2012年5月20日(日曜)
泉南市南海樽井駅西の井関越街道分岐点~JR岩出駅大和街道分岐
南海本線樽井駅近くの孝子越え紀州浜街道の分岐点まで行って
7時30分 スタート
岩出駅 16時40分 着
48.177歩 28.90㎞ 2.095kl
本日は時間も余裕があるのでゆっくり峠越え街道を歩いたが、また道間違いも多々あった。風吹峠の先の峠道は消失していて長いトンネルを通らなければいけないので、遠回りしていこうと思ったが途中で道が分からなくなって、たまたま夫婦連れのかたがいたので道を聞くと、やはりトンネルを潜るしかないらしく丁度岩出方面に帰るのでトンネルの先まで乗せていってあげようと親切に言っていただいたので、新しいトンネルだが空気も悪く第一車が多い嫌だからここはやむ得ないので長いトンネルを車に乗せてもらってトンネルの先で降ろしていただいた本当に有難うございました助かりました。このトンネルを歩くと思うとドットする。淡島街道(上淡路街道)の合流地点は間違ったかも知れないが、その先の大宮神社近くの大和街道分岐点に着いた。
南海本線樽井駅南側
駅前の通りを少し南に進むと250号線の樽井駅前交差点を横断する
次の交差点に出るのでそこを右に折れる交差点左右が浜街道孝子越街道
右に折れて少し進む
分岐点に出て左へ折れる道が根来街道、真っ直ぐが孝子越え浜街道(井関越え)。
孝子越えの道を見る
左に曲がる西南角に 道標 「すぐ大川かた 左 紀州いせきこえ」
根来街道・井関越え街道の分岐点を見る
根来街道に入る起点から200mほど緩やかな坂を上る
すぐ左に 浄土真宗 専徳寺・受法寺が続く
よくわからないがいわれのあるものかな
坂を上り切り新しい家並みを進む、街道よりすこし左に入ったところに 茅渟神社
茅渟の起源
垂井は往昔山より清水が湧き出づるにより山の井の里・垂井ともいう。地形的には樽井は馬場の長山の続きで台地を形成し樹木が鬱蒼と生い茂り、水は山の井水門へ流れ落ちていた。樽井台地の山裾はすぐ海辺にして波が打ち寄せ、西の方には男里川が流れ、海に入り込み自然の良港をなしていた。神武天皇東征(紀元前650)孔舎衛坂(くさかさか)で長髄彦(ながすねひこ)との戦いで皇兄彦五瀬命が矢疵をおわれ戦況も劣勢になり、まずは海に退去するも傷を癒すが為に山の井水門に舟をとどめ、兵、共に疵を洗うに水が血の色になり海に注ぎ血の沼となり血渟・茅渟となる。道が少し前後するが少し進んだ先で十字路がある、この道は古道で、近世の浜街道の以前の浜街道が通っていた道、左に行けば茅渟神社、右に70m行ったところに南泉寺がある。
南泉寺 天文三年(1534)の二尊石仏、永禄五年(1562)一石五輪塔、寛永七年(1630)・正保二年(1665)寛文七年(1667)の板碑など数多くの石造り物がある。
一石五輪塔
板碑
南泉寺の二尊仏
街道に戻り50mほど更に戻り右に(西)50mほど入ると山の井の碑があり、奥に井戸が残る
山の井の前の旧道
山の井の近くに、史跡道祖神社址の碑と祠
坂を上って元の街道に出て進むと 祠内には多くの地蔵が祀られている
その先で204号線の樽井南交差点を越える
その先左にりんくう翔南高校その向こうに君ヶ池、右傍に池を見る
池の所で左からの道が合流して、樽井東信号交差点を横断。この交差点の左右の道は、信長街道
右に市立図書館、この辺り面影は残らないが国市場の集落があった、信達市場以前の集落
かつての集落の中の 岡前神社
神社の先で第二阪和国道の砂川変電所前交差点を越える
交差点から100mほど先で道は分岐しているので右の旧道を進む
分岐点より250mほど進むと永寿下池に突当る
永寿下池を右にして土手を進みます
土手を200mほど進むと土手の斜面に石仏、一石五輪塔、墓石など十基ほど祀った祠があり墓石には宝暦2年(1752)の銘がある。
土手を下り池を離れる
左からの自動車道と合流する
合流して右に大鳥居交差点に出る。この交差点の左右の道は熊野街道・紀州街道、元ここの辻が三畑越えの起点であり、信達神社の大鳥居があって、この辺りを「おんどり」と呼んでいたそうです。大鳥居は120m程離れた神社の遙拝所に移されている。
交差点を振り返る、左の軽四の道を出てきた元ここに前述の鳥居があったが車の邪魔といって移された。
正式にはこの交差点が根来街道(三畑越)の起点ともいえる
その先でJR線を渡るが手前左に 信達神社御旅所跡と移転した鳥居が立つ
JR阪和線の踏切を渡る。線路左先に和泉砂川駅
少し先右に 地蔵の祠
左に砂川高校を見ながら緩やかな坂を上る
佐田の交差点、左に俵池公園
右に川がせまってくるところで自動車道は真っ直ぐ金熊寺川を渡るが、街道は左に川に沿って右岸を歩く
右に金熊寺川が迫ってくるところを振り返る
金熊寺川の風景
新道を進む道、街道は橋を渡らず川を右に橋の手前を左の道を進む
金熊寺川を右に旧道を進む
阪和自動車道の高架を潜るすぐ左に お地蔵さん
右に西六尾橋を見て進む長寿会ケアハウス長寿苑が見える
金熊寺川の上流景色、山が深くなってきた信達六尾の集落にはいる
六尾集落内、道は写真に沿って
この辻で右鋭角に曲がる。正面に六尾老人集会場このT字路を左に進むと新家への旧道、かつてこの道から新家を抜けて紀州に抜けていた道。
左の道を進まなかったが、左折れして250m行ったところ分かれ道になっていてそこに 道標があり「右 にづま 左 志んだち」とある。さらに140m行くと庚申碑や石仏が祀られている。
また集落の東南の西斜面が墓地で慶長の一石五輪塔や板碑・石仏の元禄頃の石造り物がある。
六尾橋から400mほど行った道の右側に墓地があり、矢野氏の墓で享保・宝暦・天明などの古いものが見られるようですが寄っていません。
右鋭角に曲がりすぐの金熊寺川に架かる六尾橋を渡り府道に出る
六尾橋を渡ったところに上野酒店
六尾橋を渡った左側に 祠
府道に出て左へ正面に泉南信達東郵便局がある、左に折れたすぐに広い道路と合流する金熊寺交差点に出る。交差点を横断して63号線を左に平行している右の道を進む
左に63号線のトンネルが見える
左にカーブする右に 祠板碑・地蔵・一石五輪塔が祀られている
バイパスが出来たので地元以外の車が少なくて助かる。金熊寺村の集落にはいる
カーブから100mほど進むと集落の中ほど十字路で63号線と分かれ右への参道奥突当りに金熊寺・信達神社がある旧道はお寺の手前で左に曲がりさらに左に曲がり、先ほど分岐した十字路から100mほど先の現道(府道)に合流する。
真言宗一乗山 金熊寺 梅林で有名
石造りの古い地蔵、板碑、一石五輪塔等多数境内に残る
寺境内の山道の上り際にある 祠内には天正の頃の地蔵が三体、一石五輪塔が四基祀られている
金熊寺のすぐ北側に位置する 信達神社 中世以来のこの地域の中心的な神社
境内の御神樹ナギ
参道を見る
街道に戻りすぐの右塀際に立つ 道標 「右 みづま 左 志んだち」
西童子バス停で小さな川を渡った右奥に東小学校の川沿いに進みその先で大きく左にカーブする
200mほど進んだところで集落の先で分岐したバイパスが、ンネルを抜けて左から合流してくる
合流点を振り返るこの先車が一気に増えて注意が必要。正面左からの道を出てきた
この街道付近の道順の概略まとめ
金熊寺の旧道と現道との合流点から1.2㎞進むと右に新しい祠、その先200mで行くと道が分岐していて右折れして楠畑川に沿って行くと2.2㎞で楠畑に至る。
道の分岐点には桜があり、桜地蔵と名付けられた地蔵を彫った板碑があったが残念ながら見落とした。桜地蔵から400mすすんだところが堀河に至る分岐点である。
分岐点手前左のすわ山頂上に石殿がある。分岐点を左に140m行ったところにも石段がありその奥が観音堂で傍に、正徳元年の石灯籠と正徳五年(1725)の雨乞祈願の手水鉢があります。観音堂の前の山麓を通る道は、今歩いている旧道以前の古道。分岐点から80m行くと道路擁壁に組み込まれた地蔵と石仏三体祀っている。さらに20m先で判りにくい小路があって現道との分岐点になっている。この道は右手に聳える弁天山に向かうが、昔は途中で現道側にカーブして今の道に合流していたと思われる。
弁天山には石殿、石灯籠、手水鉢があります。
山をカットしたところを過ぎて童子畑の集落に入る手前に石仏があり街道は集落の中を通る。村の入り口から出口までは150mほどで出口には石殿と石仏が祀られている。出口近くの山側の道を行くと諏訪神社と地蔵寺がある、神社には三つの祠と宝永の石灯籠と安永の手水鉢がある。地蔵寺には天正期ごろの地蔵だけでも20体以上ある。宝篋印塔も古く、境内には他にも沢山の石造り物があります。地蔵の他寛文三年(1663)不食供養塔が二基並んでいる。
このようなことから、先の六尾集落や童子畑集落等付近の集落は歴史の古い集落とよくわかります。
その先の信号の手前に左に入る道があるので左に入っていくとその左手前すわ山頂上に石殿があります。左に入り140mほど進むと、観音堂がある。左に入ったところの観音堂の近くの十字路で右に折れて一旦63号線の現道に出る。
信達童子畑の集落とバス停山間の静かな集落だが結構63号線の走る車が多い
63号線を少し歩いて左の旧道を童子畑集落を進む
集落内立派な旧家が並ぶ
一旦新新道に出て、新道より左の旧道らしい地道を歩いてみる
先で行き止まりとなる。この辺りは新道以前の旧道は所々残っているのだろうが資料がなく分からない
道は消滅
集落の中の旧道らしい道を歩くが、後で調べてもどこを歩いているのか分からない、現地にいって調査すればいいのだが
集落の中に浄土宗 地蔵寺
すぐ北側に 諏訪神社
諏訪神社の神輿
裏側に道が通っているて山道であるがしっかりした道だ、西側の63号線より少し離れていて集落の北側を通っている。右下に集落が見える。
左の土手に 石仏
諏訪神社、地蔵寺から古道といわれる道を最初の信号のある所まで戻った。この辺り前後して歩いたので写真はバラバラ。自分でもわからなくなっています、修正するには再度行くしかないがとにかく見過ごしてください。
信号手前を左に入る、分岐点左に石段がある
左に池と横にホテルルナーがある横の古道を進む
右下に新しい観音堂
道路擁壁の一部を切り取り 地蔵と石仏三体
私はそのまま古道と思われる山道を進んでいったが、そのまま進むとダムの堰まで行ってしまう。今は諏訪神社、地寺の南側を63号線にでるそして63号線で川を渡り石取橋まで川の左岸を進む。しかしそのまま山道を進んだのでダムの堰に出てしまった。
右下に集落が見える
山間に新しい道が造られており旧道はわからなわからなくなり
どんどん坂を上っていくと堀河ダムの頂に出てしまった。対岸に赤い橋が見える、ここまできたら元の集落に戻るのも大変なのでこのまま進む。
止む無くダム堰を渡る
ダム湖
堰を渡り右に折れる、対岸に見えていた赤い橋を渡り急な坂を下っていく
※ 大変な遠回りか、全く参考にならないです。集落の車道を進むことをお進めします。ダムや新道で旧道はおそらくズタズタになっているのだと思う。
前方に童子畑の集落が見える
坂を下り終えたところで、小さな祠と水
すぐ先で63号線に合流する。旧道として大体は合っていたようです
川沿いに進んでいく
正しい街道の説明
ここで道をまたもや間違った、バス停のすぐ先で道が三つに分岐する、右すぐの新しい道への道に出て新道の西側の側道を進む道と、真っ直ぐ進んですぐ先で新道に吸収される道と、左に折れて葛畑集落への道。
私は間違って右に進み側道を歩いたのが大間違い。
(正しい街道)
旧道は左の葛畑への道を進み100mほど先で再び道が分岐する、左は葛畑集落へ右の街道を進む。道は荒れているようだが右に川を見て120mほどさきで道標がある。道標の上に地蔵がのり台石の正面に「右ハ き志う道 左ハ 徒つら畑道」と刻まれている。道標から30mほど先に橋がありそこが府県境となっている。そこには国境石があり、「是以北大阪府管轄」「是以南和歌山県管轄」と刻まれている。峠まで1.2㎞。
三つの分岐点を右に進み新しい道に並行して側道があるのでそちらを歩いた
新道に並行してかなり進む
最終的には側道は完全に山に阻まれ消失。止む無く元の分岐点に戻ることとなった。
元の辻に戻り旧道を歩けばよかったのだが新道を進む。これには理由っがあって手持ちの地図が詳細でなく道が記載されていなかったため。
その先で更に道幅が広くなり、橋を渡った右に道の駅、根来さくらの里がある
新しい道を上る旧道は完全に改修されたのだ、坂を上っていくと新風吹トンネルが見える
新トンネルの手前で旧63号線の道を左に進む
暫く谷川沿いに進む
旧63号線は殆ど車が通らない道となっている右に大きくカーブすると
すぐ前方に新トンネル前の旧トンネルが残っている。このトンネルは本数年前まで利用していた。今は入口が網で完全に封鎖していて抜けれない
旧トンネル手前に右への岩出クリーンセンターへの道があるので右に折れる。旧道はこの道を通って根来に抜けていたと思う
下には63号線の新しい道が見えます
クリーンセンターへのみちを更に上っていく
旧風吹峠 斎場で行どまり旧道は完全に消失
諦めきれず、正面の斎場の行き止まりを右にカーブしてクリーンセンターに入っていったがダメでした
結果的には道は完全に行き止まりで消えてしまっている。この辺りが旧風吹峠と思うのだが多分想像だが現在斎場となっているところを旧道の峠越え道が通っていたと思う。斎場の先左下に新道が走るのであまり距離がないしでも全く通れない。
仕方ないので元の旧トンネルまで戻る。トンネルの向こうの出口が見えている
旧トンネル入り口近くの小さな 祠
旧トンネルの前から左への道を暫く歩いてみたが、かなりの先で道が分岐している辻で、右への道が根来方面への別道だったのだろうが閉鎖されていた。
止む無く長い車の多い新トンネル内を歩くため戻ろうと思ってたところ、分岐の左に曲がった少し先で、夫婦の方が何か仕事をしていたので道を訪ねたとこトンネルを抜けるしかないということであった。夫婦の方が仕事も終わったので私たちもトンネルを越えるから車に乗せてあげるとのことで甘えさせてもらうこととした。ご親切に本当に有難うございました助かりました。
車に乗せてもらって、トンネルの抜けた先で車より降り再び新道を歩く。トンネルの抜けたところを振り返る。
クリーンセンター・斎場は正面の山のあたり、旧風吹峠
峠を歩けなくて無くて心なしか寂しい気持ちで下って行く、
トンネルを振り返ると正面の峠辺りにクリーンセンターの塔が見えます
単調な車の多い坂を下っていくと正面に岩出の町が見えてきた
坂の途中左に、風吹山弁財天院
少し左に入る道が旧道の残骸、100mほどで新道に合流する
合流するところの案内看板
更にその先で左から右に回り込む旧道が残る
右に回り新道に合流する手前小川の小さな橋が残る、更に下っていく更に下っていく
この先、根来の信号交差点で左側の旧道を下る
この辺り左は昔からチョットしたホテルが建ち並ぶ
左に下り、途中で更に左に回り込む少しの間の旧道が残る
右からの新道に合流したすぐ先で左に池を見て、すぐ左に最近できた岩出市立図書館がある
図書館の所の信号交差点、左前の国分屋という古い料理屋さん。信号を左に進むと根来寺への道。上淡路街道を歩いた時に寄っていますが再度行ってみます。
街道は信号交差点の少し右に道を下ります
交差点の左手前角に 道標と祠
ここで根来寺へ⦅寄り道⦆をする、根来街道と付いているので外すことは出来ない
左の道を進み左の大門池をみて朱色の天眞橋を渡る
橋の袂にある 天眞橋の碑
左にカーブしたところで聳える 大門 根来一山の総門で嘉永三年(1850)に再建された。
傍にある沢山の 石仏
鳥羽上皇御駐輦所
真言宗 根来寺
一乗閣(旧和歌山県会議事堂)この地に移転
鐘楼門
光明真言殿 文化元年(1804)落慶
たきみばし
一乗山 大傳法院 根来寺
1300年の昔に役の行者が葛城28ヶ所の行場の一つとして創立し、その後、寛治年間に最初の寺として「豊福寺」の名で建立された。更に、鳥羽上皇の時代、長承元年(1132)に院宣によって付近の庄園と共にこの地を興教大師覚ばん上人に下賜され「大傳法院」が建てられた。その後、室町時代には山内の寺院2700以上、領地72万石という大名なみの勢力となった。しかし天正13年(1585)に豊臣秀吉の紀州征伐によって大塔と2~3の建物を残し全山焼失、元和9年(1623)から徳川家の援助によって復興がはじまり、寛政・文化・文政に大改築が進み面目を一新して今日に至っている。
大毘盧遮那法界体性塔(大塔) 国宝木造の大塔で日本最大の唯一国宝指定天文16年(1547)に完成、秀吉の焼き討ちから免れた建物
大傳法堂本堂 で文政10年(1827)に再建された。
沢山の石仏がが並ぶ
奥の院
興教大師覚鑁上人の御廟所康治2年(1143)年に12月12日に入滅されここに祀られている。御廟の手前左右の墓地は歴代の座主、長老の墓。
不動堂 三国一のきりもみ不動で有名な不動尊を本尊として延宝5年(1677)までに再建された。
根来寺の前自動車道の向かいに 身代不動尊
往時の堀跡なのか石組み、往時は如何に広大で勢力を持っていたか偲ばせる
三部権現 根来寺の総鎮守社
その他まだ多数の建物や庭園があるが、時間が限られているのでこの辺で根来寺を後にする
根来寺から大門を抜け、元の街道に交差点に出る
交差点の右側の街道を進む
右側の道を進み観音橋を渡る、宿場の町並み
根来川に注ぎ込む小田井用水路
左川沿いに大きな旧家が見える
右に医王山智福院 薬師寺
薬師寺手前右に道標があったのだが見逃した「右 こかわ 左 ねごろ道」
その先左になまこ壁の美しい金田家長屋門と蔵
右に根来局の街筋
暫く進むと交差点に出る左右の道は 上淡路街道
根来街道はここで完歩
上淡路街道を横断して細い道を進む
五智房堂
その先の分岐点を左の道を進む
右に新義真言宗 薬師寺
進んでいくと63号線の堀口交差点に出る
この交差点の先あたりから、どうも道はよくわからなく歩きます
荒田神社
本殿
この先の道は適当に南へ
24号線のバイパス備前交差点に出たようで真っ直ぐ進む(南へ)
正面右に森が見えてきました 大宮神社の森高瀬の信号交差点を左に進む
150mほどで旧24号線にでるので横断
横断して真っ直ぐ道なりに進む
大和街道と合流する
左向かい角に 道標
大和街道と合流して根来街道は終了、この先紀ノ川の対岸には 河南大和街道が通っている
旧道を歩き岩出駅に移動
JR岩出駅
《 終了 》
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