2012年9月2日
京都・嵯峨清涼寺前~愛宕山山頂(愛宕神社)
朝からの嵯峨街道に引き続き愛宕街道を歩く
清凉寺前 11時10分 スタート
愛宕登山口 13時
愛宕山神社 15時 着
下山登山口バス停 16時15分で愛宕山登山は結構きつかった
21.765歩 13.05km 865kl
登山口からバスで阪急嵐山駅へ~帰宅に着く
江戸時代に入り「伊勢は七度、熊野は三度、愛宕参りは月参り」という言葉が関西周辺でよく言われた
清涼寺門前スタートして少し東側の信号交差点より清涼寺方向の街筋

清涼寺門前と 愛宕山燈籠

清涼寺仁王門(山門)

仁王門前の参道の 嵯峨街道 午前中歩いてきたところで進んでいけば嵐山渡月橋

山門前の 石碑や道標 が並ぶ ここ山門前で嵯峨街道と分かれる、嵯峨街道は東へ、愛宕街道は西へ

清涼寺仁王門前の街道分岐点を振り返る

100mほど進むと、正面宝筐院で突き当たるので右に折れる
臨済宗宝筐院


平安時代に白河天皇により創建され当初善入寺と称した。室町時代の二代足利義詮によって伽藍が整備された。義詮(38歳)が没しその菩提寺となり院号により宝筐院と寺名を改めた。応仁の乱以後次第に衰退し江戸時代末には廃寺となったが、その後復興された
回遊式の庭園、特に紅葉時は見事

庫裡

楠木正行の墓 足利二代将軍 足利義詮の墓 が並ぶ
石扉には立派な家紋が刻まれている足利家と楠木家の紋


小楠公(正行)は1348年正月、河内四条畷の合戦で高師直(北朝)に敗れ討ち死にし(23歳)夢想国師の高弟黙庵が生前の交誼により首級を善入寺に葬った。後に義詮も正行の人柄に褒め称え、自分もその傍らに葬るよう遺言した
石の柵に囲まれて二基の石塔が立つ。五輪塔は楠木正行の首塚、三層石塔は足利義詮の墓。足利二代将軍の墓にしては小さいが、義詮の人柄、徳の大きさが反対に偲ばれるとの評価がある

宝筐寺前を右に折れた筋でまたすぐ左に折れる

左に折れ西への街並みを進む

北嵯峨一帯は嵯峨天皇の嵯峨院(大覚寺)、源融の隠霞観光(釈迦堂清涼寺)、檀林皇后の檀林寺、藤原定家の山荘など、かつては貴人の別荘が沢山あった地域。昔懐かしい雅びかな情景が残っている

右に 慈眼堂(中院観音) と境内の 地蔵 藤原定家は中院に山荘を構え、嵯峨の自然を愛ししばしばこの地を訪れた。本尊は木造千手観音立像


左に 道標

すぐ右に 中院山荘跡と地蔵さん


右に 道標 「右 釈迦堂」


その先で突き当たるが右へおれる左角に 道標 「右 あたご・・」

少し右に曲がる所を左に入っていくと 天台宗二尊院
841年嵯峨天皇の勅願で慈覚大師が創立した。本尊に釈迦如来、阿弥陀如来(重文)を祀る。
二尊院の後ろの山は小倉山で昔から紅葉の名所として知られている。
百人一首
小倉山 峯のもみじ葉 心あらば
今一度の 御幸またなん



京都のお寺は大半が有料で、すべて入場していたらお金が大変だし時間もないし殆ど入らないから
だからうわべだけしかわかっていない

二尊院から元の右へ曲がる角に戻り北に進む

更に分岐に出る、街道は右に折れて進むが、祇王寺・滝口寺に行き当たる

右に折れる左角に 道標が三基 並んでいる
道標 「新田公首塚・・・」 「山城国一ノ寺 檀林寺門跡」 「・・・・・・・・」

(寄り道)で真っ直ぐ少し入ってみる 右に 檀林寺
平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が創建。壮大な寺院であった

奥突当りに 真言宗祇王寺(往生院)
祇王は平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現で清盛から離れ、母刀自、妹祇女とともに出家しこの地に移り住んだ、後には、仏御前も一緒に住み念仏三昧の余生を送った。堂内には本尊大日如来像をはじめ、清盛と祇王ら4人の尼僧像を安置している

その左奥には 滝口寺

平重盛の家臣滝口入道と建礼門院の侍女横笛の悲恋の舞台となった滝口寺

元に戻り右に折れる、左角にある道標の交差点から振り返る

右に折れた先の道


左に神社の鳥居閉鎖

右に博物館さがの人形の家を通り

左に 祠

左にカーブするこの界隈は京都市の肝いりで保存地区として再生され、昔の面影が色濃く残る街並み景観となっている

カーブした先から振り返る嵯峨鳥居木下地区

左に愛宕山道の 道標

あだし野念仏寺の門前の道で土産屋が並ぶ街並み

お地蔵さん

化野念仏寺
境内の多聞塀に囲まれた西院の河原にぎっしりと並んだ小石仏、無縁の供養塔
門前の 道標 「右 あたご道」

化野念仏寺入口

門前の道標にしたがい西への道を進む

嵐山高雄パークウエイの高架道路を潜る手前左に 将軍地蔵菩薩の祠


嵯峨鳥居本町上地区

鮎宿・茶屋「つたや」創業400年の老舗

すぐ左に 二基の道標 「史跡 名勝嵐山…」 「左 清和天皇水尾山陵 嵯峨天皇皇后嵯峨陵 参道」

愛宕神社の一の鳥居
鳥居から愛宕神社まで五十町ここから1町ごとにお地蔵さんがあるということは、失われていなければ
50体があるということ

鮎料理・茶屋の「平野屋」江戸時代の創業しんこ団子を休憩がてら食べる

北に少し折れて更に緩やかな坂道を進む

更に緩やかな坂を上っていくと左に お地蔵さん


更に北に坂道を上っていくと左に 愛宕寺 境内には千二百体の羅漢の石像が並ぶ本尊は千手観音像

前方にトンネルが見える、その右へ上る道を進むと、試(こころみ)峠へかかる。峠の下を清滝トンネルが通っているかつて愛宕鉄道が通じていたが今はバス道で遺跡トンネルとなっている

お地蔵さん

峠への道を進む

かつての愛宕鉄道嵐山駅から清滝駅までの3.4㎞と清滝川駅から愛宕駅までのケーブルカー2㎞だった。途中に、釈迦堂駅と鳥居本駅があった、現在の清滝バス停は清滝駅の跡。

試峠の手前右に お地蔵さん

愛宕鉄道遺構のトンネルの右に 試峠の道 があり深い切通しになっています

峠よりの下り


峠道からの眺め

峠を越えて反対側に出ると、そこは参道十二町目の清滝。左にトンネルが抜けてくる道

清滝バス停でここまでバス便がある、向かって左から峠を越えて来たところを振り返る
トンネルの幅が狭いので一車線の対抗信号

かつての愛宕鉄道清滝駅があった、現在バス停になっているところで、ここで道は二手に分かれるが狭い左の道を下る。
急坂を下ると清滝川の瀬音が聞こえる。かつて清滝は愛宕神社への登り口の休憩地であった。分岐する左のお店は、二十丁目の登り途中であった、茶屋一文字屋 です

坂を下る途中右手に お地蔵さん


更に坂を下り清滝川の畔の右に お地蔵さんと道標か

下りきったところで左の清滝川に架かる渡猿橋を渡るため左に折れる

坂の途中左の清滝川

清瀧川に架かる渡猿橋を渡り対岸のかつての、清瀧宿の集落が見えます

渡猿橋を渡ると、鍵屋、中屋、伊賀屋など往時の旅籠、茶屋で賑わった宿場を進む。
橋の左袂にある旅館「ますや」は与謝野晶子が泊まった旅館、
その時の晶子の詩
ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
水の清滝 夜の明りやすき

渡猿橋から右の清滝川の渓流

橋から左の清滝川

橋を渡り右に曲がる左角に 清滝幸福延命地蔵尊

延命地蔵尊と渡猿橋を振り返る。清瀧宿の入口

清瀧の集落を進みます

清滝川に流れ込む支流に架かる苔むした橋を渡ります、素晴らしい山里の原風景です

宿場を抜けると 朱色の二の鳥居をくぐると、いよいよ登り道となる。ケーブル跡を横に見ていきなり急坂になります。鳥居を潜ると登り山頂まで五十丁、標高差800mの急坂です

坂に架かると右に一丁ごとの お地蔵さん

すぐ左の斜面の お地蔵さん

かなりきつい登り道の石段、結構登山者が朝から見ます

右角に湧水が流れています、参拝者の人々の喉を潤したことでしょう

左の お地蔵さんの祠 の横に 嵯峨小学校清瀧分教場跡の立て看板 以前はこのような場所にも学校があったのだ驚き

明治15年創立され大正11年火災により焼失した。その後、第二分教場を下の表参道13丁目登り口に開設される。昭和4年愛宕に愛宕電車が開通し分教場は廃校となり本校に併合。建物は清滝自治会に寄贈されて清滝会議所となる

急な長い石段を登っていきます

やがて十七丁目は火の神であった 清滝社火燧権現跡(ひうちごんげん) にでます

跡は少し平坦な広場になっています。かつて二間一間の朱塗りの社があり、山頂の愛宕社と同じ火の神火産霊命を祀っていました

左の お地蔵さん と切り倒した木が登り道に

右に隠れるように お地蔵さん

右斜面にも お地蔵さん 急な登りが続き平坦な道はないです、この辺りに来るとかなり足にきました

十八丁目の 壺割坂の説明

かつて宇治茶を山上に貯蔵して江戸幕府に献上していたが、その茶壺を割ってしまったところからこの坂の名が付いた

さらに二丁ほど登るとその先、二十丁目が少し広くなっています


現在、京都バス清滝駅の前で営業している「一文字屋」の茶屋跡です。元ここで営業していたのだ

参道はよく整備されているので素晴らしい。結構、登山参拝者が多く登っています。
熊野出没時期ですが、熊錫を持っていると今ほどの怖さはなかった


いい立て看板ですね

左右に お地蔵さん を見ながらどんどん登っていきます

下山者です朝早くから登ったようです、左に お地蔵さん

右に お地蔵さん

更に左に お地蔵さん

左に お地蔵さん

左に お地蔵さん

やがて 二十五丁目の茶屋跡の建物 が見えます。その手前左の お地蔵さんと表参道丁石の説明案内


石垣が組まれ 茶屋跡 です。変わりに休憩小屋があります。休憩されています

建物の横にかつての 茶屋兼宿屋「ながや」跡の説明と二十五丁の石碑

愛宕神社まで2.9㎞、五十丁の参道沿いには、多くの茶屋が設けられていた。この場所は丁度真ん中の二十五丁目にあたり「なかや」という茶屋兼宿屋がありました。
愛宕神社表参道の町石は、鳥居本の一の鳥居を起点として五十丁と言われる。表参道沿いには、板碑型と地蔵型の二種類の丁石(町石)が建立されている。
道は丁度二十五町目と半ば、「なかや」という茶屋兼宿屋のあった跡である。店の女たちは、
「あたご山坂エー坂エ―坂、二五町目の茶屋の嬶(かかあ)、嬶旦那さん、しんしんしんこでもたんと食べ、 坂をヤンレヤンレ、 坂エー坂エー 坂坂坂」などと歌って参詣者を迎えたという。
「しんこ」とは米粉を練って蒸したお菓子で、「あたごしんこ」という名物菓子であったという。
茶屋は明治のはじめには十九軒を数えたという。沿道各所に残る石垣はその名残りだそうです。
茶屋跡を右に見て、左にカーブしながら坂を登ります

坂の途中で振り返り茶屋跡を見る

左に お地蔵さん を見て急な坂を登っていきます
先ほどの看板にあったが、このような時に前の人を追い越そうと無理しない、自分ペースを守るのが大切と学びました


右に二十八丁石があります


三十丁石のお地蔵さん

三十丁石 水口屋跡
参拝客や観光客は昭和四年(1929)に開通した愛宕ケーブルを利用したため、ほとんどの茶屋は清滝に移った。ここ三十丁目にあった「水口屋」はケーブル山頂駅の南側に移転して、料理旅館として昭和十九年まで営業を行っていたが、廃線とともに廃業を余儀なくされた。石垣などが残り当時の面影を偲ぶことができる

左の お地蔵さん を見ながら進む、非常に厳しい登り道ですが素晴らしく気持ちが良い

少し平坦となり左に開けた眺望

右に お地蔵さん

広場からの眺望が素晴らしい

右に 32丁石


近くに埋もれた 石碑 が続く


右に 三十三丁石 前の方もペースが同じようで同じ間隔が続く

お地蔵さん が右につづきます。少し平坦な道が続き、ここで英気を養います



お地蔵さん

その先左に


カワラケ投げ
愛宕山の参道からの眺望がよく、和歌山や淡路島まで見ることができた。それらの場所に茶屋がありカワラケ投げが楽しめたが現在は行われていない

更に登りが続きます


急坂を登っていく

登った左に休憩小屋があります

小屋の前の分岐点、愛宕山へは右に折れる、左真っ直ぐ下る道は、水尾への道


小屋の前に 水尾山陵参道の石碑

水尾への里道

分岐の右の道、愛宕神社への道

分岐の角に立つ案内板、水尾の里まで3㎞
本能寺の変の前に、明智光秀が愛宕山で句会を開いて下った道か

少し急坂を登って振り返ったところ

坂の途中左に 水尾山陵参道の道標

綺麗な林と お地蔵さん

前方に花売り場が見えます。手前右の

はな売り場

愛宕さんの火伏の神花樒の売り場。水尾の里の女の人が毎日ここまで上ってきて樒を売り、お参りした人々は、火災を除く神符としてお土産にした。近年まで、水尾の女性は、椋の木で染めた三幅の前垂れをつけて、樒を背負って水尾から愛宕神社まで上り、神前に供えてから販売をしたと云う。毎日樒の葉を一枚づつ、オクドさんにくべると火事にならないと言われ、無くなった今でも多くの人が買い求める姿を見ることができる
はな売り場前の参道右の 丁石と記念碑

坂の途中から振り返る

左に見える眺望

整備された石段を登る、石段の手前に2つの お地蔵さん

振り返った石段、多くの登山者が下っています

左に お地蔵さんと丁石

急坂が続く左に お地蔵さん

やがて 京口惣門(黒門)
白雲寺の京都側の惣門。ここから寺の境内となり、中には福寿院・威徳院・長床坊・大善院・数学院・宝蔵院という六つの宿坊が建ち並んでいた。
愛宕山は、江戸時代を通じて神宮寺の白雲寺が実権を握る、神仏習合の山であった。慶応四年(1868)の神仏分離令によって白雲寺は破却され、同門は、境内各所に残る名残の一つです。京口に対して丹波口の門もあったが、今はありません。(愛宕神社まで450m)

黒門を潜って反対側から振り返ったところ

黒門を過ぎて少し登っていくと、石垣や灯篭があり石段道が広くなります、かつての建物跡




参道に並ぶ 灯篭 往時の情景が浮かびます

愛宕神社社務所
この辺りに、明智光秀が本能寺への四日前に催した連歌の会を開いた 西坊威徳院 があったようです。


さらに進むと愛宕神社本殿への長い石段を登ります


石段途中、月輪寺や空也滝 へ分岐する道 右の灯篭の袂に

道標

石段途中に 白髭社


向に 稲荷大社



さらに石段を登っていくと 愛宕神社拝殿


奥の宮


奥の宮拝殿

愛宕山からの絶景(標高924m)

愛宕街道 完歩
今日は嵯峨街道から愛宕街道よく歩きました。
再び登山口までもどりバスで嵐山駅へ


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