2011年12月11日
広島京橋町10番~宮内串戸駅
昨日一日休養日として史跡回り、今日から下関までまだまだあるが頑張る。広島のホテル7時30分出発、余り距離が伸びなかった。時間的にはもう少し歩ける時間があったが今晩の宿泊先、岩国駅近くのプラザホテルまで時間がかかるし中途半端なので早めに切り上げJRで移動しました。
ホテル近くの京橋町10番 7時30分 スタート
宮内串戸駅 15時30分 着
40.273歩 24.16km
ホテルの部屋からの 猿猴橋

猿猴橋スタート

西国街道(山陽道)は、江戸時代の広島藩内の山陽道は西国街道と呼ばれた。五街道に次ぐ規模を誇り、道幅は2間半(約4.5m)あった。古代から中世に至る、京都と太宰府を結ぶ唯一の大路として大廻廊です。江戸期に入りさらに宿駅や一里塚、街道松が整備され、広島藩内の宿駅には、城下の東の愛宕町界隈や西の境町界隈をはじめ、東から尾道・三原・本郷・西条四日市・海田市・廿日市・玖波と続きます。
猿猴橋は、16世紀末の毛利時代に木橋として架けられていました。橋名の「猿猴」とは、広島地方で、サルに似た河童のような想像上の怪物で、洪水の度に人々を川に引きずりこむ猿猴がすむ川として、川や橋の名前に使われた。
現在の橋は、大正十五年(1926)二月の完成し、当時は美しい橋であった、親柱の上に地球儀のような球の上に鷲が羽を広げた像がすえられ、束柱には豪華な電飾灯、欄干には2匹の猿猴が両側から桃を抱かえている鋳物の透かし彫りが施されていました。
原爆の際には、欄干の一部が破損したが、構造的な被害は軽微にとどまり、被災者の避難や救済活動に使われ、多くの命を救いました。(説明文より)
【広島宿】
広島宿はすっかり変わってしまって、今その街並みを偲ぶことはでません。東は愛宕町から
猿猴川から京橋川を渡り、広島城を右に見て宿の中心街を進み、元安川・本川・天満川を
渡ったあたりまでが旧宿であったのだろう。
猿猴川に架かる猿猴橋の北側に架かる、広島駅の南正面からの広い道路の駅前大橋

宿泊した広島グランドインテリジェントホテルの南側の道で西へ進みます

京橋町を進み京橋東詰信号交差点にでて、京橋川に架かる京橋を渡ります

京橋西詰から見る、屋敷から船の乗り降りをする 裏木戸の石組 がみられる



京橋より西への橋本町を進み、信号交差点を二つ越えてすぐ左にパーキングがそこを左に折れます

左(南)に折れた右に 正光寺

正光寺を右に見て前の道を南へ真っ直ぐ進むと、広電本線が交差する胡町交差点に出ます。 交差点の右には銀山町駅があります。横断して真っ直ぐ進みます

二筋目十字路を越えた左にブルーウエイブイン広島Hがあり、次の十字路東南角にある石井氷室の十字路を右に折れます(電車通りより三筋目)

堀川町を進みます、町通り両側には仏具店が並びます

広い車道堀川信号交差点を横断してアーケードに入ります

アーケードの先はまだ朝が早いので人通はほとんどありません。T字路で左に折れます

数十m先で正面パルコに突き当たりますので右(西)に折れます。宿の街並みは真っ直ぐ西にすすみますが、すぐの一筋目の飲食店の並ぶ細い道を右に折れて入ります

中の棚橋遺跡
広島城築城の資材運搬のために、現在の相生通り(現在電車通り)にあった外堀から、ここ金座街から並木通りの付近を南に流れていた平田屋川に掛けられていた 中の棚橋の遺蹟で、この道の地下に橋の遺構や石組等が保存されているという

遺蹟の西側に 中の棚稲荷神社

街道に戻り西へのアーケードの商店街の中を進みます、近世の山陽道も様変わりですが綺麗です

アーケード中程左手にある御通7番信号交差、旧帝銀の被爆建物のところで左に折れて少し【寄り道】

帝国銀行広島支店の当時の写真爆心地から約360m

頼山陽史跡資料館
左(南)に少し入っていった左の袋町小学校の向かいに、広島藩の儒学者頼春水の屋敷があった場所で、頼山陽は長男で、寛政十二年(1800)脱藩騒動で幽閉され、「日本外史」を執筆した居室が国の史跡に指定されたが、原爆の被害で破壊された、1958年居室を復元、資料館として市民の文化生活の憩いの場として使用されています



資料館の南、平和大通り沿い西に 白神社

白神社の岩礁
この岩礁は、広島城築城当時(1591)はこの辺りまで海岸線であったこの付近に露出していたもので、また、国泰寺愛宕池の岩と一体のもので、岩礁が市街地に残っていることは、三角州発達の歴史上意味深い。なお、この岩礁上に白紙を立てて航行の目印としたと伝えられています。(説明文より)

白神社の西側に 旧国泰寺愛宕池 被爆により焼失



旧国泰寺付近

街道に戻る途中にある 袋町小学校平和資料館 爆心地から500mと近く沢山の教員や児童が犠牲になったそうです

鉄筋コンクリート3階建ての校舎は、原子爆弾により外形だけを残して焼失。学童疎開をしないで残っていた児童が朝礼直後に被爆した。この学校の犠牲者は、およそ300人ものぼったという、小学生や先生が沢山なくなった悲しい場所

元の街道本通7番交差点に戻りアーケードを進みます。広島電鉄の走る本通信号交差点を横断します

大手町を通り元安橋(東詰)の信号交差点に出ます。沢山の子供たちが来ています

元安橋東詰の右手植え込みに中(少し見つけにくいかも)
広島市道路元標(広島県里程元標)
この地は江戸時代には広島宿から江戸や九州への基点となっていた重要な地。高札場や馬継ぎ場、茶屋などがありました


元安川に架かる元安橋を渡り中島町、平和記念公園に入ります
元安橋から右を見ると 原爆ドーム その先には 広島城 正面の橋は相生橋

元安橋を渡りすぐ左にある現広島市レストハウス、大正末期に開業した旧大正屋呉服店で、原爆投下で全壊を免れ残った建物

左に広島市レストハウスを見ながら平和記念公園をすすむ。昨日の休養日にゆっくり見たので街道を進みます

平和記念資料館を見ながら進みます



中島地区は爆心地から100~700mの地区で江戸期から繁華街として賑わっていたが、爆心地の至近距離にあったため壊滅的な被害にあった、多数の学徒、地域の人々、児童が焼けただれ、水を求めて川岸に集まった生徒たちは、無残にも全員が死亡しました

平和記念公園を過ぎると旧太田川(本川)に架かる本川橋を渡ります

本川橋から

本川橋西詰信号交差点を川沿いに少し左に入ると 本川浜恵比須神社

恵比須神社から川岸を見ると毛利時代に築かれた石組が見えます

広島には天然の良港がなく、広島開府以後太田川の川沿いに町が形成された。とくに本川筋は広島の商業の中心としては繁栄してきた。常夜灯は燈台の役目をし、起源は不明であるが資料より見て文化五年(1808)の銘がありそれ以前と推測されている。
雁木は護岸に設けられた石段で、船着場と荷揚げ施設を兼ねたものです


護岸に建つ 常夜灯 本川橋を渡ると堺町に入ります

堺町1丁目の信号交差点に出ます

交差点を右に折れて進む街道は出雲や石見への道で 出雲・石見街道 です

広電本線の通る寺町通りの土橋信号交差点を横断します。

横断した数m先左に、昔懐かしい一枚ずつの手焼きせんべい店「頼山陽煎餅本舗:芸陽堂」があります。明治44年創業、一枚一枚均一に手焼きで色を付ける職人芸1日1000枚焼くのがやっとだそうです、交差点を横断して振り返ったところです

少し進むと天満川に架かる天満橋に出ます

天満橋を渡ると天満町に入ります、広島宿もこの辺りが西の端です、宿内を歩いてきましたが、被爆に街は壊滅したので、往時の本陣等史跡は分かりませんでした

右に赤い鳥居が街道沿いに建つ 天満宮

天満宮の境内に 筆塚

鳥居の袂に 道標 「ここは 旧山陽道」西国街道もここまでくると山陽道になっています

交通量の多い街道を西へ進みます、中広通の広島西郵便局前信号交差点に出ます。交差点左手前にお餅屋さん「林の餅」があります

西便局前交差点を越えると福島町に入ります。二つ目の信号交差点を少し左に入ったところに

妙蓮寺

街道に戻り福島町信号交差点を越えて、次の小河内町の己斐橋信号交差点を右に折れる 光照寺

元の己斐橋信号交差点に戻り、太田川に架かる己斐橋を渡ります

己斐橋から新己斐橋(南)方面を見る

己斐橋で西広島方面へ

己斐橋より広島西大橋方面

己斐橋より広島市街地を振り返る

己斐橋西詰信号交差点を横断した先の道は分岐しますので、右の車道より離れ、左側の真っ直ぐな旧道を進み、100mほど先でJR山陽本線に遮られ左に折れます

左に折れて己斐本町の商店街を進みます

商店街を進むと左に広島銀行があります、その手前を少し右に入ったところに
道標 「是 滝観音十八丁」


すぐ先左に広島己斐郵便局がありますすぐ右手にJR西広島駅

左側には広電が新己斐を渡ってきて、広電西広島(己斐)駅があります

右斜め後方のJR西広島駅前

駅前の賑やかな町通りを抜けていきます

街道沿い左の広電西広島駅

街道より右の高台を望むと 旭山神社

八幡川に架かる源左エ門橋を渡ります


その先十字路左に別れの茶屋、 踏切の向こう側に 善法寺が見えます
踏切の際に立つ 別れの茶屋表示 ここに名物のかしわ餅茶屋・水車があったそうです、また城下から1㎞ほどで見送りの人もここで分かれ名残惜しんだ場所


左に広電と離れ、右に緩やかにカーブすると山陽本線の踏切を渡ります己斐西町に入ります

JRの踏切を渡り道なりに進むと西広島バイパス(国道2号線)の高架を潜ります

高架の手前袂に小さな お地蔵さん

高須一丁目辺り、西広島バイパスより250m程のところに 高須一里塚跡 があったようですが痕跡はありません

高須三丁目6の角に 延命地蔵尊傍と道標 「従是じだう道」


すぐの広島市立古田保育園前信号交差点を横断します

交差点の先右手に、目の見張るような門構付きの屋敷があります
茶道:上田宗箇流家元の屋敷
関ケ原の戦い後、上田宗箇は浅野家に仕え家老として一万五千石を小方に拝領した。千利休や古田織部らと親交が深く武将茶人として名を馳せた。茶人であるとともに庭園にも造詣が深く、広島の縮景園をはじめ、和歌山城・名護屋城・徳島城の庭園などの多くの名園を残しています。現代も家元を継承して宗箇の茶の湯を伝えています

屋敷の前から街道を振りかえる

その先高須2信号交差点を横断して古江東町で大きく左にカーブして進みます、途中右奥に 誓立寺 が見えます

更に90m程先右奥に 新宮神社の杜が見えます

さらに100m程先で街道は山陽本線に突き当たる十字路に出ますので、踏切を渡らず右に折れます。
十字路の踏切近くから振り返ったところで、正面の街道を進んできました右に折れて、右手のJA広島市古江を見て西へ、その先で十字路に出ます。右角にファミマがあります十字路から左に弓なりに600m程進みます

古江西町に入り山陽本線の草津踏切を渡ります

踏切を渡り右に折れて線路を右に沿って少し進みます。西区草津町です

山陽本線を離れるところ右に 鷺森神社
被爆建物と表示がされています。昔はこの付近まで海が迫っていたそうで漁船の出入りも多く、栄えた港であったそうです

海の守護神で、村の人々からは「弁天さん」と呼ばれ親しまれてきた

神社より90m程先の十字路を右に折れ山陽本線の踏切を渡った先の高台に
曹洞宗久遠山海蔵寺
応永年間(1394~1434)の創建と伝わり、毛利時代には草津城主児玉家の菩提寺であった、江戸期に入り本家浅野家の家老、東城浅野家の菩提寺として明治まで続いてきました。

お寺の西側の お稲荷さん

海蔵寺の深省楼と額が掲げられた 山門

本堂西側から裏側に回ると、東城浅野家の歴代の墓地があります。本堂裏側に元禄時代に造られた石組の立派な庭があるのを見落としました

五輪塔等 が並ぶ石段を上っていきます

伝:秀吉に滅ぼされた小田原城主の 北条氏直の墓 何故ここにあるのか分からないが

中に珍しい円墳もあります、東城浅野家の墓



山中鹿之助二女盛江の墓
一番奥にあったと思います山中鹿之助が毛利に捕らえられ殺された後、二女盛江も捕らえられた後、草津吉和家に嫁ぎ、その子が母の山中家を継ぎ代々残る

海蔵寺の北西には 草津八幡宮があるが寄れなかった
元の街道の十字路に戻ります、十字路を左に折れると広電の草津駅です。駅に行く手前左に
日蓮宗慈光寺 妙見さんを祀る

少し進むと左にカーブする右に 草津の小泉酒造 豪壮な旧家に目を見張る


小泉家の前から街道を振り返る

小泉家
江戸時代末期頃に建てられた酒造蔵、母屋は中二階建てで、煙り出しがある大屋根、格子戸と旧街道の情緒が伝わる建物。天保頃から酒造業を始めており、今も厳島神社用のお神酒が造られている。また今は残っていないが、大門に使っていた金具が残っていて余程大きな大門を構えていたと想像される。元は小早川家の一族と伝わります
小泉家の記念碑
「鳳輦を置きとどめるところ」と読み。明治十八年、明治天皇が巡行されたとき、また明治二十七年、昭憲皇太后が宮島へ参拝されたとき、どちらも小泉家で休憩されました。これを記念して建てられた碑

西側からの小泉家すぐに御幸川に架かる御幸橋を渡ります

西側からの小泉家すぐに御幸川に架かる御幸橋を渡ります。御幸橋を渡った十字路左角に草津まちの案内板が立っています「ここは西国街道 草津まち」とあります

案内板の傍に 草津まち交流広場の石碑

鏝絵
江戸末期から昭和初期にかけて盛んに行われた庶民文化の一つで、民家の土蔵などの壁に、左官さんが施主さんに対しお礼と家の幸せを願いふるって描いた「左官絵」で、寺院のお経堂に奉納された、漆喰芸術で全国に広がった。特に島根県石見地方には見ごたえのあるのが多く残っています。草津近辺に12箇所残っている。(説明文の一部)

すぐに広電宮島線の踏切を渡ります

踏切を渡ると少し先左に 幸福稲荷神社
建徳元年(1370)村内に火事が多く発生し村人が困っていた、小詞を建立し勧請お祈りしたところ、その翌年より火事がなくなった。その後この社は村の鎮守神として長く信仰を集めた古い歴史ある社です。 稲荷神社は江戸期に入り三次浅野支藩の御茶屋屋敷内 になったが信仰は続いた


すぐ右手には 浄土真宗宗高山西楽寺 本尊は阿弥陀如来、慶長十六年(1613)開基



草津本町の西楽寺前の街道少し先左 大釣井と地蔵さん

何時頃の井か分からないが、地元の伝承では慶長年間(1596~1615)には漁師や町民の飲み水であったと想像されている。海岸沿いの井戸は塩気が多く飲めなく、この井戸は重宝がられたことだろう。また草津は宝暦・文化に大火があり防火用水として使われた。
この奥に大釣井地蔵さんがありますが、火災をなくすための地蔵さんとして祀られている。地蔵さんを祀ることになってから草津には大火がなくなったといわれる。大釣井地蔵を見逃しました
すぐ先の細い十字路があります、左にミラ―、右に二階建ての民家の角、そこを旧道は右に折れていたようです

少し入っていきます

草津南2丁目の集落内を進みます

やがて坂を下ったころを振り返る

ミラーの辻から140m程先で広電の踏切に遮られ消失しています。旧道は線路の向こう側で左に折れて線路に沿っていたようで再びミラーの辻に戻り、迂回します

ミラーの立つ十字路より100m程進むと、国道2号線の草津交番西の信号交差点に出ます、国道を横断しないで、右の斜めの道を進みます

右に入る斜めの道

170m程進むと広電の踏切に出て渡りますが

踏切手前左、少し分かりづらいが左に入った民家の前 大石餅跡と由来の碑(読みずらい)名物の餅屋があった、江戸時代の文政年間播磨屋惣右エ門とお国夫婦が餅屋を始めたといいます。美味しく名物となり街道を行く人々に親しまれ、近年まで営業をしていましたが、今はありませんがその後に大石餅の由来の 大石と碑 が建っています

踏切を渡った右から前述の消失した旧道が出てきていた。踏切の左は広電草津南駅が見えます

踏切から左斜めに100m程進むとJR山陽本線が正面に、右の本線の高架のトンネルの道と、左への本線手前の道があるので手前の道を進みます。草津南駅を左に見て、草津沼田道路の高架を潜ります

山陽本線を右に沿って暫く進みます、暫く進んだ右(北)側線路の向こうに草津病院が見えるところで、右の山陽本線の西原ヶ尻踏切を渡り今度は左に山陽本線を沿い少し西へ進む。

山陽本線に沿って130m程進むと、高架道路の下を潜り左に山陽本線新井口駅があります

高架下左に小さな お地蔵さん

高架の下のところで道は分岐していますので右の旧道に入る

広島市西区井口一丁目の町並みを進みます昔は街道の左側辺りまで海であったそうです

分岐から500m程真っ直ぐ進んでいくと、小さな川を渡り交差点があります、その左におおすみストアーがあります、季節によってはこの道を左(南)に進みますが、かつての旧道はこの先の龍神山を越えていましたが果たして今越えられるかどうかです。左の道を進むと山陽本線・広電の線路に出て右に龍神山を見ながら巻いたように右に迂回する道を通らなければならないと思います。旧道が歩けるかどうかわかりませんが探索してみます。
おおすみストアーから真っすぐ100m程進むと、小さな川を渡った左角に正順寺があります
浄土真宗本願寺派正順寺

境内に立派な老松が聳えています

正順寺のすぐ先の左への峠道、石段の上り口があります。龍神山峠越えですがこれなら越えれそうです。案内板もあるし

龍神山(58.5m)峠越
西国街道がこの山の峠を通っていて、険しい難所と知られていたが、山頂からの瀬戸内海の風景は絶景であったそうです。眼下に小己斐島や宮島、遠くの瀬戸内の島々が展望でき街道を往還する多くの旅人が旅の疲れを癒されたといわれている。
案内板の背後の上り口に 小さな地蔵さん 地蔵の横右を上り龍神山に入ります

少し荒れているものの旧道跡もはっきり残っていて快適で、思っていた以上に峠越えらしい

かつての旧道跡を証明する石組があります

「昔の街道」の標示 があります倒木もありますがなんて言うことはない


石組が続いています

道が一段と狭くなります、左に落ちないよう注意をします


お墓の裏側を通り山道は大きく右にカーブして、龍神山を右に巻いています。旧道の峠越え道はやがて井口小学校の北東のところで消失しています。
旧道はここまで残っているのですが、ここから小学校の北側を西に進み、井口児童館の北側を通り三叉路に出ていました

井口小学校の校庭北側に出ました。石碑等が建っています、かつてここからの瀬戸内の眺めが絶景であったようですが今は見えません

井口小学校の南側には山陽本線・広電宮島線が走っていますが、そのあたりまでかつては海であったようです。その広電井口駅の南側に西部埋め立て第二公園があり、小己斐島や一部雁木が残っていますが、周囲は埋め立てで景観は変わっています。といっても資料からなので私は寄れませんでした

井口小学校の正門に出ます

小学校の北側から西へ、井口児童館の北側を旧道はかつて通っていましたが、今は痕跡がありません。(この先)小学校正門前に出て西へ迂回します。井口児童館の西側の道を北に出て40m程の三叉路を左(西)に折れて90m程進むと、鈴が台一丁目14に小さな公園があるのでそこを目標に進みます。
小学校の正門近くにある 首なし地蔵


昭和43年頃の井口の全景、すでに埋め立て開発が進む

井口児童館の北側三叉路の辻を西に進んだところから三叉路を振り返ったところ

三叉路から西に90m程進んでいくと、左に三角形の鈴が台一丁目14、鈴が台第三公園があります

この公園の付近に 龍神山一里塚跡 井口に小己斐山周辺に城下から二里、二番目の一里塚があった

進んできた街道と、公園の一里塚跡の説明

公園の過ぎた100m程先の十字路、右角にミラーがあるところを左(南)に折れます。少し右左に折れて50m程先の分岐を右に折れます

左角に合掌インがあります 合掌院

合掌院前を西に進む70m程で少し左にズレた道を進む、左角に小さな公園があります

公園を左に見て180m程坂を下ります。この辺りは新興住宅地に変わり旧道は消失しています

坂を下っていくと左に井口公民館の表示があり、その過ぎた角を左の細い道に入ると、右から道路が鋭角に合流してきています

左に入った細い道の下り、数十mで右に折れ、道なりに左に100m程カーブしながら下り、分岐を右に折れます。左の真っ直ぐの道の方が広くなっている。右に折れて枝道がありますが曲がりくねりながら道なりに左に大きく150m程下っていきます

途中で道が広くなり、変則十字路に突当りそこを右に折れる

十字路を右に折れて240m程進むと井口3信号交差点に出ます。街道は真っ直ぐ

昔日の街道松

街道松の説明板

井口3丁目交差点を渡った右に広い敷地を持った旧家

交差点から真っ直ぐ西への街道を350m程進んだ右手こにし歯科の傍に 首地蔵

餓鬼の首地蔵

地蔵のすぐ先で、八幡川に架かる八幡橋を渡ります

ここに設置している 親柱は、昭和4年当時の親柱で本架橋工事中に発見されたため、八幡橋の歴史を語るモニュメントとして復元したもの

八幡橋を渡り広島市佐伯区五日市に入ります

橋を渡った八幡橋西詰信号交差点より260m程進むと駅前2丁目信号交差点に出ます。交差点を左に行くと山陽本線・広電の五日市駅に出ます。街道は真っ直ぐ横断、すぐ左に福屋があり数十m先、一筋目を左に折れる道に入ります

ここを左に折れます

左に折れて400m程道なりに、緩やかに南から西にカーブしながら五日市の町を進みます。やがて右に要地理容院があります、すぐ先で右の旧家の角で道は分岐していますが、街道は左の道ですが、近世初期の西国街道は右を進んでいました

この辻で右の道に【寄り道】をします。 右(北)に50m程入ると右手に 五つ神社

五つ神社境内の老松

「えびすさん」として親しまれている。老松の立つ前の道は近世初期の西国街道で、道に沿って旧五日市の街並みが続いています。(伝承)菅原道真が九州に流される途中に、現在の殿山に船を寄せて休息したといわれ、その時持っていた梅の実を植えたのが成長して実を結んだといわれています。この辺りの集落は、神社の北にある浄土真宗光禅寺の宿場として、また宍戸氏が開いた城下町として繁栄しました
五つ神社の前の近世初期の西国街道を80m程進み右に入りますと、光禅寺を中心にお寺があります

浄土真宗本願寺派宝玉山五葉院光禅寺

光禅寺前に立つ大木の松 光禅寺誓いの松


光禅寺の本尊は阿弥陀如来で本堂・庫裏・山門・鐘楼・経蔵の伽藍配置を有し旧佐伯郡最大の寺院。
当初は真言宗で江あったが、永正三年(1506)浄土真宗に改宗したのが始まりで、後に、正向寺・最広寺・品正寺が隣に建ち寺町を形成
光禅寺の鐘楼と経蔵
梵鐘は延宝七年(1679)廿日市宿の鋳工山田貞栄が鋳造したものです。また経蔵には延宝五年(1677)製の「木製大蔵経」が保存されています

覚潭の手水鉢


再建された本堂

光禅寺の門前の西側にある 浄土真宗正向寺

天を突くようなイチョウの大木、また屋根の彫刻が凝っている


近世以前の西国街道に戻り100m程西に進みます

旧五日市村役場跡


近世以前の西国街道より少し北に入った光禅寺の西側に 浄土真宗本願寺派東明山品正寺 元禄年間(1688~1704)の開基、参道の坂道の下に古い当時の石段が残っている

さらに光禅寺の北側には 最広寺 があります

寄り道を終わり、近世の山陽道の辻に戻り西に200m程五日市の町筋を進んでいくと、中央連鎖街南信号交差点に出ます。その先右にきたに小児科があります

そこから250m程先の少し歪な交差点に出ます。交差点右前に養神館病院があり、その南側の道を西に進む

西に進むと左に山陽本線が平行に接します。途中左への旧道は線路で遮られているので、止む無く正面の高架道路に上ります、歩道橋で高架道路に出て山陽本線を越えてすぐ歩道橋を降ります。広電と山陽本線の間の道を西に進みます

山陽本線と広電宮島線の間の街道

広島市佐伯区楽々園に入ります昔の街道の名残松が少なくなったが、地元の方々の努力で民家の敷地内で管理されて五本残っています

旧山陽道の松並木
山陽道は、道幅二間半(約4.5m)、沿道には松並木、一里(約四㎞)ごとに一里塚、要所に茶屋を三軒設けていた。
当時は村伝いの道が三尺(約0.9m)の時代であったので、二間半の道幅を持つ山陽道は、いかに大動脈の役割を果たしていたか。この地域の街道松は五本残っています
一号松 伊田氏宅前 樹高8 m 幹回り3.15 m
二号松 今中氏宅前 7.5 m 1.5 m
三号松 荒谷氏宅前 8 m 2 m
四号松 島田氏宅前 8 m 2 m
五号松 本田商店前 14 m 2.5 m
昭和56年11月時点なのでそれ以上

左に広電宮島線の楽々園駅を見て進むと岡の下川に突き当たるので左に折れます。かつては正面に御筋橋が架かっていました

突当り右川沿いに 円形の碑が御筋橋跡と壱里標碑

突当りを左に折れてすぐの広電宮島線の一本松踏切を渡り、岡の下川に架かる海老橋を渡ります。海老橋を渡り橋の西詰の信号交差点を左に折れて、左の岡の下川:昔の塩浜に沿って南へ、次の三筋橋の信号交差点まで進み右(西)に折れます

西に暫く進んでいくと国道2号線の西隅の浜信号交差点に出ますので横断します。横断したところから振り返る

国道2号線を横断して少し進んだ右に 西国街道壱里塚跡碑
元安川の袂にあった広島元標(原爆ドーム近く)から三里です、ここから長い広島市と分かれ廿日市市に入ります。
おそらく昔は右に折れた三筋橋から西への街道筋の南側辺りまで、瀬戸内海の入海が迫っていたのだろう

国道2号線を横断して、西から南西に街道は向きを変えます。佐方川に架かる佐方中橋を渡ります
【廿日市宿】に入ります
厳島神社領平良生荘の市場町として始まった、厳島神主家の居城である桜尾城の城下町でもあった。江戸時代に入り宿場町の整備も整い、宿の中程に本陣が置かれた。厳島合戦に出てくる古刹の洞雲寺があります。宿の東には石見津和野藩の舟屋敷と舟入りが設けられた、津和野街道の分岐点でもあった。廿日市は厳島神社を対岸に控え、山陰地方への交通の要衝のでもあり、江戸時代以前より古くから栄えた街であります
左に大きな松が一本立っています。廿日市の街道松一本道の両側に3間(約6m)ごとに街道松が植えられていた、この辺りも、東の佐方中橋から桂公園の付近まで文化二年(1819)には68本の松並木があったと記録に残る。廿日市市内では、唯一この松一本が往時の面影を残す。市を挙げて整備されています

少し進んだところで、左に折れると緩やかな坂を上る、桜尾城址の石垣が見えます

坂の途中 祠 があります


並木の坂を上っていくと、桜尾城址:桂公園の碑 が建っています
城址の南側は埋め立てされ国道2号線を走り、市街地化していますが、かつては瀬戸内海の海岸がまじかに面したお城で、その対岸には宮島が見えて風光明媚な高台の城跡であった。
複郭式の海域で、南三方海に面し城で、築城は承久三年(1221)頃、藤原親実が厳島神主となり桜尾城を築いた。戦国時代に入るまでは平穏な時代が続いたが、一族の家督相続で内紛が生じ結果、友田興藤が継承、その後大内義隆により攻められ天文十年(1541)落城して友田氏が滅ぶ。天文二十三年(1554)毛利元就の支配下に入り、城代に桂元澄が入城、天文二十四年(1555)大内氏を滅ぼした陶晴賢との厳島の戦いにより毛利元就が勝利。陶晴賢の首実検もこの城で行われた。その後、元就の四男穂井田元清に与えられたが、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで、福島正則の支配することとなったが、桜尾城もこの時廃城の憂き目を見て長い歴史に幕を閉じた
桜尾城址から見た南側の埋め立て地区と廿日市港方面

「・・・・埋立地・」碑

桜尾城址・桂公園への道 紅葉が綺麗であったようだがすでに落ち葉となっている

桜尾城址

桜尾城址の西南に津和野藩船屋敷跡碑があったが見落としました。またその近くに稲生大明神があった。
元の街道から桜尾城址への細い上り坂の辻に戻ります
すぐ先で十字路に出ます、街道は右から左に進んでいますが、南側から写したところです。正面の旧道(北への道)は 津和野街道 です

十字路を西に進むと左に秦政書店があります、その前から振り返った街並み

書店の看板を右に見て少し進むと、街道は左へのカーブ道です。枡形の宿場道です

左に折れて70m程で左T字路を右(西)に折れます
右角に 廿日市招魂社


枡形を右に折れる左側には 正覚院別院薬師堂

西へ進むと右に 浄土真宗本願寺派正蓮寺

正蓮寺の北側の高台には 正覚院

西隣に 廿日市天満宮 鎌倉時代の承久二年(1220)に厳島神主として任命された、藤原親実が天福元年(1233)にこの篠尾山に社殿を鎮座させました

天満宮の本殿は、正覚寺西隣の高台見晴らしの良いところに建つ。
また高台にはかつて桜尾城の出城の 篠尾城跡 です

街道左廿日市市中央市民センタ前に 芸州廿日市御本陣旧址の碑 山田氏が代々世襲してきた


街道を挟んだ右の井村眼科医院の北側天満宮の西側に 蓮教寺 が見えます
浄土真宗本願寺派蓮教寺


すぐ先で少し広い道路が交差する 枡形跡 を抜けます、今は交差する道路が広くなり様相が変わっています

枡形跡から旧宿の中心地の街並みを振り返る

枡形を抜けますとすぐ先右に太田整形外科医院があり、その北側に入ると

日蓮宗長国山常国寺 山門前に大きな 題目石があります。慶安元年(1648)の銘

常国寺の西側に塀越しの 浄土真宗本願寺派光明寺
前述の、蓮教寺・正覚寺・廿日市天満宮が見えます。天満宮の高台に上ると、瀬戸内の景色がよかったと思うが上れなかった

街道より少し離れていますが、是非(寄り道)したいお寺、祠雲寺が広電・山陽本線の北側山麓に見えています。光明寺の西側の道を北に進むと、広電廿日市駅の西側で踏切を渡り、さらに北側に山陽本線の廿日市駅があるので、その前を東に進んで左に踏切を渡り住宅地を通り北に進むと左に見えます

曹洞宗応龍山祠雲寺


山門を入り本堂の左に、桜尾城で大内氏に攻め滅ぼされ自刃した 友田(藤原)興藤の墓

友田興藤は厳島神主の藤原神主家の一族で、天文十年(1541)度々の桜尾城の攻防を繰り返した末、大内氏の攻撃に耐えられず、桜尾城に火を放ち自刃した。力量感のある宝篋印塔で、天文九年庚子八月日の銘があり、自刃したのが天文十年四月六日と伝わるので、生前中に建立した逆修塔といわれている。

並びの北側には 陶 晴隆の墓
大内氏の重臣として活躍していたが、下克上の世の中天文二十年(1551)八月、大内義隆父子を襲い自刃させ、大内氏の領土を制圧した。弘治元年(1555)十月厳島合戦で毛利元就に敗れ、厳島で自刃、桜尾城で首実検の後、この祠雲寺に葬られる。

本堂

毛利元就の四男で最後の桜尾城主
穂井田(毛利)元清夫婦の墓
元就の正室の子でなかったため、隆元・元春・隆景の三本の矢に伝わらないが、三人の武将に勝るとも劣らない最後まで毛利のために素晴らしい実績を残した。慶長二年(1597)桜尾城で没47歳、元清の子孫は長州藩の支藩である、長府・清末藩として存続し。さらに本家毛利氏の藩主にもなって明治まで続く。
正室は村上水軍の村上武吉の養女で村上通康の娘

同じ区画にある、毛利元就の重臣で、明治の元勲:桂太郎の先祖
桂 元澄夫妻の墓
厳島合戦の後、桜尾城主として十六年在城、桂太郎が城跡を町に贈り桂公園となる

洞雲寺より元の街道筋に戻ります。
廿日市1丁目の街道を少し進むと、街道は左にカーブして右に折れる枡形の辻になります、廿日市宿もこの辺りまでだろう。左にカーブする右に

浄土真宗本願寺派常念寺
重厚な 鐘楼門


枡形の辻を抜けていきます

枡形を振り返る、道幅が広くなり少し様相が変わっている

枡形から弓型に大きく右にカーブしながら須賀の街並みを進みます。枡形から200m余り先で正面みはら化粧品店の三叉路で左に折れます。三叉路手前左辺りに、口屋番所跡

左に折れて200m程真っ直ぐ進む

途中右に石柱が二本建っていてそこを右に入ると突当りに

福佐売神社

すぐ先、信号交差点のある十字路で可愛川に架かる可愛橋を渡ります

可愛橋を渡り右に川沿いの道を進むと50m程先で左斜めへの道を入ります

さらにすぐ先で広電宮島線の可愛川西2踏切を渡ったところの分岐を左に進みます

踏切を渡り左に折れた左手に、広電の廿日市市役所前駅(平良)

駅から100m程先で少し迷いそうな道に出ます。まず左T字路になっている右への道には入らない、そして10m程の分岐は左の道は少し先で線路に近づきますので入らない。右側のくねった坂道の旧道に入ります。
写真の右の倉庫のような建物の向こう側の分岐を右に

この右の旧道です、この先枝道もありますが道なりに右に弓なりに大きくカーブしながら進みます

左側は新宮2地区で住宅開発された地で、高い擁壁の袂を進む街道です

分岐から350m程先で、右側に側溝がある小さな橋を渡り、山陽本線の上を高架陸橋で渡ります

陸橋を渡り正面の高架道路は潜らず、すぐ左に入る細い道を進む。旧道は失われているようです

左に折れて100m程先で高架道路の下を潜ります

高架道路を潜り左側には山陽本線が走っています、少し先から振りかえる

串戸地区に入ります。右側は広いスポーツセンター多目的広場です。右の道路に接するところで、左(南)に向きを変えます

左に折れる手前右の斜面に お地蔵さん

南に進んでいったところで、左に山陽本線の宮内串戸駅があり、その駅前に出ます

街道は開発で消失しているので駅前を抜け南に進みます。広電宮内駅は150m程東にあります。

宮内串戸駅15時30分着で、24.16kmしか歩いていなく、まだ歩ける余裕があるのですが、街道はこの先少し内陸部に入り、交通の便と宿泊先が限られてくるので本日はここで終了します。山陽本線で宮内串戸駅から岩国駅まで30分移動で、岩国駅前の岩国プラザホテルに、明日と2泊します。


コメント