長崎街道 〖3日目〗

2011年11月3日

飯塚~原田

鳥栖駅5時30分発の博多行きにのり博多駅経由で新飯塚駅へ、約2時間の移動となり非常に時間の無駄となった。今日は長崎街道最大の難所、冷水峠越えをする。実によく歩いた一日で原田駅に着いたのは17時30分。旧街道らしい峠越えであった。距離がうまく測れていなく 40km程だろう、長崎街道は歩数や距離が測れていない
      昨日の起点  7時45分 スタート
     原田    17時30分 着
         約40㎞ 

昨日の起点である片島一の信号交差点から南にスタート。少し進むと右に片島郵便局があります。さらに進んだ右奥に高野山真言宗観音寺

観音寺の高台から南側の 納祖八幡宮の屋根が見えます

街道に戻り進むと右手に、納祖八幡宮があり、須佐宮・八幡宮・天満宮があります
街道に戻り進むと右手に、納祖八幡宮があり、須佐宮・八幡宮・天満宮があります

須佐宮と鳥居

納祖八幡宮と鳥居

同じ隣には 若光稲荷神社

納祖八幡神社の拝殿 飯塚村の産神

拝殿の前に 狛犬が四頭

同じ境内には 天満宮

納祖八幡宮の三社の前からの街道を振り返る。八幡宮から少し北側の街道沿いに、オランダ屋敷跡碑 が立っていたが見落としました

【飯塚宿】に入ります

遠賀川中流域に位置する飯塚宿は、長崎街道の小屋瀬宿と内野宿を結ぶ宿場として古くから栄えました。また明治以降は石炭の産地として国内有数の炭鉱町として国内の産業を支えた。現在もボタ山がみられ当時の面影を残しています。
飯塚宿は何時頃開かれたかはわかっていないが、内野宿が慶長十七年に設けられ、同年冷水峠も開かれているので、同時期と考えられています。飯塚宿は河川の水上交通に恵まれ川船による商いが盛んでした

納祖八幡宮のすぐ先で信号交差点に出ます。街道は真っ直ぐのアーケードの本町通り商店街に入ります。かつてここは 東溝口跡

右のコンビニの角に飯塚宿 東構口跡碑 が立っています

街道を進む前に交差点を左に歩き(寄り道)遠賀川に架かる芳雄橋からの眺めです。飯塚で穂波川と嘉麻川が合流して遠賀川となっています。納祖八幡宮の東側の川岸は 船着場 でした

元の街道交差点に戻ります、東構口跡の近くに 庚申

朝早いためか人通りは全くありません

本町通りの商店街に入るとすぐに、 飯塚宿問屋場跡碑 が立っています

この本町商店街の筋が宿の中心でした。東構口を抜け本町筋の両側には商家や旅籠屋が並んでいた、左に問屋場跡、右に真福寺・太養院、飯塚の地名のおこりの飯の山(飯塚山)と続き、その傍に御茶屋跡(本陣)・明正寺があります。また街筋左の問屋場跡に続き町茶屋の中茶屋・下茶屋があった。さらに南に郡屋跡がり、少し進むと本町と東町を結ぶ木製の白水橋跡があり、すぐ先の信号交差点を横断して右に折れています。右に折れた通りは東町通りで、すぐ先でバス通りの道路を横断します。少し進んだ右に太神宮跡があり、そこで左におれて少し南に進んでいくと西構口跡にでて右斜めに進み宿を抜けます。穂波川に架かる徳前大橋に出ます

曹洞宗飯塚山太養寺

浄土宗真福寺

浄土真宗本願寺派和光山寂定院明正寺

商店街は休みだろうか人一人合わない。街道の宿場通りは往時の面影はなく新しく建て替えられています

商店街の通りに立つ案内図

本町商店街と東町商店街の交差点本町側の街道の商店街を振り返る

東町の商店街を進みますかつてはここに木製の白水橋が架かっていました。今はその川は埋め立てられ残っていません

少し歩いたところでT字路となり右に商店街を折れます

右に折れてすぐ商店街のアーケードが切れて道路を横断して100m程西に進み、左に折れます

商店街のアーケードを抜けたところを振り返る時刻は午前8時10分、人通りがないはずです結構長い大きな商店街。時代に負けず頑張ってください

ここで珍しい記念写真を1枚、相も変わらず同じ服装、でもホテルで洗っているから大丈夫です

この辺り左 大神宮跡

ここを左に折れます
すぐ先右に 飯塚宿西構口跡碑

宿場西の端にあたる西構口跡で飯塚宿を出ます
穂波川に架かる徳前大橋北信号交差点に出ます

橋の袂に「向町橋親柱」碑
明治四十一年(1908)から大正五年(1916)に行われた遠賀川改修工事(流路変更の大工事)に伴い、長崎街道に大正二年向町橋が建設された、宿場時代の地名は「向町」でした。木橋であった橋は、昭和四十七年、徳前大橋完成とともに取り壊されたが、親柱はこの場所に、かつて長崎街道が通っていた証として伝えています

かつての旧道は、北詰の橋の袂から右斜めに対岸に進んでいました

徳前大橋を渡り信号交差点を右に折れた対岸の堤防道

延長線上の旧道にでて分岐を左(南)に下ります。この辺りに渡ってきていたところを振り返る

堤防の分岐から600m程進み、徳善から堀池地区に入ったところで街道は分岐します。右の道を進みます

右に折れた右側に堀池の 貴船神社

昔からあった 井戸 境内のこの井戸で堀池の人達は、毎日水を使っていた生活水です

貴船神社の前の旧道を振り返る神社の隣に 真言宗醍醐派金倉寺 があります

暫く南に進みます、秋松地区から楽市地区へ

楽市の信号交差点を横断します

右に楽市保育所を見て、趣のある楽市の街並みを進んでいきます

やがて街道は左を平行して通っていたバス道路を斜めに新道信号交差点を横断します

横断した先は、天道の街並みに入ります。緩やかに蛇行しながら800m程街道を歩く

やがて筑豊本線の天道駅の前に出ます

天道駅の前を進むと

すぐ右から473号線のバス道に合流する。合流した右手に天道郵便局があります

その先右に 天道神社 いまより千年以上前にあったと伝わる古社

少し進んだ左奥に 真宗大谷派常楽寺

そして街道沿い左に 恵比須神社

恵比寿社の前から振り返ったところです

恵比寿社のところから、かつての旧道は左斜めに入り筑豊本線を越え東側に出て並行して南に進んでいたが、民家が建ち並び旧道は完全に消失しています。神社前から473号線の先を見る

線路沿いに旧道がないか、常楽寺の所に戻り踏切を東に越えると(天道駅の南)

日蓮宗法輪山圓満寺 がありました、圓満寺の裏手の大将陣山(標高112.4m)で山麓に位置し近くに大将神社もあります

やはり道は無くなって南に進めませんので一旦473号線の恵比寿神社前に戻り神社の北側の細い道を東に50程入り分岐を右(南)に折れて新しい住宅地の中の道を140m程進むと右に住宅地内の道が右に折れて473号線に出ますが、真っ直ぐのかつての旧道はこの辺りで右(西)に折れずに、左斜めに進み(今は住宅で道は消失)50m程で筑豊本線を斜めに横切っていた。筑豊本線の東側に旧道と思われる道が復活しています。確かこの復活した旧道に行ったのですがどのようにいったか記憶が曖昧です。線路際から復活した先10m程で、飯塚市から桂川町に入る境界です

参考にはなりませんがこのような道を歩いたよです、かえってややこしくなるので掲載しなくていいのですが折角だから載せておきます

この辺り右手筑豊本線、左山裾で飯塚市と桂川町の境界です。一里塚跡 があったようですが特定できません

200m程右の線路に沿って南に進みました長崎街道の標柱が立っています

旧道は突き当たりますので右に折れ、泉河内川に突き当るので左に折れます

瀬戸地区に入ります。右に案内板が建てられています

一里塚と瀬戸の渡し
桂川町瀬戸と穂波町の境には一里塚があった、現在宅地化されて所在は不明。

瀬戸の渡しは、川幅十間ばかりあったようで歩いて渡ったようです。渡し場の傍にある川波氏の家は、当時「船庄屋跡」で旅人はここで休憩したと伝わる。また渡し場の付近には旅館・茶屋・馬繋ぎ場があった。明治30年対岸に道路が開通(473号線)してから旧道は利用されなくなった。
またこの辺りで、長崎街道と秋月街道の分岐する追分で、追分碑が建てられており「左 秋月海道 右 肥前海道」と刻まれていたが、現在は無く場所が特定できない。

案内板のある瀬戸の渡し場跡の大木を振り返る。向かって左に見えるのがJR筑豊本線の列車

少し進むと右の川が分流しています、西側が桂川、東側が泉河内側川。右の川を渡り西側の対岸に行けないので、信号のすぐ先の泉河内川に架かる日の隈橋を渡ります

南に400m程進んで信号の交差点を右に折れて桂川180を渡りすぐ先の信号を右に折れて、200号線の寿命信号交差点に出て右に200m程北に進み 瀬戸の渡し跡の大木のある対岸に迂回します

橋からの渡し方向の景色

寿命信号交差点で200号線を北に

200号線と線路の西側に出ます。川が分かれる西側に200号線より斜め西に分岐する渡し場跡の延長線上に旧道が復活します

旧道のすぐ先右に鳥居が 天開稲荷大明神

稲荷神社の先の分岐は真っ直ぐの右の道

線路を左に沿ってやや蛇行しながら寿命地区を南西に進む

右にホテルバロンをみて、右手の寿命古墳公園を右に巻きながら進み南西の端で分岐を左に進み、小さな川を渡ります。小川から100m程先で信号交差点を横断します

信号交差点を横断した右手に吉野商店があります

すぐ先の分岐を左への道を進みます

100m程進むと十字路となり、また筑豊本線の踏切を渡り南へ進んでいきます

この旧道を入る、筑豊本線は踏切の先で右(西)にカーブして離れていきます

左に200号線の東側に村社 豆田天満宮

左側に200号線を平行しながら暫く南西に進みます

やがて左にポンプ格納庫がある火の見櫓が立っている先で、左からの200号線に出雲信号交差点で合流します

出雲信号交差点から700m程200号線を重複

長尾地区に入った一つ目の長尾信号交差点に出ます

長尾交差点で200号線より右に分岐して旧道を進む

380m程進むと穂波川に架かる汐井川橋を渡ります

橋から右(北)の原風景の眺望

橋から250m程先でT字路になりますので左へ

すぐの点滅信号を越えて長尾の街並みを通っていきます

右手に長尾の 老松神社(須佐神社) 石段を上った高台にあります

神社の過ぎたところから長尾の街並みを振り返る。右の老松神社を過ぎると、右手奥、線路手前にちくほ図書館、筑穂体育館、さらに南にJAふくおか嘉穂筑穂が見えます

長尾地区から阿恵地区に入った左に小公園がある十字路を横断します。十字路を右に折れてすぐ先には、筑豊本線の上穂波駅があります

十字路の左には阿恵の 老松神社(大明神)

山口川に架かる馬出橋を渡ります

橋の先を進みますと左に200号線が接近するが旧道は手前で並行して進みます

左に 祠と灯篭

小さな杜に中にある祠と灯篭の所を振り返る

集落を抜けていきます

すぐ先でJR筑豊本線の踏切を渡り、線路を左に沿って進みます

線路を渡った右に 

傍に鳥居を上る 愛宕神社

暫くは線路に沿って進みます、途中右手斜面に 猿田彦大神

愛宕神社から横山地区に入った先で、左からの筑豊本線の踏切を渡り線路の東側に出ます

線路を右に静かな田園風景と集落を進んでいきます

踏切を渡った先から振りかえる

横山峠
今は峠といった感じはしません、緩やかな坂道となっています

峠の右に 石柱
チョット読みづらいが「・・・如来二十三番・・」

石柱のところで右に上る急な石段がついています、気になりますが滑って危険そうなので上るの控えます

右の奥にあかね園を見て、その先で筑豊本線の踏切を渡り線路の左側(東)を進みます

筑豊本線を右に、左に200号線・穂波川に沿ってその間の旧道を暫く進みます。分岐は200号線には下りません。この先かつての旧道の道筋がそのまま残っています

正面に見える木の左袂を通ります

街道の名残を残す旧道を進んでいきます

正面に江戸時代の面影を残す内野宿の集落が見えてきました。内野小深田地区です

【内野宿】
長崎街道・筑前六宿の一つで、慶長十七年(1612)黒田長政公の命により、黒田武士で有名な槍の名人母里但馬が代官として内野宿の建設にあたったという。母里氏の転任後を引き継ぎ内野太郎左衛門が内野宿を形成した。
現在、内野宿は国道200号線より外れており、江戸時代そのままの道が残り宿場の面影を残している。
東構口(飯塚宿側)から西構口(山家宿側)まで約600mあり、その中央で右T字路の辻を右に入ると御茶屋(本陣)があり、その傍の道を進んでいくと太宰府へと続いていた。
飯塚宿へは三里三丁、山家宿へは二里二十丁。山家宿との間には長崎街道の難所中の難所冷水峠があります。宿の記録によると大名の参勤交代初め沢山の人々に利用され栄えた。また、福岡黒田藩主による度々の内野宿を本拠とした狩りをしていたという。
内野宿については百数十戸が焼失する大火が何度も繰り返し、火難除け祈願の「麹断ち」(こうじだち)の習俗が今も続いている。

内野の小深田集落に入ります

内野最後の街道松 街道沿いに立っていた松で、内野の最後の松であったが、昭和50年代初めに伐採された

右手に 藤井政太郎君頌徳碑 1855~1920年内野村の発展の貢献、大正3年(1914)建立されました

内野下町に入り、下図の右手に内野小学校、さらに右奥にJR筑前内野駅があります

右角に内野小学校

小学校の切れたところに 東構口跡 下町にあった飯塚宿側の東構口

東構口跡のすぐ西側に 旅籠若松屋跡

宿場の風情が残る街筋松浦川に架かる橋を渡ります

松浦川を渡りすぐ先左奥に 郡屋 村役人等の集会所、大名など通行の際、郡内の庄屋や村役人が会合し運輸業務にあたる施設が郡屋

続いて左に 麹屋、街道を挟んだ右に 松屋、松屋は酒屋で母屋は江戸後期の建物。酒名を「松浦川」といい昭和初期まで酒造業を営んでいました

麹屋の西隣奥に 浄土真宗本願寺派正円寺

正円寺の並び隣に 甘木屋 島原藩御用の物資運送に携わる

人馬継所:角屋跡
宿場業務の宿役人として年寄りと問屋がいた。人足や馬を提供する施設が人馬継所で問屋場とよばれ、その宿役人が問屋である。明治初期まで残っていました

すこし先の左、中野茶屋の薩摩屋 の辻で左T字路となっています。太宰府天満宮への旧道でこの通りも暫くは内野宿内として賑わっていた。右角に 大宰府天満宮米山越道の道標

えびす碑石造りの道標
「大宰府天満宮米山越道」(嘉永二年正月)及び恵比須碑(元禄14年4月3日)内野宿の栄梅講や玉梅講が関係して建立。旅人の安全を祈願した

【寄り道】この宿場通りを入ります内野小路、その先で筑豊本線を渡ります

踏切を渡った左手奥に、永平寺の末寺で 曹洞宗室谷山宗賢禅寺 本尊は聖観音菩薩

宗賢寺の東側の米山越道沿い右に 庄屋山内家跡 今は草が覆い繁っています
右に庄屋跡を見て北側の駐車場の先で右に折れますと、左一帯が 御茶屋(本陣)跡

内野の夫婦いちょう
二本の銀杏があったが、内野宿本陣内にあった大銀杏(雌)は昭和十年に伐採され跡形もない。右の雄の大イチョウはお薬師様のお堂隣に偉容に残っています。県天然記念物、樹齢約400年、幹回り約7.6m

銀杏の傍に お薬師様

お堂の前に 旅田彦大神碑

御茶屋(本陣)跡 見事な大銀杏

御茶屋(本陣)跡は参勤交代時の諸大名が宿泊した。また福岡黒田藩の歴代藩主はここを本拠として内野周辺で猪などの狩りをしたと伝わる。屋敷敷地は「御茶屋絵図」(文化八年:1811)によると南北約63m、東西約60mを有した

米山越道 の右手、御茶屋跡の東の背後の高石山は、秋月瑞城・高石城の古城跡、街道左辺りは 代官所跡

米山越道を振り返えった北を見る、ただこの旧道は途中で廃道化していて通れないと資料には載っています

大銀杏への道と旧本陣跡付近

米山越道に出て振り返ったところ

米山越道の途中、前述の宗賢寺の北側西の境内に 三尺坊秋葉権現
永宝七年(1679)120戸焼失する等度々の火災があり、時の宗賢寺の和尚が明和三年(1766)遠江の国から火除けの神として三尺坊秋葉大権現を勧請して寺内に祭り祭祀を現在まで行ってきました

宗賢寺境内にある 内野太郎左衛門重信の墓
藩主黒田長政の死去(1623)公の菩提を弔うため剃髪して、小庵を結んで隠遁した。太守黒田忠之はその情に感じて、卜祐賢の号を送る。寛永十六年(1639)62歳で病死、碓井の永泉寺の住職がその霊を祀るため一寺を開いて宗賢寺とした

宗賢寺より長崎街道に戻る米山越道方向を見る

【旧内野宿全体図】

T字路の長崎街道に戻り西へ、T字路の正面には
中の茶屋:薩摩屋跡 
町茶屋(脇本陣・中の茶屋)で百富氏が代々茶屋の守の任にあたっていた

続いて西隣に 荒物屋の油屋
続いて 旅籠肥前屋

すぐ隣西には 小倉屋
両替商を行っていた建物で豪壮、街道と共に宿場の面影が味わうことのできる素晴らしい。元禄の頃より住し、現在の建物は明治13年に新築

街道を挟んだ向かい側には、酒屋:三辻屋、旅籠:博多屋と並ぶ。博多屋に続き、町茶屋:長崎屋(脇本陣・下の茶屋)があった。現在の建物は明治末期のもの

内野上町の宿内を進みます

江戸時代前期に居住した、大庭家の200年以上以前の新築建物そして旧家の並ぶ街並みを進みます

宿場は西端に近くなり旧道は少し狭くなります振り返る

左に 旅籠:大黒屋

大黒屋の道を挟んだ向かいに 旅籠:恵比寿屋

大黒屋の西隣に 酒造業:伊藤家 明治末期の建物

すぐに 山家宿側の西構口跡 東構口との宿間は約600m

西構口 付近を振り返る

西構口のすぐ先右沿いに 老松神社・須賀神社・天満宮の杜

須賀神社

内野老松神社 宝暦二年(1248)建立の古社

 天満宮

その先に関屋に入ると 大門跡

内野宿も終わるが、素晴らしい宿場の街であった。ゆっくり見学させてもらった、このように建物も残っている街並みはすくなくなってきています後ろ髪が曳かれながら続いて歩きます

内野関屋地区の右に お堂

暫く進むと左から国道200号線が合流しますが、国道200号線を横切り、その先で右に折れて何度か200号線を左右に蛇行しながら進むことになります

合流したところから内野宿方向を眺める

その先国道に沿った旧道を進みます

関屋から荒田地区は道路改修により鉄道建設で旧道が変わっている。また写真が少し曖昧ですが、とにかく道なりです

民家も無くなり山道に入っていきます西側の山裾と穂波川の間を進みます。通れない箇所は国道に沿った道を進みます。やがて 発峠 のバス停です峠の感じはないです

発峠から100m程先で旧国道に入ります、さらに進んでいくと

やがて右手の国道200号線・JR筑豊本線の高架を潜り西側に出ます

この先でJR・国道は冷水トンネルに入っていきます

旧道は国道に沿っています
長崎街道の冷水越は大正に入り県道(現在の国道200号線)の開通で新冷水峠越ができたことにより、旧道の役目が終え、現在では長崎街道を歩く人のみとなっているようです

国道に沿っていた旧道は、一旦国道に合流しますがすぐ国道を渡ります

渡ったすぐ右に大根地神社の荒田の鳥居の左の旧道を進みますます。内野荒田の表示と長崎街道の表示が立っています

大根地神社の鳥居の横の旧道を進むと旧長崎街道の冷水峠への登り口です
いつものことですが緊張する瞬間です

街道の左下はJRの筑豊本線が見えます何時の間にか山深くなってきました

JRのトンネル入口の上の橋を通り振り返る。坂がきつくなってきます。やがて石畳道の残る山道に入っていきます

街道沿いの お地蔵さん

左に緩やかにカーブ

竹林の中を進む、このあたりは、土砂で石畳道が埋もれることなく、かつての街道石畳が残っています、きっちり敷き詰められて素晴らしい

石畳道と竹林の中の薄暗い旧道、何とも言えない、良い意味での緊張感です昔なら追いはぎが出るようなところ

素晴らしいの一言に尽きる旧道です

街道は鳥居から20分ほど進むと二手に分かれるが左の道を進みますと、右手に首なし地蔵の前に出ます
首なし地蔵
薄暗い峠にこのような名前の地蔵、少し薄気味が悪い、でもこの辺りは明かりが差し込んでいるので心強い

 【民話 首なし地蔵】
昔、悪者がこの峠で旅人を殺害した。悪者はこのことを道ばたの地蔵に向かい、誰にも言うなという。地蔵は「ワシは言わぬがわれ言うな」という。悪者は驚いて地蔵の首を叩き落して行方をくらました。その後何年かして二人の旅人がここを通りかかる。谷川の水で喉を潤し、地蔵様を拝すると首がないのに一人は驚くが、もう一人の男はあの悪者であった。「ワシは言わぬがわれ言うな」のお地蔵様の言葉を忘れて、その首のないわけについて、何年前かの自分の仕業を自慢げに白状した。話を聞いた男は、前にここで殺された長崎の人の血縁であったので、仇討ちが行われたといいます。

地蔵堂の内部、お堂の中の首なし地蔵お堂の横に大きな榎が立っています

傍には石橋が架かり清らかな水が流れ、旅人はここで一息して喉を潤したことだろう、水は真夏でも大変冷たく、冷水越の名前の由来
冷水峠と地蔵堂と石橋
地蔵堂を右に見て、石橋を渡り左(手前)にカーブしています。石橋には文政六年(1823)と刻まれています

すぐそばには 一里塚跡の標柱

一里塚の先の峠道

沢に沿って上っていきます。少し道が草に覆われています.
これ以上草が覆うと少し道が隠れてしまいそう

全く人と出会わない峠道

旧道の石畳み道が残っています

地図から見ると、荒田の鳥居から左下にJRの線路に沿って上り、左下に見えるJR筑豊本線が冷水トンネルに入るところの上に架かる線路上の橋を左に渡り、トンネルの上部近くの南側を登っていきます。やがて右に緩やかに方向を変えながらトンネルの北側に出て20分程進み首なし地蔵に着きます。石橋を渡り左に急カーブして再びトンネルの南側に出ます。首なし地蔵から10分程登ると冷水峠に着きます

長崎街道の難所中の難所、冷水峠

峠には 大根地神社の冷水峠の鳥居 が建っています。荒田の鳥居からの続きです
鳥居の前に二基の郡境石が建っています

この鳥居から北西に約1時間30分程の山道の九州自然歩道を登っていくと、大根地山(標高652m)があり、大根地神社があるようですがチョット時間的に無理です。大根地神社・大根地山からの眺望が素晴らしいようです。境内に茶店や土産物が販売されているようで、別のルートから車で行けるかも

 郡境石「従是西御笠郡」「従是東穂波郡」

鳥居の前(冷水峠)の街道広場かつて峠には茶店が大正の頃まであったという。白おこわが名物であったらしい

広場から見ると山家宿側への街道で昔は石畳道であった、道幅も広げられ石畳も全てとられたらしい

大根地神社への登山の表示が立っています

「従是穂波郡」の郡境石

気持ち良い坂を下っていきます

時間的には5分余りで、正面に国道200号線が見えてきます。冷水峠頂上や大根地神社へは現在ではこちらからの方が楽かもしれません。国道に出る手前左に石造り物の獅子が一対並んでいます石畳も一部残っているようです

左を見ると下に 鳥居 が建っていますので100m余りの参道です

街道は真っ直ぐ、少し下ったところから振り返ったところです

下っていくと国道200号線に出ます。国道を左に進むと、新冷水峠を越えて前述の内野方向へ戻ります

国道に出て少し左に折れたところに、前述の鳥居と大きな大根地神社の看板が立っていて参道となっています
神社へは車道があるのか分からないが、年齢によっては参拝は大変だ

柵のところに降りてきました。国道200号線と合流するところを見る

大根地神社の大きな看板からの街道は、国道200号線の左右を蛇行しながら進んでいたが、道路改修工事で殆んど消失しています。途中上西山バス停を通り、浦の下信号交差点辺りまでは、国道を歩いたり、残っている旧道を探し、その案内表示に従って歩きましたが、今となっては記憶が曖昧でどこを歩いたか分かりません。写真に沿って想像するしかありません。
この掲載を見て分かる方がいらしたらアドバイスを頂ければありがたいです。また表示に従って歩いた藪道は果たして今も残っているか、整備しない限り近い将来間違いなく歩けなく、国道を迂回するしかなくなるでしょう

200号線を暫く進みます、大型車両の車がスピードあげて突っ走り歩道もないので危険、十分注意が必要です

この辺りからかつての旧道は国道の右側に進み並行して進んでいたようですが、今は消失していますので国道を進みます。土手に上がる道らしき跡があるが旧道跡だろう

国道の右手山裾手前辺りを旧道は通っていたそうです

国道を暫く迂回しながら進んでいくと上西山の集落があり、右手に

大根地神社登山道・甕冠(かめかん)神社への 道標
道標の右への道を入って上っていくと 甕冠神社・寝手神社があります。その辻の左は川沿いにやや広い交差点になっています

山家川の国道に架かる橋をその交差点で渡ります。その先100m程で上西山バス停があります。
上西山地区で昔は山家村茶屋原村と呼ばれ茶屋・旅籠(長崎屋・吉野屋・肥前屋等)があったそうです。
上西山バス停の先70m程で交差点に出ます、その交差点辺り右から消失した旧道が出てきて、国道のすぐ先で、山家川に架かる橋を渡り、左側山家川沿いに進んでいたようです。そして80m程先で一旦国道に合流しています
上西山バス停前後の旧道も殆ど消失していますので、季節により国道を迂回するのが無難かも

合流した左角の平島酒店の裏側擁壁の間の道を進んでいたのでないだろうか

酒店の裏側の狭い道を入ってみます

そこを入るとしっかりした旧道らしき道が残っています、右の坂でなく左の道を進んだように思います

左の道を進んだ先

やがて再び左からの国道に合流します。国道は右(西北)にカーブしますが、かつての旧道は国道を横断して右に分け、旧道は真っ直ぐ西に進んでいたようです。このカーブの左手に 茶釜石の遺蹟 
形状が茶釜に似ているところから、旅人の目印になっていた。「筑前国続風土記拾遺附録」と刻まれている

国道を横断して正面の旧道跡の藪道に入ります。藪道の先数十mで山家川を渡ります

旧長崎街道の案内表示が立っていますが。かなり藪が覆い、夏場は難しいかも

微かに旧道跡が残っています

区間は短いのですが大変旧長崎街道の砂釜橋を渡り、その先、山家川を右手に沿いながら左に大きくカーブして南西に進むが、筑豊本線が地下トンネルを通っています

砂釜橋の先で 鍋峠 の入口に入りますが、
長崎街道う回路の表示があります。チョットどこに看板が立っていたか思い出せないが多分国道の迂回を指していたか、本来の峠道は消失しているのでと迂回かと思います

昔は冷水峠に次ぐ難所道であったらしいが、今は一部旧道が残っていますが、難所の峠の面影は失われています

快適な地道に変わりました

長崎街道の案内標示

旧長崎街道の表示が立てていただいているので何とか歩けます。表示がなければ無理です

鍋峠の旧道
砂釜橋からの鍋峠への旧道は少し面影が残っていました。この付近、かつては「大鍋・小鍋」と呼ばれた景勝地であったがその面影はありません

案内表示通り進み 鍋峠の頂上付近 ですが、今は国道200号線が分断、更に峠を削って国道が交差していますので、峠跡と思われません

国道を横断して再び旧道跡の藪の道に入っていきます

鍋峠の下りで旧道の雰囲気が残る、西への道

薄日が入り歩くには気持ちが良いです足も草で柔らかく負担が少ない

紅葉が終わっているがその時期は綺麗だろうな

表示が立っています、間違っていないと確かめられるのでありがたいです

左(南)トンネルの上を抜けてきた道と合流します、旧道は真っ直ぐの道を下っていましたがすでに道は消失しているので右に山型に迂回します(この先暫く旧道は消失してして)

山型に迂回して舗装道を下っていきます

冷水道路のトンネルの東側出入口の北側に下ってきたところから振り返る。写真正面上が鍋峠付近

トンネルの出入口付近から400m程下った先で下西山大橋の高架下を潜っていきます

高架を潜り暫く下っていった先から振りかえる

更に坂を下っていきます、途中右手に 大日如来碑 さらに西50m程先の雑木林の中に 比翼塚という二基の墓石があったようですが見落としましたが後日写真で追加しました。この坂道を椎の木坂と呼ばれたそうです

比翼塚 森の中にあったよです
この塚は山家で妻敵討事件(めがたきうち)が起きた。豊前中津藩士、渡辺金十郎の妻と甥の三十郎で夫が参勤交代で不在の折不義の仲となり、翌年逃避行の旅に出た。二人を討たねば家名断絶となる夫は、藩の許可を得て、奥平藩は路銀を与え二人を追わせた。一ヶ月後命運尽きた二人は、夫の手で果てた。
心優しい里人は掟に縛られる武家社会を嘆き、来世までも離れるなと抱き合わせて、葬ったという。安永9年(1780)3月18日の古都であった。

梵字石 地元では大日様と呼ばれているそうです

右の山家川に沿って緩やかな坂を下っていきます

民家は散財しますが、人と会うことは滅多にありません、閑静な道を進んでいます

峠より下ってきた長い 椎木坂を振り返る

その先で、山家川が左にカーブするとともに道も左に急カーブして冷水道路の高架を潜ります

高架を潜ると川に沿って右に大きく弓なりにカーブしながら進むと、長崎街道案内表示板が立っています

弓なりに曲がった先で冷水道路の高架を潜ると左の国道200号線の浦の下信号交差点に合流します。信号から南西に200号線を進みます

浦の下信号交差点に出るところは広くなっています

国道200号線に合流したところです案内標示が右に立っています

少し先から振りかえると、高架が冷水道路(うぐいすロード)で下が国道200号線です。街道は向かって左側の雑木沿いの道を出てきました。
浦の下信号近くの街道には 浦の下大橋跡 であった
一応、冷水峠の下りから、浦の下信号交差点まで歩いてきましたが、前述の通り冷水道路や国道200号線の開削で旧道が消失している部分が多く、果たして歩いてきた道が正しいか分かりませんが、近くであれば再度歩いてみたいが遠くて無理なのでまたアドバイスがあればご教授ください

信号交差点から100m程先で川を渡り、さらに130m程先に浦の下バス停があります。右手傍に山家第三区公民館があります

この先の山家宿への国道200号線

左側、田の畦道が真っ直ぐ西南に延びています、もしかして旧道の名残かも分かりませんが?

浦の下バス停の右手(西側)には石垣の積まれた長い白い塀に囲まれた大きな建物が見えます
大庄屋肥後細川藩本陣跡の山田家 肥後細川藩主が長崎街道を通るときに本陣宿としたため細川本陣宿ともいわれた

広大な敷地で、管理が大変だろうでも素晴らしい

街道左、山田家の向かいに分家の福石 山田家不老亭 があります

田家の生垣の袂に 猿田彦大神

猿田彦の前の街道

国道を暫く歩いた先から振り返ったところ

山家ニュ―タウン前信号交差点に出ます、交差点を横断してなお200号線を進みます旧道は国道を左右に蛇行しながら消失しています

更に信号を2つ越すと右に山家小学校・幼稚園があります

やがて筑豊本線の踏切を渡ります

すぐ左手に井上政次郎先生と刻まれた 記念碑 が立っています明治四十年代に山家村に医者がいなく村医として招かれ大正十四年亡くなるまで村に医療に多大に貢献されたので村民が建てた顕彰碑

踏切を越えると「山家宿」に入ります。東構口跡 あたりですが何も遺構が残っていません

 【山家宿】
山家宿は東構口から新町・横町(仲町)上町の三つの町から形成されていました

東構口の裏側に 山家宿の大庄屋役宅 があった、寛保二年(1742)ごろ山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡。近年まで一部残っていたようで、写真が掲示されています、老朽化が激しく取り壊されたようです

庄屋宅跡の手前右に 一字一石法華塔

大庄屋役宅跡

新町の中程左にある 真宗西本願寺派桃渓山西福寺
正保四年(1647)に現久留米市から現在地に移転。境内には鐘楼や・冷水隧道工事殉難者六名の昭和三年建立の弔魂碑が建てられている

右に 山家郵便取扱所
明治4年12月5日開局 現:山家郵便局

郵便局の街道を挟んだ左辺りが 問屋場跡 で裏には 人足部屋・駕籠小屋・馬小屋 が建っていました

すこし進んだ左T字路で国道は真っ直ぐ進むが街道はここを右に折れます。T字路の左手角には 下茶屋跡 で屋号を「薩摩屋」と称した。代々山田家が世襲していた

上町に入り右に折れた宿場の街筋が150m程続きます。かつてはこの筋には十数軒の旅籠が建ち並び旅籠街が形成されていました

50m程先右に 山家宿郡屋跡

屋敷図が掲示され、郡屋・穀藏・稲家・灰屋・馬小屋・土蔵等が配置していたのがわかる

その隣右手上町の中央に 中茶屋跡 があり屋号を「長崎屋」と称した

中茶屋跡のすぐ傍に 恵比須石神像 寛永十年と刻む

そのすぐ先、辻があり右手側に 御茶屋跡(本陣)

辻の交差点を街道は左(南西)に折れますが、御茶屋に沿って西北に下代屋敷が五軒建ち並んでいたという 
下代屋敷跡

下代屋敷の奥には 山家代官所跡
初代代官は黒田二十五騎の一人、桐山丹波守孫兵衛で慶長六年(1601)黒田長政より受けた。宿駅の創設、冷水筋の開通など功績があり、寛永二年(1625)七十二歳、山家村で没し、墓所は代官所の裏山にあります(墓は薩摩街道の時に寄りました)

交差点に戻り左に折れる角(左角)に、日本唯一閨秀詩人 原采蘋塾跡碑 が立っています

【山家宿の全体図】

すぐのところ 筑前山家宿初代代官桐山丹波遺蹟碑 山家宿西構口の傍に建つ

西構口跡 筑前六宿の内で構口がほぼ完全な形で残っている構口はここだけで振り返ったところ

西構口を出て西南に旧道を進む、左手200m程のところにJR筑豊本線の筑前山家駅があります。この道幅もかつての旧道を踏襲しており雰囲気があります

ここから少し写真がないので文章で説明します。
十字路を左に折れたところから、230m程旧道を進んでいくと再び十字路に出ます。舟町でかつてこの辺りに 
追分石 があったそうで、字舟町と谷川との境に建立されていたが、今は筑紫野市歴史博物館の玄関前に移設されているそうです。「右 肥前大宰府長崎原田 左 肥後久留米柳河松崎」と刻まれています。
十字路を右に折れて数十mの右T字路を左に折れる旧道が「原田往還筋」で、長崎街道が統一されるまでこの筋が主であった。
十字路を真っ直ぐ150m進むと変則の十字路に出ます。真っ直ぐの長崎街道と左斜目に進む旧道が、「枩崎往還筋」で200m程先、「日田街道」に合流していましたが、すぐ先の国道200号線で旧道は消失しています。十字路を真っ直ぐ進む 長崎街道が慶応新道と して一本化された道で、150m程先で 日田街道 に合流します。左から200号線も合流する間片信号交差点に出ます。
長崎街道はこの辻を国道から離れ右(西北)に進みます。

途中の変則十字路近くに 西部軍司令部跡洞窟道碑 第二次大戦の遺物で洞窟が山麓にあるそうです

があります

日田街道に突き当たる手前にRショップ、やまえ店がありますので右に折れます

信号交差点の北側角に 山家宿番所跡の碑

ここでも写真が撮れていなくて残念ですが、Rショップやまえ店の西側の間片信号交差点を、南西に進む道が、数十mで筑豊本線の踏切を渡ります。さらに50m程で左からの前述の枩崎往還筋が合流していました。さらに西南に300m程進んだ先で山家川を渡り、そして400m程先で国道200号線の蔵役信号交差点を横断してさらに900m程、日田街道を進むと、途中右に天神宮、左に中牟田小学校を通ります、小学校の南で小さな川を渡り、その先200m程で595号線の交差点に出ますが、その手前70mほどで左T字路があります、この辻を右に折れる旧道が「薩摩街道」(鹿児島街道)で熊本から鹿児島への街道です。
この右に折れる薩摩街道と真っ直ぐの日田街道の分岐に、石櫃の追分石があるようです。「右 肥後薩摩道 左 豊後秋月日田廿日道」と刻まれた道標が立つ。ちょっとここまで行く時間がない。
薩摩街道や日田街道は何時か行ってみたい街道です。(この付近どうして写真撮れていないかわからない、非常に残念です、幸い薩摩街道歩いた時撮れました)
元の間片信号交差点に戻り西北に長崎街道進みます。100m程進んだ先で右から前述の原田往還筋が合流してきす。そのすぐ先、左に文化シャッター福岡工場があり、街道の右手には大きな池が二つあります。街道を進みます

池の堤を右に見て進みます

新しい住宅地の中の真っ直ぐな道

右に 敬止義塾跡 福岡藩士の杉山灌園が、明治十年(1877)頃に開いた塾、明治二十三年死去したため閉塾

少し進むと、十字路がありその左角に 二境界石
江戸時代宿駅山家の下宿として賑わった二と御笠郡天山との郡境に立てられた境石「従是西御笠郡 東夜須郡」

十字路を真っ直ぐ進むのが 日田街道 で、ここで分岐して長崎街道は左に折れます

左(南西)に折れて真っ直ぐな道を、330m程進むと112号線との交差点に出ます。左角に井手建具店があります

交差点を横断したあたりが 杉馬場跡 道は分岐しているが真っ直ぐの左の道を進んでいきます

途中字が読みづらいが左に 道標 があります

左にセブンイレブンがあり、左からの77号線と合流します
かなり日が落ちてきました、少し急がなくては

セブンイレブンの前から振り返ったところです

合流したすぐ先で、JR筑豊本線の踏切を渡ります

踏切から下見地区を600m程進むと、広い53号線と交差する下見信号交差点に出ます

旧道は交差点を横断したところで、二日市生コンの左斜めの分岐した旧道に入ります

100m程入ると十字路に出て小川を渡り、右への道を入ります

数十mで宝満川の堤防に沿う道に突き当たります。川に橋がなく右に少し迂回して下見橋を渡ります

宝満川に架かる下見橋を渡ります。橋から少し左の旧道の対岸に出て右に折れて進み、右からの車道に合流します

下見橋から左斜め前方の筑山中学校や西鉄天神大牟田線の筑紫駅方向を見る

下見橋を渡った左の筑山中学校

橋の少し南側でかつて川を渡っていた旧道は中学校の敷地内を抜けていたようです

橋を渡った西詰に77号線と築山中学校の間に旧道らしき道が残る道を進み、すぐ先の右からの77号線に合流して、築山中学校前信号交差点を横断します

交差点より50m程先で西鉄天神大牟田線の踏切を渡ります、左手直ぐに筑紫駅が見えます

踏切の先130m程で歩道橋があります、かつての旧道はその手前で少し左に入り、歩道橋に向かって左を山型に迂回していたようです。
消失しているので77号線を進みますが少し左に入ると、追分石と恵比須石神 が立っていました。
歩道橋に戻り77号線を170m程進むと、広い道の交差点に出ます。
左斜め後方から前述の消失している旧道がここに出てきていました。広い交差点を右斜めに入る道を進み100m程入ると道は分岐しますので左の道を西に進む、100m程で77号線が直角に北に方向を変えるところの、筑紫信号交差点に出ます

77号線を少し進み右への側溝の所を右に入る

右に入っていた街道

分岐を左に道なりに進むその右手に 猿田彦大神塔

申塔より100m程先で、筑紫信号交差点手前左に犬眼社事務所があります。信号交差点を左に見ます、そのまま真っ直ぐ77号線を横断して進むが、少し左の信号を横断して西側の延長線上の旧道に出て数十mで分岐する辻を左に入る

左に筑紫信号交差点を見ながら渡ります

入るとすぐ分岐は左(南)への道

やがて左からの広い道路に出ます、手前右に弁当屋大ちゃんがありました道路に出た東側にはローソンがあります

広い車道に出ますので右へ、すぐの筑紫野バイパス北信号交差点で

筑紫野バイパスの高架道路を潜り、高架道路の下で左の広い道路に分かれ右への旧道を進みます

右の旧道を入っていきます、右手に福岡常葉高校があります。道は左にカーブしていますが、左手にドラッグストアモリがあります

左にカーブしたところから振り返る街道は、そのままカーブすると広い道路に出ますが、数十m手前で右に折れます

合流する右手にレストラン黒田屋があります。その黒田屋の前を通り筑紫神社を右に見て左からの広い道路に合流しますが、街道はかつて右斜めに進み元禄の鳥居のところに出ていたようですが今は消失しています

原田宿
少し広い道路に沿って100m程で右手に 筑紫神社の元禄の鳥居 があります

鳥居を潜り東側からの参道に入りました街道はこの鳥居の手前を通っていました

尊王烈士の碑
幕末に藩が幕府方の保守に傾いたのに反抗した二人の武士の顕彰碑

縣社筑紫神社
老樹の繁る杜には見どころも多く、市内で最も古い歴史ある古社

江戸時代より長崎街道原田宿として栄えてきた当地「原田」には延喜式名神大筑紫神社が鎮座されるこの街道を往来する旅人は、牛馬等を境内下の広場に休ませて、参道を通って参拝したと伝わっています

神社より南に下る参道を進みます南側からの参道入口

この辺りはすでに原田宿に入っていますが、原田宿は明日にして、元禄の鳥居前より街道を150m程南に進んだ582号線の交差点(筑紫神社前交差点より東50m)で本日は終了します。
ただかつての街道は、元禄の鳥居前よりいまは消失していますが、更に右斜めを通り筑紫神社前信号交差点の袂に出ていたのではないだろうかと思います。この辺りは 原田宿の東構口跡 ですが何も痕跡はありません

街道をもう少し南に進み伯東寺の所を、左の車道に下ると車道の向かい(東側)に森が見えます。
森には 五郎山古墳と五郎山古墳館 があります。五郎山古墳は直径約35mの6世紀後半ので装飾壁画の持つ円墳で(国史跡)

森の北側には 金比羅神社

五郎山円墳

五郎山古墳館

古墳や金比羅神社のある森をぐるりと回りました

金比羅神社前から少し車道を北に戻り、筑紫神社東信号交差点に出ました。信号交差点を北から見たところです。左角にセブンイレブン、左前にシェル、右角にジョイフルがあります。ジョイフルの前を西に折れると一筋目が元の街道で本日の終了起点です

筑紫神社の鳥居が建っています。 明日の街道はここがスタートです

その鳥居の袂に 道標 「左 天満宮参詣道」

ここより少し西に進んだ十字路を南に折れると500mほどでJR原田駅に着きます。
ズート沿ってきた筑豊本線と北からの鹿児島本線が合流する原田駅です。
原田駅から鹿児島本線で五駅目の鳥栖駅へ移動して予約しているホテルへ入ります。本日も電車移動で毎日電車移動で今回はロス時間が多い

次の日はコチラ

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