2011年11月10日
諫早~長崎
長崎駅からJRで諫早駅に移動、昨日の起点7時30分スタートします。
今日のコースは国道を通らず快適なコースでありました。最終時点の日見峠はかなり長く大変で、少し迷ったが無事越えることができました。
いよいよ長崎市街地も見えてきて長い街道歩きも今日で完歩すると思うと感無量です。市街地に入る前に道が分からず通りがかりの女性の方に聞くと、私もそちら方面に行くとのことでわざわざ街道を歩いて暫く一緒に歩いて下さった。また説明も聞きながら歩きました。ご親切にありがとうございました。
17時県庁前の起点に到着。今日も昼から雨が降ったが、無事山陽道に続いて長崎街道も完歩することができました。約28km。
これで青森の三厩から長崎までの街道を踏破することができました。昨日に続いて長崎ワシントンホテルへ宿泊
昨日の起点より7時30分スター


どうした事か、この先暫くの間写真が撮れていないので文章で説明します。近くだったら諫早(永昌宿)周辺を再度行けるのだが残念です。
小船越町の車道を地下道で潜り抜け、左に御館山公園の山を眺めながら南西に進んでいきます。先の島原街道と分岐する追分まで写真が撮れていません。その間、1.6㎞程の間ですが、どうしたのか記憶にないのです。
右に岡崎整形外科医院が見えます。さらに緩やかに蛇行しながら南西に住宅地を進みます。
左に御館山、右手50m程に川が沿っている間の道です。枝道が出ていますが道なりに進みます。左の高瀬ハイツ数十m手前で、分岐している辻は、左の南への道を進みます。その先120m程で三路に分岐している辻は真ん中の道を進みます。道なりに真っ直ぐ南へ住宅地を400m程進んだところで、長崎本線と広い自動車道の信号交差点を横断すます。横断したすぐ先、左にサンコウハイツA棟を見て分岐を右に進みます、150m程先右に矢野酒店をみて、道なりに左に大きく弓なりにカーブする右に、小さな公園と小船越町二区公民館があります。
公民館から200m程進んでいくと小船越の追分(分岐)に出ます。追分を左に進む旧道は島原街道で右の道は長崎街道です。ここまで写真が撮れていませんので文章で説明しました
小船越の追分
長崎街道は右へ島原街道 は左に進みます

左に折れた島原街道の旧道

右の長崎街道の旧道

右角に、旧長崎街道 左島原街道の新しい 道標があります。傍に 諫早歴史街道の案内マップ板が立っています

すぐ先から追分の辻を振り返ったところです

200m程進むと右手に、農業大学校の正門前に出ます

そこの左には 「さやんごぜん」祀られていて、道祖元とか塞御前とか呼ばれる。集落の入口に祀り、外部からの邪気を払うという信仰から来たものです。
石仏の中の一番大きい石碑 伊東鼎之介の墓
明治七年(1874)、江藤新平の「佐賀の乱」の時、諫早藩士の五人によって命を落とした。23歳の若い命。


すぐに東大川に突き当ります、ここから川を対岸の橋詰めに渡っていたようですが、迂回して右の東大川に架かる佐代姫橋を渡ります

佐代姫橋を渡ると、旧道は右斜め(西南)に進み、島原道路の高架下を抜け、農林資料館・長崎県総合農林試験場の敷地を通っていたが街道は消失しています。
迂回のため、橋を渡り真っ直ぐ100m程で長崎道路の高架を潜り、右に総合農林試験場を見ながら、高架から200m程進むと正面に長崎県中央家畜保健衛生所前に出てT字路になっていますので右に折れます。

右に折れて100m程進むところで、右から消失した旧道が出てきた辺り左に お馬の水 馬に水を与えた場所で今も湧き出ています


街道は分岐していますので左の道を進むと、左手に公園があります。真っ直ぐ200m程北西に進み、分岐を左(西)に折れます。100m程先で貝津川に架かる茶屋橋を渡ります


茶屋橋を渡るとすぐ先左手に、北茶屋跡 更に200m程先、南茶屋跡でともに焼餅が名物であったという。茶屋橋~300m程は旧道が残っています
300m程の旧道の集落を進んでいきます

やがてこの先、貝津町の工業団地で再び旧道は消滅しています。かつての街道は工業団地の中を、南西に真っ直ぐ延びていました

仕方がないので、工業団地の中の道を曲がりながら西側の広い道路に出て、南へ少し進み貝津団地前信号交差点へ出ました。
中央分離帯のある広い車道に出て、南の貝津団地前信号交差点を横断して西側に出ます

貝津団地前信号交差点で分岐して右(西南)へ

すぐの西大川に架かる道目木橋を渡ります

道目木橋から100m程で長崎自動車道の高架トンネルで西側に潜り、若葉町に出ます

高架を潜った先から振り返ったところです

若葉町のバス停があり、信号交差点を横断します

ここの分岐は右へ進みます


信号の先150m程で右にカーブします、カーブする右手におおの屋があります、そこから200m程進むと右に若葉ハイツがあります。そこで左に大きくカーブしています。150m程進むと枝道が分岐していますが、道なりに左にカーブしてさらに150m程進みます。この区間は住宅地の街道です。左に大きく弓なりにカーブして進んできましたが、造成中で数年後にはまた様相が変わりそうです。
今歩いてきた弓なりの道は、かつては台地上の尾根道でした、今は住宅地の道として面影はありませんが。
街道筋の松並木が綺麗であったそうです。
やがて十字路の左角に建設新聞社の建物がありますが、街道はここで右に折れることになりますが、昔の旧道の面影を思い起こせる赤松坂に入ります

すぐ右に、赤松坂の下る雑木の中の道があります。穴蔵に入るような感じです距離にして150m程の短い街道です


この坂の上に赤松の巨木があったところからこの名がついたといいます。坂道の保護のため、ぐり石が敷き詰められていて緑陰の中にあった一面に苔が生えていたので「苔の道」とも呼ばれていました。また、この松には太閤手植えの伝説があり、久山・貝津の境界を示すものとして別名「峠松」の名もありました。坂道の中腹に街道登りの荷車の離合場所として広巾になっています。

赤松坂を下りきったら舗装道が見えます

下ってきた赤松坂を振り返ったところ、素晴らしい旧道の遺跡

赤松坂を下ったところで、左右から道が合流して一本になり南西に進みます

少し先で右から久山川が接近して、川に架かる山口橋を渡ってきた右からの道と合流します。山口橋を右に見て130m程南西に真っ直ぐ進みます

右の山口橋の合流点を振り返る。旧道は向かって右の道

合流点から130m程先で、南北に通る高架の138号線と、東から138号線に合流する車道がT字に合流しています。街道は後者の車道の高架をトンネルで抜けて南側に出ます。そして南北の138号線の道路に出てすぐに今度は、長崎自動車道の高架を潜ります

高架下のトンネルで南側に抜けるところ

トンネルの正式名 久山茶屋長崎街道絵巻通トンネル 内には絵が描かれ凝っています


灯籠とお地蔵さん

138号線にでて、長崎自動車道の高架を潜り右の久山川に沿って200m程進むと、茶屋橋のバス停があり、そこの右への分岐を入り、久山川に架かる旧茶屋橋を渡ります

旧茶屋橋を渡り斜め左に進みます

旧茶屋橋を渡って左斜めに70m程進むと、久山川の支流に架かる旧茶屋新橋を渡ります。旧茶屋新橋から振り返ったところこの付近に 久山茶屋 がありました

長崎奉行をはじめ幕府の諸役人、大名、出島のオランダ商館長、全国各地の商人や学者、文人、坂本龍馬をはじめ、維新の志士等々様々な人たちが往来した九州で重要な街道であった。
上の茶屋跡の石囲作りの井戸で冷たい水に喉を潤し、下の茶屋は旅館業(お茶屋)で籠立場として藩主等が休憩されたところです

左に 井戸跡

井戸跡の隣に 大乗妙典六十六部塔


左の井戸跡・六部のすぐ前で右(西)にカーブするところから振り返る。急な坂道を上ってきました

右(西)に折れて、右の川沿いの舗装道を登っていきます、先の一里塚跡まで400m程ですが、資料によると、旧道は舗装道と川との間辺りを上っていたようですが、今は全く旧道は消失して痕跡はありません

途中右にダム堰があります、そしてダム堰の川を渡ると、舗装道は左にカーブしています。

旧道は分岐して右斜めの雑木林のある細い登り道を進みます。登り口に
説明板と一里塚跡石標

久山一里塚跡と郡境石 「波杵郡喜々津 高来郡久山」刻まれています
細い旧道を70m程上ると左から前述の分岐した舗装道が合流します

隣に 長崎街道 峠の茶屋跡碑

振り返ったところで、向かって左の道から出てきたところです

合流点からの先の街道

左手はるか先に、牧島島と橘湾が見えてきます。長崎市内の終点までもう少し頑張る。この先も長い峠越えをしなければいけない

少し先で左に入る道は真っ直ぐ、更にすぐ先で分岐している道は左の道を、さらに50m程で前述の左の道が合流してきます。これからの山道は沢山の枝道がありますので注意が必要です。振り返ったところ

右斜めに方向を変えるところ左に 清水神宮祠
この付近を清水の谷といい湧き水が流れどんな干ばつにも枯れることがないと伝えられている。
石祠は文政元年(1818)11月吉祥日の建立で施工は白岩佐右衛星門と刻まれている

祠から左に山、右に谷の間の斜面の道を登っていきますが、右側が開けているので気持ち良い山道です。でも人一人として会うこともない、私一人の街道です

花梨の実

坂を上り切ったところの樹林、快適な道です

清水の祠から350m程進むと右手に 御籠立場跡 がありますこの辺り
井樋尾峠

ここで左(西)に大きく方向を変えます、これからの坂道を、椎の木坂 と呼ばれています、仮屋名地区です

御籠立場跡から椎の木坂を下っていきます

少し下ったところから、御籠立場跡を振り返る

下る途中右側下に見える、長崎自動車道

籠立場跡から大きく蛇行しながら西に進みます

500m程進むと南北の道と交差する辻にでます。少し迷う辻です。道筋を間違うと大変です、街道は正面の石碑の左側を下っていきす。
左の道は観音堂への里道で、右は高速道の方向です。案内標示があります

この道で、雑木の中の薄暗い道です


左の標示のある道 井樋之尾観世音 への舗装道

狭い雑木の中の地道を南西へ進む


雑木の中の旧道を抜けると、正面右が開け棚田が現れます。棚田の中の畦道を右に緩くカーブしながら進むと、正面に民家と天川橋が見えます。天川橋から振り返ったところです。雑木林を抜け、棚田の畦道を抜けてきた景色

小さな川に架かる天川橋を渡ると数軒の民家が建っています

橋を渡り畦道に入るところから振り返ったところです。長崎街道:天川橋で、橋桁には長崎街道天川橋と刻まれています


橋を渡り民家の間を抜けると、前述の十字路の左の道が合流してきます

合流した上から振り返ったところです。街道は正面左側の道この付近かつての、井樋尾心天茶屋跡

正面に長崎自動車道が見え、その向こう側には橘湾だろうか

なすび塚の標示 がありますがチョット分かりません


合流後100m程進むと、更に右から道が合流数十mでもう一本の道が右から合流してきます。
旧道は後者の道が合流したところで、かつては、左(西)に折れて西に通っていましたが、確か道が消失していたと思います。そのまま真っ直ぐ進み左にカーブして、新道に突当り左に折れて迂回し、50m程南に折れて、更に右(西)に折れた数十m先に旧道が通ってきていたと想像します
新道と突き当たる左手前角に、境界石があります 井樋尾「御境石」
安政六年(1859)佐賀領喜々津村と大村領古賀村の領境


境界石に出てきたところを振り返るいよいよ 長崎市に入りました

合流後西に進み長崎自動車道の高架を潜ります

長崎自動車道を潜り振り返ったところです

高架を潜った先、右に山裾を左に緩やかにカーブをしながら街道が続きます
暫く坦々と歩いた先で、長崎自動車道の多良見ICの高架を潜ります。左に、たらみ長崎工場をみて高架下から210m程進みT字路を右に折れます

T字路の近くに 古賀の旧本田家住宅(国指定重文)


旧本田住宅前から振り返ったところです

右に折れて120m程先の十字路を左に折れます。真っ直ぐ70m程進むと34号線の藤棚信号交差点に出ます

左に折れた街筋

左角に九州自然歩道の標柱が立っています

中里町を暫く南に進みます

太郎川に架かる地蔵橋の手前左に 六十六部塔


地蔵川の地蔵橋を渡り200m程で右の川に沿います

その先で右に橋を渡り、左に川を見ながら南に中里町の集落を進みます

途中何の石碑か分からなかったが古そう

暫く進み川の傍から振り返る、中里町の中心

すぐ先、左の川が東からの都通川と合流するところで、十字路になります。右手に34号線の船石入口信号交差点が見えます。十字路を横断します。その先250m程進むと右手に
浄土真宗本願寺派 福瑞寺

古賀地区では、文禄二年(1593)頃には全住民がキリシタンであったといわれています。慶長十七年(1612)に出されて禁教令によって住民の改宗が行われた。福瑞寺は、この地区のキリシタン改宗に努めた僧、正哲の功績を賞して、寛永三年(1626)に建立された寺です。境内には花十字紋入りのカマボコ型であるキリシタン墓碑が残されています
本堂

福瑞寺の キリシタン墓碑

福瑞寺の前(南側)で左に折れて、合流後名前の変わった八郎川に架かる慶正庵橋を渡りすぐ右に折れます。この先、(私は道を間違っていたようです)。資料によると旧道は右の川に沿って堤防沿いに大きく左にカーブして650m程先の三つ目の長正橋まで進んでいたのですが、私は橋から右斜めに折れ堤防道の南側の道を200m程進み左斜めに折れて長正橋に出たようです。

200m程進んだ左に折れる角に、昭和14年の村道改修記念碑が立っています。改修道を歩いたようです。(ここで気が付き再び戻りました)

慶尚庵橋に戻り川沿いの旧道を進んで、左にカーブするところ左に、札元殉教地跡 があったが見逃しました。寛永六年(1630)キリシタン青年ミゲルの父孫助他三名が竹鋸切りの処刑地でした…(折角戻ったが残念手を合わせたかったのに)
長正橋に出て振り返ったところですが、旧道はこの先、旧道は橋の辺りで対岸(西側)に出て、少し南に進み再び川を渡り領境石辺りで川を渡り再び東側に出てきていたようです。旧道は残っていません。そのまま川沿いに進みます

かつて東側に渡ってきたところ辺りに街道左に立つ 領境石 「従是南佐嘉領」

領境石の前から振り返ったところで、この辺りに渡ってきた 楠川の渡し跡


領境石から少し進むと左に 役の行者神社

役の行者神社前から振り返る

札元殉教地跡は(道は切れていますの)切れ、辺りにあったようです

神社より200m程進むと、清水川に架かる清藤橋を渡ります。街道は橋を渡り左に折れ10m程で右に折れる坂道です。(正面左側の坂を上っている道)

坂を上りながら180m程左に緩やかにカーブして進むとT字路に出ます。街道は右に折れると間もなく高架を潜ります

高架を潜り100m程進むと、再びT字路に出ますので右に折れます。折れた少し先から振り返ったところです

T字路から道なりに歩道のある道路を下っていきます。途中に彩が丘入口バス停がありさらに進むと八郎橋バス停がありますが、その手前80m程で道幅が広くなります、そこの広くなるところの交差点を右に折れます


右に折れて20m程で分岐している道を左に70m程進むとT字路となり旧道は消失します。旧道はそのまま真っ直ぐ南に進んでいたようですが、建物で消失してます

T字路に出た先、フリーマーケットがあり旧道はこの敷地内を通っていた

かつての旧道は右斜(南)に進み、八郎川に架かる八郎橋を右に見て、斜めに八郎橋の次の南のちょうりゅうじ橋の西袂をかすめ、少し南側の旧道に出ていた

迂回のため、T字路の道路を右に折れて八郎橋を渡り左に折れ川沿いの道路を300m程南へ進むと、ちょうりゅうじ橋の西袂に出ます
八郎橋からの眺め

ちょうりゅうじ橋の西袂から振り返ったところです

橋の傍に 水害の碑


ちょうりゅうじ橋から堤防道を30m程進み

すぐ先(三階建てビルの手前)で右斜めに入ります

150m程先で34号線の矢上東信号交差点を左斜めに横断します 矢上町に入ります

【矢上宿】
長崎街道二十五宿の一つで、永昌宿へ三里半・諫早へは四里、日見宿へ一里・長崎へ三里の位置にあります。
長崎の出入口の宿として重要な位置にあり、諫早領主は役屋敷を置き、宿の出入口には関門を設け番所を置いていた。
矢上宿の規模は、安政四年(1857)の資料では、町筋八丁・家数155軒・人数681・酒造屋7軒・旅籠5軒とあります。
すぐ先左に龍大堂医院があり、少し南に方向を変えるところ、右手100m程のところに
浄土真宗本願寺派教宗寺

境内に 腹切坂の墓碑

街道に戻り宿の街並みを南へ
少し進むと広い道路を横断します。信号がないので注意して左側には34号線の矢上信号交差点があります

綺麗に敷き詰められた宿場の道路

広い道路を横断して150m程先右手に矢上神社

長崎街道 矢上宿跡碑

矢上神社


矢上神社のすぐ先右に 恵比須像恵比須像 の前からの宿場の街並み


さらに先右奥に 矢上八幡神社
石段を上った鳥居の両側に クスノキの巨木 が覆っています
高さ13m・幹回り12.6mあります。県内2番目の巨木。神社は、寛文七年(1667)の創建ですが、クスノキはそれ以前と思われる。



迫力があります

神社より90m程進むと右手に矢上小学校があります
矢上宿の本陣・脇本陣 小学校の東側34号線を隔てたところの現在長崎自動車学校が、かつて本陣跡で広大な敷地であったようです。明治の初めごろに取り壊されました。また矢上小学校付近には、脇本陣があり、人馬継ぎ所等の使節がありました


少し進んだ交差点手前右にブロックに組み込まれた お地蔵さん

交差点を右に折れたすぐ右には 諫早藩役屋敷跡

交差点を横断した先に中尾川に架かる番所橋があります

橋の手前右に 矢上番所跡の碑

番所橋より左手の34号線と並行して町並みを280m程進みます

右に 浜之大王神社

近くに 石造り物 があります

神社のすぐ先で左からの34号線に合流し、東望入口信号交差点に出ます

100m程先に東望道信号交差点があります、その手前数十mに右に細い道があり、そこを右に入ります。右の黄色い壁の建物の横

右に折れた道筋です

50m程入ると十字路に出ますので、真っ直ぐ横断します

すぐ先でT字路に出ます。このT字路を左(南)に折れます

街道は狭くなり、左側に合同宿舎東長崎住宅1の棟が建っています

暫く道なりに南に進みます。途中蛇行した住宅地の中も、左右への枝道がありますが、T字路から800m程南への道です

800mの途中400m程でT字路に出ますが右に折れて、道なりに西南に300m程進みます。途中、左にコアマンション長崎ネクステージのマンションが立っています


その先100m程で正面に宿町第三団地があり街道は消失します。左にさくらハウスがあり、大きな領境石が立っています。 領境石 「従是北佐嘉領 彼杵郡之内日見境」

領境石標の説明とかつての旧道のマップ


かつての旧道は、領境石のところで右に大きく円を描きながら、先の34号線に出ていたが、今は完全に道の痕跡はありません。往時は 腹切り坂といわれていた。正面の団地の建物を右に迂回しながら新しい道を曲がりくねり34号線の綱場入口信号交差点に出ます。
右に迂回する新しい道

かつての旧道はこのまま真っ直ぐ住宅地を円を描きながら左に進んでいた

販売機の傍に何か標示柱があったようです

新しい坂道を上ってきました。消失した旧道は向かってもっと左側です


迂回の長い石段を上り高台に出ます

34号線の綱場信号交差点に出ました

交差点を右に少し進むと左の大木の袂に 日見腹切坂の由来説明板
熊本細川侯の家臣が、長崎より熊本への帰途、つづれ組の高名を聞き試合を申し込んだ。武士は敗れ、無念の内に宿を見下ろす高台で腹を切った。村人は哀れに思い丁重に葬り、何時しか腹切り坂と呼ぶようになった

長崎街道日見 腹切坂の碑

43号線に出てきたところで、かつての腹切坂を振り返る。今は高台に住宅が建ち並び、旧道跡は分からない

腹切坂の碑 の前を通り右の43号線と分かれ左に入ります

この辺りから【日見宿】に入ります
いよいよ長崎街道最後の宿です。
日見宿は長崎側の難所、日見峠は二里ほどの長い峠越えです。旧日見村は腹切坂の頂上から日見峠の頂上までの区間で、その中間に日見宿があります
綱場信号交差点を右(西)に180m程34号線の南側の側道を東に進み左斜(南西)に進んできたところを振り返ったところです

100m程先で十字路を横断します

更に100m程先で、日見川に架かる三国屋橋に出て渡ります

かつての旧道は、三国屋橋を渡りすぐ斜めに緩やかな坂を上っていたようですが、今は住宅地で消失しています
真っ直ぐの坂を上って十字路二筋目の右(旧道跡からすれば左)に、日見継ぎ場跡

更に坂を上っていくと突当りで、正面は墓地で、右に折れます

突当りから街道(消失した旧道はもう少し向かって左)を振り返る

右に折れて進む道で高台を進んでいます

右、この辺りに旧道が出ていたのだろう

街道は左の山際を大きな弓を描きながら南にカーブして進みますと左に
歯痛観音と六十六部塔

観音像は、片手を頬にあてて瞑想にふけっている姿が、いかにも歯が痛いのを抑えているように見える。この観音像に願いをかけると歯の痛みが治るといわれています。またお堂横の崖を掘った穴に地蔵菩薩が祀らている

さらに道なりに進んでいくと日見川が右に接近したところ左に赤い鳥居が見えます

稲荷大明神岩祠の地蔵と恵比須像

南無大師遍照金剛の大きな碑

また川沿いには 灯籠

水神と恵比須像

お堂


日見の集落の坂を下っていきます

やがて右の日見川に架かる橋を渡り川の西側に出ます。橋の手前左に吉田電設があります。橋には長崎街道の表示が掲げられています

(この先の道の説明)
その先は少し道がややこしいので文章で説明します。
橋を渡り左に折れ180m程南西に進むと分岐があり、分岐の十m程先で突当り右に折れます。右に折れて80m程北に進むと再度突当り左に折れる。
この辺り芒塚町です。左に折れて60m程で右から道が合流してきます。すぐ先の右手にある松尾鉄筋工業の前の分岐を右に進みます。左の道路はW型(日見新道)に屈曲して進むが、旧道は最短を真っ直ぐ、左に坂下公民館があります。さらに左に婆ばら園があります、すぐの左から交差する日見新道の十字路を横断します。日見新道の十字路を越えると、長崎芒塚IC中に入ります。高架の円内に入ると、右に石段を上る道と、真っ直ぐ石段を上る道に分かれるのでまっすぐの石段を進みますと、高架下を通る116号線の道路に出ます。
その先116号線で旧道が消失しています。すぐ右に芒塚バス停がありますが、かつての旧道はバス停辺りから南西に高架下を潜っていたが今は消失しています。116号線を左に進み長崎自動車道の高架を潜り、すぐ右への細い道を二十m程入ると、高架の西側に沿ってくる側道の道に出て左に折れます。左に折れて山型に120m程進むと、116号線の日見トンネルの出入口に出ます。
次の数枚の写真がうまく説明できないので追ってください。
116号線の日見トンネル入り口で旧道は消失しています。かつてはトンネル入り口の右手に前述の山型の道が出てきて、右(北)側からトンネルの上部を斜め左(南西)に急斜面の旧道がありましたが、今は完全になくなってしまいました。
今はトンネルの手前の左手から手摺のある石段を上ります
この後の道は後述します。
この下の4枚の写真説明の位置がハッキリしません


この辺りに 梨の木茶屋跡


116号線の日見トンネル入り口で旧道は消失しています。
前述したように、かつてはトンネル入口の右手に山型に道が出てきて、右側から(右手の二階建ての民家の山手側から)トンネルの上部の民家に向かって斜面の旧道がありましたが今は完全になくなっています。この写真から状況がよくわかります

現在はトンネルの手前の左手から手摺のある石段を上ります

手すりのある石段を上っていくと、少し進んだ先で旧道が復活します


芒塚
トンネル入り口の、梨の木茶屋の近くから、平成13年に日見峠の中腹の現在地に移されました

向去来の句碑


山の斜面の細い旧道を上っていきます


日見峠の馬頭観音

馬頭観音を左に見て登っていくと日見新道に突き当ります

曲がりくねって登ってきた日見新道(明治の新道)に突き当りますと。
左に折れて50m程日見新道を進むと、再び左からの道に合流するT字路に出ます。右に折れさらに50m程先で、日見新道に分かれて右に折れる道があります。この手前が、深い切通に削られた日見峠と思われます。
(なかなか写真のとおりうまく説明できません、再度確認に行けないのでやむ得ない)
峠を33m掘り下げられた日見新道。明治に入り日見新道が完成するまでは、旧道は33m上部の山の上を越していました。 深い切通の日見峠の切通


明治時代に入り、日見峠が改修され新道の建設が行われた。難所の峠越えであった日見峠を人力車や馬車など通行できるように改修されました。中でも難工事が、峠を33mも切り下げた切通しで、明治15年に開通しました。工事費の償還のため通行料をとり、わが国最初の有料道路の始まりといわれています、明治17年から22年まで徴収されていました。写真は33m切り下げられているので、峠は如何に厳しかったことか想像できます。
現在は日見トンネルが完成して、時間が短縮されましたが。峠の雰囲気が残り最高です。
日見新道は切通の先真っ直ぐの道を進みますが、それ以前の旧道は50m程先で、新道を左に分け右への道を入りました。
峠付近には、関番所・茶屋・水飲み場等がありました。
日見峠関番所跡
万延元年(1860)3月3日、桜田門外の変のあと幕府は長崎の出入口、日見・西山・浦上・茂木の4か所に関番所を設けました。
日見番所は明治2年に閉じられた。跡地は、日見新道(明治新道)建設の際に、一部が切通しの部分となり敷地の半分が削られました。
また峠には、茶屋があり、水飲み場もあったようです



案内標示が立っています旧道と明治(日見新道)の道が入り混じり説明がなかなか難しいですが、50m程先の日見新道より右の旧道を入っていきます。右手上に 御夢想地震神の鳥居(確か神社に寄ったのだが撮れていません残念)

明治維新文化の通りの日見峠の標柱が建っています

神社の前で左(南)に折れて100m程で日見新道に合流します

肝心の鳥居が撮れていませんが、鳥居の傍から長崎側の本河内方向の集落。この辺り日見新道で、それ以前の旧道は消
失しているようです

集落内の案内板

旧道を日見新道に下ってきたところです、案内標示があります地図の現在地と記載されている所のようです。日見新道に下ってきました、ここで日見新道を横断します。旧道は西へ、新道は南へ


この地図を見ればわかるようで、長崎街道の迂回ルート(青線)を歩いたようです。
一応思っていた道を歩けました。


街道に復してすぐのところから、日見峠を振り返る

街道左に本河内三丁 新茶屋之跡碑

碑の前から振り返ったところです

一切宗善覚寺


道幅も広くなり快適な街道を進みます

善峯山修験本宗:英彦山不動院 真言宗のお寺です



お寺を過ぎ左の川に沿って西北に下って進みます

右手に 石碑

石碑の前から集落を振り返る

街道沿いの 観音堂

下ってきたところの集落を見る


新道にでて横断し真真っ直ぐ急な細い旧道を下っていきます。途中左に折れて川の手前をすぐ右に折れる道があります

手摺に沿ってどんどん下っていきます

快適な日見峠からの下りの街道、長崎市街地も近くなりました。足取りも軽いです

途中の 灯篭・石標 が右に長崎街道「日見峠路」


日見峠路の 新茶屋の跡



小ぶりですが雨が滑らないように注意しながら下ります

どんどん下っていきます

やがて右から日見トンネルを抜けてきた、116号線の西入口の歩道橋に出ますので歩道橋で横断します

歩道橋からの日見トンネルの西側出入口を見る

歩道橋で横断してすぐ左に道は折れます右に見える集落内の道を進みます、御堂の手前に石橋を下ったところで振り返ると、長崎街道日見峠登りの標示が立っています。もしかすると、長崎側からの峠道の方が厳しいかも


本河内の御手洗地区です 御手泉御堂 の右、集落内を進む

御手洗の集落の中の細い道を下っていきます

古い街並みを彷彿させる街道

御手洗地区で街道は西へ、116号線は南に曲り大きくUターンしてきます


街道はやがて小さな川を渡ると分岐します、正面角が公園で左の道を進みます。

分岐のところからのです景色

公園を右に180m程進むと、本河内高部ダムの高架を潜ります。左手にUターンしてきた116号線が並行して進みます。さらに左手(南)には日見新道が通っています

右手は高部ダム水源地

水源地に沿って進みます

水源地の西の端から450m程進むと、右の日見バイパス道路(34号線)の高架を潜り北側に出ます。この辺り右手に、本河内の追分石 があったようですが見落としました


高架を潜る左手前に 浄土宗壽珖山白道院

高架を潜り北側に出て側道を進むと、妙相寺道信号交差点で旧道は日見バイパスで 消失します、バイパスを200m程進んだ先の信号交差点で南側に出ます。北側(右手)一帯には本河内底部ダムが広がります

信号を横断して右に折れ34号線の南側の側道を進みます。旧道は改修工事で消失しています

左にカトリック本河内教会・聖母の騎士高校・幼稚園がありますので、その坂を上った途中手前の細い道を34号線の側道に下っていきました。小さな丘になっています

坂の上の教会・学校

教会の手前を右に下るところ、右下には34号線

将棋の名手大橋宗銀之墓と本河内の墓碑

中央の墓

中央の墓

34号線の傍に建つ 本河内宝篋印塔 文化八年(1811)の建立

青銅塔(唐金塔)
享保六年(1721)7月28日長崎に洪水があり溺死者の供養のため建立

その上の一段高い所には 一ノ瀬無縁塔
寛文二年(1662)正月から三月の間に、長崎の町に天然痘が流行し2318人の死者が出た。その供養のために建立された

この少し前で近くのあばさんに市街地への道を聞き、暫く話をしながら一緒に案内していただきました。ご親切にありがとうございました
さらに、唐金塔を挟んだ向かい側には、蜀山人の狂歌で有名な 碁の名手南京坊義圓の墓、さらにその上に進むと、
長崎で客死した相撲取り衆の墓でその中に、三代横綱丸山権太左衛門の墓があります
この辺りにも多くの史跡がありますが、時間的に回り切るのは無理なようです
長い長い坂を下っていきます

渡鳥塚
坂を下ってきた右に、長崎芭蕉門の人達が文化十年(1813)に郷土の俳人向井去来とその師芭蕉を偲んで建てたわたり鳥塚。
めにかかる雲や志ばしのわたり鳥 :翁
故きとも今はかり寝や渡りとり:落柿舎
文化十とせ建けるよしを祥木しるす

案内していただいてるおばさんです
長崎の市街地ももう少し、34号線は渡れないので、地下道で北側に出ます


石碑が建っているところで右に

史跡一の瀬口 蛍茶屋跡の碑
文化文政(1804~1829)頃、旅人送迎歓送迎の茶屋が始められた。幕末から明治の初期頃が最盛期となり、蛍の名所であったので、蛍茶屋と呼ばれました。一の瀬橋の袂にありました

ダムから流れてくる中島川に架かる一の瀬橋少し雨が降っているが、長崎街道ももう少しで終わりなので苦にならない

中島川に架かる橋を渡ったところから振り返ったところ

静かな街道を進んでいきます

街道沿いの 遠山左衛門尉景晋 (1764~1837)の長崎奉行、遠山金四郎 の父親の説明板


橋から150m程で、街道は一旦34号線の蛍茶屋信号交差点に出て、すぐの右の長崎街道の旧道に分岐します、市電の蛍茶屋始発駅です

中川2地区で150m程進むと右手に 中川八幡神社 正保三年(1647)創建

八幡神社からさらに西北に進むと中島川の支流に架かる古橋を渡る。街道は西に方向を変え、左からのシーボルト通りと合流します


シーボルトの 案内標柱や旧宅跡の案内板 を見て右(北)に入っていくとシーボルト宅跡と像


シーボルト記念館

西に方向を変えシーボルト通りに入ると、左手の 伝八稲荷神社 の過ぎた右手に桜馬場2に桜馬場中学校が立っています。右手桜馬場中学校を振り返る

長崎甚左衛門純景居館跡
長崎氏は古くからこの地を支配した領主で、桜馬場中学校の場所に居館を構えていました。純景は長崎氏の14代で、キリシタン大名大村純忠の重臣で、自らもキリスト教に改宗しました

長崎村庄屋の跡
長崎氏が退去した後、慶長十年に森田彦右衛門が長崎村の初代庄屋となり、徳川300年の間、歴代庄屋として貢献しました。明和年間住宅四棟・倉庫四棟の広大な建物で敷地(約7500坪)が現在の長崎市立桜馬場中学校です

シーボルト通りを西に進みます

市街地に入るとき、旧道がわからず雨でもあり迷っていると、親切なご婦人が暫くの間、一緒に歩いていただき道案内をして頂いた。助かりましたありがとうございました。ここでお別れしてお礼を言いました。
坂本龍馬と長崎街道の案内板
龍馬が始めて長崎にやってきたのが、元治元年(1865)2月23日で、勝海舟に長崎出張に同行してのことでした。23日に日見峠を越えて長崎入りをしました。長崎では、長崎奉行所や長崎製鉄所、大浦居留地の外国領事館等を訪ねています。そして4月4日に長崎をたっています

右手に 桜馬場天満宮の鳥居

シーボルト通りの賑やかな町筋に入ってきました。新大工町

やがて西山川に架かる橋を渡ります。
すぐ左側には34号線の市電諏訪神社駅と鎮西橋があります。広い馬町信号交差点に出ます。街道はほぼ真っ直ぐで34号線と重複して左カーブします。市電は左に折れて公会堂前通りを進みます

交差点の右(西北)諏訪神社の二の鳥居 と両側に大きな 灯籠が二基 立っています

雨も降り日も薄くなってきましたので寄れません。街道(34号線)は南西に進みます、少し急ぎます

暫く進み勝山町信号交差点右に サン・ドミンゴ教会跡碑・末次平蔵宅跡碑

右手に 代官屋敷の井戸
元和二年(1616)末次平蔵が代官屋敷を構えて以来、代々の長崎代官の所住地であった
井戸は当時使用されていた井戸で、代官屋敷の唯一の遺構である。


勝山町に入ると、右に桜山小学校があります
すぐの広い市役所前信号交差点を歩道橋で横断します、歩道橋の下は桜町通りです


右手の市役所前あたりで、少し南西に方向を変えます

市役所前からの街道(街道といっても全く様相が変わっています)
市役所の先で、桜町信号交差点を横断、さらに右に市立図書館、先のNTT長崎支店前信号交差点を横断し、更に万才町信号交差点に出ると、すぐ県庁前信号のT字路に出ます。
このT字路付近に、長崎海軍伝習所跡・奉行所西役所跡・イエズス会本部跡の説明板 が立っています。
長崎県庁


県庁前信号交差点近くでの写真、雨だったのでカッパを着た満足そうな勇姿

17時県庁前に着きました、日も短いので辺りは薄暗くなってきました。
兵庫の西宮から山陽道を歩き始め長い道のりでした。
これで青森の三厩から奥州街道で東京日本橋、そして日本橋から東海道・中山道を歩き京都三条へ。
さらに京都三条から西国街道で西宮に歩き、一応青森から長崎まで縦断したことになります。
まだ福岡山鹿から鹿児島までの薩摩街道が残っています。
こんばんは長崎ワシントンホテルに宿泊、明日午前中市街地を観光します。
県庁前にて長崎街道 完歩
ホテルへの通り道になるので、T字路の西南にある出島に寄っていきます。暗くなったのでゆっくり見学できませんよみがえる 出島



出島全景




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