分岐を右の道を進む

素晴らしい尾根道を進む

道が三つに分かれるので真中の道を進む溝になった細い道この辺りは柿やミカンの畑が多い


振り返るとかなり登ってきた、景色が良くなる

山道を登っていくと左手に 笠石
弘法大師が高野山へ登る途中の山道で、かぶっていた笠がにわかに吹いてきた強い風に飛ばされて、行方が分からなくなった。そこで里人たちが探したところ、この石に引っ掛かっているのが見つかり、この伝説が広まり以後笠石と呼ばれるようになった。
また、ここが三谷と教良寺の境であるところから「境石」とか、また、笠の下に仏が刻まれているところから「笠仏」とも言われている

二又に分かれていたので、丁度柿畑で作業しているおじさんに道を尋ねたところ、わだわだ上の道に登ってきていただき親切に教えていただいた。

人と人が行き違うのに一杯のような山道を登っていく

柿畑が広がり見通しもよく素晴らしい景色で最高の旧道を登る。全く疲れが感じない。麻生津道とよく似た山麓から大きく蛇行せず真直ぐ登ってきています。枝道が沢山あるが横道に入らなければ間違わない

良い天気でよく見える。北の山は和泉山系、手前は紀ノ川かつらぎ町


右に 鉾立て岩と経文岩
丹生都比売神が天野へ登るときに、鉾を立てたといわれのある岩で、以前はもっと大きかったが、道路改修の時に半分ほど削り取られた、鉾を立てた跡もその時失われた。また、鉾立て岩にもたれ掛かるように立っている小さな岩が経文岩


道が3つに分かれているが、左に道案内板のある真中の道を登る

そこから振り返る

道が分かれるが、左に道案内標示のある右の道を進む

その先少し進んで右にカーブする左に
涙岩と拝水

かつてこの谷を流れる清水は、どんな日照りにも枯れることなく、人々の渇きをいやし、下流の日照りを潤おしていたので、いつの頃からか、村人はこの吉状の岩を涙岩と呼び、岩をつたって流れ落ちる水を、拝水というようになったと言われている

ここから先、風景ががらりと変わり、杉・檜林になる。

道も木もよく整備されているので、日がよく差し込み明るくて気持ちよく歩ける

素晴らしい古道が続きます


旧道跡の石垣が残っている、昔建物があったのだろう

道が分かれるが、左の道を進む、間違いやすいが、左に折れてすぐのところから、木組みの階段となる

木組みの階段を少し登ると、旧道は左だが、右に頬切地蔵への案内板と入っていく道があるので寄ります。

右に100mほど入っていく

頬切地蔵(頬切れ仏)
仏の加護によって、目の病を治した人が、その功徳を多くの人に伝えるため、山中に転がっていた自然石に三体の仏を刻んだもの。大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の三尊(座像)を彫っている。中尊の頬が少し切れているので「頬切れ」と呼ばれている。わざと頬に傷をつけたのは、首から上の病気に効き目があるようにとの願いからだと言われている。



元の道に戻り、木組みの登りを進んでいく



丁寧な木組みの階段を造って頂き歩きやすい、有難うございます


この辺り少し道が荒れているが問題ありません。むしろ古道の趣があった楽しい。また木に布を巻き付け道案内をして頂いています

整備中の林道を横断する、真っ直ぐ進む。三谷坂の古道を整備されています。
素晴らしい古道、是非沢山の方に歩いてほしいですね

木の板の小さな橋を渡り登っていく


旧道は真っ直ぐ行くが、右に行く案内板が立っている。まっとう岩と書かれている

まっとう岩(的岩)
尾根筋の端にどっしりと座っているこの大岩は、ここが雑木林であったころ、遠くの川向こうからでもよく見えたので、天野大社に参る人は、この岩を目標に三谷坂を登ったと言い伝えられている。
右の道を少し登り入っていく

大きな岩が坐しているこの先道はなくなっているが、この岩を目標にしていたとしたら、この近くに元々旧道があり、ここから笠松峠を越えていたのかも、また岩の付近は今は見通しがないが、昔は回りの木がなかったのだろう


元の旧道に戻り登っていく

地元の人たちは、平成の町石道として整備をしている。確かに案内板も多く建てられまず間違うことがない。道もよく整備され歩くものにとって本当にありがたい。


新道に出る所で先日歩いた時にここを下りればよかったが、新道を降りてしまった。

前回ここを通り過ぎた


新道に出て少し坂を登っていくと 笠松峠 に出る。やはり切通になっていて、かつての古道の笠松峠は失われている


先日はこの崖を降りてきた


峠を少し下ったところに右に入る案内板があるので右に入る。左に入ると六本杉への道。六本杉は、高野町石道の中にある

この案内標示板の所を右に入る


笠松峠の案内標示


先程山道を登ってきた新道に出る手前の、大きな「まっとう岩」の辺りから、左にカーブして新道にでたが、旧道はおそらく、岩の近くを通り真っ直ぐ登って、現在の笠松峠より西側辺りに出てきていたと思われる。現在道は消失しているが地形的にそれが自然のように想像できる。

旧道を下る

道案内板が所々に建てていただいているので迷わない。舗装道が見えています

新道の笠松峠へ降りる崖の先(正面)を真っ直ぐ進んだが道が途中でなくなっている。無くなっている先が丁度、的岩辺りとなる

窪みの道を下っていく





ようやく林を抜けて天見の里に出る

畑の中の畦道を里に向かって下っていきます

峠から下ってきた古道を振り返る

左から畦道が合流してくる左に小さな 五輪塔

左にカーブしながら下る

150mほどの真っ直ぐの道となり、左からの新道と合流するT字路にでて右折れする

T字路を右に曲がって進めば天野の里中心部へ行くが、寄り道をして左に少し行くと右手に細い道がある

お照の墓 入口の石碑を見て少し坂を上る



お照は、自分の髪の毛を売ったお金で灯明を捧げた「貧女の一灯」、高野山奥の院の正面左側に千年近くの間光り輝いている貧女の一灯と言われる燈籠がともる。
お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えた。1682年妙春尼により供養塔が建てられ、1688年天野の郷供僧、浄意が女人の苦しみを救うために、代受苦の行を十年間勤めここに碑が建てられた。
この上に 実父母の墓 と伝えられる碑がある。
お照の墓


実父母の碑

T字路に戻る、T字路より笠松峠方向とT字路に下りてきた道

前回下った辻に出ましたので、天野の里・三谷坂完歩とします。
ここより天野の里を自由に散策する。天野の里は周囲を山に囲まれた、山の上の盆地のような里、昔から高野山に納める米の耕作地であったという田園や昔の面影を残す民家や数々の伝説を残している史跡の多い静かな山里。
T字路を右に進んでいくと左に、天野の里のシンボル。朱塗りの鳥居、太鼓橋が見えてくる。

太鼓橋


鳥居・太鼓橋の奥には、紀伊の国一之宮 世界遺産、丹生都比売神社
このような山里に規模、格式の高い立派な神社があるのは驚きである。地元の人々が長年に渡り大切に管理されたことだろう



神社を出たここから、南西にかけて里が広がり散策をします
西行妻娘宝筐院塔
供養のために建てられた碑で、4基あり、右側の2基は1,372年、左側の2基は1449年のもの。碑はもと西行堂下の妻娘の墓に建てられていたがここに移された。
鬼王・団三郎の墓
西行妻娘の宝篋印塔の裏側にあり、曽我兄弟の郎党の碑で、2人は兄弟の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられている。

西行堂
西行の出家後、西行の妻は1142年に、養女に出ていた娘も15歳で京都よりこの地を訪れ1152年に尼となり、ここに庵を結び2人は仏門にはいり生涯を終えたと言われている。里人はここにお堂を建てお祀りした。娘の亡くなったのは1199年秋彼岸と言われている

お堂の下にある 西行妻娘の墓
ほととぎす 古きあはれの 塚二つ
青々

西行堂全景

横笛の恋塚
平重盛の家来であった、斎藤時頼(滝口入道)は、建礼門院の侍女・横笛との恋に悩み出家して1179年高野山に入る。後を慕って横笛は天野に住み再会を願ったが果たせず19歳でその生涯を閉じた。
その後、横笛は時頼のいる大円院の庭に鶯となって現れるのだが、時頼に一目会った直後に井戸に落ちて亡骸となってしまったという。

横笛の墓と歌

滝口と横笛のやり取りした歌に
滝口入道の歌
そるまでは 恨みしかども梓弓
まことの道に 入るぞうれしき
横笛の返歌
そるとても 何か恨みん 梓弓
引きとどむべき 心ならね

えびす神社弁財天

妙見神社 天之郷中主大神

八幡神社



八町坂登り口(前回に説明省略)

院の墓


二つ鳥居への八町坂(院の墓前)へ

有王丸の墓
俊寛僧都の召使有王は、鹿ヶ谷の謀議に敗れて喜界け島に流され、寂しく世を去った俊寛の遺骨を1179年5月高野山に納め、法師となって主の菩提を弔い、天野に住み生涯を終えたと言われている。俊寛の娘もまた、12歳で天野の別所で尼となったと「源平盛衰記」に記されている。「有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ上り奥の院に納めつつ蓮華谷にて法師となり、諸国七道修行して、種の後世をぞ弔いける」

中ノ沢明神
天野には、このような沢に丹生明神、狩場明神を祀る場所が3か所あり、奥之沢・中之沢・柳沢で三沢明神と言われている。

天野の里


一応里の散策は終了、まだ沢山残っているが、時間がないので下ることにする。

三谷坂 完歩
高野山への道、麻生津道・天野の里三谷坂を歩き終えて、素晴らしい古道でした。町石道を歩かれた方も是非この古道を歩くことをお進めします
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