吉野路 1

2011年3月28日
 1日目  吉野の大名持神社~桜の渡し~吉野山~柳の渡し
2011年4月4日
 2日目  近鉄上市駅~宮瀧~吉野山~奥千本~吉野駅

   多武峰街道完歩、14時10分時間的にもまだ早いので吉野路を少しでも歩いておこうと大名持神社より少し下流  
   に進み、桜の渡し跡、現在桜橋がかかっている橋を渡り吉野山へ進む。
    1日目  多武峰街道・吉野路   54.373歩 32.62㎞ 1.435kl
    2日目  吉野路         45.826歩 27.49㎞ 1.172kl

大名持神社正面の道は国道169号線で宮滝を通り熊野へ通じる、東熊野街道ここで多武峰街道と合流する

神社より少し吉野川の下流に行ったところに桜橋が架かっている。かつてはここに桜の渡しがあった

桜橋を渡り対岸に進み対岸より桜橋、桜の渡し付近を見る

対岸の橋の袂下にある で渡しの安全を祈ったのか、これがあるところを見るとこの辺りが渡し跡か勝手に判断する

橋を渡った左側に1861年創業の柿の葉寿司の老舗平宗

その先突き当たりの正面高台にある 浄土真宗本願寺派 本善寺表門山門 創建は本堂と同じ頃の寛文年間

蓮如堂拝堂当山開基の蓮如上人を祀る霊廟形式の堂

蓮如上人像

茶所太鼓楼 内部は3層1階は茶所2階は踊り場3階は望楼にして大太鼓を置いている。創建は1790年

本善寺の参道入り口にある 道標 「左 ならいせ 右 山上よしの」

吉野町飯貝の街並みを進む特に街道の資料はないが、各地から吉野山へ上る一つの道として古い街並みが残る

街並みの左に 飯貝地蔵の祠が大切に祀られている

その先直ぐ左に 水分大明神

鳥居の手前道沿いに 道標 「左 いせ たふのみね おかでら」、この辺り吉野材関係の製材所が多い

その先暫く進むと近鉄吉野線の踏切を越えて右に行けば吉野神宮駅吉野山へは左の坂道を上る

吉野山へは何ヶ所からの参道がある鳥居の手前右から出てきたところを振りかえる

暫く曲がりくねった坂道を上っていくと右手に 吉野神宮があります

後醍醐天皇を祭神として明治22年 官幣中社吉野宮として創建された

参道にある 常夜燈由来の書かれている石碑が立っているが読めない

左右対称の お堂が立っていたが今は向かって左側がない

その先進んでいくと左手に石碑か道標なのか読みづらい

更に不動坂を上っていく、左にが祀られている。道を挟んで向かい右手に峰の薬師堂跡松山茶亭の跡の説明板。更に正面には村上義光の墓がある。

峰の薬師堂跡   明治初年まで瓦葺の大きなお寺があったが廃仏毀釈で取り壊された。本尊の薬師如来はその折行方不明になった。石造り不動明王幸い如意輪寺の境内に移され今も厚い信仰を受けている。
松山茶亭の跡   1594年太閤秀吉が吉野参詣のとき茶亭が建てられた、前の不動坂を上って一息ついたところ。

            吉野山摘の花の色々におどろかれぬる雪のあけぼの     太閤秀吉
            木々は花こけ路は雪とみ吉野の分けあかぬ山の春の袖かな  関白秀次

村上義光の墓所
村上義光は信州更科の武将で大塔の宮護良親王に仕え北条幕府と戦ってきた。1333年吉野が落ちた時宮の身代わりとなり蔵王堂前二天門の高櫓の上で腹かき切って果てた。北条方が首剣分したところ宮でないと分かりこの地に捨てたのを里人が弔ってここに墓を建てた。また息子義隆も宮を守って高野山に落ちのびる途中敵と戦ってここから2kmほどはなれた山中で討死した今もその墓も残る。
義光の墓の隣の忠烈碑は1773年、大和高取藩士の内藤景文が義光の戦功をたたえて建てたもの。

宝筐院塔と忠烈碑

道沿いに 自然石の道標

坂を上りきって視界全面が開けたところ左に 昭憲皇太后御野立跡

またここは七曲り下の千本桜として景色の良いところ

芭蕉句碑、松尾芭蕉も吉野山に上り沢山の歌を詠んでいる

右手に 石碑

左手に 祠と道標

向こうから手前に歩いてきたところ、左鋭角に下りる道は下千本の七曲がりを通り極楽橋に至る

その先で朱色の大橋を渡るこの橋の下は川でなく大塔の宮が吉野城に立てこもった時の空堀に架かる橋の名残。吉野三橋の一つ

大橋を渡ると吉野山の街並みが続く

左に吉野千本口駅からのケーブルの山上駅

右に 関屋桜跡の碑

黒門金峯山寺の総門で吉野一山の総門である。格式のある門で昔は公家大名といえどもこの門から先は槍を伏せ馬降りて通行したという。

門を抜けると直ぐ右手にある 関屋地蔵と弘願寺 弘願寺の山門

境内にある 関屋地蔵1515年の銘があり490年余り風雪に耐え人々を見守ってきた

その先に 銅の鳥居(重文)黒門から急な坂を上ると全て銅の鳥居が。正しくは発心門。山上ヶ岳までの間に発心・修等覚・妙覚の4門がありここが最初の門

鳥居を潜った左に 行者堂改築記念と刻まれた石碑とお堂と灯籠がある

銅の鳥居から200mほどで 仁王門(国宝)1456年に再建された。南向きの本堂は山上ヶ岳からの巡礼を迎えるのに対しこの門は北を向いている信者を迎えるために建てられている

仁王門の石段を上る両側に灯籠や石碑が立っている

今日の吉野路はここまでとして、ここから再び吉野神宮まで同じ道を引き返し、柳の渡しからの参詣みちをたどる。

山上から吉野上市方面を見る遠望の山の向こうは飛鳥方面、竜門山も見える

また同じ道不動坂を下り左手に吉野神宮を見る吉野神宮をこえた右へのカーブが上ってきた道だが帰りは向こう側の下り道を下りる。この道は柳の渡しから来る人たちで賑わった。紀州の河南大和街道からの道でもある

人も車も余り通らない旧道を進む

やがて前方が開け視界が明るくなった右手に吉野奥駆ヶ第1の行者堂

行者地蔵が祀られている

紀伊半島の中央を貫く大峰山系の稜線上を走る大峯奥駆道、そのなかには75か所の山伏の行所が設けられていた。吉野川に架かる美吉野橋の下流にかつて「柳の渡し」があった。現在もこの柳の宿が大峯奥駆道の北の起終点で、その柳の宿から吉野山への最初の坂道を「一之坂」と呼び、大正の頃まで多くの人々が行き交わったが昭和に入り少なくなりこの行者堂も荒れていたが関係者により整備された。

行者堂から吉野大橋方面を見る

更に坂を下り終わるところに 浄光寺

浄光寺のところで旧道は右にUターンの急カーブをする。真っ直ぐ進むと吉野山の山麓にある脳天大神に行ける。その道も吉野山への道であっただろう。
六田集落に入りUカーブして直ぐまた左に曲がり、右にカーブをしながら吉野川へ下っていく

右にカーブする左手に 

下ったところの案内板右に老木の根元にある を見ながら下っていく

道は六田の古い街並みが残るところに突き当たり左に折れる

左に折れたところの街並み

その先街並みを少し進むと右に美吉野橋が見えてくる柳の渡しの南詰である

柳の渡し  
対岸の大淀町北六田と結ぶ渡し地点として古くから開けた町。吉野山から大峯を経て熊野へ駆ける修験者の水垢離場として尊ばれた。今の美吉野橋は大正8年に架けられたがそれまでは舟や徒歩で川越をしていた。従ってこの付近は、大和平野や大阪・和歌山方面からの修験者や吉野山への花見客でにぎわい、また吉野川をくだる筏のたまりばでもあったので、かつては宿屋や茶店が建ち並んで宿場街として栄えた。今建っている石の像は修験道の開祖 役行者像である。毎年9月7日に行者まつりが行われている。

橋の袂から対岸の北詰の柳の渡しを見る

現在の美吉野橋

美吉野橋の南詰で吉野川の南側を上ってくる旧道が 河南大和街道で和歌山県岩出橋で大和街道と分かれて紀ノ川の南岸を通る街道。ちなみに紀ノ川の北側を通るのが大和街道で奈良県五条から伊勢南街道といわれ、この橋の北詰を通っている。河南大和街道はここで吉野山に上っていた。

吉野川の上流方面を見る、正面より少し右のこんもりした山が妹山で大名持神社があるところ

北詰の 柳の渡し跡より対岸の南詰の渡し跡と美吉野橋

北詰 柳の渡し跡

本日はここで終了とする。多武峰街道・吉野路とよく歩いた。
桜井駅をスタートしたのが7時50分、談山神社から細峠を越え吉野の大名持神社まで、そして桜橋を渡り吉野神宮から蔵王堂、そして柳の渡しまで良く歩いた。   終了17時20分 総時間9時間30分


          
       

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