長崎街道 5日目

2011年11月5日

中原~佐賀
佐賀駅から7時30分JRで中原駅へ昨日の起点に戻ります。久し振りにホテルで朝食を食べ、中原駅から15分ほど歩いて街道へ、朝少し歩いた時から雨が降り出し結果1日中降り続いた。
今日は佐賀市内の河川敷きで国際バー(気球)・・・大会があるとのことで人が沢山出ていたがあいにく雨で中止でした、折角近くを歩くのに見たかったが残念。そのため佐賀市内のホテルはどこもほぼ満室とのこと。11月6日まで5日間大会は行われているとのことで、明日天気であれば佐賀スタートだから見えるのだが。今日は佐賀城下に入るのが昼過ぎと思うので佐賀城下を見学し、明日朝もう少し市内見学して街道歩きを始めます。
城下見学も含め16時30分終了。佐賀市内のホテルとれなく、予約の都合で佐賀駅からJR特急で武雄温泉駅へ移動、駅近くのパーソナルホテルゆうに宿泊、今日も移動時間で無駄な時間を費やす。
観光も含め25kmほどの歩行、連日距離が短くなっています

【寒水宿】
寒水宿は、前述の祇園社あたりからで中原宿1㎞ほどの距離。それでも大きな村であって700戸程の人家があったそうです。かなりの賑わいのあった宿の様です。今では宿の遺構は殆んど残っていません。

昨日の起点、寒水宿の東寒水信号交差点をスタートします。あいにく朝から雨模様です

少し先から寒水宿の街並みを振り返る

静かな寒水宿の街並みを緩やかに下っていきます

交差点より400m程下っていきますと十字路の手前右手に 地蔵堂

地蔵堂の前から街道を振り返る

西寒水地区地蔵堂の少し先左手には池があります

街道向かい右に 恵比須像

暫く進むと右(北)から小川が接近して、街道の右に沿って進みます。更に少し先で小川が南北に流れている小川と合流したところで小さな橋を渡り数十m進むと、右から国道34号線が合流します

合流する手前右方向には大和製缶等大きな工場が並んでいます。小川が国道34号線の左に変わります。合流から34号線を350m程進むと、切通し川を渡り50m程で上峰町切通信号交差点を進みます。
途中左手に 肥前鳥居と神社

さらに交差点より暫く34号線を進んでいくと右手ヨコオ飼料配送センター北に
成田山出世稲荷大明神

佐賀成田山龍王院の前

すぐ先の成田山前信号交差点の先で、吉野ヶ里町に入ります

成田山を過ぎて34号線に沿って暫く進んでいきます

国道沿いの南方大六と刻まれた お地蔵さん  

やがて久留米分岐信号交差点に出ます。左角にセブンイレブン、右角にGSがありますので、この交差点を右に折れます

右に折れた街道結構車の多い道です右に折れて300m程の直線の道を西に進む

【目達原宿】(めたばるしゅく)があったが、今は殆んど宿の遺構を偲ぶことはできない

左にみつます耳鼻咽喉科、右にはみねこ皮ふ科クリニックがあります。その先の目達原宿の町並み

途中十字路の角に立派な旧家、十字路右手には目達原局

その先、道は分岐します、左にひらまつふれあいクリニックがありますので、街道は左に
正面に 目達原の祇園社

左角に 恵比須像

目達原宿を過ぎ一直線の街道を南西に進みます

この先写真との関連が少し記憶が曖昧なので説明しながら進みます。
直線の道を600m程進むと、やがて国道34号線の苔野信号交差点にでて国道を横断します、左(東)一帯には陸上自衛隊目達原駐屯地が広がります。
苔野交差点から200m程進んだところで、道は分岐しますので右の南西に方向を変えて真っ直ぐ進む、ここで左の駐屯地から離れます。さらに350m程進むと、左からの道が合流してくる本戦橋信号交差点に出て、西に方向を変え数十mで井柳川に架かる橋を渡ります。 井柳川から300m程進むと吉野ヶ里公園駅通信号交差点に出ます

吉野ヶ里公園駅通り信号交差点
交差点を右に折れて300m程いくと、JR長崎本線吉野ヶ里公園駅に出ます

交差点を横断して300m程西に進むと、三田川小学校信号交差点に出ます。途中左手に吉野ヶ里町役場があります。役場の街道を挟んだ北側には、三田川武道館があります。交差点の手前に左から小川が接近交差して右側に沿って、150m程並行して進む。交差点を越えたところで振り返った写真と思います。
交差点を横断した右手一帯には、三田川小学校があります。
三田川交差点より600m程進むと、三田川バイパス道路の田手南信号交差点に出て横断します。この交差点を右に折れて長崎本線を越えると、広大な 特別史跡吉野ヶ里遺蹟に行くことができます。以前家族で行ったことがあるので今回省略します。
吉野ヶ里町役場の先交差点にあった 追分石 「日本六所背振山弁財天道三十町」を見逃しました。

田手南信号交差点でこの先の街道は狭くなります
またここからはかつての小さな宿跡

 【田手宿】です

街道沿い右手に 石佛

田手宿の街並みを西に300m程進みます立派な旧家の建物が残っています

やがて田手川の堤防に突当り左に折れます

田手宿の街並みを振り返る。静かな落ち着いた街並みです。宿としての遺構跡は分かりませんが、多分休息の茶屋があった程度と思われます

堤防突当りを左に折れて南に方向を変えます。すぐ右手には田手川が流れています 

右手に 田手神社(大神宮)

鳥居前より150m程進むと田手宿もはずれで街道は分岐、右にカーブして堤防の道に出て左に折れて南に進みます

右に折れるところから田手宿方向を振り返る

街道を進む途中、街道沿いに 恵比須像

集落を抜けて右に田手川に沿い、田園の風景を見ながら進んでいきます。振り返ったところ

堤防道を200m程進みますが、その途中堤防より右に下る河川の草道があります。この辺りからかつては田手川の対岸に斜めに川を渡河し、すぐ先の迂回する田手川に架かる広円橋の西詰辺りに渡っていたようです

真っ直ぐ進むと385号線に突当りますので右に折れて、田手川に架かる広円橋を渡ります。 橋を渡った西詰右手辺りに前述の旧道が渡ってきていたようです

広円橋より右手(北)の堤防上の街道を歩いてきました。右前方は田手宿方向です。右から左手前に川を渡っていたようです

橋を渡り200m程西に進んだところで道なりに左(南)にカーブして南に田道地区を200m程進みます。やがてまた小さな川に架かる橋を渡り、橋から100m程行くと左からの細い道と合流して西に進みます。  
神埼町田道ヶ里地区です。合流点の右手に一里塚跡があります

ひのはしら一里塚跡
長崎街道で唯一残っている一里塚、榎の老木が塚の最上部に 石の地蔵尊が「いぼ地蔵さん」と言って親しまれています。塚の正面左に 観音堂が祀られています。昔の一里塚を彷彿するような立派な貴重な一里塚の遺構

街道前の一里塚を振り返る

一里塚跡を西に進む街並み、この先も小さな川が沢山交差します

まず国橋を渡ります、そして60m程で三本松川に架かる三本松橋を渡り西へ進みます。
出来町地区に入り、左に出来町公民館を見てすぐ先で笹隈川に架かる長橋を渡ります。長橋を渡ると神崎宿に入ります。長橋を渡ったすぐ先にかつては東の木戸口がありましたが、今はその遺構は残っていません、はね上げ式の木戸構造で通行人はその下を通っていたそうです。
木戸跡の先でも川を渡ると右手に神崎高等学校があります。川の先110m程で222号線と交差する神崎町一信号交差点を横断します。

【神崎宿】
中世に「神崎荘」は皇室の大荘園であった。荘園の鎮守社が櫛田宮で宿の中心に多くの寺院が建ち並び門前町としてもさかえ、六斎市がたった。
東の木戸の外には東新町・出来町ができ、西の木戸外には、西新町・挽木町ができ宿場も大きくなっていった。天保七年(1836)の記録では400戸程の建物が両側に並んでいたという。
長崎街道二十五宿の宿場の中でも重要な宿場であった。藩の御茶屋・本陣・脇本陣・伝馬・駅場・馬立場・問屋場・宿継所・高札場を備えていた。
東・西の構口は厳重な木戸であったそうです。宿場の遺構は、火災や特に明治七年の佐賀の乱では宿場は壊滅状態となり、宿場としての遺構は殆んど残っていません

長橋を渡り神崎宿に入ったあたりでかつての 東の木戸 付近で右手奥に神崎高校

明治以降の建物だろうが、旧家の趣を残しています

旧東新町、東町を抜けて神埼町一信号交差点横断すると、旧五日町で右手に
浄土真宗本願寺派虬谷山圓楽寺 佐賀の乱で火災を免れた、本堂前の銀杏の大木がその時の戦火を見ていた

門前に 多門速明の墓の標柱 がたつ
文政三年(1820)生まれの圓楽寺の第十二世住職。教養が高く明治十九年、シベリア開教使としてウラジオストックに渡り現地にて没した。遺骨は圓楽寺に納骨され墓碑が建っています

圓楽寺の少し先の十字路を真っ直ぐ進みます十字路手前右にメガネの和光堂、左に宝来軒があります

宝来軒の前から宿場内街道を振り返る相変わらず雨が降り続いています

十字路から90m程先、左角に佐賀銀行のT字路、鉤の手を左に、正面に金物店その裏は馬場川が流れています

左に折れた南への街筋を80m程進みます

左に太田米屋さんの少し先の右への鉤の手を右に折れます。右角は佐藤薬局

右に折れた先の街筋雨が降っているからか人影が見えません

右に折れたすぐに、馬場川に架かる橋から下流(右)を見る景色。右を西水馬場・左を東水馬場という。この辺りに
問屋場 があったようです。なかなかの趣のある景色です

橋から左側(南)の馬場川で川沿い右奥に 浄土宗円福寺 があります

橋から50m程進んだ左T字路を右(北)に神崎市役所方向へ少し入っていく道があります、宿のシンボル櫛田宮です。
お祭りをしているようですが、雨でお気の毒です

馬場川を渡り西への横町通りへ進むと右手に 
櫛田宮

肥前の鳥居 三等分して建てられている肥前鳥居、慶長七年(1602)建立

鳥居の傍に 県重要文化財の石造肥前鳥居の碑

櫛田宮の大楠
樹齢約1000年「琴の楠」と呼ばれる圧倒する幹回り

櫛田宮拝殿 櫛田宮は今より1900年の前、景行天皇が創建され、皇室領神埼荘園の総鎮守として崇敬されてきた神社で宿の中央に位置し、宿の繁栄を見守ってきました

祭りの準備中であいにくの雨

境内の 弁財天巌島神社

左角に、こが商店。右が鳥居でこの鉤の辻を左に折れます。電柱の辺りに 高札場 が立っていましたこの辺りは宿の中心で旧四日町

こが商店の向かい鳥居の傍に 道路元標 看板が倒れないように縛られてるのか、何かもう少し工夫が出来ないのかな

こが商店の角を左に折れた先の街筋は、門前町として宿で一番賑やかであった、四日町・七日町の街並み
左に折れたすぐ右辺りに 御茶屋(本陣)があった。また四日町には多くの旅籠が並んでいた

左に折れたすぐ先左には 旧古賀銀行神崎支店の建物が残る正面は櫛田宮の鳥居振り返ったところ

南に真っ直ぐ進む宿の四日町・七日町の街並みを進み振り返る

200m程進むと信号交差点に出ます。横断して沢山のお寺が散在する門前町筋を進みます

門前町筋の右手(西)側には、自在寺・円通寺・光蓮寺・浄土寺・明正寺・浄光寺・大円寺、左手(東)側には、円福寺・東林寺・泰蔵院・遍宗寺・眞光寺と宿街並みにこれだけの数のお寺あります

街道沿い右に 浄土真宗本願寺派光蓮寺山門と馬場

旧家の建物が残ります

軒の幟の傍に 石仏 ここでも縛って旗を支えているいい感じがしない

お堂

光蓮寺の南側少し右に入ると 浄土真宗明正寺

趣のある門前町筋

その先右に折れる鈎の手があるその左側に 浄土真宗本願寺派眞光寺 脇本陣 を兼ねていた

眞光寺の角を右(西)に折れた先の宿の街並み結構長い街並みです

すぐ先ちいさな川の手前右に 浄土真宗本願寺派浄光寺 脇本陣 を兼ねていた

川に架かるえだがり橋を渡ります、雨の中情緒のある街並みです。また雨がよけいその趣を醸し出している。雨の中の街道歩きもまた考えによれば良いものです悪く考えずいい方に思うといいかも

神崎そうめんの旧家の建物

さらに橋から250m程進むと小さな川に架かる橋を渡ります

その先120m程で道は分岐していますが真っ直ぐ左側を進む。ここは 西の木戸跡・天満宮 があります。西の木戸は天神さんの門の近くにあって木戸の外側には、数軒の旅籠屋や飯屋・旅人宿があったそうです

丁度三角形の中に 長崎街道神崎宿西木戸口の看板 西の木戸口の跡

木戸跡傍に建つ宿の地図

右の木戸跡・天満宮を見て真っ直ぐ進むと、城原川に突き当ります。
かつてはほぼ真っ直ぐ進んで城原川を渡っていたが、今は右に迂回して城原川に架かる神崎橋を渡って対岸に出ます

西の木戸口付近から西新町通り、九日町を振り返る。道路も綺麗に整備されていますいい情緒です

西の木戸右に 天満宮

ゆっくりと雨の中を神崎宿を歩き宿を出ます
城原川に突き当ったところ

右の城川川に架かる神崎橋からの左側を見たところで、この先暫く対岸の堤防を進みます

神崎橋から、天満宮・西の木戸を見る。橋の右側を渡っていました

神崎橋を渡り神崎橋西信号交差点を左に折れて48号線の堤防道を南下します

城原川を左に堤防道を2.2㎞程ただひたすら歩きます、道路と川の間に沿った道がありますので歩くには安全です。この先、城原川に架かる新村橋・夫婦井樋橋・新宿橋と左に見て進みます

堤防の右下の道から、新宿橋への辻に上る坂道地 新宿地区

新宿地区に入り、左に城原川に架かる新宿橋を過ぎたところで街道は分岐、堤防道を離れ右(西南)に進みます。左手にモンブランハイツが建っています

新宿橋の分岐するところから、今歩いてきた川沿いの街道を振り返る

城原川に架かる新宿橋を見る(東方向)

城原川と離れ西南への街道を進みます左手には町民グランドが広がります

途中の街道沿い右に 恵比須像

乙南里公民館を右に過ぎたところバス停

バス停の傍に分岐している左への道がありますが分からないので、右の車道を進みました。乙南里地区の表示が立っています

さらに48号線を真っ直ぐの県道を南西に暫く進みますやがて、姉地区に入ります

乙南里地区から姉地区に入ります。街道は水源地の小川に出ますので、やや左(真南)に方向を変えて橋を渡ります。
かつての街道はそのまま南西に通っていたと思われるが、区画整備され旧道は消失しています。
南に川を渡り100m程行った先の十字路を右に折れます。十字路左には橋が架かっています。十字路を右(西)に折れて100m先の十字路を再び左に折れます。写真に撮れていませんが、左に50m程進んだ左鋭角に後方から前述の消失した旧道が合流してきていました。
合流地点から旧道が復帰します。道なりに分岐を左(南)にカーブしながら集落の中を南に進むと、再び小川を渡ります。小川を渡ったところでT字路となります、この左角に恵比須像があったようですが見落としました。T字路を右に折れて小川を右に60m程沿い、南北の川と交差するところの川に架かる矢代橋を渡り左に折れます、再び川が左に沿って南西に進みます、250m程進んだところで、左からの264号線が合流してきます。合流した辻で川に架かる高橋を渡ります。
このように少し地図を見なければ分からないと思いますが、この地区は地盤が低いようで、無数の小川が交差しています

合流して高橋から300m程左の川に沿って南下すると地藏橋信号交差点に出ます

地藏橋信号交差点をそのまま少し南西に方向を変えて街道は進みますが、交差点左の地藏橋を渡った右に六地蔵が整備され立っています

六地蔵 
明治期に建てられたもので、佐賀の乱の戦死者の供養に村民が建て今も祀られています

六地蔵からさらに南西に真っ直ぐの道を進みます

左側道に沿って川が流れています

地藏橋交差点から380m程先で小さな橋を渡り、そのすぐ先で右に原の町郵便局があります。またすぐ先で、だいぜんぼう橋をわたりますと、50m程で東原の町信号交差点に出て、道が分岐しているので右(西)への264号線を進みます

だいぜんぼう橋を越えた左側に 浄土真宗本願寺派浄覚寺
寛永十二年(1635)創建 原の町(境原宿)の東の入り口にある浄覚寺

東原の町信号交差点から西への街並みは、今では264号線で改修されていますが、原の町といてかつては宿駅が設けられ駅馬も定置され、境原ともいった

【境原宿】

明治七年の佐賀の乱での激戦地であったことから、江戸時代続いていた境原宿一帯は、殆んど消失してかつての宿の跡を見る面影はない

浄覚寺の前からの境原宿の東の入口の東原町並み 

次の原の町信号交差点まで280m程真っ直ぐ進み、信号交差点で左に折れますが、この間、宿の遺構は何もありません。

 【寄り道】で交差点を右に折れて川に架かる正一位橋を渡ると正面に、若宮神社があります

正一位 若宮神社の肥前一の鳥居

若宮神社
神社拝殿の前には、狛犬が一対並んでいます

交差点に戻り左に折れますがその左角に
原の町の恵比須像

残念ながらここの交差点で旧道を間違えてしまった。
鉤の辻になっています。旧道は原の町交差点を左に折れて60m程南に進んだ先で、左T字路を右に折れています。その角に道路元標がありました。右に折れて140m程西に進み、途中264号線を横断して(信号も横断歩道もないので注意)50m程進むと小さな川を渡り右T字路を左に折れて70m程叉南に折れて進むと、左からの264号線に合流して宿を抜けていました。(鍵の辻の正しい道)
この旧道を歩かず原の町信号交差点をそのまま264号線を進み、西原の町信号交差点を通り合流地点に来てしまった。(間違い道)
残念ながら、宿の遺構ともいうべき、原の町交差点を左に折れて、左T字路を右に折れたところにあった、かつての
問屋場跡・道路元標 を逸しました

(間違った国道を歩いた二枚の写真)原の町信号交差点の先の264号線先に見えているのが西原の町信号交差点

正面右に中村歯科医院が見えます、その向かい道路を挟んだ川の西側に左から前述の旧道が出てきていました。遠いので再度確認に行くこともできず残念です。雨で少し注意散漫になっているようです。

264号線を重複しながら500m程進みますが、途中右手に千代田西部小学校があり、二つの川も渡っていきます。角に片江商店があるところで264号線を左に右に入る旧道があります

すぐ先で十字路を横断すると、左に川が100m程沿います

左の川が切れたところで、南北の川に左の川が突き当たり、街道はそのまま川に架かる橋を渡ります

川を渡り200m程進むと小さな小川を渡る、右手に煉瓦壁の新しい民家が建ち、その手前の広場の隅に

佐賀神崎郡境界石柱 が立っています 「従是東神崎郡 西佐嘉郡」

郡境石から100m程で川を渡り左にカーブしています。カーブした先で、264号線に合流します

合流して100m程右に折れて264号線を進むと、一里塚橋 に出ます。何も痕跡はありません。橋を渡り少しの間、左に小川が沿います

一里塚橋から左に東分上公民館、セブンイレブンを見て巨勢町修理田地区を進むと、焼原に架かる道崎橋に出ます。橋の袂に 戸次塚碑 おじさんが掃除をして、お供えもされています

焼原川に架かる道崎橋

道崎橋より暫く歩き川を渡ると右に、巨勢地域ふれあい館、左に市立図書館こせぶんしつがあります。すぐ又100m程で川を渡ります。二つの川を渡った右手に、佐賀市とうぶJAさががあり、高尾信号交差点に出ます。
信号交差点より110m程で新郷交差点があり右の川を渡り右に入り数十mで左に折れて川を渡る道があります。または、信号より右に川を沿い100m程先、右の川が切れた辻を右に折れる道、80m程入ると前述の道に合流して西に進む旧道。どちらが正しいか分かりませんが、私は後の方の旧道を入りました。

前者の道はこの写真の川の手前を右に入る。後者の道は右の川が切れたところの辻を右に入る。右に折れる角に消防格納庫

後者の旧道を入るところ90m程先のT字路で右からの前述の道と合流、右角にパーマヤさんがあります

T字路を左(西)に折れた街道

やがて巨勢川に架かる高尾宿橋を渡ります

橋の手前左にある 恵比須像

高尾宿橋を渡り、左にローソンを見て130m程先で大きな牛島宿信号交差点に出ます

牛島宿信号交差点に出てその先の旧道は、現在の264号線の南側(左)を西に進み川の北側を進んでいたが、今は消失しています。その川の南側にはモラージュ佐賀の大きなショピングセンターの建物が見えます、さらに川沿いの先には大阪王将があり、旧道はその敷地内を通っていました。 牛島宿信号交差点を右(北)に少し入ると、巨勢神社があります
巨勢神社

止む得ないので牛島宿信号交差点から264号線を450m程重複して進みます

間川放水路手前の一つ目の信号交差点に出ます。信号交差点を左、右の川沿いを南に80m程南下します。左に大阪王将があります

左の王将の敷地内を通って消失した旧道跡あたりのところに進むと、丁度、間川放水路に架かる新村橋がありますので西に渡りました

橋を渡ると道がなくなり、右側に橋口公民分館、左にマルハン佐賀店が建ち、その敷地内を進み、すぐの十間堀川の角の堤に出ます。その角から左の川に沿い100m程西に進んだ先で、川とともに右(北)にカーブしているので沿います。すぐ数十mで264号線(東いちょう通り)に出ます。旧道は264号線をそのまま左斜めに折れて間川放水路を西に渡っていました。止む無く左に264号線に架かる牛島橋を渡り川沿いを右に折れて60m程進み、右の間川放水路に架かる構口橋の西袂に出て左に折れます

(単純な道は下)少しややこしいので、再度同じ道を戻り、前述の264号線に架かる信号交差点に戻り、264号線で間川放水路に架かる橋を渡り、180m程歩き構口信号交差点に出ました

まるなか 恵比須

構口信号交差点よりすぐ先、大溝川に架かる構口橋を渡りますと 東構口の木戸と番所 がありました

この先 【佐賀城下】 に入ります  
佐賀は奈良時代(八世紀)からすでに佐嘉の地名があった古い町、佐賀市の中心地で海抜5mと低い。龍造寺氏が領主として治めていたが、江戸時代に入り廃絶となりその後、鍋島氏三十六万石の大名として明治に至る

東の構口から西の構口には木戸番所が置かれた。城下の長崎街道は屈折を繰り返し西に進んでいます。城下の街道を進みますが、(寄り道)をしながら歩いたので、街道は分かり辛くなっていますのでご了承をください。

城下に踏み出し、大溝川に架かる構口橋方向(東)を振り返る

すぐ先で新郷交差点を横断して西へ

交差点までの街道沿いに 恵比須像 

交差点を右に行くと 牛島天満宮への道案内

佐賀市内には沢山の神社仏閣等史跡があります、とても短い時間で回れないので、街道沿いを主に見ていきます
交差点の先右に 臨済宗南禅寺派大慈山長徳禅寺

街道沿いの 松亀恵比須

暫く西に真直ぐ行くと、紺屋川に架かる 思案橋 思案橋の上流の芦町は歓楽街、下流は今宿の遊郭街でした。「行こうか、戻ろうか」とこの橋の上で思案したそうです

思案橋の手前の恵比須の十字路右手に入ると 野中鳥犀園(国の登録文化財) が重厚な構えを残している薬屋 

思案橋よりすぐ先の十字路(鉤の辻)を右に折れます。角に蔦屋が、歴史は古いが建て替えられています。蔦屋の角を右に折れるところで思案橋方向を振り返る

十字路右角に 道標 「をくら ながさき」十字路より振り返ると道標は向かって左看板蔦屋の袂にあります。蔦屋も蔦屋の一粒金といわれた思案橋の名物。

旧町の材木町

蔦屋の辻を右に折れて数十mで左(西)に折れます、その手前左あたりかつての南蛮寺跡であった。 
左に折れて柳町の筋を西に進むと十字路に出ますその右手角に、蔦屋があります。蔦屋の角の十字路を右に折れます
看板の袂に 道標 「なかさき こくら」

右に折れた筋で、右の看板の袂に道標があります、左には庚申鮮魚

ここは 鉤の辻 となっていて右に折れてすぐ先で左に折れます、左に折れたところ

左角の電柱の袂に 道標 「ながさき こくら」

清心院の不動明王の案内、牛島天満宮の北側、十間堀川沿いにあります柳町を西に進みます

柳町にかつては、紺屋川・裏十間川を小舟で荷を運ばれ、多くの商家や両替商が並んでいた、城下の経済の中心地でした。三省銀行・古賀銀行、古賀旧宅・旧中島家・高崇家の薬師門が残り・馬場家が今も面影を残す町

ざぶとん恵比須
左に大正十年の履物問屋 旧久富家住宅を見て

左に、ももたに歯科医院をそのすぐ先十字路左にイケダ保険薬局を過ぎる、十字路の左西角に松尾タタミ商店

半跏恵比須像
片足を垂らして座る半跏スタイルでなく、両足を曲げて座る安産スタイル。畳屋さんをお守りする恵須。畳の上に鎮座しています

この先の写真、道順に写しているか不確かです重厚な建物が並んでいます右に 旧三省銀行の建物

三省銀行の西側に 浄土真宗本願寺派専福寺 
門前に 島本良順先生墓所の碑 佐賀蘭学者の始祖

街道を挟んだ向かいに 旧古賀家住宅

8世紀前期の城下最古の町家建築

柳町通りにある、長崎街道名産「富士の煙」製造所跡 
江戸時代寛政年間(1788~1800)に森永忠左エ門が鍋島藩の御用煙草として製造販売を始めた。広く名前も知られ近隣諸藩にでまわったが、明治37年の政府公布により国営化となりその姿を消した。

呉服恵比須
明治期、柳町には金融機関を始め、呉服屋、下駄屋が軒を並べ、森永家も煙草店・呉服屋として栄えました

すぐ先十字路右手に、旧古賀銀行創始者 の古賀善兵衛の旧宅

建物は、西隣にある旧古賀銀行の頭取の住宅。江戸期以来古賀家はこの地に住していた。この建物は明治17年(1884)に建てられたと伝わります。
古賀銀行解散後、所有者が変わっていったが、平成3年佐賀市の所有となり、佐賀市歴史民俗館として開館しています

武家屋敷風の立派な建物です

西隣にある 旧古賀銀行現在歴史民俗館 として開放

広い屋敷です

十字路を左に入ったところの 八坂神社

八坂神社の東隣に 旧中村家 明治18年の建築

八坂神社のさらに南に入っていくと 旧福田家住宅

街道に戻り旧古賀銀行の斜め前に、八坂神社の西側
旧馬場家住宅 建築は約200年前で改装中、鍋島藩の藩医

すぐ先で呉服元町の信号交差点を越えますと、右に小川が流れています 晒橋

ガス灯

呉服元町の信号交差点の広い道路を左(南)に進み、佐賀城の東にある武家屋敷の立ち並ぶ一角に大熊記念館へ
【寄り道】します

佐賀の七賢人の一人、副島種臣・鍋島直正・江藤新平・島 義男(北海道開拓の父)・大木喬任・佐野常民(日本赤十字事業生みの親)
大熊記念館大隈重信旧宅(生家)

呉服元町の信号交差点に戻り横断して西に進みます。この先の写真何処あたりか少し記憶がないので説明します。
交差点を進み晒橋を渡りその先左に浄土真宗本願寺派光明寺の前を進みます。
かつての本陣は、呉服町の晒橋を渡ったあたりにありましたが、今はその痕跡はありません。
馬継ぎ場も呉服町と長瀬町にありました。
呉服元町信号交差点より150m程進むとT字路となります。その手前左に追分石の道標と恵比須像があります。T字路を右に折れます。T字路右角附近に本陣跡があったようです。

呉服元町交差点を横断して進んできた呉服元町

T字路に出たところから振り返る左角のお菓子屋さんの前に恵比須像と道標(追分石)二基

道標二基(追分石) 「左 こくら 右 ながさき」

恵比須像

江戸末期より道標の隣に鎮座していた。かつては烏帽子を被っていたが心無き人に烏帽子を割られてしまって無残な姿になったそうです。近所の人によって手作りの帽子をかぶっている、街道沿いの人の暖かい気持ちに感謝。
T字路を右に折れて200m程北に進みます。途中右に佐賀県国保会館があります、その西側には愛宕神社があります

やがて呉服元町を200m程北に進んだ十字路を左に折れます。右手東北角に、浄土真宗本願寺派専称寺 があります。十字路を真っ直ぐ進んで川を渡ったところ東西に東側には、浄土真宗宝海山願正寺・西側には、浄土宗白山無量光院称念寺 があります鍵の手の繰り返しです

十字路を左に折れた右手塀際に 道標 「左 ながさき」

白山町に入ります左に折れて130m程白山街を進む途中 上林文書碑 が立っています

右手に 浄土宗白山無量光院称念寺

左に折れた白山町を130m程進んで、交差点を右に折れます。右に折れた左にエスプラッツ白山の建物

右に折れて90m程進んだ先の右T字路を左に折れます、市街地を屈曲した鉤の手道です

右T字路を左に折れて、左にエスプラッツ・右にシムポラリスの建物の間のアーケードの街道を西に、中央通りを横断して250m程白山町を進みます

途中の中央通りを横断

横断した左手に唐人恵比須像
鍋島家お抱えの石仏彫刻師を先祖にもつ平川氏が作った恵比須。この付近異国の人が多く住んでいた唐人町

唐人町の由来
天正十九年(1591)佐賀藩に召抱えられた高麗人李宗歓は、秀吉の朝鮮出兵の際、通訳使として、また陶工たちの招聘にも重要な役割を果たした。宗歓は利敵行為をしたため故国に帰ることが出来ず、佐賀に留まることとなった。
藩主の鍋島直茂はこのことを不憫に思い、佐賀城下の十間堀川以北の愛敬島村に、慶長4年(1599)宗歓が連れ帰っえってきた高麗人の一団を住まわせた。その中にはのちの鍋島更紗を創始した久山道清もいた、唐人(異国人)の住む町として、唐人町と名付けた。
宗歓の功績に対し、名字帯刀を許し、十人扶持と海外貿易の永代御用達商の免状を与えた。
宗歓は、唐物の繊維品、陶磁器、金物類、荒物など日本にない珍しい物を輸入し、これを扱う商人が集まってきて、今日の唐人町の基礎ができた。
平成十一年(1999)唐人町は宗歓の町づくりから400年の記念すべき年を迎えた。これを機に唐人町は「未来に歴史を刻む町づくり」を目指して、二十一世紀に羽ばたきたい。(説明板より)

250m程先で、白山一信号交差点、駅前から南に走っているシンボルロードの広い道と交差します

白山信号交差点で本日は終了して、右に折れると少し先で、JR佐賀駅の正面に出ます

早く着いたので佐賀市内の東側を見学し佐賀駅に着きました16時30分、25km
佐賀市内のホテルが気球大会で満室、JRで武雄温泉駅の近く、パーソナルホテゆうに今晩宿泊のため移動します。またもや時間の無駄になってしまいました

次の日はコチラ

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