山陽道 23日目

2011年12月18日

厚狭~長府

厚狭ステーションホテルを7時30分に出て、7時50分起点よりスタート。
いよいよ今日と明日半日で山陽道完歩する。今日は長府を観光したいので少しでも早く着きたい。時折小雨がばらついているが完歩近いと思えば何のことはない。長府に15時30分に着く。見所の多い長府を見て回り、JRで下関駅まで移動して、下関東急インに最終日泊まる。
       厚狭い南の街道  7時50分 スタート
       長府      15時30分 着
           45.496歩  27.29km  1.991kl

明日朝また長府に戻り最後の歩きを2時までに完歩して帰宅の途に着く予定。

朝からどんよりとした空ですが、本日と明日とで山陽道も完歩です頑張ります。厚狭駅北口の昨日見た寝太郎の銅像、また条里制跡の山陽道の広い直線道路に出て西にスタートします

厚狭駅の南口からまっすぐ伸びている広い道路を振り返る。広々として開発途上ですが、毎年付近の様相も変わることでしょう
交差点を右(向かって左)に折れて進む昨日の起点。左に見えるのが厚狭駅

 広い山陽道、条里遺構の中心跡の一直線に延びている。桜川に架かる寝太郎橋を渡る手前から振り返る

寝太郎橋を渡り広い交差点を横断して西に進みます。車も少なく、今はまだ広い交差点ですが信号機も付いていません。浴地区に入ります

暫く西に進むと街道は一気に狭くなります景色も変わりこの方が歩いていると街道歩きしている気分になります

浴の集落で小川を渡ります50m程先で大正川に架かる石丸橋を渡ることになります。その手前両側の旧家に雰囲気があります、右は酒屋さんです

街道は石丸橋を渡り真っ直ぐ進みますが、橋の西袂を左に折れて進む道は、中世の山陽道です

ここで【寄り道】します。左に550m程入り四差路を右に入ると 禅曹洞宗洞玄寺 があります 厚狭毛利家の菩提寺

山門(三門)
明和七年(1770)厚狭毛利家六代元連公により建立された。老朽化により平成16年山門が改築されまし明和七年(1770)厚狭毛利家六代元連公により建立された。老朽化により平成16年山門が改築されました

今川貞世の歌碑
室町時代の歌人、今川了俊(貞世)九州探題として太宰府に赴任する途中詠んだ歌

千林尼の墓所
社会事業に一生をささげた、明治二年五月十二日厚狭の洞玄寺末寺玉泉庵で60歳(推定)にて亡くなる。隣に、法華経千部塔、六十六部供養塔と三基が玉泉庵跡 より移されてます

明治二年(1869)十一月奇兵隊解散騒動で一度廃寺となって、正福寺と名前を変えていた昭和44年洞玄寺に復した

長門国利生塔跡
足利尊氏発願による、国内六十六基の中の一塔。尊氏は国ごとに安国寺と利生塔(五重塔か三重塔)を建てました

厚狭毛利家墓所

洞玄寺全景

街道の石丸橋に戻り100m程先で分岐があります。右の道か左の道か迷いましたが、どちらを行っても先で合流するので、左の道を進みました

分岐から150m程で先ほど分かれた道が右から坂を下って合流しています

合流した地点を振り返ったところです

すぐに再び道は分岐しますが、左のやや広い道は、岡石丸運動広場への道で、道なりに右側のほぼ真っ直ぐの道を進んでいます

七日町の集落に入り、この辺りに 七日町一里塚跡 があったが痕跡はありません

左の山裾に 大師堂

その先左に お地蔵さん

暫く七日町の集落を進みますと 分岐道に出ます、その分岐の角に
道標 「右 吉田道 左 はふ道」 左の 埴生道 との追分です。街道は右に進みます

埴生道は中世の山陽道 と伝わる、分岐を右にすぐ先十字、十字路川沿いに幸神と刻まれた 庚申塔

広い十字路のすぐ先で、右の大正川に流れる支流の小川を渡り西へ

道は分岐しますが右の道を進みます、右手にJA米麦共同乾燥調製施設の建物があります

その少し先で街道は左にカーブする大正川の対岸に山野井神社の杜が見えます

石段を上り薄暗い森の中を進むと

山野井八幡宮

その先で大正川に架かる橋を渡ります

 長友地区に入ると、225号線の信号交差点を渡ります、長友バス停があります

225号線を横断した左に石垣の組んだ立派な屋敷があります

その石垣の角に 庚申碑

庚申・旧家を見ながら静かな街道を進みます

正面から見た建物、門構えも立派で由緒ありそうな旧家です

旧家が過ぎた街道右奥に山野井公会堂街道左には 浄土真宗本願寺派永福寺

集落を抜けて坂を上っていきます、少し平地で広場がありますこの辺りが 駕籠立場跡

石炭の集落に入ります、何とも気持ち良い街道風景

右に山陽本線が接近してきます

やがて道は分岐します、右の坂を下る旧道を進みます

その先で山陽本線の金錆第二踏切を渡り、線路の北側に沿っての道を進むことになります

250m程左の線路を見下ろす状態で沿いながら進む道。そして左の線路の上に架かる跨線橋を渡りすぐ右に折れます

右下に山陽本線が左は山陽国際GCです、350m程進みます

暫く進むと街道は右にカーブして、再び山陽本線が石炭隧道に入る上を越えていき、北側に出ます

西北に街道は進んでいきます

 ミラーの立つ分岐に出ますので左側の西南の道を進む。丁度石炭隧道の北側を半円描いた道です

ミラーのある分岐を左に進む道で何か寂しい道です

少し進むと地道の街道は右にカーブします。カーブの手前のすぐ右手は、石炭隧道を抜けたトンネルの西側の入口の上です

再び暫く坂を下りながら右に山陽本線を見ながら下っていきます

畦道のような細い地道です

下りきると右の境国第二踏切を渡り再び線路の北側にでて左に折れます、福田地区です

踏切を渡り左に折れたすぐ右の高台に 鳥居と九十三段の石段があります

福田八幡宮

福田八幡宮の前の街道が真っ直ぐ西北に延びています

やがて232号線は左に急カーブします、その道の突当りに小さい見落としそうな道標があります

道標 「右 吉田 左 埴生道」

そこの分岐点を232号線は左に分け、右に折れますその近くに 

右に折れて50m程先に二股の分岐があります、民家の間を左への細い道を入ります

二股の辻です、左の道を進み蓮台寺坂へ上っていきます

民家の間の狭い道です

そして田畑の間の山麓の道を進みます、集落も無くなってきました。福田一里塚跡 がこの付近にあったようですが判かりません

民家の間を抜けた辻から300m程、正面に池の堤のような高台がありますので、その下を左にカーブします

左に折れて堤が切れるところで右に折れ坂を上ります。何か少し様子が変わってきました、蓮台寺坂 というから坂道かと思った、資料では難所とあったからそれ相当に覚悟はしていたが、山に入っていくようです。思っていたのと違いました土手の切れたところを右に曲がり上っていく

右に折れて上っていくと正面は竹藪です突き当ります。迷うところです

よく注意すると、竹藪より少し手前左に入る山道があります、小さな標示板があります

左の山道に入るところから今来た道を振り返る、向かって右の山際の蓮台寺坂を上ってきました。聞くところによるとこの付近は熊が非常に出没するとのことです

左への雑木に囲まれた間の道を進みます

東から西に山を抜けたようです、右に曲がり今度は右の山裾に沿って道が見えます。蓮台寺坂の左側が開けた坂道です

坂を上っていくと左の田畑も狭くなり、だんだんと道が荒れてきました

いかにも夏場から秋にかけて熊やマムシが出没しそうな雰囲気です。冬以外は一人歩きは避けた方が良いかも

どのあたりかわかりませんが、この地下を山陽新幹線の埴生トンネルが通っています。その先、山の迫ったあたり山陽小野田市と下関市の境界で、境界に沿った尾根道を登っていきます

この辺り2~30m程の間ですが、ぬかるんだ道となり歩けなくなるようです。今日は水で道が柔らかく湿っているが大丈夫です

季節によっては一人歩き少し引きます、熊やマムシが出てきそうです。今は冬場だから一応大丈夫と思いますでも一人でよく歩いていると思ってしまいます

そこを抜けるとはっきりした旧道跡にでました

蓮台寺坂をどんどん登っていくと、送電線の袂に出ます、そこで道は二股に分岐しています、右の道が旧道と資料にあったので進みます。完全に人里より離れているので、人の気配は全くないので聞けません。でも資料ではこの先で左の道と合流しているようです

道は荒れていますが、林の中でないので助かります、何とか藪を掻き分け乍ら進んでいきますが、道という状態ではありません

完全に道跡がなくなりました、消失してしまったようです。これ以上は先に進めません

止む無く二股道に戻り左の道を進みます

暫く進んでいくと、右から先ほどの消失した道がでてきて合流する辻にでます、その右角に自然石の石碑が二基あります 一つの低い方は 庚申と顕彰碑 高い方はこの地区の開拓に貢献した、伊藤初五郎氏 のです。

少し気になるので、碑の前の先ほど消失していた道を逆に入ってみます。この辺りはっきり道が残っています

暫く逆に歩いていくと行けそうな気がしますが

先でやはり廃道化しています、消失してしまった年数はまだあさいと思いますが、距離としても区間は短いようですが、もう数年もしないうちにこのままでは完全になくなるでしょう

元の石碑の辻に戻ったところで、左からの道と合流するところです右へ

この碑の辺りが、蓮台寺峠

碑を右に下ります、薄暗い峠の頂上で切通しの道です。峠の少し前まで下関市と山陽小野田市の境界を進んできて、少し山陽小野田市福田側に入り、ここの蓮台寺峠で下関市吉田に入ります
ようやく最終の下関市に入りますこの先沢山の史跡があるのでなかなか前に進まない

峠から吉田地区の坂を下っていきます竹林の切れたところ右に小屋があります

峠を振り返ったところ

街道右手に民家が一軒建っていますこの辺り 駕籠立場跡 があったようですが分かりません。やっと民家、住まわれているか

少し先で右に【寄り道】蓮台寺への道を入ります

途中右手に自然石の 庚申塔 が草に隠れるようにあります

結構急な坂道を上っていきます、山間にお寺があるとは、かつては民家があったのだろう

途中から正式な参道(哲学の道とあります)に合流して石畳道を登ります

不許葷酒入山門の標柱 と小さな 石仏

黄檗宗蓮台寺

寺伝に寄ると、一千年以上前に開基された古刹、昭和後半に蓮台寺への参道が整備され、「哲学の道」と呼ばれています。 蓮台寺の 本堂と十一面観音堂 あまり人は登ってこないのだろう

本堂の背後にある タラヨウの木(多羅葉) 本州西部・四国・九州の暖かい山地に自生する、常緑高木で5月ごろ緑黄色の花をつける

十一面観音堂には 
永観二年(984)花山天皇の作と伝わる、木造十一面観音坐像が安置されている。藤原時代の特徴をよく伝えている貴重な文化財

通常日は非公開で4月16日に開帳されるそうです。人の気配がないので、普段は無住かも

蓮台寺からの吉田の眺望

先ほどの石畳道を下ってきて振り返ったところです

帰りは真っ直ぐ参道を下っていきます

昼なお薄暗い参道です

切通の参道を下る

瀬戸内でなくかなりの内陸部の山中を進んでいます
哲学の道としてのハイキングコースですが、少し荒れています

途中かなり道が隠れるように藪が覆う

山陽道に出ます、ここが正式な蓮台寺への参道上り口です。蓮台寺案内板も立てられています
元の登り口に出ました、左にある 石標

正面の山陽道との合流点を見る、私しは少し早くの道を右に入り蓮台寺へ登り、途中で合流したようです。ここから左の石段の参道を上る方がいいでしょう

蓮台寺への分岐から西に方向を変えますが、すぐ先でまた北に方向を変えて進みます

静かな気持ち良い下り坂を吉田の里へ下っていきます。やがて右からの舗装道路と合流して左に進む 
山陽道:蓮台寺坂峠越 ですべての難所を終了

舗装道路と合流する右手に、道標 があったのを見過ごしました 「右 蓮台寺 左 川久保」と刻まれています。
左に折れてその先で、山陽自動車道の高架を潜ります

高架を潜り右に、その先左にカーブしながら道なりに下って進みます。正面には吉田の集落が見えてきました

吉田の集落に入る辺り左に案内標識が建っています

案内標識の道を入って行く道は「首切り地蔵」への道で100m程先の土手に 五輪塔 があります、標識からすると今来た道の違う方向へ戻るようです

さらに進んだ小川の袂より峠方向を振り返ったところ

小川の橋の袂、右手に 自然石の庚申と猿田彦大神 があります

 【吉田宿】に入りました

チョットタイムスリップしたような素晴らしい街並み
吉田の街は、山陽道の起点、赤間ヶ関の次の宿駅で本陣もおかれ宿場町として栄えました
山陽本街道と萩へ通じる 赤間関街道 の分岐点に当たり、萩藩は吉田宰判と称する郡役所を置いて厚狭郡一帯の政治経済の運営に当たっていました。
当時の繁栄ぶりをうかがわせる上水道の名残があり、幕末には高杉晋作率いる奇兵隊のゆかりの地でもあります。近くには、東行庵・蓮台寺・常関寺・法専寺・湯谷温泉等があります。

右に大きな民家

道はT字路になっています、街道は左に折れます

正面に 恵比須社と高札場跡 の説明板があります

T字路手前右のブロック塀の傍に 道標二本 「右 上方道 左 萩道」 「吉田旧街道」

T字路を左に折れた先の、吉田宿(吉田市)の街並み

すぐ先左民家の庭に 祠二つ

すぐまた左奥に 浄土真宗本願寺派香積山長慶寺 幕末奇兵隊の屯所の一つで、隊の病院としても使用された

さらに西に進む、左に倉田商店がある十字路にでます

その次の左角に散髪屋さんがある筋を左に入り【寄り道】します、欠かすことのできない東行庵をゆっくり見て回ります

50m程入ると、道は分岐しいているので右に折れます

すぐ左の奥は吉田小学校、その手前に崩れかかった土塀と家があります。この辺りは 吉田宰判勘定跡・御茶屋跡・御番所跡

藩政時代(1600~1870)萩毛利氏の領地に十八の宰判に分かれていたその一つ。代官が派遣され、庄屋がその管轄に詰めていましいた。建物には50人程の役人がいたようです。御茶屋(御本陣)は勘場に隣接していました。現在宰判時代の遺構として唯一のもので貴重

西側の県道260号線に出て吉田小学校を左にその南西で信号交差点、赤い欄干の橋を渡ります

橋は晋作橋です

晋作橋を渡り振り返ったところです

まもなく左に案内表示板が架かっています

奇兵隊堂ノ尾墓地跡碑

曹洞宗東行庵
明治十七年かつての同志らの寄付によって建立された。この地は下関市吉田町清水山で、慶応三年(1867)四月十四日下関新地で病死、27年7ヶ月という短い一生であったが、明治維新の最大の功労者一人であった。晋作の遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。高杉晋作の愛人おうのは髪をおろし尼となり、谷梅処と名乗って晋作(東行)の墓を守り菩提を弔った。梅処は明治四十二年にこの地で生涯を閉じる。

高杉晋作の銅像

奥正面に「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目駭然(がいぜん)としいて敢て正視するもの無し 此は我が東行高杉に非ず乎 君の諱(いみな)を春風 字を暢夫(ちょうふ)通称を晋作 後姓名を変えて谷潜蔵と曰う 東行は其号也」と刻まれている。碑文は伊藤博文、字は明治三筆といわれた杉孫七郎。

高杉晋作の墓
号:東行は天保十年(1836)八月二十日萩城下に生まれる。松下村塾で吉田松陰に師事。文久三年六月奇兵隊を結成して活躍。慶応三年四月十四日、下関で結核のため病没、雷電風雨の如き二十七年と八ヶ月の短い生涯であった。遺言によりこの地、吉田清水山に埋葬された

墓前の寄進の 灯篭 

高杉晋作の隣に 福田公明の墓

中でも、十四歳で奇兵隊員として戦死した今井満太郎の墓他たくさんの奇兵隊士の墓が並ぶ

東行庵・東行記念資料館を後にして街道に戻ります

県道260号線を北に、山陽道と吉田交差点の角に大小の 地蔵・小さな祠・吉田旧街道の石標 が並んでいます

横には 吉田一里塚跡の碑

吉田の交差点から宿の街並みを進みます

交差点より右(北)方向を見たところで、貞恒川の手前辺りに 奇兵隊陣屋 があった

すこし進むと貞恒川に架かる小川橋を渡る橋を渡り左(西)へ進みます

西に進むと右に 天満宮の鳥居と台座

すぐ先で木屋川に突き当たりますので、堤防道を右に折れます。堤防から木屋川に架かる吉田大橋

堤防沿いの道を少し進むと、左の吉田大橋北詰の交差点に出て渡ります

かつては、飛び石が架けられた板橋を渡っていました

橋を渡り南に33号線を木屋川の堤防道路を進みます振り返ったところで、木屋川に貞恒川が合流しています

暫くは堤防沿いの道路を南西に進みます、歩道があるので助かります。木屋地区に入ると、かつてはこの付近に木屋川口番所跡があったようですが、県道33号線で旧道は無くなっているので痕跡は分かりません

上木屋バス停があるところから、200m程進むと、右斜めに坂を上る道があるのが旧道でうっかりすると見逃してしまうので注意

目印は坂を上る手前右に 地蔵堂と石仏二基 があります

旧道の左は結構崖の斜面です

 左に金網柵があるところで分岐しています左の道を進みます

坂を上り切ったあたりで右の斜面に 石地蔵「大乗妙典・・・」と刻まれた 石標

左下には民家が並んでいます、金網で防御しているので助かります。斜面の山腹を進むが快適です

旧道を下っていくと少し広くなった平らなところがありますが、かつての 駕籠立場跡 だろうか 

民家の間の細い路地を進んでいきます

やがて左に下り山陽新幹線の高架手前で左からの県道33号線に合流します

新幹線の高架を潜りかつての旧道は県道より右に少し山形に通っていたが、小月製鋼所で消失しているので、県道を進みます

新幹線の高架から600m程進んだところで左の木屋川・県道33号と分かれ、右への分岐する旧道を入ります小月京泊に入る

右手に 題目石 が建っています、その参道を入ると 本照寺 があります

その先街道沿、左に池が二つ並んでいます。池の堤にはホテイアオイが広がっています

池を過ぎると、右奥に市立小月幼稚園、すぐ先左に小月小学校があります。小学校に入るところ坂の角に 旧国道の石

側面には下記のように刻まれている 「江戸時代 参勤交代の時往来していた街道で小月町の発展に貢献した要路で昭和初期国道二号線の開通により旧国道と呼ばれるようになった」

その先で変則十字路に出ます、右への道を進みます。小月西の台8

右に折れたすぐ先右に入ると 小月神社 大内義隆が献納した太刀一腰や清末藩主利元平寄進の社名額があります

すぐ先分岐がありますが道なりに左斜めに進みます。491号線の信号交差点を横断します

少し進んだところで浜田川に出ますが、その手前右に大きな 庚申塚
小月神社の御旅所に建っており、日本一ともいうべき巨大な塚で、庚申の3文字のくぼみに米粒を入れると2斗入るそうです

すぐそばの浜田川に架かる庚申橋を渡りますと小月市に入ります

 【小月宿:間の宿】
小さな宿であったようです、今はその史跡らしいものは残っていません

小月本町で車道のT字路に突当り左に折れます。このT字路辺りが 高札場跡 です、すこし雨が降ってきましたが大したことがないようです

T字路を左に折れたすぐ先から振りかえると、左手に大きな屋敷がありました

小月の一里塚跡 と刻まれた石碑
側面には「古来より交通の要衝として栄え、その要にあたる本町は、藩政時代には半宿場町としての役割を担い中市丁蛭子通りと呼ばれていた」と刻まれています

一つ目の信号交差点を右に折れます

信号交差点を右に折れる手前右に 道標と石碑 「右 かみがた道 左 とよた道」

石碑には、この道しるべは小月が昔から交通の要衝であったことを後世に伝える唯一の重要な文化遺産である。徳川時代小月は山陽道の半宿場でありここから吉田を経て江戸へ向い左は萩へ通ずる分岐点であったのでこの道しるべを建てたものである。この付近は旅籠のタテ場であり後には人力車のたまり場であった。昭和十四年県道改修工事のため河村薫氏が一時保管、昭和四十九年三月本町会が元の位置より西へ三米の歩道に移し永久に保存することにした。と刻まれています

ここを右に折れます

右に折れた通りは、見廻り通りと呼ばれた

この辺りの下市から茶屋町の宿場街は茶屋街として栄えた繁華街で武士が見廻ったところからこの通りの名前が付いた

石碑のすぐ横に、小月観音参道・清浄山観音寺の石柱 が建つ。かなり高台まで石段が続いています
行ってみたいが少し疲れているので諦めます

見廻り通りを進んでいきます

右に見廻り通りの石柱

暫く小月茶屋を進んでいきます、途中左に入っていけば、山陽本線小月駅があります。小川を渡り300m程進みます、変則十字路に出ますので、左斜めの旧道を100m程進むと、再び小川を渡ります、小川を渡り90m程で十字路に出ます

十字路を越えたすぐ、清末鞍馬三丁目の右に 孝行塚
孝女政の碑、碑文によると明治七年(1874)に建立。まさは清末の角屋助三郎の娘として生まれたが、幼くして父を亡くし母と暮らしていた。非常に孝行で、結婚してからも夫の母にもよく仕え殿様からも度々褒められていた。明治四年五月一日、四十六歳で病死した。その生前の行為が顕著で、募金してこの碑を建立した。今でも清末では政の命日の五月一日が敬老の日と定められています。 (碑文より)

そのすぐ先で道は分岐しいているが道なりに左の道をすすむと、信号交差点に出ます、街道は真っ直ぐ進むが、右に【寄り道】をします

暫く進んでいきますと、東部中学校があり隣接する清末公民館の一帯が 清末藩邸跡 で公民館前に 清末藩邸跡碑 が建つ

清末藩は承応二年(1653)に萩藩の支藩長府藩三代藩主毛利綱元が叔父元知に1万石を分封したことにはじまる。本藩萩毛利家からすれば孫藩となる珍しいケース。幕末の勤王豪商白石正一郎はこの清末藩の御用商人であった。居館は1万石であったが土塁をつみ堅固な陣屋であった。また山陽道沿いは城下町の面影を留めます

清末陣屋の池

六角池
江戸初期清末藩が始まるまでは、旧山陽道の南側は海で、今の本町・西町(当時の蔵本・道祖上・中原)の住民は井戸がなかったため、大地主の石井氏が井戸を掘り汲んでいた。場所は本町の西境の低地。清水が潤沢に湧く石井の池は、六角池と呼ばれた。昭和三十年頃通学路の道路改修で埋められたが、井側だけ記念として小学校に保存されていたのをここに移転された

清末陣屋跡

街道に戻り清末の町を進みます
清末鞍馬2付近の街道

清末中町に入ると右に 清末八幡宮の鳥居と69段の石段

清末八幡宮

清末小学校跡地
清末には藩政期「育英館」という藩校があって学問の盛んな藩でした。
明治になり廃校されその跡地に明治八年(1875)清末小学校が開校されました、昭和二十九年に新しく移転するまで、八十年間清末の教育が行われた場所です。
またこの広い高台には寺院もあったようですが。高台より眼下に見える広大な農地は、江戸時代に干拓されたもの。(説明文より)

跡地にクスノキの大木が立っています

清末八幡宮から眼下の干拓地や城下の眺め

街道に戻り先を進むと左に綺麗に祀られた 地蔵の祠

清末の素晴らしい街道風景

信号交差点を横断して進みます、その手前右に小さな真っ白い 鳥居と祠、道祖神

交差点を越えると清末千防に入ります

少し先右に 

質素であるが豪壮な旧家の風格 橋本家長屋門

集落を抜けると広大な田畑がひろがります

右に大きな碑があり 「豊穣の大地」と刻まれている

すこし進むと神田川に架かる神田橋に出ます。ここまでが清末藩領でこの先は長府藩領に入ります

神田橋を渡ったところに藩政期の 「石橋」 が保存されています

石橋と神田橋を振り返る

神田橋から少し進むと神田川の支流の小川を渡ります、右手には王司小学校があります

街道左の小川沿いには 

少し左に方向を変えて南に進みます、王司神田地区を進むと左に 稲荷神社の祠

稲荷神社の祠前から振り返ったところ

左に鎌田歯科医院を見て街道を進みます

やがて左からの491号線と合流して、信号交差点を斜めに横断して渡ります

横断したところの街道

暫く、右手(西)には491号線、左手(東)には山陽本線が走り、その間の街道を進みます。小川を渡った先で左にカーブします

小川に架かる小さな橋のところで道は分岐しますが、右の真っ直ぐの道です。左の道は線路に出て消失しています

王司上町で山陽本線に接近します

線路が接近した先で十字路にでます

十字路右角に 祠と碑

向かい十字路左角に 宇部一里塚跡碑

王司西町の旧街道、十字路より振り返る

王司上町の旧道を進む

左に少し方向を変えて静かな旧道を進みます

その先を進むと山陽本線の才三踏切を渡ります

すぐ先で今度は491号線の高架下手前の分岐を右に折れて潜ります。高架を潜る手前辺りに 
御駕籠立場跡 があった 長府才川1丁目

高架を潜った先の旧道街道は右(西側)手に山陽本線、左(東側)手に491号線の間を西南に進んでいきます

やがて才川橋を渡ります、小川の左、才川交差点で491号線が国道2号線に合流しています
街道は真っ直ぐ進んでいきます

ほぼ真っ直ぐの街道が西南に延びます、右50m程で山陽本線、左100m程で国道2号線の間の街道の街並みほぼ真っ直ぐの街道を暫く進みます

右に長府駅前郵便局があります、小川に架かる橋を渡ると間もなく右手に山陽本線の長府駅があります。

長府駅前今日はここまでとします、厚狭を7時50分に出発して、相変わらず休憩食事なしに歩き、15時30分着、27.29㎞。今日は時々小雨でどんよりとした一日であったが、いよいよ山陽道も明日一日午前中で終わりです。
JRで下関駅前の下関東急インへ移動。

次の日はコチラ

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