紀の川に架かる岩出橋~吉野上市、柳の渡し
紀の川の北側を進む江戸中期までの紀州徳川家の参勤交代道である大和街道に対して、紀の川の南岸を進む大和街道の脇往還ともいえる街道で、高野山や吉野山への道ともいえる。途中宿場町があるわけでなく寂しい生活道路でもあった。
1日目 2012年1月22日
JR高野口駅6時44分で7時30分船戸駅着。
駅近くの船戸渡し跡で大和街道と分岐する。第1日目曇り空で今にも雨が降りそうな空模様。資料も乏しく正確に旧道 を歩いているか分からない。4時50分九度山で一日目は終わり、九度山橋を北へ高野口の大和街道との合流点にある蛭子神社に着く。
54.669歩 32.80km
2日目 2012年1月28日
自宅7時出発30分程歩き前回の九度山橋をスタートする。朝から小雨が午前中降り続いた。五條より吉野までの街道の資料がないので、出来る限り旧道らしき道を進むこととした。16時吉野町の美吉野橋、柳の渡し跡に着く。ここから吉野山へは既に別街道で歩いているのでここまでとする。(完歩)
54.857歩 32.91km
河南大和街道トータル 109.526歩 65.71km 4.954kl
JR船戸駅
JR船戸駅の少し西に、大和街道との分岐点の船戸交差点を起点とする。現在の大和街道は紀の川に架かる岩出橋を渡り対岸へ進む。
岩出橋より紀ノ川上流のこれから進む河南大和街道を見る。
最初の民家の少し先辺りから、かつては船戸の渡し船があり、河南大和街道と大和街道(歩いています)が分かれていた。
船戸橋より紀ノ川の南岸をスタート。
100m余り緩やかな下り、右への道は船戸駅、落ち着いた船戸の集落を進む。
街道左手に、灯籠と道標 かつての船戸渡し場跡。
大和街道はここで渡し舟にのり紀ノ川を対岸に渡る分岐点。
燈籠の北側は紀ノ川でここが旧渡し跡。
渡し跡の紀ノ川を見る。
船戸の古い民家と街並み。
宿場・街道風情が残る街並み。
街並みを過ぎると左に船戸集会所内に、お堂と祠
お堂を過ぎるとすぐJR和歌山線の踏切を渡る、左に紀ノ川の鉄橋が見えます、その踏切を越えて振り返ったところ。
左の紀ノ川の堰。
その先で右に集落に入る旧道、すぐ先でまた合流する。左に船山地区公民館
右の道を入りすぐ先で左の道に合流、どちらが旧道は分からないが旧道の雰囲気が残る。
合流したところ先に進む。山崎地区
見事な長い白い塀が続く民家を見て見事。
右から10号線が合流してきます。
その先の道。
旧道はかつて左の道を進み竹藪辺りで左の、紀ノ川と支流貴志川が合流する辺りで渡っていたが、現在道は完全に消失し橋もないので、暫く歩いて桃山町調月で桃山大橋を渡る。
信号交差点で真っ直ぐ進むのは海南への道で熊野街道に合流する旧道。かつては河南大和街道が竹藪辺りで左に貴志川を渡っていたが、その地点から熊野への道は分岐して右の急峻な山麓を進んでいた(今は消失)、その道は次の信号の丸栖交差点の西に下りていた。丁度、安養寺の辺りに出ていた、暫く南に進み丸栖小学校の所で東に向きをかえ貴志川を渡って右(南)へ進んでいた。JA県農桃山食品工場辺りに出ていたようだが、現在は橋もなく迂回しなければならない。
河南大和街道は竹藪から暫く歩いた信号交差点で、左の桃山大橋で貴志川を渡る。
今回の河南大和街道を歩くにあたって、資料は殆どなく紀ノ川の北は大和街道、南側は河南大和街道といわれる。 それらしき旧道を思いはせながら歩くので、正しいかどうか分かりません。
この信号で左に折れて貴志川に架かる桃山大橋を渡る。
海南へのみちはこの信号の手前、右の山中腹をとおり、次の丸栖信号辺りに下っていた。
貴志川と紀ノ川の合流地点の遠望、かつての旧道は桃山大橋の北(左)側を渡っていたようだ。
この日は雨模様であった、この先の桃山大橋から、後日、1016年10月6日、以前の道が違うようだったので再度歩いたので、写真に写っている空の景色が違います。
桃山大橋の袂に記念碑 「小倉井洞改築 同事務所新築 同井堰基礎工事」
桃山大橋を渡った東側からみる桃山大橋と前方の険しい山、あの山の山麓を今は消失しているが海南方面への道があった。橋の桁の模様は地元特産の桃が刻まれている。
貴志川に架かる桃山大橋から西の岩出橋方向を見る。向って紀ノ川の左を歩いてきた。
桃山大橋を渡り少し堤防を右に緩やかのカーブしながら進むと、右に北島橋が右に見ながら堤防を進むと、左に衛生環境整備組合衛生センターが堤防下にあります。その先堤防を進み、衛生センターが切れたところで堤防を下り左に曲がります。
左に那賀スポーツレクレーションセンター、右の先にはひまわり園があります。右に見て真直ぐ進みます。
十字路を二つ越えます。そしてすぐ先のすぐ先の変速十字路右角に、道標 「右 新四国近道」。
1回目の時ここを右に折れた、今回左の道側溝沿いに進む。右手角に前回もよく吠える恐ろしい犬がいるので注意。
左に小林工業和歌山工場、その先で左からの道と合流、右の折れて東に進む。
東への道、右にチリ化成KK。
車道の十字路にでるので横断します。
左角に 道標 「すぐ和歌山・・・」
車道左(北)はかつての紀ノ川の渡しがあった、現在紀ノ川に架かる井阪橋が架かっています。
交差点を横断した先の段地区、桃山町は日本一を誇る桃の産地。
段地区集落内の十字路を何度も越えて東に真直ぐ進みます。
ハウスの傍の十字路を越える。その先も十字路があります。
この十字路左に入った右に、牛滝神社。
神社のすぐ左は北からの道のT字路で旧家の軒に 道標 「右 ・・・・・・・・・」
今歩いている街道より北側の筋になり、北からの道であると紀ノ川からになるので、この道が渡しからの道かも、分からない。
桃山町段新田で左からの側溝が接近、暫く側溝に沿って進む。
左の側溝を進むと左に橋を渡り、今度は 右に変わる。
橋の手前右袂に(正面)お堂。
お堂に向かって右鋭角に進む道の角、ブロック塀にもたれるように 道標 刻字が読めない。
側溝が広くなり右に沿う。
側溝が切れる辺り右に津田接骨院があります。右に 祠、右にの山酒店を過ぎると左に紀ノ川が接近します。
紀ノ川を背に碑が建つ、大正四年9月8日、この近くの竹房渡船場に於いて溺死した。
遭難女学生之碑9名の若い命を失った悲しい場所。
隣に 築堤記念碑が並ぶ。
前方に竹房橋、かつての渡し場は橋の袂辺りに着いていた。
少し紀ノ川沿いに進む。
右に辻本畳店、その角を右に折れる。
右に折れたところ、正面は百合山、街道は左にカーブしながら。
上り口に建つ記念碑。
弘法大師信仰は盛んとなり平安時代から続いてきた弘法大師信仰は、江戸時代後期に庶民の間でも盛んとなり、四国八十八カ所の時間的等簡易化するため、この百合山中腹に安政四年(1857)新四国八十八ヵ所が作られた。
左にカーブする右手にある 餓死人塚の碑と祠
天明・天保の大飢饉およびそれ以前の十余回に及ぶ大凶年において農民は草根木皮を食うなど、塗炭の苦しみにおちいり、延宝三年(1675)以来藩の救済がなされたが、尚餓死する者が多く、其の怨念は餓鬼となって災をなしそれがためこの碑を建立して、餓死者の冥福を祈った。
坂を上っていくと高架橋で渡ります。多分元々は山であったのを下の車道を作るため、深い切通を作ったのだろう。
高架橋を渡ると坂道は左カーブとなります。
かつては急峻な峠越えの街道であったのが想像できる。紀ノ川に架かる竹房橋、左の山の袂辺りから対岸の橋袂に渡しがあったようだ。今では水もそれほど多くないが、遭難事故の当時は水が多かった。
旧道は左の倉庫辺りから山を下っていたが、今は全く道は消失して跡形もない。
止む得ないので、元の辻本畳店の辻に戻る。
一旦百合山の先で河南大和街道はここで中断して、今来た道を戻り海南・熊野街道への道を【寄り道】探索する。反対に海南方面から来た旅人は今から歩く道を来て、河南大和街道に合流して、粉河寺・根来寺・高野山・吉野山へ旅した脇街道でないだろうかと想像する。
竹房橋から700mほど分岐の祠がある地蔵辻から、左に道をとる。河南大和街道は右の側溝沿いを歩いてきた。
左に進むとすぐ左から車道が合流する。
車道を150mほど進むと、再び左から424号線が合流してくる。合流して424号線を暫く進む。
やがて左に市立河南学校給食センターの前を進むと、左斜めに入るやや狭い道を進む。
桃山町元集集落
右手に 三船神社
その先で3号線の車道と交差する、交差する左正面角に、あゆじゃこ寿司の看板が目につく。
西に十字路を入っていきます、突当りとなり左に曲がりますが、正面に空のお堂があります。
左に折れるとすぐ小さな石造りの光明橋があります。
橋を渡ってすぐの左T字路を右に折れたところの筋。
70mほど進みますと車道のT字路に出ます。右に小松馬橋がありその橋を渡った左にふれあいコミュニティセンターが、更に北側には安楽川小学校があります。旧道はT字路を左に曲がります。
50mほど先、さらに左T字路を右に折れます。
右側に旧家があります、真っ直ぐの集落内を進みます。
二筋目を右奥に入ると 神明神社
更に少し進んだ先で左に入ると 高野山真言宗瑞雲山 蓮台寺。
右にやまいち商店を見て進む、なかなかいい。
左に塩塚酒店があるところで右に側溝が沿ってくる。
右に 灯籠二基とお堂
その先で信号交差点を横断。
交差点から300mほど進むと、右から車道が合流してきます。合流してきた右角に 塩谷伊勢守戦死跡碑が建つ南北朝時代の南朝方の武将。
碑から車道を進み高島の交差点に出ます。道は分岐して右に進むと貴志川に架かる高島橋です。
海南・熊野方面への道は左に進み、貴志川の支流拓榴川の小金橋を渡ります。途中、工場等で旧道は無くなっているようですが600mほど先で、JA県農桃山食品工場の北側で、西から貴志川を渡ってきた道と合流して(今は消失している)、少し東側から南に進んでいる。これ以上は河南大和街道とは離れていくのでここで終わる。
分岐を右にとり高島橋を渡る。
左、柘榴川の対岸に教了寺がます。
左に折れたすぐの海南方向への、柘榴川に架かる小金橋。橋の右側辺りを渡っていたようです。そして、対岸の後島排水機場の裏側辺りを旧道が進んでいたと想像する。
右に折れ少し堤防を進み、貴志川に架かる高島橋を渡る。
高島橋より左(南)を見る。海南・熊野への道は向かって左を進んでいた。前方600mほど先に渡しがあった。
高島橋を渡り左に折れて、貴志川の堤防を600m余り歩きます。堤防道が無くなり右におれますが、ここにかつて渡し場があった。対岸のJA県農桃山食品工場の左(北)側に渡っていました。
何故ここに来たかというと、河南大和街道の桃山大橋近くで分岐した道が、海南・熊野への道としてここに来ていたからです。大きく(寄り道)をしましたが満足しました。
渡し場跡 ここに若狭八百比丘尼の伝説が残る 尼が渕。
袂に 石碑が祀られています。
街道情緒が残る丸栖の集落を進みます。右に丸栖郵便局、左に丸栖小学校があります。
その先100mほどで十字路に出ますので、右鋭角に曲がります。
すぐ先で道は分岐しますが、左の道を進みますが、少し右に神社があるようでいってみます。
左手に、気鎮神社。
北側には護国神社があって、隣に村社 大多羅乳女神社。
さらにその北隣に 真言宗山階派松原山 玉前寺。さほど大きくない集落に四社も集まっている。
分岐の左側の道に出て北に200m余り進むと、左から岩出・野上線の車道に合流します。
すぐ50mほどで左に折れます。
左に折れたところ左に、小さなはりま池がありますのでバス停の立つ一筋目を右に入ります。
右に折れた先の道。
暫く進むと左から道が合流してきます、その左角が丸栖北公民館があります。
すぐ先で南北の道に出ますが、手前左に上る細い道を入ります。狭い道を進んでいくと、右に谷口酒店があります。その左山手に、子安地蔵尊、更に北側に安養寺があります。
その先で、前述の桃山大橋から西に見える険しい山の南側に出ます。かつては山の東側の裾野を旧道はあったようですが、この先は消失しているようで、右に曲り車道に出ます。
丸栖の交差点に出ます。
この先すぐに桃山大橋に出て河南大和街道に合流する。(2016年10月6日)に補助道として歩きましたが、自分なりに理解できてよかったと思います。でもかなり時間をかけてしまった。どうも中途半端に終わるのが嫌な性格で仕方ない。
河南大和街道竹房橋に戻り、続いて河南大和街道を進みます。
竹房橋南詰の交差点を紀ノ川沿いに進みます。
橋の南詰よりこの先の紀ノ川沿いの道。
少し歩いた先で振り返る。百合山が新道の切通で完全に分断されているのがよくわかる。向って右から出てきたところ。
暫く紀ノ川を左に見ながら歩く
道は堤防道と分岐するが右に下っていきます。紀ノ川市遠方地区に入ります。
右山裾に 八王子神社の鳥居が見えます。
旧街道らしい雰囲気の静かな街並み。
右に 楠神大権現
右に 楠神大権現神社の境内に巨大な楠木。
隣には 角福寺
竜門川に架かる遠方橋を渡ります。
街道沿いにイチジクがよく整備されています。この辺りにおおくのイチジクが植えられています。
風市地区にはいり、風市バス停があります、その手前を左(北)に入る路地がありますが、その先で紀ノ川の堤防にでると河南緑地公園に出ますが、そのあたりかつて紀ノ川を渡し場が対岸に渡っていたようです。
【寄り道】して左に入ってみました。
堤防に出る手前で新道に出ます、その右手角に 風市森神社。
河南緑地公園です、この辺りで対岸へ渡しがあったようです。
紀ノ川の堤防より南に聳える 龍門山(標高756m)。
堤防にあるかつての渡船場跡の石垣だろうか。
街道に戻り再び東に進みます。
長屋門の持つ旧家が見えます。
その先で右に分岐する道がありますので入りますが、竜門小学校の手前で消失左に折れて元の道に戻ります。
竜門小学校前の街道。
少し先に、道標二基 小さい方 「左 いせかうや」 大きい方 「右 龍門山道 左
龍門地区に入ると竜門交差点で旧道は真っ直ぐ進む。
左に曲がると竜門橋を渡り粉河に出て、粉河寺に出ます。ここにも渡し場があったようです。
元の街道交差点に戻ります。紀ノ川市荒見地区に入ります。
道は分岐しますが左の道を進みます、右に側溝が沿います。
左に 安福寺 が見えます。
小さな橋を渡ります、その手前道は分岐していますので、左の道を進みます。
橋の手前袂に 道標 「右 九頭龍大明神」 左の道は狭くなります、車の対向は出来ません。
南北の道路の高架下トンネルを潜り少し進むと、左から堤防つたいの道路と合流します。
堤防道に出てすぐ道は分岐します、堤防を進む左の道と右の車道。右の道を進みました。
橋本21㎞、かつらぎ11㎞、国道480号7㎞の距離表示。
旧道は多分紀ノ川の川沿いを進んでいたと思います。この道は新しいです。どちらにしてもかつては民家の無い広々した山麓であったのだろうと想像します。
お地蔵さんだろうか。
左から旧道なのかわかりませんが合流してきます。
(ここまで来て)やはり気になったので、一旦中断して、先ほどの堤防に上がって分岐した道を左の堤防道へも進みました。どうも少し気になるとダメな性格で前に進むのがいつも遅れます。堤防に上った少し先から振り返る。橋は先ほど高架のトンネルを潜った左への新しい橋です。
堤防の右の川がここで紀ノ川に流れる、その橋を渡り堤防を進む。
左に紀ノ川の堰があります。
少し先、右に旧家があります、左には街道松が一本残っています。なかなか街道風情の残る景色です。
麻生津地区に入りますです。先ほどの新道と合流します。やはり今来たこの道が河南大和街道で正しい正解でした。
新道に出たところで、横断します。
麻生津中集落を進んでいきますと、麻生津の石碑と道標 右の軒下に刻まれた字は読めません。
カーブしながら下っていきます、
この街道街並みも大きな屋敷が残り情緒があります。
やがて旧道から新道に出ます。
新道に出てそのまま進みます。右に 道標 「左 かうや・・ いせ・・」
信号交差点の右角に 灯籠があります。
交差点を左に進むと紀ノ川に架かる麻生津橋でその先、大和街道に通じる。この道は新道です。
交差点からすぐ先左角に 池浦の地蔵堂。
地蔵の前で交差する左右の道は 麻生津道 です。(歩きました)左は紀ノ川の麻生津の渡し場跡で対岸の大和街道に合流する道。右は高野山への参詣道で高野七口の一つで、高野町石道の脇道です。麻生津道の詳細資料を参照祖いてください。麻生津橋を見る。
その先に新しくできた麻生津大橋の東詰の信号交差点。左に曲り紀ノ川を渡り進んでいくと、華岡青洲の里があります。
街道は左の紀ノ川に沿って進んでいきます。
紀ノ川の対岸に万葉集に出てくる、背ノ山(標高168m)、かつらぎ町に入ります。
紀ノ川の中洲で船岡山、私たちは小さい頃から蛇島と呼んでいた。船岡山へはつり橋(厳島橋)が架かっている、島内は遊歩道がり神社もあるようです。まだ一度も島には入ったことはありませんが、この機会につり橋を渡ってみました。
厳島神社
人ならば 母がまなごそ あさもよし 紀の川の辺の 妹と背の山。
つり橋からこの先の歩く上流を見る。
街道沿いの旧家 島地区に入ります
島地区を進んでいった、西渋田児童館前バス停付近。
この信号交差点を右に折れます。
右に折れた先の渋田の集落に入ります、道なりに東に集落を進む。
大きな家を見ながら道なりに進んでいきます。左にかつらぎ渋田郵便局が、其の北側には渋田小学校があります。
郵便局の傍に 子安地蔵尊
地蔵尊の隣に、自然石の碑
すぐ傍の渋谷川を渡りますが、橋より右を見ると立派な家が川沿いにせり出しています。なかなかの景観です。
東渋田をに入り480号線に出ます、右に進むと天野から高野山への車道です。左に行くと紀ノ川に架かる大門口大橋に出ます。横断して東渋田地区の旧道を進みます。
すぐ先右手の蟻通神社の鳥居をくぐります。
蟻通神社
神社の本殿前に巨大な自然石で作られた狛犬が一基鎮座している。
神社の正面は大門口大橋に進む県道の480号線が走っていますが、その南の狭い旧道を進みます。
山裾の道を道なりに進みます。この先、街道は東渋田・寺尾・兄井・三谷の集落を進みますが、旧道はほとんどミカン畑に変り正確に辿ることはできない。
少し先で右に 地藏堂
その先、谷川の急斜面の上に、熱田神社日本武尊名山不動さん。
一筋北側の筋 に高野山真言宗慈名山 現福寺
その少し先十字路を越えた左に平沼田中央会館前の街道。
60mほど先で谷川を渡りますその右斜面に鳥居があります、丹生狩場神社です。
寺尾の集落を通るが、特にこの辺りは何筋も東西に道があり、どの道も旧道らしくてわかりません、とにかく東に進みます。
左に 大木と小さな神社。
左に集落を見ながら山裾を進み、兄井の集落にはいる,石仏の手前で道は分岐している。左を行くとすぐ先で川沿いを東に進む。右は車一杯の道で集落の中でどちらが街道かわからない。どちらにしても、400mほど先で合流する。
集落内に、 一字一石供養塔と小さ五輪塔が並ぶ。
迷うが多分この道は右の道でないだろうかと思う。
兄井の集落内を進む。
石仏のすぐ先は十字路となっている、そこから200mほど進むと十字路があり、街道は真っ直ぐ進むが、右に折れて坂を上ること100mほど(寄り道)をする。右に 鎌八幡宮
大木に鎌を沢山打ち込んでいる珍しい光景。
鎌八幡宮より下りてきた先ほどの十字路を進むと、左に兄井集会所があり、その先で左からの道が合流する。
合流してさらに150mほど先で右に二階建ての家の横を進む。
そこで左の県道から鋭角に合流してくる辻の左に 三谷東の回国供養塔。
辻を振り返ったところ、向かって左から進んで来た。
100mほど先、左に県道、その左紀ノ川が迫る真っ直ぐの道を進む。
川沿いを進みます、左に県道が並行しています。
川沿いを暫く道なりに進むと川を右へ渡る橋があります。橋を渡り右斜めに進みます。
橋から150mほど進むと分岐があり左の道を進むがその右角に 桜木神社。
神社の横の道を50mほど上ると左にカーブする右に防火水池があり、道は変則に交差していますが真っ直ぐ進みます。
すぐ先で正面が駐車場の広場があり、左右に道は分岐しています、左の道を進みます。この付近の道は非常に狭く車が一杯一杯です。
左の道を進み右にカーブすると橋を渡りT字路にでます。
T字路を右に折れすぐ左にカーブします。左にカーブした先の道。
また先で川の橋を渡り坂を上ります。
坂を上る途中、旧道は少し左に向きを変えますが、右に折れる道があります。
右に折れる道は 三谷坂で高野七口の一つ町石道の脇街道で天野の里に登ります。(歩きました三谷坂を参照してください)
三谷坂上り口の右角に 道標 「天野大社参道」への道。
少し左に緩やかな坂を上りますと、右に鳥居と灯籠が見えてきます。
丹生酒殿神社
丹生酒殿神社の拝殿に向かって右に回り込むと 鎌八幡宮 大樹イチイガシに神霊が宿っています。その神樹に鎌を奉献(打ち込む)して祈願することに由来し、鎌が樹中に深く入ると成就するという。
二の鳥居からの北の参道正面。
少し東に下った左に 高野山真言宗 龍谷寺
その先小さな橋を渡る、橋のたもとで道は真っ直ぐと左への道が分岐する。どちらでもいいのだが、三谷坂を上るときは真っ直ぐの道を来たので、河南大和街道は左に折れました。
左に折れくだり坂を下ると、県道に出て横断します。
県道を横断して右にカーブしていきます道は車一台の幅です。右にカーブした先の道。
150mほど先で東西の道に交差します。
交差して少し右寄りで、半鐘塔と民家の間の細い道を左斜めに入ります。
左に入ると細い道となります、民家の裏側はすぐ紀ノ川です。民家は建て替えられていますが、街道らしい雰囲気の道です、200m余り続きます。
道を進むと中ほど左に 祠と灯籠が一基。
お堂の傍ですが三谷の渡し場跡かわかりませんが、そような跡のようです。
紀ノ川の対岸かつらぎ町妙寺の町です。かつての 三谷の渡し場あたり。
更に進んでいくと交差点に出ます。左に折れると三谷橋です。街道は真っ直ぐ進みますが、三谷坂の道とはここで分かれます。
三谷橋と民家の背後の紀ノ川です。渡し場跡はとにかくこの付近です。
【寄り道】交差点を右に折れて200m程進み県道13号に出ます、左に折れると右に 千手千目観世音堂が高台にあります。
更に少し先右に赤い鳥居が見えます。山崎谷川に架かる新山崎橋を渡った右側です 山崎 榧(かや)の木神社。
元の交差点に戻り、左に紀ノ川を少し進んだ左に 石組台上に 祠。
祠 の向かい、堤防上の道を左に分け右の細い道を入ると旧道が少し残っています。
右に入る左角に、道標か石仏があります。
200m弱の旧道を進み、再び左からの堤防道に出る。
堤防道に合流したところ。
右の擁壁に組み込まれた 石仏 が祀られている。
さらに進むと左、木の茂った袂に紀ノ川を背に 小さな 灯篭二基と祠・石仏 が祀られている。よく手入れがされている、小さいのでほっておけばすぐ草に覆われるだろう。
山崎地区に入ります。少し先で右からの新道県道13号線と合流。
ゴルフ練習場を過ぎ暫く真っ直ぐの県道を進むと信号交差点に出ます。
ゴルフ練習場の少し手前の所で、右の細い道に入ります。
柿畑の中の道を進みます。やがて左からの13号線の県道右側のT字路に出ます九度山町慈尊院の町に入ります。
T字路といっても左の県道側にすぐ合流します、右に折れる県道数十mで信号交差点です。街道は真っ直ぐ県道を進みます。信号を左に折れると、紀ノ川に架かる高野参道大橋に出て真っ直ぐ進むと京奈和道路の高野口ICへ出ます。
少し進んだ先、左に墓がありそこで左に入る旧道に入る。
慈尊院の一番西の集落に入っていきます。
集落内の分岐を左の道を進む。
100m弱で突き当たりますので右に折れます、正面に道標が建っています。
右に折れて30mほどのとこで県道に出ますが、その手前の道を左に折れます。
左に折れた先で信号の県道交差点の辻に出ます。
新しい下乗石建立跡石柱が立っています。かつての紀ノ川に架かる、慈尊院の渡し場跡。
慈尊院から町石道で高野山に登る高野口からの高野街道の一つの道です。私の幼い頃何度か渡し船に乗りました。
ここには旧慈尊院南門が建っていたが、1540年に流失した後、再建されていない。
交差点より慈尊院の参道を進みます。
河南大和街道は慈尊院の山門前で左に折れて東に進む。ここで、高野街道町石道は山門をくぐり分岐していく。
【寄り道】を少しします。詳細は町石道(完歩済みで参照)を見てください。
慈尊院山門、町石道の登り口でもあります。
新しく改装された境内の 多宝塔
弘法大師ご母公の御廟。
御廟の横の、慈尊院の五輪塔と石灯籠。
境内の正面の石段で、丹生官省符神社へ石段を少し上った右側に、180町石が建っています。高野山大門まで180町石が道案内をしてくれる貴重な町石石造り大鳥居は宝永二年(1705)建立のものでここに移されてきた。
石段右手に、180町石
石段上から振り返る石段は百十九段。
朱塗りの鳥居をくぐると丹生官省符神社本殿三棟・附宮殿四基・棟札二枚(重文)創建は弘仁七年(816)と古い、弘法大師が慈尊院を開いたときに、丹生明神と高野明神の二神を祀り、元は紀ノ川の河畔にあった。
向って拝殿の右側に進むと町石道への道、左に179町石が建つ。もう少し坂を上ると農道に出ます。
農道に出たところの十字路、町石道はここから急峻な坂道を登っていきます。
右の高台に 勝利寺・紙遊苑石段は急峻で自然石の組み合わせたので滑りやすいので注意が必要ですが、すぐ左から上る道があるのでそちらが楽で無難です。前の広場には綺麗なトイレもあります。
朱色に装飾され綺麗 勝利寺仁王門宝暦五年(1755)から創建
勝利寺本堂 年代ははっきりわかりませんが十八世紀前半の建立と伝わる。
境内の北側にある紙遊苑紙すきの経験もさせてくれます。
境内からの北側、紀ノ川の対岸橋本市高野口町の景観。
寄り道に時間をとりましたが元の山門前に戻りスタートします。
山門前を少し東に進むと右に 道標 「弘法大師御母公御廟 慈尊院女人高野・・」 慈尊院東門を右に見て、朱塗りの慈尊院橋を渡る。
慈尊院の街筋を進むと左に 能光尊之史跡跡碑がある。伝教能光の宝篋印塔。
九度山町入郷に入ると、左に九度山町町民体育館その辻で道が分岐するので右を進む。左は広い公園と道の駅、旧営林署の貯木場跡です。この時は空き地でしたが、今はNHK大河ドラマで真田ブームで賑やか、現在道の駅や駐車場に整備されています。
信号交差点を横断した左、紀ノ川に流れる丹生川に橋がない時代にはここを下りていたのかも。
丹生川に架かる丹生橋を渡ると信号交差点でT字路になります、左に折れます。
丹生川が紀ノ川に合流している右の橋が九度山橋で高野口へ。
左に折れて10mほどで右の細い路地の坂を上ります。
西方面の紀ノ川を見る、歩いてきた道。
九度山橋、かつては紀和鉄道(現JR和歌山線)が開通した昭和初期には高野口駅から慈尊院を経て町石道を登り高野山へ、一時は大変な賑わいであったようです。
街道は紀ノ川に沿って東に進んでいるのですが、丁度ここが区切りのいいところなので、九度山橋を渡り高野口駅近くの自宅に帰ることとする。32㎞よく歩きました。
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