朝鮮人街街道  1日目

                                     2012年2月12日

 1日目  滋賀県野洲市小篠原の中山道との追分 ~ 安土駅

 2日目  安土駅 ~ 中山道鳥居本宿との分岐点

【1日目】  自宅4時30分に出て南海林間駅へ5時11分発で難波へ地下鉄で大坂駅へ6時21分快速米原行に乗り野洲駅  まで。中山道の分岐点まで少し歩きスタートする。
        起点   7時35分 スタート、  
        安土駅  17時  着
            48.717歩  29.23km  2151kl
  きょうは街道らしい道を1日歩く。この街道はどこも地元自治会の人々の努力によってよく整備されている。

【2日目】  1日目と同じ時間に家をでて安土駅まで行く。   2012年3月3日
        前回の起点から 7時50分 スタート  
        鳥居本駅   17時 着完歩
            51.385歩  30.83km  2285kl

国道から離れている道だが、車が多く歩きにくく折角の旧道の面影を残す街道であるが残念。でも全体的には朝鮮人街道は満足のいく街道であった。

  かつて織田信長が安土城を築いた時に整備された街道で京への道。江戸時代に入り吉例の道として徳川歴代の将軍上洛に道として利用された。よって大名による参勤交代時の使用は禁止された。また朝鮮からの慶賀使節団である朝鮮通信使のみが通行を許されて、一般的には朝鮮人街道という。中山道は東側をほぼ並行しながら通っている。

JR東海道線野洲駅前東口駅前に出て駅前の広い道を東へ、すぐの野洲駅前交差点を右に折れる。暫く南西に真っ直ぐ進む。野洲小学校を左に見てその先でV字路の辻となり、左先に、行事神社が有る。ここで今来た道を戻る

行事神社、ここの先のV字路が朝鮮人街道の野洲町行畑の起点 V字路を左が朝鮮人街道、右は中山道。(歩きました)

行事神社の隣西側中山道沿い右に 背くらべ地蔵(右) 阿弥陀如来立像(左)
この大小の石仏二体は鎌倉時代のもので、中山道を行き交う旅人の道中を護ったといわれている。また、当時は乳児がよく死んだので子を持つ親たちが「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背比べさせるようになり、いつしか、背くらべ地蔵とよばれるようになった。

地蔵の傍に、道標 「東光寺 不動明王 十二丁」

中山道の西の道筋

行事神社の前よりスタートすぐの分岐点真っ直ぐは中山道。朝鮮人街道は左への道起点にかつて道標があったが、今は少し中山道沿いの西、蓮照寺に移されている。左に折れた道、真っ直ぐ進み、右に野洲小学校がある

祇王井川 祇王井川が街道に沿って流れている

近江国野洲郡江辺庄の庄司橘次郎時長と刀自の間に生まれた「祇王」は、後に京へ上り白拍子となり、相国入道平清盛の寵愛を受けた。伝説では、祇王は故郷の水利が悪く干ばつに悩まされていることを清盛に訴え、承安3年(1173)に三上地先の野洲川のほとりから琵琶湖野田浦に至る三里の間に水路を作らせた。その恩恵をたたえて、この水路は「祇王井」と名付けられ、800年を経た今をも水田を満たすばかりでなく人々に安らぎを与えている(説明文より)

右に 野洲郡勧業館・野洲郡役所跡 明治43年にこの地にたてられた、昭和35~43年野洲町役場庁舎、昭和46~55年野洲幼稚園舎として使用されていた。現在は駅前、ウルス公園

野洲駅前通りの交差点

右手手前角に大きな 道標 「真宗 木辺派 本山錦織寺一り」

野洲の町並みを進む

陸橋を潜り真っ直ぐ進みその先で左に折れて斜めに東海道線を越えていたが、今は消失久野部の陸橋に上り東海道線を越えることとする

高架の前方左の森は 円光寺と大行事神社

高架を渡り交差点左角に 真盛宗歓喜山長福院 円光寺

円光寺本堂(重文)康元二年(1257)の建立

高架下に戻り右の東海道線に沿って少し進むと、左に大行事神社

大行事神社本殿(重文)円光寺の鎮守社、本殿は室町時代中期の再建

県道の交差点から東海道線の高架下に戻る右に東海道線、左には新しい久野部の住宅が建ち並ぶ

暫くした先で中の池川を渡る。中の池川が左斜めに流れ離れていきます

すぐ先で右に祇王井川を渡り川の東側を進むと冨波乙集落に入る

橋の袂右に 

少し先左に 浄土真宗本願寺派鈴木山 光円寺

一直線に延びた冨波乙集落が続く、整然としていて気持ちがよい。

光円寺の先左に 浄土真宗本願寺派光明山 遍照寺

続いて左に 

すぐ先小さな川の橋を渡ると 真宗本辺派花園山 圓住寺

少し先で少し左にズレているが、ほぼ真っ直ぐの新道と小川に沿って左に直角に曲がる旧道があるのでその道を左に折れる。

左に折れる道を入る

更にすぐ先の十字路で、右に直角に折れる道を曲がる

右に折れる小川の袂右に 

十字路を真っ直ぐ行った左に 光徳寺

十字路を左に側溝沿いに入ると右に生和神社

生和神社 生和神社本殿(重文)神社の草創は平安時代で本殿は南北朝時代の建立といわれている

野洲川より水をひいた水路が町並みを流れ綺麗

十字路に戻り進むと少し先で右からの新道と合流する。その先で信号交差点を横断富波乙から富波甲集落を進む

信号交差点の先右に 真宗大谷派吉祥山 遊林寺

街道を挟んだ向かい右に 真宗西浄山 佛願寺

旧家棟川を渡ると永原に入る。永原は佐々木六角氏の家臣永原氏の領地であった。

右に 屋棟神社

左に少し入ると、 福泉寺

薬師瑠璃光如来(国宝)

左に歴史ありそうな旧家 福谷三郎兵衛酒店

石造の 

お堂

街道右に白井医院の向かい比較的新しいが大きな立派な建物が

⦅寄り道⦆少し離れているがここで街道よりそれて野洲・祇王寺周辺を見る

街道よりそれて左(北)に入る道、琵琶湖畔方向

常夜灯が 

祇王屋敷跡の案内板が立つ祇王屋敷跡
平家物語に登場する白拍子・祇王の生誕地として祇王物語を刻んだ石碑がある

祇王物語を刻んだ石碑

屋敷跡に立つ神社

屋敷跡より西へ少し進むと 宝池山 祇王寺。 祇王は「祇王寺略縁起」によると、京都の嵯峨野で38歳の生涯を閉じますが、故郷の村人らは祇王に感謝して祇王寺を建立し、村人を救った偉大な女性として敬っている。

祇王の墓右から二つ目の一番背の高い五輪塔

祇王等がが祀られ散る祭壇

祇王寺の全景

祇王寺近くの 浄土真宗本願寺派日光山 明覚寺

更に少し西に進むと 土安神社 祇王井川開拓の神童子を祀る

神社の西側一帯竹藪と田畑となっている 永原御殿跡 江戸時代初期将軍上洛時などに使用する「御殿」または「御茶屋御殿」あと。家康・秀忠・家光の三代に利用された。1685年御殿も廃止され取り壊された。現在は竹藪となり、堀・土塁・石垣がその面影を残している。

御殿の模型

更にその西に 菅原神社 学問の神様菅原道真を祀り毎年2月25日の火渡り神事が有名

再び東へ、祇王屋敷跡の前に戻り少し東へ進み右に折れて南に歩くと八幡神社

八幡神社の傍の小さな 石仏が並ぶ

石仏の並ぶ隣に 北村季吟句碑 松尾芭蕉の師でもあった季吟の生誕地で祇王井川への感謝を詠んだ句碑

永原御殿御門 浄専寺に移築されている

鶴王山 浄専寺

浄専寺より街道に戻る南への道の途中に 常夜灯二基

少し時間もとったが周辺の散策も終わり、南へ進み県道2号線の北信号交差点を南へ、朝鮮人街道に戻り再びスタート

桜並木の綺麗な街道風景、東祇王井川が街道右に沿う

やがて新家棟川の家棟橋を渡る

右、畑の向こうに見える森は、春日神社の杜

暫く進んだところで信号交差点に出る右は高木地区、左は小南地区

信号の先、左に緩やかに大きくカーブしながら日野川に向かって進む。

左に、愛宕大神石碑 と新しいお堂

左に綺麗に祀られた 石仏

やがて右に日野川の堤、少し堤に沿って進む左角には旧家の面影を残す大きな民家この界隈では当たり前のように残っている

右の堤防に上る

日野川に架かる仁保橋を渡る

旧道はかつて、仁保橋の約50m下流に木の橋が架かっていた

仁保橋を渡りすぐの道を左に折れ50m程堤防を進み、かつての対岸の旧道地点の渡ってきた延長戦の辺りで右の道に折れます。 

近江八幡市十王町に入る右に 正林寺の屋根が見える

右に折れる右角に お堂と石仏

この旧道は、十王町~江頭町~田中江町と進む静かな落ち着いた街道

すぐ右に、浄土真宗本願寺派守川山 正林寺

左には、浄土真宗本願寺派 正覚寺

右に県道が並行して出来たのでかつては表道として車も走っていたが、今は殆ど地元の車以外は走らない市道となったが。我々にしたら素晴らしい街道となっている十王町の街並み

十王町西交差点手前右角の小さな 

新しい朝鮮人街道の 道標 「朝鮮通信使の通った道 仁保のまち」

一筋右(東)の県道沿いの 浄土宗 報恩寺

街道を進むと江頭町に入る左に 愛宕神社石碑

江頭町の街並み左に近江八幡江頭郵便局があります

⦅寄り道⦆郵便局横の路地を入ったところの 愛宕神社石碑 その路地を入っていくと少し寄り道で街道より離れるが

真宗大谷派至徳山 稱讃寺

隣にある お堂

お堂の中に沢山の 石仏が祀られている

すぐ傍のT字路の角に江頭町公民館があります。

至誠館(至誠学校)
明治10年に建設された江頭単独立の学校。明治10年12月に現在残る本館のほか二棟の校舎が新設された。新校舎は、五教室で生徒数は213名もいた。明治19年には、尋常科江頭小学校および第十六学区高等科江頭小学校に改められ、県下九校の内の一校として遠くの村からも通学されていた。
太鼓堂(十時太鼓)
太鼓堂には時を告げる太鼓と、火災や堤切れなど村人に緊急を知らせる半鐘があります。太鼓は夜十時に鳴らし、村人の帰宅を促しました。
十時を過ぎても夜遊びをした若い衆は、次の日親付きで庄屋さんに呼び出され土間の赤石に頭をなすりつけ、親子が詫びたといわれています。 (説明板より)

江頭町公民館に立つ 道標 「左 長命寺舩道」江頭は豊臣・徳川時代には湖上を結ぶ港があった。

太鼓楼

公民館の少し西には 日吉神社

公民館の北側には 真宗木辺派栄雲山 光照寺

その北側には 浄土宗無障山最勝院 長光寺

更に道を挟んだ北側には 真宗本願寺派至心山 西念寺

その隣には名前が分からないが 神社

更に西に進むと 八幡神社 神社の東側には田中江港があった

八幡神社より南へ戻ってくると 浄土真宗本願寺派獅子吼山 稱念寺

この一角には神社やお寺が集まっている。一応見学も終わり元の近江八幡江頭郵便局の前の街道に戻る。

郵便局の前に 

田中江町に入る街道を進むと左に 志賀酒造がある、その軒に 

その先を進んでいくと左に 灯籠

田中江町の街並み

県道と並行してきた街道は、この先で右から合流してくる。県道の南に最近新しいバイパス道が作られている。合流する右の民家の軒に  すぐ先で合流

その先左から突き当たるT字路の左角に 指差し道標 「牧村妙見宮コレヨリ八丁」

手前左に大きな 愛宕大神の石碑

T字路の辻にでます。左に折れて真直ぐ進みます

左に、浄土真宗本願寺派大永山 浄光寺

街道を挟んだ向かい右には、西光寺

傍にある 地蔵の祠

加茂東のバス停、実はここから先の県道は両側に広がる田畑の中を真っ直ぐ、この先の白鳥川に架かる小船木橋まで伸びている。この道は昭和に入り改修された県道でかつての旧道は、西光寺の所から右斜めに進み緩やかにその先で左にカーブしながら県道を斜めに横切り、更にまた緩やかに右にカーブして、丁度、県道とバイパスが合流する地点で再び斜めに県道を横切り、左の県道に平行しながら、326号線の信号交差点で合流して、小船木橋に進むこととなる。
この蛇行していた旧道は田畑となり完全に消失している。

県道を進む

右からのバイパスが合流、ここで消失した旧道は右斜めの田畑へ進んでいた

県道左に 左に 愛宕八幡石碑

八幡山がこんもりと左右対称に綺麗

やがて白鳥川の小船木橋に出るかつての旧道は現在の橋手前より左斜めに渡っていたまた中世の古道(下街道)
真直ぐ進んでいた。

小船木橋をわたり直角に左に曲がる。曲がったところで左の白鳥川対岸を振り返る、かつてはこの辺りに渡ってきていた

橋を左に折れてすぐ先で右に正面の道を入る

小船木町の街並み江戸時代には旗本大給松平氏の領地

集落内左に 愛宕大神と祠

左に、諏訪神社への参道の灯籠

左に参道を進むと 諏訪神社

左に、浄土宗東光山 西運寺

続いて右に 愛宕大神 落ち着いた静かな街並

左に 鍵解地蔵尊

その先で街道は突当り右に折れる

正面に 道標 「左 京みち 右 長命寺一里」八幡では朝鮮人街道を、京道・京街道と呼んだ

突当り左には 願成就寺 近江湖東二十七名刹霊場日牟礼山(八幡山)西南に設けられていたが、天正年間、秀次の築城により移築される。推古天皇二十七年正月に聖徳太子(四十八歳)が勅を賜り、近江国内四十八箇所の寺を建立。

境内に建つ 松尾芭蕉の句碑

本尊は 木造十一面観音立像(重文)

右に折れた市街地の街並みに入る街道は仲屋町通りまで真っ直ぐの道、所々旧家が建つ雰囲気の良い街道

すぐ先右に 本願寺八幡別院(金台寺)もと蒲生野に顕如上人により創建され、その後、安土城下に移転、更に現在地に諸堂が移された。朝鮮通信使の一行は守山宿を出た後、この寺で昼食を取った。家康もここに宿泊をしている。
境内は広く、本堂・鐘楼・表門・裏門が残る

門の前の街道

その先左に 浄土宗 正栄寺

中村四郎兵衛邸「扇四呉服店」享保5年に開店して現在に至る老舗

本町界隈

小幡町
八幡城下形成時に神崎郡小幡村(現 東近江市五個荘)の商人がこの地に移り住んで成立した町と伝えられている。この地の有力者であった西谷家も小幡出身で、また、八幡商人御三家の一つに称された同町の扇屋伴伝兵衛は全国的な商業活動で知られている。

左に、滋賀銀行の交差点のすぐ先右に朝鮮人街道の石碑と説明板

交差点を横断した先の町並み

交差点手前には 旧西川家住宅への案内西村太郎右衛門宅址 西村家は、蚊帳・木綿を扱う商人で、屋号は「綿屋」と称した。

左には、郷土資料館になっている旧 伴家旧宅(市重文)

朝鮮人街道を左右に横切る白壁の続く新町通り
森五郎兵衛邸 煙草や麻布・呉服・太物を扱い、やがて江戸や大坂に出店、現在も東京日本橋室町に近三商事として健在

旧 西川庄六邸(重文)蚊帳・綿・砂糖・扇子などを扱う。現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ、メルクロス株式会社として健在。建物は江戸中期の建物で間口13.0m、奥行き14.9m。左側に座敷部分が張り出し、他にも、でみず間・化粧間・板塀・表土蔵などある規模の大きい町屋。

郷土資料館前の 道標 「左 京街道」

郷土資料館の北側に 浄土宗如意珠山果徳院 寶積寺

街道を進んだ左には、浄土宗 正福寺 安土城下より移転、本堂は承応三年(1645)に再建。表門とも滋賀県の文化財に指定

その先一筋目の左角に中島多吉商店その十字路を真っ直ぐ進む

次の十字路で右に折れる

十字路右に折れる先の街道

ここの十字路で一旦街道を中止し十字路の左方向にある、八幡山へ ⦅寄り道⦆をする

十字路左への八幡山方向への道

左に折れて八幡堀手前の車道に沿った 白雲館 明治10年(1877)に八幡東学校として建築された。明治10年の児童数は男115人、女117人、計232人。その後役場、郡役所、信用金庫を経て平成6年復元された。

車道を渡る徒と、日牟礼八幡宮の鳥居

鳥居のすぐ先の 八幡堀新町通りの、八幡堀・日牟礼八幡宮付近・永原通り界隈は、「伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

よく時代劇撮影に出てくる八幡堀琵琶湖に通じ八幡堀沿いの白壁の土蔵や旧家が建ち並ぶ秀次の八幡城築城の際に掘られた内堀

日牟礼八幡宮 平安時代の創建 

八幡宮の北側の公園駅からロープウエイが出ているので八幡山へ、本当は歩いて登るのがいいのだが時間的に無理

八幡市街地が一望できる

八幡城跡
天正十三年(1585)豊臣秀次によって八幡城が築城され八幡町を形成された。町は安土城下に模して基盤状に区画され今も旧名が残っている。秀次の死後、城下町としてでなく、近江商人の町として全国的に活躍するようになる。現在もその豪商たちの豪壮な旧家が残り、当時の繁栄が偲ぶことが出来る。
八幡城跡は、標高271.9mの八幡山最頂部に本丸をもうけ、二の丸・西の丸・北の丸・出丸が配置された。現在は一部石垣を残すのみで、本丸跡には、瑞龍寺が建っている。
村雲御所 瑞龍寺門跡
文禄5年(1596)秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公により、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から瑞龍寺の寺号と京都村雲の地に賜り創建された。昭和36年に京都よりこの八幡山へ主要建物が移築された。日蓮宗唯一の門跡寺院

山頂よりの琵琶湖の眺望

安土城址と水郷・近江平野

一部残る 八幡城址の石垣  

本丸跡に建つ 村雲御所 瑞龍寺門跡

本堂

開山塔

城跡を散策して下山

八幡堀沿いに少し歩いた後

元の街道、仲屋町の辻に戻り右に折れて進む
左に、酒遊館があったようだが逸した、ついお酒が飲めないものだから、老舗の造り酒屋・西勝酒造の酒蔵がギャラリーやサロンとして利用されているそうです。

その先左に 

その先、仲屋通りと上筋の交差点で左に折れる。左に曲がった右角に山岸精肉がある。上の写真の交差点を左へ、右の写真はその先の上筋

上筋を進んでいくと、左に新しい 道標 「旧 朝鮮人街道 右 永原町通り 左 永原町通り」 

野間清六家、向かい合って本宅と分家が並ぶ豪商

  仲屋通りから、永原通り・博労通り・慈恩寺通りと続き、縄手通りに入る。

この辺りは、鍵之手町で、のように曲がっている、八幡城下の東の入り口辺りとなり、高札場があった、旅籠も並んでいた。

一筋先の八幡中学手前の縄手通りで右に折れる
右に折れた縄手通りを左の八幡中学にそって進む

縄手通りの町並

右に 

続いて右に 日限地蔵尊

縄手町、徳川時代には三丁縄手町と呼ばれ、城下の東の入り口あたりで、縄手入口橋(音羽橋)に袂には木戸(黒門)があった。祠と縄手町の説明板

その先の十字路を左斜めに進む、左右に交差する道は、朝鮮人街道以前の 中世の古道下街道

交差点を横断した道、すぐ先で県道の交差点で左に折れてすぐ右に折れ県道を横断することとなる。この辺りは音羽町

県道の左手前に 常夜灯と祠、折れて継いだ道標 
「すく 長命寺みち 是より一里半と十丁」
「くわんおん寺道 是より二里」 くわおんとは、安土町にある観音正寺のこと

県道を左に折れてすぐ右に曲がる辻

30mほどで県道を右に折れると同時に小さな川の橋を渡る

橋を渡った100mほど先で道は分岐するので左の道を進む、この辺りの音羽町は住宅地

その先150m程、道は少し右斜めに曲がり車道を横断、車道手前左に農業屋車道から50mほどで

黒橋川に架かる黒橋を渡る。この地点は中山道に繋ぐ道や浜道、長命寺道などの分岐点であった。また、1470年六角氏と京極氏の黒川合戦の戦場跡であり応仁の乱でも戦場となっている。

戦場跡の黒河川

橋の袂の堤上に立つ 黒橋史蹟址碑碑の足元には小さな 石仏が並ぶ

この先、八幡から黒崎、西庄町、長田町の街道は屈折した道となる。「黒川の七曲り道」 黒橋川の黒橋を渡る

橋を渡ったすぐ先の分岐を右にカーブして進む

その右には、黒川稲荷

さらに続いて右に と小さな石仏が並び、愛宕大神碑

分岐から150mほど進むとその先緩やかに左にカーブする分岐点右に進む道が鈴鹿山系を越える 八風街道の分岐点

分岐点に立つ 道標 「右 八風街道 いせ 八日市 ひの」 「左 朝鮮人街道」

八風街道の道 残念ながら歩いていません

八風街道の分岐から少し左にカーブして150mほど進みバス停の十字路で右に折れる

更にその先100mほど進み白いガードの辻で左に折れる。

更に150mほど進みバス停の角の十字路を右に折れる

そして100mほど進むとやや広い十字路の交差点で左に曲がる。左に曲がり北東に真っ直ぐの道を300mほど進む、その間小さな川を渡ると50mほど先で左に折れる

左に30mほど曲がり、再び右に折れて真っ直ぐ北東に進む

右に折れた左に 

祠の前の街道、この辺りは新しい住宅地に変貌している

200m程歩いた左に 浄土真宗本願寺派 教稱寺

街道はさんだ向かいに 

そのすぐ先右に 常夜灯、愛宕大神、祠

 街道を挟んだ左奥には 円光寺

その東に 真宗大谷派玉泉山 徳應寺 

やがて長命寺川の街道大橋を渡る

橋より街道を振り返るトラックが停車していなければ景色がいいのだが

橋を渡るとすぐ左に 祠と愛宕大神

少し進むと交差点に出るので、交差点を右に折れる。往時の旧道は、二階建ての民家の向こう側で右に折れていたが、今は消失しているので、交差点を右に折れる

交差点を右に折れた道少し先、白い車が出てきた交差点を左に折れる

左に折れる角に 高木神社

高木神社の角を左に折れて真っ直ぐ進む

すぐ左に 真宗木辺派高木山 金円寺

左り、金円寺を過ぎた辺りに前述の消失した旧道が出てきていた

少し先左に 宝篋印塔とお堂

さらに続いて 常夜灯、祠、愛宕大神が続く

大きな 常夜灯とその前の街道

溝を越えた先左にも、愛宕大神、この辺りには非常に沢山あります。

すぐ右にも、石仏が置かれている

やがて山本川の松原橋を渡る安土町に入る

橋の少し先右に 祠と石仏 

右に 安土浄厳院の 道標

道標を右に折れて浄厳院へ⦅寄り道⦆します。JRびわこ線を渡り真っ直ぐ進んでいくと正面に浄厳院が見える。

お寺の北門の前の十字路の左右の道は、「景清道」と呼ばれているらしい、平景清が通ったのでこの名がある、中山道や朝鮮人街道の間道から、かげ京道とする説もあるらしい。

十字路右角に 石造りの祠と石仏が並ぶ

景清道の南西への道

景清道の北東への道

浄土宗金勝山 浄厳院 天正六年(1678)織田信長によって創建。天正七年浄土宗と法華宗の間で、「安土問答」が行われた安土宗論の寺としても知られている。本堂や桜門をはじめ7つの国指定文化財を所有し、朱色の楼門がひときわ色彩を放つ

大型の鐘楼

楼門

不動堂

本堂 本尊は阿弥陀如来像(重文)

朝鮮人街道に戻り進む

やがてT字路となり左に折れる

T字路の左右の道は「甲賀道」と呼ばれている

左に折れてすぐまた右に折れるが、右に折れず少し先左に 真宗大谷派 善徳寺

右に折れて安土駅前商店街の町筋に入る

少し先で常楽寺南信号交差点に出る、街道は真っ直ぐ進むがこの左右の道は 安土街道と呼ばれている

安土街道を左に折れて少し進むと浄土真宗西本願寺派 永照寺

安土街道を挟んだ向かいにもお寺があるが浄土真宗本願寺派まで読めるが寺名が読めない

そのそばに 金刀比羅神社

更に少し北に進むと常浜 15世紀に栄えた港で、1930年まで船の行き来があった。

街道交差点に戻り、少し進むと左に 恵比須神社

その先、右の安土駅前の交差点に出る街道は左に折れる

左角には老舗のような御菓子司の万吾傳街道は左に折れた後真っ直ぐ進むが今日の朝鮮人街道の1日目はここで終了する。

安土駅前広場に立つ 織田信長公像

織田桜 この桜は「織田桜」と呼ばれ八日市市川合寺町から移された。川合寺町は四百余年前、信長の姫君がよく大和桜の絵を描かれておりそれがこの桜であるといわれている。

駅前のモダンな建物、観光案内所

JRびわこ線(東海道線)の安土駅JR線で帰宅

                  1日目安土駅にて終わり

                         次の日はコチラ

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