2024年2月28日
玉名駅7時17分発のJR鹿児島本線で熊本駅へ、昨日に続いて今日は1日レンタカーで、
田原坂・熊本城下を見学します。田原坂は熊本市北区植木町に位置する。
まずは 田原坂公園 へ
国道3号を北上し植木町へ
激戦地田原坂一帯は、今ではツツジや桜が咲き誇る美しい処。公園と坂道は国指定


西南戦争は明治10年(1877)2月より9月24日鹿児島市城山で西郷隆盛が自刃した、約7か月に及ぶ戦いであった。その間、九州の熊本、大分、宮崎、鹿児島の4県にまたがる、政府軍6万人、薩摩軍3万人が戦い、両軍合わせて約1万4千人、特に将来を担う若者が中心であった。
日本最後の内戦であった、西南戦争はお互い主義主張があり決して、薩摩軍を非難することはできない、勝てば官軍というだけで、薩摩軍には沢山の若い有能な人財がいて、非常に日本の将来にとって惜しいことであったと私は思う。
薩摩街道をあるいてきて、政府軍の戦死した兵の墓は整備されているのに比べ、薩摩兵を中心とした戦死した兵の墓はもう少し整備されてもいいように思った。私は西郷隆盛贔屓だからかな。
田原坂は藩政期から玉名と熊本を結ぶ幹線道路で道幅は4mあったという。政府軍が兵器や兵を抜けるにはこの道を進む必要があり、薩軍はここを一大守備防御を必要としていた。その為西南戦争最大の激戦地となった。
西南戦争の戦死者両軍合わせて約1万4千名の内、約4分の1がこの地で命を落としたという
田原坂公園内には、資料館・西南戦争戦没者慰霊之碑・弾痕の残る土蔵・美少年像・大楠・崇烈碑・薩摩塚 等々があります

弾痕の家(復元)

田原坂の戦いは明治10年(1877)3月4日~20日までの17日間、西南戦争最大の激戦地で、死者約3500人を数えた。これを機に元老院議官佐野常民は敵味方区別のない負傷兵を救護する 博愛社 を設立。日本赤十字社の前身となった


弾痕の家室内の博愛社の展示

田原坂西南戦争資料館
国内最後の内戦である西南戦争に至る経緯時代背景、戦いの様子など、ビデオや資料を展示している。
時間があれば周辺も含め一日かけてゆっくり見たいところである
近代的な資料館、弾痕の家、横の展望デッキ


資料館内部のごく一部展示品


薩摩軍の装備

政府軍の装備


展望デッキからの景色





薩摩塚(古塚)
旧植木町役場近くにあったものをここに移された



西南の役戦没者慰霊之碑
西南戦争終結80年目の昭和32年に建設された記念碑。政府軍・薩摩軍の戦没者約14000人の氏名と出身地が銅板に記されている。




大楠と回りの碑
樹高は19m、幹回り5m、枝張り直径30m、推定樹齢300年、田原坂の戦いを見ていた生き証人


西南戦争で一番若くして亡くなったのは13歳と言われている。 美少年像

民謡 田原坂
1 雨は降る降るじんばは濡れる 越すに越されぬ田原坂
2 右手に血刀左手に手綱 馬上ゆたかな美少年
3 山に屍河に血流る 肥薩の天地秋寂し
4 草をしとねに夢や何処 明けの御空に日の御旗
5 泣くな我が妻勇めよ男子等 戦地に立つは今なるぞ

崇烈碑
明治13年、陸軍省によって建設された記念碑


資料館の全景を見て公園を後にする

田原坂は、一の坂・二の坂・三の坂の1.5kmの長さ


明治十年(西南戦争)当時の 田原坂


田原坂公園を左に見て三の坂より下る下り口

右手に 田原坂三の坂石碑
熊本旧城下の北西の台上、坂はそれほど傾斜はきつくないが、坂の左右は谷で自然の尾根である。北方から熊本城に入る道のうち、ここだけが大砲を曳いて通ることができた、この坂道が西南戦争最大の激戦地となった。周囲の土中から、空中で衝突した弾が噛み合った「行きあい弾」がいくつも見つかっている。

三の坂付近、振り返ると、右斜め台上に田原坂資料館の公園が見える


三の坂付近

右手に 谷村計介之碑 政府軍の熊本城内の電信が断線。城内の状況と今後の作戦計画を伝えるための密使として、谷村計介が選ばれ、玉名に駐留する第一旅団へ密使として農夫に変装して潜行し、途中2回、薩摩軍に捕らえられるが切り抜け、無事連絡を果たす。しかし、直後の3月4日 田原坂の戦いの緒戦に苦戦のなか敵塁に突撃、数弾を受けて戦死。享年23歳、この活躍は「軍人の鑑」と評され、日露戦争後には、唱歌「谷村計介」がつくられ、小学校の修身教科書に載るほど、教育の場に取り入れられた。



右手に 西南の役 戦没者慰霊碑



田原坂二の坂の石碑

二の坂から一の坂にかけての付近


一の坂付近

右手に 一の坂の標柱と駐車場


田原坂を下ったところで車道に出る

滑川に架かる熊本県最古の 豊岡の眼鏡橋 新道と並行して、豊岡の眼鏡橋が残る。田原坂への登り口


田原坂の見学も終わり、資料館を右に見て約800m南方向に下っていった右に
七本柿木台場薩軍墓地
薩摩軍311名が埋葬された墓地


薩摩軍の墓地は数も少なく、質素で寂しいが、政府軍の墓地は各所にあり、一人一人の墓標がある。戦後暫く薩軍の兵士はこの地に埋められたままとなっていたという
七本柿木台場から約200m西に 七本官軍墓地
政府軍の墓地で300余名が埋葬されている。このような西南戦争で戦死した兵士の官軍墓地は21ヶ所ある。
薩摩軍と政府軍の墓地の違いがよくわかる

墓地の正面

軍人276名、軍夫10名、警察官14名の埋葬墓碑には、階級・氏名・所属部隊・戦死日・場所・出身地が刻まれている。この中には、軍旗事件で有名な、14連隊所属の河原林雄太少尉も含まれている


次に更に西、半高(はんこう)山(標高294m)公園、吉次峠戦跡 へ

公園(戦跡)からの南西の遠景

半高山古戦場 上の写真の向かって左側に続く車道を挟んだ向かい側


半高山古戦場 上の写真の向かって左側に続く車道を挟んだ向かい側

西南の役で最も激しい戦いが行われた場所の一つで、薩軍防衛戦線最後の牙城の地で薩軍が死守した、公園を挟んだ向かいの半高山の吉次越えは、官軍に「地獄峠」と恐れられた険しい場所。当時は回りも見えないほどの松や雑木が茂っていたという
西南戦争当時の吉次峠の写真



吉次峠に建つ案内板
左の公園内に政府軍の、佐々友房は
君見ずや 吉次の険は城よりも険なり と詠んでい

吉次峠を西に暫く進むと、前が広い駐車場がある
篠原国幹戦没の地と碑



薩摩軍一番大隊長篠原国幹は、薩摩人の大変慕われた人物であった。吉次峠では、その絶妙な用兵で精強な薩摩軍を指揮し先頭に立って戦ったが、狙撃を受け壮絶な戦死を遂げた。後に植えられた桜は 国幹桜 として親しまれている

篠原国幹戦死地の碑


碑の前の駐車場から見た景色

この付近にはまだまだ史跡がありますが、これで終わります
【熊本市中央区】に移動
立田自然公園(泰勝寺跡)
細川家の菩提寺として建立された泰勝寺跡。寛永14年(1637)細川三代藩主細川忠利が、初代藩主細川藤孝法名泰勝院を建立。4代藩主光尚の時、京都より大渕和尚を住職として招き泰勝寺と改めた。
ここには、初代藤孝夫妻と二代忠興、その妻ガラシャの墓がある。「四つ御廟」をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりある宮本武蔵の供養塔などがあります。
その他、苔園、天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室「仰松軒」などある。
熊本藩主細川家墓所(泰勝寺跡)


仰松軒
武人でありながら、茶堂にかけては国内随一と言われた忠興。大正11年復元された

泰勝寺跡の四つ御廟と細川家墓所
初代細川藤孝夫妻と、第二代細川忠興夫妻の墓を、四つ御廟と呼んでいる。
初代藤孝は歌道に秀で、第二代忠興は茶道にかけては国内随一といわれ、利休七哲の筆頭に数えられるほどの武将であった。
忠興の隣が玉子(ガラシャ)で、玉子は明智光秀の三女で、洗礼名をガラシャと言った。関ケ原の合戦直前に、屋敷に火をかけ家臣の介錯で自害。ガラシャ38歳の波乱にとんだ生涯であった。
辞世の句に
散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
四つ御廟をはじめ、第10代斉滋以降の藩主の墓がある。国史跡にしていされ、立田自然公園として公開されている。
細川家墓所


一段高いところの 四つ御廟

初代藤孝公泰勝院御廟

藤孝公室光寿院御廟

二代忠興公松向院御廟

忠興公室秀松院(ガラシャ)御廟とガラシャ夫人の手水鉢



四つ御廟が並ぶ

四つ御廟より石垣に沿って西の奥に入ると

広くなった正面に

伝 宮本武蔵供養塔
宮本武蔵は細川家にて晩年、客分として特別な待遇受けている。武蔵が葬られた 東の武蔵塚 は豊後街道沿いにある。豊後街道を歩くときに見学するのを楽しみにしている。
また 西の武蔵塚の兵法の集大成「五輪書」を著わした金峰山の山奥・雲巌寺の霊巌洞があります。(少し遠いが豊後街道歩く前に行く予定)
泰勝寺二世春山和尚の墓と並ぶ

石垣の傍らに 泰勝寺棲霞軒跡の標柱

下ってきたところの 泰勝寺庭園の標柱

細川家墓所の正面(泰勝寺跡)

墓所を後に、旧制五高(現熊本大学)の北側は細川家墓所のある泰勝寺跡(立田自然公園)その背後(北側)は立田山(標高151m)、ヤエクチナシの自生地でハイキングコースとして人々に親しまれている


続いて、中央区黒髪の豊後街道沿いの白川の畔にある 桜山神社 の境内にある
熊本神風連資料館へ

桜山神社境内の 神風連志士烈墓
明治九年挙兵、その数170人余り、近代兵器の前に一夜にして敗れ、その多くは戦死または自刃して果てた。これを神風連の変と呼ばれている。
その後、志士達の誠忠が認められ賊名を除かれた。桜山神社・護国神社に合祀されている。


志士烈墓の入り口直ぐ右に 義犬の墓の墓碑
神風連の変に参加した小篠四兄弟の末弟小篠源三の愛犬「とら」は、主人源三の死を悲しみ傍に座し続け与えられた食もとらず、ついに餓死して主人に殉じたといわれています。
同志と共に谷尾崎山王社で割腹し、十八歳のあまりにも若すぎる生涯を閉じました

「とら」義犬の墓

墓の並ぶ右手真ん中あたりに 阿部以幾子の標柱
明治九年(1876)十月二十四日、神風連の変の際、参謀として挙兵に参加した、
阿部影器の妻で、同じ参謀石原運四郎と夫影器の最後を見届け、その後自決をとげた。
辞世に 「わが夫のなき魂までよ二世かけてともにわたらん三途の川波」がある。

正面奥に 百二十三士之碑

その奥正面に 誠忠碑

河上彦斎(高田源兵衛)の仮墓
彦斎は、林桜園の原道館に学び、敬神尊攘を信条とし、京都、長州などで大いに武名をあげた。佐久間象山公武合体開国説を唱え、遷都をはかるを激憤してこれを斬り、維新後、新政府の招請を拒否し、豊後鶴崎の兵営長として活躍したが、長州騎兵隊の脱走を匿ったとして捕らえられ、明治四年十二月四日小塚原で斬首された。享年38歳
最後は新政府軍による強硬な攘夷論者で危険分子として処されたようです。
歌人としても知られ、その二首
「君がため死ぬる草むさば赤き心の花や咲くらん」
「あはれとも人なとへかしはらひあへてて浮世の塵に沈むわか身を」

桜山神社拝殿


境内の 宮部鼎蔵の歌碑
勤皇の志士で新選組に池田屋にて暗殺された

この会館も間もなく閉鎖されるそうです、館長さんもおっしゃっていたが。時代の流れか訪れる見学者も少なくなって予算が下りず、年々赤字が膨らんでいく一方なので、行政も廃館に決まったとの事。あなたが開館していて運が良かったかもって。
桜山神社を出たすぐのところ、白川との間の車道に 豊後街道の一里木跡 バス停に名前が残るだけで何もない


白川沿いに少し南に進むと、旧制第五高等学校(現熊本大学)赤レンガの校舎


次に南へ暫く走りJR豊肥本線を越えて南へ 水前寺公園へ
水前寺成趣園
1632(寛永9)年、三代細川忠利が水前寺を創建したが廃寺となり、旧境内地に御茶屋を道営したのが始まり。細川家代々の別邸として、1671(寛文11)年、綱利のときに現在と同規模の桃山式回遊庭園が完成し、成趣園と命名された。

池の北側に建つ 出水神社
明治11年、初代細川

池を海に見立てた 回遊式庭園


池の南端には、 能楽殿


細川藤孝(幽斎)、忠利銅像



銅像の裏手東側一帯には馬場 武田流騎射流流鏑馬(たけだりゅうきしゃやぶさめ)が奉納される



美しい 富士築山

もう少しゆっくり見学したいが時間的に制約があるので、水前寺公園から東へ暫く走る。
沼山津の住宅内に幕末の思想家 横井小楠記念館(四時軒)見学したかったが休 館日で中には入れず
幕末維新の開明思想家として知られる。坂本龍馬ら偉人が訪れた横井小楠旧宅跡



更に1.3㎞ほど北東に行くと 小楠公園

勝海舟は「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた、それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」といっている。1869(明治2)年、京都御所から帰宅途中丸太町の路上で保守攘夷派の刺客に襲われ、61歳で落命した
小楠公園の横井小楠の像

公園の一角に 横井小楠の遺髪墓




18時10分レンタカーでの見学終了、駅前のザ・ニューホテル熊本にて宿泊


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