木津川海港路線道

2013年9月 18日

東区平野町~西成区木津川渡船場
中春日街道のあと、茨木駅=JR大阪駅へさらに地下鉄で淀屋橋駅へ移動。
少し歩いて平野町の起点をスタート。西成区の木津川まで。
この街道も中春日街道までもないが短い街道である。
明治36年「大阪府誌」には
「木津川海港路線は大阪市東区平野町4丁目に於ける安治川海口路線より起こり、心斎橋、戎橋を渡りて南海鉄道難波停車場に出で、同鉄道線路と並行し南区西関谷町広田町を過ぎ恵美須町4丁目に至り西に鉄道線路を横断し敷津町北島町を経て同区木津町材木置場木津川左岸に達して終はる。延長壱里二十壱町十七間、幅員約二間四分wp保ち、安治川海港路線と等しく水陸交通の要路にして、其の大部は市内屈指の繁盛地に属せるを以て常に肩摩狭撃の状あり」
大阪市中央区平野町4丁目は現在では平野町3丁目御堂筋より一つ東の筋 
       8時 スタート  木津川渡船場着  10時25分 完歩
           12.025歩  7.2㎞ 

この後 恩智街道を歩く 

御堂筋と平野町通りの交差点

平野町3丁目交差点 木津川海港路線起点 交差点の東西は 安治川海港路線

起点より北側を見る

起点交差点より南へ進む。淡路町通り交差点

瓦町通り交差点

備後町通り交差点

安土町通り交差点

 広い道路の本町通り交差点

南本町で心斎橋筋のアーケード商店街に入る

地下鉄中央線や高速高架が通る本町駅船場センタービルが東西に並ぶ

久太郎町からの心斎橋筋

北久宝寺町通り・南久宝寺町通り・博労町通り・南船場通りを過ぎて

長堀通りの広い交差点に出る、交差点の南側に 旧心斎橋の橋柱等が残されている

心斎橋跡の先のアーケードは最も人通りが多く賑わう

心斎橋筋を振り返る

すぐ右に大丸百貨店を見ながら通る

暫く商店街を進むと、左に宗右衛門町が見える

宗右衛門町を左に見て、すぐ戎橋となる。橋より東西の川沿いの眺め

橋の右前にグリコの大きな看板

戎橋を振り返ったところ

戎橋を渡り、再びアーケードに入るが、手前東西の道は道頓堀筋

道頓堀筋右手左に年輪を重ねた松竹座が見える

道頓堀を東西に見る、飲食店が立ち並ぶ

道頓堀のすぐ先左に入ると法善寺横丁へ(寄り道)

法善寺横丁入口

法善寺横町の路地飲食街

横町で歌詞碑を見ている人

法善寺の象徴 天龍山法善寺

千日前通りの広い東西に走る交差点を超える。
高架は阪神高速・地下に地下鉄千日前線・阪神難波線が走る

心斎橋筋商店街がここで終わる。正面が難波
高島屋百貨店・南海難波ターミナル駅

街道は高島屋・南海電車線路の東側を暫く進む

高島屋・南海ターミナル駅の前、突きあたり北からの御堂筋が終点となる

高島屋を右に見て真っ直ぐ進む

日本橋の信号 左に曲がり堺筋に出ると、この辺一帯が電気店街、右南海電車の高架向こう側になんばパークス

南海電車の高架に沿って南に進む右の高層ビルはクボタ

日本橋西2に入り、南海電車の高架を右に見て、左の道に曲がる

左に折れてすぐまた右に折れた左に 赤土稲荷大明神

少し先左手に 広田神社

古くから、広田神社の神使とされてきたアカエ。痔病をはじめ難病悪疫の守り神として広く信仰されており、アカエを断って、つまり断食して祈願すれば、霊験あらたか難病も治癒するといわれている。
とくに痔病にあらたかだとされるのは、アカエの尾には鋭いトゲがとびだしていて、トゲには鋸状の歯が逆向きにならび、これに刺されると傷口が荒れ、その毒によってものすごい痛みをおぼえるからで、漁師はアカエをとらえると同時に尾のつけ根からぶつりと切り落としてしまうそうで、この尾を断ち切ることをアカエを断つことにかけて、トゲにさされた痛みにも似た疾患をなくすといった信心が生まれたのかと思われる。広田神社のあるあたり、いまも木津の魚市場があるように、昔は漁師町だったからでしょう。舟底の冷えなどで漁師に多かったといわれる。それがアカエ信仰にむすびついたのかもしれない。
もっとも、アカエが美味だったこと、さらに漢方薬として珍重されていたことも、これを断たせることで献上につながったのではないか、かつて広田神社の宝物に禁裏御所御厨子所御肴物御用の魚箱があったこととかさねあわせて、ちょっと意味深く思ったしだい。                   エッセイストの額田 武

広田神社を左にみてその先で阪神高速の高架下を潜り進む、恵比須西に入る

右手街道沿いに 今宮戎神社
推古天皇の御宇御鎮座以来市場鎮護の社と広く尊敬され特に大阪が商業の町として発展するに伴い其の唯一の守護神として親しまれてきた。例祭は十日戎と呼ばれ江戸時代からすでに大阪年中行事の一つに挙げられ広く市民に支えられ益々盛大になっている

境内に 「陋巷(ろうこう)を好ませてまひ本戎」  阿波野青敏の句碑

神社より街道を振り返る

神社のすぐ南側の道を右に折れる

南海電車の今宮戎駅のガードの手前右側に 浄土宗海泉寺 

海泉寺の前の道を出てきたところ

すぐ目の前に南海電車のガードがあるので、ガードの手前を少し左に折れる、そぐ広い道にでるので

右に折れ今宮戎駅のガードを潜る

ガードの先、25号線の広い道にそって進

地下鉄御堂筋線・四つ橋線の大国町駅の大きな大国交差点に出る。大国交差点の先、真っ直ぐ行くのか道が解らないので、ここで右折れして、300mほどに敷津松之宮神社があるので(寄り道)をする敷津東へ

敷津松之宮神社
神功皇后が三韓平定後、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒波が打ち寄せるのを見られ、これ以上汐が満ちないようにと松の木を三本植え、素戔嗚尊を祀り航海の安全を祈られたため、松之宮 と呼ばれた

境内に 大国主神社があり、1744年に大国主神社が勧進された

境内の大国堂内の 大国さん が有名

境内に建つ 木津勘助の像
青年のころより豊臣家に仕え、木津川の開拓工事に尽力し大阪繁栄の基ともなる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐなど、その功績は高く評価されている。
この銅像はしの活躍ぶりを示し右手に設計図を持ち、手甲脚絆姿の威勢のよい姿で、遠く木津川を望んでいる。また、木津の勘助さんを有名にしたのは寛永16年、近畿一円大飢饉にみまわれ窮民を救うため官倉を破りて米俵を振る舞い民衆を助け「官、特に死一等ヲ減ジ蓑島(大正区三軒屋勘助島)に流す」とある。
義侠の精神は萬古に伝う。といえるのではないだろうか。

同じ境内に木津が生んだ古今まれな国文民俗学者・歌人としても有名な 折口信夫歌碑 が没後25年を期に有志の人々によって「幼き春」の反歌を選び昭和53年11月19日歌碑が建立された。

この先の街道はどの道かわからないので、とりあえず元の広い道の大国交差点に戻る交差点からすぐ広い自動車道の向かい、国道の南側(左側)にある 願泉寺

街道は正しくないかもしれないが、願泉寺の前国道の向かいの道を右に折れる角に唯専寺

真宗唯専寺 この角より一筋東の筋を北に入ります

境内に前述の 木津勘助の墓 市街地の中によく残っていました

広い国道より1本北の道を左に折れて進む

少し北に入った鶴町公園と 

公園の西角の隅に 子育地蔵尊

広い国道に出る

関西本線大和路線の地上部分の公園になっています

関西本線大和路線の陸橋を超える

陸橋を超えて真っ直ぐ進む

南北に通る41号線のなにわ筋の広い道に出るので左に折れる

左に折れたなにわ筋、南方向を見る

すぐまた右折れする

右折れして直進し大阪環状線の芦原駅の下を超え真っ直ぐ進む

ガードを過ぎて200mほどいって29号線の信号を渡る左角に郵便局 浪速東

さらに200mほど行ったところで阪神高速堺線の高架を潜る

阪神高速道路の高架下、すぐ隣接して南海高野線汐見橋線の踏切を渡る

踏切を渡ると陸橋があり少し広場となっている。そこから街道を振り返る

 広場のところに 

広場の近くの交差点、大きな歩道橋が建つ、少し疑問に思うのだが、利用する人がいるのだろうか。学校の通学路かも

広場の陸橋の下に 琴江橋跡の碑と橋の親柱
十三間堀川と七瀬川の合流地点にあった橋で十三間堀川は昭和45年阪神高速建設に伴い埋め立てられた。

旧道は南西方向への道

先を進むと左に 白木神社
明治41年にこの神祠に白蛇が住んでいたので神使・守護神「巳の神」として祭られた

水難ごとに霊験あらたかな加護あり更に船五神として船舶航行の守護神となり後には「白蛇宇賀神倉稲魂神」として人々の生活保護の神となり家内安全・無病息災・商売繁盛と広く人々の信仰、尊敬の神となった。(御由緒書きより)

この辺りは木津川と七瀬川に囲まれた土地で材木置き場と伝わっています

木津川海港路線道の終点
正面の倉庫の敷地の向こう側が木津川 

昭和57年まで 「難波島渡し」 が対岸の難波島・現在大正区三軒家東と結んだ渡しが昭和57年まで 「難波島渡し」 が対岸の難波島・現在大正区三軒家東と結んだ渡しが残っていた

下流をみると 半円形の木津川水門 が見える

上流の風景

スタートから市街地の中の道で、旧道の面影は全く見れないが、また時代の流れが読み取れ感慨深い

木津川海港路線道 完歩

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