2014年2月12日(水曜)
昨日の室津街道の疲れもなく、相生駅前の相生ステーションホテルアネックスを8時15分にでて、ホテルから50mほどの山陽道との分岐する赤穂街道の起点をスタートする。
赤穂城までは一部峠越えの道のり、その昔、赤穂大事件の時に早駕籠で緊急を知らせた道が整備されていると聞いているので楽しみ。
途中の高取峠前後の旧道は、室津街道と同じく、地元の人々(小中学生も含め)の熱心な旧道復活への整備(消失していた旧道)が毎年恒例的に行われ、今では見事なまでにも再現されているという。ここでも感謝の気持ちで一杯です。廃道化された峠道を復活されるには大変苦労があったことと思う。特に一部湿地の所もあり、夏場はマムシがでて危険な所もあるようだし。有難うございました。
峠越えの後、旧坂越え橋からの道が、どの道が赤穂城に入るみちなのかよくわからなかった。地元の長老の人たちに聞くも、三人三様でどの道が街道かわからなかった。
◎ 最初の人は、今歩いている道が、昔は堤防でこの道を通ったと。わざわざ奥様がご主人を呼びに行っていただいた
◎ 二人目は、北の山裾を通っていたという、坂越え駅より北側となる。
坂越え橋を渡り、そのまま北に進み線路を越え、山裾で西に折れて城下に入る道。
◎ 三人目は、研究している人なのか、わざわざ古い書物をだして来ていただき、いろいろこの地域の古墳とか川の流 れの変換を1000年あたり前から教えていただいたが、結果歩くならもっと其の辺りを勉強して歩きなさいと言われてしまった。確かにそうだと思ったがなかなか私の頭では吸収できない。まあそこまでできなくても、当時の街道を歩くのが楽しいのだから。結果旧道は、一人目の人が言っていたように江戸中期にはここは元堤防であったことは間違いないようだ。その方のはなしでは、坂越え橋を渡らず、そのまま川の南側の山裾を西の河口に進み、その先の橋のあるあたりで板橋などを渡り城下に入っていたという事であった。
ただ川幅が広くなり、板橋ぐらいで渡れるかどうか疑問にも思うが、結果的には解らず、今歩いている、川の北側の何本筋か北の堤防跡の道を進み、その先の支流の川を渡り進んでいった。なかなか旧道を辿るのは難しく、殆どはそのまま残っているところはなく、あまり固執すると歩けなくなってしまう。
ただ、今日は思いがけない大収穫があった。
旧坂越橋で寄り道しようと思って、橋を渡らず、左に進んでいくと、なんと坂越えの街並みや港や神社が素晴らしいところであった。先ほど男性に言われた通り、勉強不足で正直知らなかった。
歴史の古い街でゆっくり散策できた。
8時15分ホテルスタート 15時40分赤穂城・城内を見学し終了
19.42㎞ 赤穂駅からJRで帰宅の途につく
宿泊した相生ステーションホテルアネックス向かって左側、正面がJR相生駅。
ホテル前より50mほど南の交差点、 手前左右の道が 山陽道(山陽道は歩きました)。
赤穂街道この交差点を起点とします。
交差点の向かい正面右角の 道標 南面「是より右さいこくみち」 東面「是より左あかう城下へ」。
道標を右に見てスタート。
右に駅からの広い道の変則5差路の交差点で、正面真っ直ぐの左側の道を進みます。
芋谷川のおこく橋を渡る。
橋を渡りすぐの分岐点で右の旧道を進みます。
暫く真っ直ぐの街並みを進むと右高台に 那波荒神社。
神社に並んで 古宮稲荷大明神。
相生市那波町の町並み。
その先左に 那波道路元標
那波本町の町並を進で行くと、道が分岐するので右へ進みます。
その先で旧道の道を聞いたところでは、那波本町14の細い道が旧道で赤穂の早駕籠が通った道とのこと。
ここの細い路地を右に進む。
細い路地を入っていく。
説明は難しいので写真に沿って進んでいきます。
神崎与五郎孝行井戸 がありました。
忠臣蔵四十七士の神崎与五郎由来の孝行井戸
赤穂義士四十七士の一人、神崎与五郎は岡山県人で赤穂藩の一人でありました。役柄(御徒歩目付)といっても全義士中後ろから三番目の貧乏侍であったそうです。しかし神崎与五郎は藩中きっての孝行侍と知られていました。おして度々御膳にて主君と共に吟句を楽しむなど特別な待遇であったそうです。神崎与五郎は那波(現在の「井戸」の入り口左角潮見邸あたり)に役宅を与えられ、母と二人慎ましく暮らしていました。ある日その母が目の不治の病にかかり、常に孝道に心掛けていた神崎与五郎は、那波浦荒荒神の国光稲荷社の籠堂に、毎日無心で祈願をしていました。そして七日目の夜更に突如、御神殿の内より扉を押し開く音がすると若い美女が手に三光の玉をもってあらわれ、そのうしろの天童一人が稲穂を持ち出現し玉光は月夜のごとく辺りを照らし、「大神は神崎与五郎の孝心を見て、天下台よりさし昇る、ご来光の光線を口に戴き、赤松の葉をかみしめ、井戸水で目を洗え、塩水を飲ませよ・・・されば苦悩さらん」とお告げがあり早速下山しお告げのごとく行うと、母の目の不治の病が治ったという伝説であります。目を洗うために使った水がこの井戸水。 (神崎与五郎孝行の井戸保存会)
井戸の前の道を西(向かって左へ)進みます。
左への路地を進む。
その先で四辻に出るので、少し⦅寄り道⦆のため右に緩やかな坂を上ります。
右に浄土真宗 得乗寺
更に先に 八幡神社
元の四辻に戻る
この先どの道が西相生駅前までが赤穂街道なのかいろいろ資料を見たが分からないのでこの先迷った。
先ず最初に歩いたのが今までの細い路地の延長が四辻でそのまま更に西への道(下の写真)を歩いた。その先でJR赤穂線のガードを潜り山への舗装された坂を上ってい行ったが、右に池の南側を通り更に坂を上っていくところ途中で、急に腹が差し込んできて堪らなくなり急遽坂を下り国道に出て国道250線にでてイオンに駆け込んだ。今回坂の途中でその先の道をあきらめたが、地図で見ると、その先で山陽自動車道の高架下のトンネルを潜り、暫く高速の西側を北に進み、200mほどで左に大きくカーブして200mほど進んだ右からの広い新道の所で川に出る、川の橋を渡らず川に沿って暫く南西に下る道を歩く、那波~西谷町へ距離にして2㎞ぐらいか進むと、再び川と共に左にカーブしながら山陽自動車道を潜り南下。再び那波地区を通り坂田1の坂田川の佐方小橋に出る道。
元の四辻に戻り少し南に下り一筋目の交差点を右に折れる道を歩いたが、後者の道が短く正しいかも。
前者の道を途中まで写真で進みます。写真の細い道を進む(那波西本町6)
新しく開発された住宅地のようです。
細い道から少し広い道に合流してJR線を潜る。
JR線を越え緩やかな坂を上り舗装道を進みます。
右に池を見て坂を上っていくところで中断。
この先は歩いていないので、前述の文章で元の四辻に戻り後者を進むことにすします。
四辻を少し南に下ると少し広い道の町筋に出るので右に折れる。
200mほど歩いたところで左からの広い新道が合流してくるところの辻を振り返る。
この様に見ると後者の道が正しいかも
合流後の先の道を進み一つ目の信号交差点の少し手前を右に折れます。
右に折れた道
住宅整地のなかの道を進みます。
右からJR赤穂線がせまってくるところを振り返る。
そこで左にカーブし、曲がりくねって下っていく(那波西本町)と先ほど分岐した広い新道が左から合流すします。
合流した新道の左側にはマクドナルド・イオンタウンが建ち並ぶショッピング店。
新道を少し進んだところで工和橋北信号交差点にでるので交差点を右に折れる。
右に折れ佐方川を左に見て次の佐方川に架かる工和橋を左に渡ります。
橋を渡りここでまた道の進む方向を迷った。
前者は、橋を右に折れすぐ左に曲がって南に進む道と。
後者は、橋を右に折れて佐方川に沿って西に進む道とに。
前者の道は、橋を渡り右に折れ100m余り進んだところで、再び250号線に合流し右に曲がり250号線に沿う道。
今回後者の道を進む。
佐方川を右に沿って真っ直ぐ進み、左の住宅地を過ぎ相生産業高校の北角を左に曲がる道。右はJR線と佐方川が並ぶ。
左に折れて、相生産業高校を左に見て進む右はJRと佐方川、更に相生産業高校の北西角を左に折れます。
左に折れて50mほど先で右に折れる。
右に折れた先の道、この先西相生駅に突き当たります。
ここで一旦中断します
前述の四辻から歩いて山越えの道、途中で引返した道がここの佐方小橋に出てくる正面前方が山陽自動車道で、正面右の山の向こう側を回って来てここに出ている。捨てがたい道だが、また悪い癖が出て引き返す事とする。
佐方小橋の手前右から来て、佐方小橋を渡る。
佐方小橋を渡りほぼ真っ直ぐ南西に進みそのさきで、JR線の高架を左に潜る。
JR線の高架を潜ると、先ほどの後者の相生産業高校からの道と合流して右に進みます。
合流するところの辻を振り返ると、向かって右からは相生産業高校唐の道で、左は高架を潜ってきた道です。
合流して50mほど先右は西相生駅です。ここで二つの道は合流します。
駅前の旧街道マップ。
西相生駅を通り街道を南西に進む、右にはJR赤穂線が沿っています。
集落を抜けて広場になりここから地道となります。広場には旧街道の案内板が立つ。
案内板のすぐ先左に 道標 刻まれている文字は読めません。
緩やかな玉砂利の上りの道んでいきます。
結構長い道が続きます。所々に赤穂義士ゆかりの旧街道の道案内標示が立っています。
かなり登ったところで突当りとなる、谷川が流れており木の橋が架かる、左に折れて坂を上るが。旧道はおそらく真っ直ぐ進み谷川沿いに進みながら左方向に上っていたと思う。雪が少し積もっています。
この状況を見ると旧道は真っ直ぐ進んでいたような軌跡でありますが、左の小さな橋を渡り雑木の中の道を進んでいくと、玉砂利を敷き詰めた跡が残る道となっているので、私の想像が間違っているのか迷う。
少し先に工事中の看板が建っています。
その先、コンクリートの玉砂利が敷かれていますだから比較的に新しい。
やがて250号線に出る、250号線を峠に向かって進むことになります。
250号線に合流して50mほど先に進んだところ左に入る道があります。おそらく上ってきた旧道の延長線上で250号線を渡り旧道は右の谷に下っていたように思います。
坂を上ってきた右側の広場に峠の 茶屋跡 の立て看板。
右の谷を見る、この辺りに上ってきていたのだろうと想像する。
左の登り口から振り返る、向かって左が峠の茶屋跡、その向こう側が登ってきた道。右が250号線。
左斜面に、高取延命地蔵菩薩の祠
祠 が二つならんでいます少し広場となっていて、その先が微かに旧道があったような軌跡が残っている。これも私の想像ですが間違いないと思います。もちろんその先は全く歩けません。
左への登り口の所を下から写す。小さな谷川の橋この谷川に沿って廃道化して歩けなかった旧道が右下から上ってきていたと思います。
この先まもなく高取峠となりますが、峠はこの想像からすると、今の250号線の高取峠より少し東側にあったのではないだろうか。今の高取峠は相当な高低差で切通の道路になっています。往時は20mぐらい高さで、山を切り開いて道路を造ったと思われます。
現在の 高取峠 で赤穂市に入ります。
相生市側を振り返る。
峠を越えたところ右手はモニュメント広場。
広場に建つ早駕籠のモニュメント。
元禄十四年(1701)3月19日の、午前4時ごろ、ここ高取峠をエイホー・エイホーの声とともに、二挺の早駕籠が、赤穂城めざして、突っ走っていきました。
これは、江戸城松之廊下で突発した赤穂城主浅野内匠頭の殿中刃傷を知らせる第一の使者、早水藤左ヱ門・萱野三平の両士の姿でした。この早駕籠は、江戸から155里(約600km)の長途で、昼夜兼行わずか、四日半で江戸の事件を、家老大石内蔵助に知らせ使命を果たしました。忠臣蔵で名高い、元禄赤穂事件の赤穂でのはじまりは、ここからスタートしたと、言ってもよいでしょう。基礎石の説明より)。
広場より赤穂の遠望。
モニュメントの先から高取峠方向を振り返る。切通の道を国道250号線が通っているのがよくわかる。往時の高取峠の旧道は切通の道路、両側の山の稜線が頂上で且つ向かって少し右側が峠であったようです。現在も頂上付近に旧街道の標識があるようなのでヒョットして上れるのかも。そして頂上から現国道に下ってきて、少し下で一気に下っていたようです。かなりの標高差があります。
モニュメント広場から150mほど下ったところで、急峻な坂を右に下る木造の階段があるので下ります。
右に下る所で、地元の人々(小学中学生も含め)の努力により旧道が見事に復元された。その後も毎年定期的の草刈りや補完をされているとのことで、本当にありがとうございます。
右の山の峠から一気にこの辺りに旧道は下ってきていた。
急峻な下りで転げ落ちそうな感じ。駕籠に乗って峠越えは大変であっただろう。
右に滑れば谷に落ちそう。
谷橋をます。橋がかけてなければ向こう側に渡れない。旧道の補修整備大変だと思います感謝の気持ち忘れず歩きます。丸太橋の表示ということは以前は丸太橋が駆けられていたようです。
かなり下にくだったところです、案内標示もして頂いているので安心です。
山と山の間の先が赤穂展望台より。
下ったところ集落に入る前に 小祠が並ぶ。この前に下ってきます。
祠の先の細い道を下って行きます。
気持ちいい雑木林の中の道でそのさき集落に出ます。
雑木林の中の道をかなり進んだところで集落入り口。
左に、馬係揚・宿場街跡 の看板。かつて小規模であるが宿場が形成されていたようです。
昔の宿場跡の街筋の面影はない。
左に勝負師の墓と書かれた立て看板 木口屋仙吉墓
すぐ先右手は 新茶屋跡 今にも倒壊しそうな建物となっている。
大崎集落に入ります。
大崎集落より振り返り、高取峠を遠望する。
左に広場があり、田端地蔵菩薩 が祀られています。
田端地蔵尊と湧き水の由来地蔵尊は元文4年(1739)に建立された、田端地蔵会が保存してきました。地蔵尊と湧き水は参詣者の願い事を叶えることで知られています。(田端自治会)
地蔵尊からみる前(東)の綺麗な高伏山。
広場に立つマップ
右の川沿いに沿って南西に進む右一帯は広大な敷地のユニチカ坂越工場。右の旧街道の看板を見て進むが、それにしても大きなユニチカも工場。
広大な敷地のユニチカ坂越事業所がようやく終わった高野信号交差点右手に、
萬蔵所跡 よくわからないが伊勢詣等旅立つ人、出征兵士達を送った場所かな
萬蔵所跡の高野信号交差点を右に行くと千種川に架かる坂越大橋、右に見て進むと右から千種川が迫ってくる
高野交差点から300mほど進むと、旧坂越橋東交差点に出て右へ橋を渡るのが街道ですが。
橋を渡る前に、予定外で坂越えの古い湊町があるというので⦅寄り道⦆のため左の道に入ります。
坂越橋手前で左の旧道らしき道、国道250号線より入り坂を下る。おそらく、赤穂街道より分岐して坂越の港町に行っていた旧道と思われる(名前は聞いたことあるが坂越の港勉強不足でした)。
左の海側に暫く歩いていくと素晴らしい街並みが続く。
町並みの先で変則4辻に出ると、右手角に広場がありそこがかつての 木戸門跡の案内がある
港の入口として、木で作られた門がここにありました。港では大きな廻船(帆船)が積荷の到着を待っていました。たくさんの荷車が塩や米などを積んでこの門を通って行ったのです。門の大きさは幅が約4m・高さが約2mでした。
道標 も立つ 「右 大坂 左 城下道」「右 みねと」
右に木戸門跡と道標を見て湊への趣のある街並みを進んでいきます。
変則4辻を振り返る、向かって右の街並みを進んできました。
左高台に 鳥井の地蔵堂。
このお堂は、坂越えが大きな帆船(廻船)の港として栄えたころに建てられました。まわりに取りつけられた彫刻は、そのころのすぐれた芸術品です。海側はカボチャで、川側は二股大根です。どちらも縁起のよい図柄です。大根の彫刻には、小さなねずみが一匹彫り込まれています。
その先左に 鳥井町の地蔵堂
坂越の素晴らしい街並みタイムスリップしたようだ。電柱がなければいいのに。
左に浄土真宗 妙道寺 境内に銀杏の大木。
坂越の港町の地図
大道井
大道井は、「井筒」とも呼ばれ「生島の船井」「海雲寺の寺井」とともに坂越の三井と言われた古い井戸でした。この井戸は、坂越の人たちの生活用水として大切にされ、また坂越浦に寄港する船や旅人の飲み水としても利用されました。しかし昭和10年に水道が通り、その役目を終えました。この石は大道井の井戸枠の一部です。大道井は今も道路の下に残っています。
素晴らしいの一言に尽きる。
街並も突当り大きな公園となりその先は坂越港で、左角のポストの隣に 坂越村道路元標
左角が 旧坂越浦会所
前の公園から振り返る。
坂越港
小倉御前之碑
小倉御前とは、南北朝時代の後亀山天皇の皇子で京都嵯峨の小倉山に住み人々に小倉宮と慕われていましたが、将軍家との争いのため坂越に隠れ住みました。しかし、やがて追ってがせまったことを知った小倉宮は坂越浦に身を投げて亡くなったと伝えられています。その場所を御前岩と言い、今でも船祭りの日にお供えをして供養をしています。ふるさと海岸整備工事のため海底にあったという御前岩は埋められてしまいましたが、海からみてほぼ同じ方角に合致するこの場所に、この石柱が建てられました。 (坂越地区まちづくり連絡協議会)
海の見える突当りを左の街並みに進む。
大避神社への参道があります。
参道を入った左に歴史が説明されている
生島 坂越には、古くから海辺で暮らす人々が住んでいました。それは、生島によって港が荒波から守られていたからです。人々は生島を神として祀り、豊かな海の恵みに感謝してきました。また島には 秦河勝の墓と伝えられる古墳があり、神聖な場所とされてきました。人の入ることを禁じたため、生島は今でも原生林のままです。
坂越の船祭り 海に育まれた坂城の人々はお祭りにも船を使いました。毎年10月に行われる船祭りは、大避神社から神霊を生島へ渡すお祭りです。坂越が船を使った交易で栄えたころ、船乗りたちは今の勇壮な船祭りを作り上げました。絵馬や石灯籠を見れば、そのころ湾に浮かんでいた船の名前を知ることができます。
大避神社 この神社は、遠い昔から坂越の海と人とを見守り続けてきました。祀られている秦河勝は、飛鳥時代に聖徳太子とともに政治に当たりました。聖徳太子の死後、秦河勝は坂越に移り住み千種川沿いを開拓したと伝えられています。また、秦河勝は能楽の守り神としても知られ、神社には古い舞能面が残されています。
秦 河勝の墓(生島内)
生島
大避神社・妙見観音堂のマップ
旧坂越浦集会所 1831~1832年にかけて建築され、明治まで坂越浦の会所として使用されたほか、赤穂藩主来訪の 際は休憩所として使用された貴重な会所建築。
宝珠山妙見寺 真言宗古義派の寺院で、かつては16の坊舎と9庵があったというが、嘉吉の乱やその後の僧兵一揆により焼失したと伝えられる。1772年建築の観音堂が残っている。
黒崎墓所 江戸時代、西廻り航路で栄えた坂越浦海域で客死した、全国各地の水夫の墓。
奥藤酒造郷士館 坂越の街並みを散策するうえで見どころとなる資料館。かつて廻船業等 で栄えた奥藤家は現在この地で酒造業を営む。郷士館内には、酒造・廻船・漁業関係の資料が展示されている。
坂越街並み館 旧奥藤銀行を改修し街づくりの拠点として整備された館。外観はそのまま に、内部に大金庫を残 す。館内では、坂越地区の文化財などが紹介される。
神社参道口より生島を見る。
大避神社
神社の横を山に登っていくと、従三位児島高徳墓所入り口門南北朝時代南朝の武将。
大きな 碑と児島高徳の墓
いまは見通しが悪いがかつては景色が良かっただろう。船岡園十三景の一つ。
白勢稲荷大明神
児島高徳の墓を更に上っていくと 妙見寺観音堂
坂越港と生島 事情に綺麗な港で地元の人たちの歴史への思いが伝わってきます。
大避神社・児島高徳墓所・妙見寺一帯の公園。
坂越の街や港を見学し名残惜しいが戻ることにする右手前 旧坂越浦会所と右奥藤酒造
元の辻に戻り坂越を後にする。少し時間がかかったので急がなければ赤穂を散策できない、辻の右の旧道を進みます。
途中右に 荒神社
赤穂街道の旧坂越東交差点に出ました。
250号線に出たところの少し左の堤防に、 高瀬舟船着場跡の石柱 が建つ。
千種川の坂越橋より赤穂方向を見る。
千種川の上流をみる、遠くに高取峠の山が見えている。
千種川の対岸からの坂越の街への入り口を見る。
坂越橋を渡り坂越橋西交差点からの赤穂城下までの街道は、地元の人に何人か聞いてみたが 三人三様でハッキリ確定できない、というのは千種川の流れがかなり変貌しており、昔はもっと蛇行していたようなので資料にも残らないのだろう。私の判断でやむなく歩くことにします。
坂越橋西交差点で左に折れ堤防沿いに250号線を進む道か、100mほど真っ直ぐ進み、一筋目の道を左に折れて南西に進むか迷ったが、250号を進むのも面白くないので、後者の道の方が旧道に近いので、どちらにしても旧街道でないので後者の道とした。
坂越橋を渡り堤防を進まず次の筋を左に入る。
一筋目を左に入る。左の道の真っ直ぐな道を進む、建物は新しく旧道の雰囲気はない。この近くの民家の古老に聞くと旧道はこの道だろうと教えて頂いた。資料等を出してこの地域しついておしえていただきました。
左に浄土真宗 正覚寺
真直ぐの細い道を進みます。
左には山と250号線並行して千種川がながれ田園が広がる。畦を少し広くしたような道を勝手に進むこの左あたりにかつては千種川は流れていたとの話で、旧道も川に沿って蛇行した道であったと話してくれました。
真直ぐの狭い道を進みます。
左に 北野中地区の 北野中天満神社
天満神社に突き当たるので、右に折れると直に右からの道に合流し左に折れて進む。何か雲行きがおかしくなってきた。
集会所がありその先すぐ左に 真覚寺
この近くの道沿いの民家で古老に聞いたところ、この道は赤穂義士の早駕籠が走った旧道で はないが、此の付近を通った、千種川が蛇行してこの辺り堤防であったようだとのこと。古い資料を出して見て頂き詳しく古墳も出ており古い集落のようだ。この先大きく昔は川と共に右にカーブしてかりや川を渡り赤穂城下に入っていたとのことで、詳細に説明していただいた。大変有難うございました。
右に真宗 専光寺
専光寺の先で教えられたとおり、右に大きくカーブして、左に南野中集会所の前を通り、先ほどの細い道に入る所で右へ少し広い道がここでT字路として合流し左に曲がる。T字路に出てきたところ。
左に折れて真っ直ぐ集落の中を進む
右に 春日神社
春日神社から100m余り進んだ橋の手前左に お地蔵さん
かりや川に架かる橋を渡ります。橋を渡ってまっすぐな綺麗な道を進みます。
50号線の南野中西交差点に合流し右に折れて進みます。
250号線を西に進み、左に赤穂ショッピングシテイをみて、赤穂警察署東交差点を横断します。この辺りは市街地に入り旧道は完全に消えています。赤穂署の西角かりや川の中洲橋を渡り、次の赤穂警察署西交差点を左斜めに入る。
赤穂警察署西交差点を左に入る道筋。
左に赤穂小学校を見て進む、やがて右手からJR赤穂駅からの広い道路の赤穂駅前交差点で真っ直ぐ広い道を進みます。
交差点を振り返る、向かって右の道を進んできた。正面の先に見えるのがJR赤穂駅。
交差点右角に、旧上水道の碑。
広い道を南に進み次の交差点の横断した右角に、
息継ぎ井戸
元禄14年(1701年)3月14日に江戸松之廊下の刃傷事件が起こりましたが。早水藤左ヱ門と萱野三平が事件を知らせるため、早駕籠にのり4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城に向かったと言われています。
井戸の西側にある曹洞宗 花岳寺
赤穂歴代藩主浅野家・永井家・森家の菩提寺、並びに大石家ほか義士の香華院。
花岳寺の山門は、お城の西惣門であったのを移築、高麗様式。境内を見学します。
本堂
鳴らずの鐘
竹と虎
森家霊廟屋上の役瓦。
大高源五の句碑と義士家族の墓
大石家先祖の墓
浅野家三代の墓
初代 赤穂藩祖贈従三位 浅野長重公之墓
二代藩主浅野長友公之墓
常陸笠間藩主 浅野長重公之墓
森家墓所
中国大理石観音堂 中国より渡来の石佛
義士木像堂内
野口雨情詩碑 春のあけぼの 花なら桜武士の鑑ぢや 赤穂義士
花岳寺を出て南、赤穂城へ
真宗 萬福寺
更に風情の残る御成道の街並みを進む、前方に赤穂城の三の丸石垣が見える。
赤穂城
大手門
近藤源八宅長屋門
大石邸長屋門
大石邸長屋門の裏側
塩と義士の館 赤穂市立歴史博物館
大石神社
大坂蔵屋敷の舟石と大石蔵之助の像
この舟石は赤穂浅野家の大坂藩屋敷(現在の北区中之島4丁目常安橋付近)の庭にあった。大きさは長さ3m、幅1.20m、重さ約2トンの自然石。
二の丸門跡
山鹿素行先生銅像 兵学者・儒学者として高名
国名勝 二の丸庭園(現在整備中)、北西部に存在した大規模な池泉下。
大石頼母助屋敷門
本丸門から本丸跡・天守台・国名勝本丸庭園へ
本丸を囲む内堀。
赤穂城本丸大池泉案内図
庭園と天守台
天守台より広大な本丸内の庭園
浅野家時代には厩口門、森家時代には台所門と呼ばれた。
厩口門外から
片岡源五右衛門高房邸邸跡
武家屋敷公園
赤穂城の見学も終わり時間も迫ってきたので城下を歩きながら駅へ、お城通りを進む。
浄土真宗 浄念寺
随鶴寺
浅野時代のお船入跡
JR赤穂駅へのお城通り
JR赤穂駅
赤穂街道完歩
赤穂街道を歩いてみて、地元の方々による街道への思いがよく伝わる、また整備も行き届き、沢山の街道歩きした中で印象に残る道でした。街道歩きの好きな方は、道のりも手ごろで是非一度歩かれたらと思いました。
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