茨木街道

2012年4月24日

枚方市駅近くの京街道分岐点~茨木市郡山宿西国街道分岐点
枚方街道を歩き終え、枚方大橋北詰で枚方街道を完歩とする。引き続き茨木街道を歩くが、本来は枚方街道も茨木街道もここが起点でないが、2街道とも対岸の枚方市駅近くの京街道の三矢町が起点で、そこから枚方(大塚)の渡しで淀川を渡り対岸の大塚にでてそこで、枚方街道と茨木街道は分岐していた。
渡しは、昭和5年に枚方大橋が完成し廃止された。
今回はすでに京街道を歩いているし、枚方川対岸の渡し跡も行っているし、枚方街道で大塚側の渡し跡を歩いてきているので、枚方大橋を渡らないで大橋北詰を終点・起点とする。
ただし、大塚の渡し跡から枚方大橋までは、枚方街道となる。

     10時50分 スタートし  16時35分 完歩
        26.130歩  15.67km 
    枚方街道・茨木街道 1日トータル
         45.612歩  27.35km

枚方大橋北詰

茨木街道の西方向を見るこれから進む道

左後方枚方大橋を見る

堤防沿いを車に注意しながら西に歩く幸い、堤防に沿って歩く道と車道の間にガードレールがあるので助かる

 暫く歩くと堤防右下沿いに番田の集落

堤防を右に下りて集落に入る代わり映えのしない堤防を歩いていて、落ち着いた雰囲気のいい集落があると何とも言えない気分となる。また番田の集落は大きくないが民家が集まっていて昔の集落を引き継いでいるような情景である

少し集落の中に入ると小川沿いに 番田神社
1335年5月、この地に大洪水があったとき「高皇産霊神・神皇産霊神」の二神の木像が流れ着き、これを僧恵慶が勧請、奉じて、この地に祀ったのが創建の由来とされている

番田村
大塚村の南西にあり、芥川最下流域左岸に位置する。1605年の摂津国絵図では大塚村に含まれ、1646年大塚村から分村した。水利の便悪く、水害の多発した地域であった。
1653年完成した芥川の伏越大樋は大塚領であったが、番田大樋と名がつけられている。元禄6年に北部山麓の上田辺、真上、芥川、天神山一帯などの悪水を流下させるために開削された芥川左岸沿いの新川も番田水路の名がつけられている。
明治元年5月の水害では番田堤が切れた、また大正6年の淀川右岸「大塚切れ」で大塚、番田一帯が浸水した。

大塚村
淀川右岸に位置し、桧尾川右岸最下流域を占める。西の村境は芥川、南西にある枝郷番田村、東にある同大塚町と領域が錯綜する。村内に大塚と称する封土がある。

番田大樋

淀川堤防の一段下がったところに民家が立ち並ぶ集落

鷲打橋東詰の交差点に出る(139号線)左に折れて、芥川の淀川への河口付近の芥川最下流に架かる鷲打橋を渡る

鷲打橋から南方向を見る

橋を渡り左へ進む

鷲打橋西信号を右にカーブして進む唐崎地区に入る

右に大きくカーブし小さな橋を渡り100mほど進むと東海道新幹線の高架に出るが、高架を潜らず、鋭角に手前を左に折れる道があるのでそこを進む

鋭角に入る街道 唐崎中2丁目7辺り

唐崎の街並み坂を下っていく

酒屋さんの前を通り、今度は東海道新幹線の高架下を越える

高架を潜ると直ぐ左の塀の中に 祠 が、個人的に管理をしてるよう

道を挟んだその向かいにも 祠

街道らしい雰囲気の街並み

街道より少しひだりの路地を入ったところにある 唐崎神社

街道に戻り、西に少し行ったところ、左に折れると唐崎中1丁目10

北向き地蔵尊

この辺り少し直角に曲がりくねっている。北向き地蔵の前を西に少し行くと左に折れすぐまた右に折れる。その右角に、真宗信楽寺 がある、そこでまた新道を右に折れる

信楽寺横から新道に出たJA前に立つ 道標

浄土真宗真楽寺

真宗皆念寺

新道は右に折れ西に向かうが、そのまま南に真っ直ぐ100mほど行くと、立派な地蔵堂がある

南之口地蔵堂南之口地蔵堂
「左手に宝珠、右手に錫杖を持って千葉の青蓮華に安住する」御姿の地蔵菩薩が、六道の辻に立って、地獄に落ちかかる者の手を引いて救い上げてくれるという信仰が印度から中国を経て日本で盛んになったのは平安時代のこと。後、日本古来の境の神、道祖神とも結びつき、村々の境や辻に地蔵堂が建てられ、旅行安全、厄除け、特に子供と縁の深い御仏として人々に親しまれるようになった。

街道に戻り右に信楽寺をみて西に進む

すぐ左に 石田梅岩母たね生誕地の案内石標と祠 石田梅岩は江戸時代の思想家

唐崎の交差点5差路で府道16号線を越え真っ直ぐ数十mを139号線進む。唐崎西の広い交差点にでるので14号線を横断する。

交差点渡ったところで、少し左斜めのバス道をとらず、右側の細い道を迂回する

左に水路を見て右に入った道を進む

番田井路の堤に出るので、左に折れる

番田井路を右に、堤を進む

番田井路 を東西に見る

番田水路(井路)玉川緑地
番田水路は、江戸時代に高槻市大冠地域の悪水を玉川へ放流するため、芝生大樋より下流が開削されたのが始まりで。以後、玉川地域も下流方向へと開削されてきたという古い歴史がり、淀川右岸に広がる三島平野の農地を潤おし、度重なる河川の氾濫から人命及び住民の財産を守る排水路として、その機能を十分果たしてきた。
この様な歴史をもつ水路の周辺が市街化によって自然の景観が失われつつsることから、水路敷を親水公園として整備し、玉川の里と共に永く親しまれる施設になるように、また、地域のオアシス広場として育てることを目的としています。(解説板より)

玉川橋
水路に沿って走っていた府道は番田水路を玉川橋で渡っていくが、街道はまだしばらく堤の上を進む。

1651年、高槻藩が芥川左岸に広がる低湿地の水を、芥川を伏せ越して、桂本に至る番田水路を開削。その後下流域へ延長され東淀川区江口で神崎川に排水された
玉川橋より下流にかけて街道は遊歩道として整備され卯の花と桜の並木が植えられ素晴らしい人々が楽しめる歩道となっている。

玉川橋から水路にそって遊歩道を少し下ったところに 玉川の里の石標

 街道(遊歩道)

うのはな(ユキノシタ科)
「うのはな」は本市の史跡・玉川の里に群生する。古来、玉川の里は、摂津の玉川として天下六玉川の一つに数えられ、卯の花や月の名勝として有名で、俳聖芭蕉翁もここを訪れて句碑を残している。
芭蕉が当地を訪れて残した
      うの花やくらき柳のおよびごし
の句を近隣の有志が芭蕉百五十回忌の天保十四年にこれを碑に刻んだが、最近では都市化の進展で名所玉川もその面影を失いつつある。このため、緑地の整備とあわせて、句碑の移設を行い玉川の里の歴史を偲ぶよすがとした。(解説板より)

玉川うの花樋の歴史
江戸時代、西面村は「玉川湖沼の面の西」として存在していた。玉川湖沼の水は、源の阿武山より流れ、西河原疣水(いぼみず)神社西方を経て流れ込んでいた。一方、番田組の悪水は、柱本村領で排出されたものを高槻城主永井直達により大塚村の西で新川及び芥川を伏せ越し、芝生村から西に開削された、ほぼ三里に及ぶ井路を経て、玉川に導かれた。川幅が拡大された玉川・安威川には、隔流堤が別府村の上まで1600間あまりにわたって築かれ、悪水は安威川から神崎川に流入することになった。西面村は条件として、玉川うの花樋と地蔵堂樋を設置させたものである。これは今より310年前のことである。新しき時代その名残りを偲ぶ。 (西面実行組合説明より)

玉川橋より150mほど下ったところで、対岸に旧道は渡るが、現在は渡れないので、元の玉川橋まで戻る

対岸をみる、旧道はかつてここに橋が架かっていた

玉川橋から番田井路をみる

茨木市に入る

玉川橋を渡り一つ目の信号を左に行くと対岸の茨木市側から見る、かつて橋が架かっていた

その先暫く進むと、左になかじま内科のところで、新道は右にカーブするが、左の真っ直ぐの道に旧道が残る

旧道が一部残る部分、府道133号線に出る

 府道からみた旧道

広い府道133号線を右折れする

右折れして100mほどの所の、鮎川交差点、富田街道(府道133号線鳥飼八丁富田線)との辻交差点を左に曲がる

交差点から左に曲がった先の道

暫く広い道を進む

安威川手前の道

安威川に架かる先鉾橋で渡る、橋から北側の景色

先鉾橋を渡って、左へ川の堤を少し歩き堤防から右に折れて五十鈴町(旧馬場)へ下りていく

下りて行ったところの十字路を右へ

そしてすぐまた十字路五十鈴町自治公民館の所を右の細い路地を北に入る

その先に、 浄土真宗浄福寺

お寺の北隣にある 薬師堂
本尊は江戸時代初期の薬師如来耳病に霊験あらたかで耳形石が奉納されている

境内にある 力石
江戸時代から昭和初期まで村の若い衆が力比べのために用いた石であり以前は、村の集会場に三個あったが、現在は、一個だけになったので、先祖の遺物として此処に置くこととなった。この石の重さは約五十貫(2百キログラム)あり、自分の子供のころの大正末期から昭和初期に村の若い衆が相撲を取る前にこの石で力比べをしているのを見ることがあった。(郷土史家の説明)

浄福寺分院

  • 先鉾橋から写真はとっていたが、後日資料整理するも道がはっきりせず、写真を省略、自分の歩いた道をつづる

薬師堂の所の角を東北に少し進む、
路地を進み府道139号線にでる。突当りの右を見れば、先鉾橋が見える、橋の西詰を右に曲がってくればこの道に出る。(注)先鉾橋からの旧道は今一つわからないので、浄福寺、薬師堂を回ってきた。全述の突当りの府道を左に折れる、すぐ二股道となり右が堤防に沿っての道で、左の道をとった。さらにそのすぐ先で、五十鈴町交差点信手前で府道を右に見て左の道を進む。ほぼ西に真っ直ぐの道である。
中津小学校を南西に見える交差点を更に真っ直ぐ進む。

暫く西へ真っ直ぐの道を進む

やがて道は突き当たるので、右に折れる

右に折れ100mほど進んだところで、府道139号線の信号交差点に出るので、左に折れる

府道を100mほど進む

府道を左に見て、右に入る旧街道を進む

ガード手前で左斜めに進む

阪急京都線の高架下を越える

高架下を越えたところで、右から 高槻街道 が合流(分岐)する

暫く高槻街道と重複しながら進む

右に変わった祠に入った お地蔵さん

信号交差点の新道を横断する、右向い角はコンビニ、街道は真っ直ぐ進む

交差点を越えたすぐ左に 

宮元町辺りの街筋

街道より少し左に入ったところに 真宗唯敬寺

本町6丁目、T字路に突き当たるので左に折れる。茨木街道 は左折れ(南)する。右折れは 茨木街道支線の起点

T字路右手角に、少し隠れたようにある 道標
南面「右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻」(茨木街道・高槻街道)西面「左 妙見山 亀山 中山 勝尾寺」

T字路のところを、北側から見る

左に折れ、一筋目を右に折れて先の四つ角の右手角にある 梅林寺

元の街道に戻り、商店街を進む

商店街は結構人が通っている

商店街を抜け少し行くと、府道139号線に出る手前左手に 祠

府道に出て街道は右に折れる。左に行くと左側に 東本願寺茨木別院 その先は茨木市駅に突き当たる

 東本願寺茨木別院
1603年、教如上人が開創、現在の本堂は1777年に建立

右に折れて府道を進む

府道沿い右に 茨木神社

境内に入って東側には 茨木城搦手門 茨木神社東門は、茨木城の搦手門を移築したと言われている

境内北側にある 天右門別神社

現在の茨木市街地の中心部は、阪急茨木市駅とJR茨木駅とを結ぶ道路沿いに発達しているが、明治期の茨木村の宅地は茨木川東岸に広がっていた。南北道路に面する宅地と西端において茨木神社に突き当たる東西道路に面する宅地によって構成されており、南北道路は、「北市場町」から「新庄町」に至る約1.415mであり、市街中央部では東西道路は、「東外ノ町」から「六軒町」に至る約420mである。茨木村には、織豊期に茨木城を核とする城下町が存在したが、明治期の街路構造や街並みの形態は、この織豊期における街並みが踏襲されていると考えられる。茨木城は1615年の一国一城令により廃城となり、その後在郷町として栄えた。

前述の府道139号線に出て右に折れた所で、50mほど行った左に入る道がある。右手に石賀医院・左が大手町ビルの間の旧道が 枝切街道

府道139号線のにぎやかな通りの街道茨木市駅方向を見る

茨木神社のすぐ先の所の橋は 高橋
右の建物、茨木市福祉文化会館道を挟んで左の建物は、茨木市役所

高橋の西南にある 道標「右 茨木停車場 左 大阪 距 高麗橋元標四里二十四丁拾間」

茨木街道は真っ直ぐ市役所を左に見て東に進む

市役所前交差点で 高槻街道 はここで分岐して、市役所を右に見て南に進む

市役所前交差点を西に真っ直ぐ進んだ所、JR茨木駅方向へ

JR京都線(東海道線)の高架を潜る

高架を潜った先の町並み。この真っ直ぐの道茨木街道と西国街道を結ぶ、中春日街道 れっきとした街道名が付いているが、数百mのごく短い街道

茨木街道はガードを潜りすぐ右の線路に沿った道

100m程先で右に線路を分けます。春日商店街を進む

商店街の先で茨木市保険医療センター前交差点で横断して左に医療センターに沿って真っ直ぐの道を進む

医療センターの前から少し右斜めの細い道を進む

春日3丁目の左民家の塀の角に 倍賀の道標

道標の刻んだ字体が薄くて読めない

その先で街道が2差路に分かれ正面に 春日神社

拝殿前の 石燈籠(国の重要文化財)

拝殿前の石燈籠
石燈籠は、外にある石製の置燈籠のことで、神仏への敬燈が主な目的で作られた。はじめは仏堂や本殿の前に一基だけもうけられたが、室町時代頃からは左右一対となり、その後は、観賞用や庭園・街道にも建てられたことから多くの形式が生まれた。
昔は「火」は神聖なものとされ、いっさいの不浄をを清めることから「浄火」として大切に扱い、神仏への献上火と四方を明るくする働きによって大切にされてきた。
この燈籠は、竿の上部に「春日大明神 狐州嶋下部倍加村」と刻まれ、竿の下部には「敬白 高良社 石燈籠 延慶二 八月日 領主 紀□弘」と刻まれている。(延慶二=1309年 鎌倉時代)
しかし上部の字体が新しいことから、いつの頃か、高良社からここに移されたと考えられているが、どこの高良社なのかわかっていない。 (教育委員会解説版より)

左に折れた先で、右にキリン堂を見て上穂東町交差点(府道高槻京都線)を越えて真っ直ぐ進む

交差点を越えたところ、左に市立西幼稚園

その先でのT字路で 亀岡街道 に合流する

T字路亀岡街道との合流地点亀岡街道が合流してきた方向(南)を見る

左から亀岡街道が合流して右へ、その先の街道、50mほど先で左にカーブする

カーブした後、すぐまた2差路に分かれる。どちらの道が旧道かわからないので、左の道を進む

すぐ先で名神高速道路高架下のトンネルを抜ける

トンネルを抜けすぐ右折れし、名神に沿って歩く

前述の2差路の右の道がここに出てくる。ここで出てきた道と合流して、名神の側道と分かれ、左に折れる

左に折れる所の道
この辺りは名神の道路改修で旧道は消失している

郡集落の街道へ入っていく

街道らしい雰囲気が残る街並み

郡3丁目23

街道より少し左に入ったところの 

素晴らしい旧道が続く

交差点に入り左角に 郡4丁目5の標示左の旧道を歩いてきた
左手前角に、乗雲寺への角に立つ 道標

手前から歩いてきた、左手前電柱に隠れている道標

献燈道標「左 大坂」「右 妙けん たんば」「妙見山献燈」

ここの交差点で 亀岡街道 は真っ直ぐ北へ、 茨木街道 は左に折れるもう少し先で、左に折れるのかわからないが、この左折れの道を茨木街道として歩く

左に折れると正面に 乗雲寺

乗雲寺の前を右に折れるとすぐ左に、郡神社への参道がある

郡神社

郡神社の参道の前の道、東への道が 道祖本街道

郡神社の前の道を北に茨木街道は進む少し左にすぐ右の道となる

 更に細い道を進んでいく

T字路に出るので、左に折れる。このT字路に出た道が、道祖本街道かよくわからない

T字路の辻を東向きに見る。道祖本街道

T字路を左に折れたすぐの先を右に折れる

暫く緩やかな坂道を登りながら西北に進むと左に池を見る、池に出たところで真っ直ぐいかず、すぐ右への道を曲がる。
池を右に見て振り返る

右に折れて坂を登り切ったところで、分かれ道を左の道をとる

街道らしい郡の集落が続く

この2差路を右に入る

右に入ったところからの先の道

ここの2差路は左へ進む

左に曲がって、数十m先の左への道を少し入ると 本頂寺

街道に戻って進む
右に池が見えてくる。そこは道なりに左の道を進む

街道は真っ直ぐの道が続く

交差点に出るが、そこを越えて少し右に緩やかにカーブしながら下っていく

直ぐの辻の正面が 西国街道 に東西に合流。茨木街道の終点(起点)右手前角に 道標が三本ある
見慣れた辻

三基の道標
向かって左から 「茨木街道 (右指指) 茨木 三島江 枚方道」 「左 かちをう寺 口西国道」「右 茨木停車場 そうぢじ」 

茨木街道の起点と道標を見る茨木市宿河原丁目

 郡山宿の街並み

西国街道でもよく知られた 郡山宿本陣 椿の本陣

郡山宿本陣(椿の本陣)
京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには、かつて山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の5つの宿駅があり、郡山宿本陣は、その中央にあって重要な役割を果たしていました。
この本陣は、1718年に類焼にあって、建物とともにほとんどの古記録が焼けてしまった。現在の建物は、1721年に、西国諸大名などの寄付によってさいけんされたが、このような形で現存するのはこの本陣だけである。
建物としては、母屋二棟・土蔵三棟・納屋一棟・茶席1棟で、居間数は、茶席を含めて二十 五ある。また焼ける前の1,696年の宿帳をはじめ、和時計・関札・駅鈴・古文書・火縄銃・銃丸製造具などが数多く残っている。
残された宿帳から、摂津・備前・備中・美作・四国の讃岐などの大名や、忠臣蔵で有名な赤  穂城主 浅野内匠頭長矩が宿泊し、また1865年7月15日に、明治天皇がお立ち寄りになっている。
この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせることから、いつしか「椿 の本陣」と呼ばれるようになった。

茨木街道 完歩

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