薩摩街道 【第二回 ⑫】

2024年3月1日

 京町1丁目~新町の札ノ辻~熊本駅=🚊=川尻駅・川尻宿~宇土宿
         41.069歩  24.6㎞  
熊本駅前のホテル7時45分出発、京町1丁目の熊本地方検察庁までタクシーで移動。
一回目の時歩いているが少し街道を間違えて歩いているので、今回再度ここからスタートする。 前回間違って真直ぐ進み磐根橋に出ました。

右に郵便局がある先200m程進む

京町一丁目信号交差点、左には熊本地方検察庁の辻を右に折れる。そしてすぐ次の辻を左に折れます

左に折れた旧道

右手に細川忠利ゆかりの 高野山真言宗宝聚山愛染院

キンモクセイの大木が聳える

正面に 新堀橋 と石垣の上に 監物櫓 新堀橋手前を左に行くと磐根橋で

監物櫓の下を右にカーブします。見事な 百間石垣 長さ101間(約184m)、高さ5間(約9m)。熊本では思い切ってた行動をすることを 「百間石垣、後ろとび」というそうです。

二の丸御門前に出ます右は 三の丸跡 です

 二の丸御門跡

二の丸御門跡前から、新町の札ノ辻まで二つのルートがあります。旧道は城内の二の丸・三の丸を通る、今まで沢山の城下を通る街道歩きをしましたが、城内を通る街道は珍しいです。如何に熊本城が堅固であるかを傍示しているのだろう。西南戦争の熊本城攻防戦で例があります。
二つのルート
① 二の丸御門前~二の丸御門跡に入る~左に二の丸広場、右に県立美術館の間を南に~枡形に出る~枡形の右宮内神
  社跡手前を左に折れて南へ進むと~法華坂に突き当たり右へ下る~やがて右に清爽園~札ノ辻。
②  二の丸御門前を真直ぐ~右手細川刑部邸の辻を左にカーブ~市立博物館の東側の道~左藤崎台球場~薬師坂~札 
  ノ辻。
  ① のコースは豊後街道に歩くので今回は、② のコースを歩きました

二の丸御門前を振り返る、手前方向に進む石垣が地震で崩れていて修復するようです

見事な石垣を左に見ながら進んできた

右に三の丸資料公園、左三の丸駐車場。右手公園の向こうの白い建物、細川刑部邸で街道は左にカーブする

三の丸資料公園から、移築されてきた 細川刑部邸 を見る

現在、休館中で中には入れない

正面への入り口

刑部邸を右に見て左に道なりにカーブすると、右に市立熊本博物館で左は三の丸駐車場

右手の博物館の横の坂を上っていくと、道が分岐しているので、右の道を進む。
(前回間違って真直ぐ進んでしまった)

ここを右です

その先で間違いました、真直ぐの舗装道を進んだが、途中で舗装道が無くなります。
間違っていると思い元の車止めまで戻ると

車止めを越えて10m程先で、左の球場の方への上りの地道があります

球場をp左に外側を道の様な道でないような道があります

そのさき金網があり一瞬通れないかと思ってしまったが、その部分だけ狭くなっているだけで、抜けた先はまた広くなっています

球場の建設で旧道は歪になったのだろう

右手は急な斜面なので。白いガードレールで防御してくれているので間違いがないだろう。ガードレールに沿って球場を左に離れ、右に下っていきます。

下ると右からの舗装道が合流してきます。この下トンネルが抜けている

結構急坂で、これが目標の 薬師坂 です1回目に通った道はもっと左手球場の向こう側です

西南の役・米倉連隊長戦の跡碑 薬師坂の途中右手に、振り返ったところ

薬師坂を下ったところから振り返る

薬師坂を下り左(南)に折れる。70m程進むと電車道に出ます。新町3丁目の電車道に沿って左折れ

電車道を左折れ(南東)、次の辻で電車は右折れしますが、街道は真直ぐ

交差点を左に見ると薬師坂の北辺りを抜けてきたトンネル 

正面の建設中の大きな建物を左に沿って右に折れます

そして50m程先の交差点を左に折れる。丁度左から車が出てきたところを

左に折れた50m程先の交差点を渡ったところ左

上記の交差点が 札ノ辻:里程元標跡の碑
ここを 起点に、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数 が測られた。要衝の辻であった

左手には 清爽園(せいそうえん)
明治11年(1878)、熊本鎮台が参加した佐賀の乱・台湾出兵・神風連の変・西南戦争の戦没者を祀る記念碑が建立され、翌年に敷地を広げて庭園とした
新一丁目門跡

新一丁目門跡
この場所は、熊本城の西の玄関口となる新一丁目門がありました。土塁と石垣で囲まれた櫓門があった跡。
北東方向の法華坂に通じていた。門の外側には、「勢屯」と呼ばれる広場があり、藩の法令を掲げる高札があったので「札ノ辻」と呼ばれ、豊前・豊後・日向・薩摩街道の起点となっていました。

弔魂碑・殉難碑
明治初期の佐賀の乱・台湾の役・神風連の乱および西南戦争による戦没者の霊をまつるための弔魂碑と、西南戦争における県民の殉難碑が明治12年(1878)に建立された。

正面の坂道が、豊後街道時に歩く 法華坂 で二の丸に入っていく

新町から電車道に出て熊本駅へ途中右手に旧家があります

熊本城内の一つのルート薩摩街道/豊前街道 を歩きました。熊本駅へ
鹿児島本線熊本駅より9時37分発で、川尻駅へ移動します

【第一回目の終了した川尻の起点より】歩きます

川尻は熊本城の南、約8㎞の所にある街で緑川流域の河港である。今なお往時の情緒が漂う。
川尻駅より北に少し戻り、南高江2の住宅地から南へ

297号線に出るので右斜めへすぐ先、八幡町バス停があり、すぐ先の辻を右に折れます

すぐ先で十字路を越える

またすぐに椎田屋敷第一号橋を左折れするのが街道ですが

(寄り道)橋を渡ってすぐひだりおれした左小川沿いの道が街道。街道に入らず真直ぐ進むと右手に、河尻神宮があるので寄る

河尻神宮
加藤清正や細川氏の庇護を受ける

川尻神宮の御神木

先ほどの橋の袂に戻り、左の小川に沿って進む。車の手前で道が分岐しているので左へ

左に進む右に 椎田薬師堂

お堂の中に。木彫りの 薬師如来立像
前には石塔に刻まれた 六地蔵

左に進むとすぐ先で変速十字路を右に 八幡5丁目6

右の車道を進む

左に緩やかにカーブしています

天明新川に架かる橋の左手に 石佛が並ぶお堂

お堂の前道を挟んだ向かいに、いきなり団子・よもぎ団子店があったので食べようか迷いましたが諦めた
前回と前を歩いたとき、次食べようと思っていたのに

その先、左後方からの旧国道3号が合流します。国道を真直ぐ

 【川尻宿】に入ります

次の信号交差点を右に行くと200m程でJR川尻駅
信号のすぐ先右に 浄土真宗本願寺派遍照寺

右手に 浄土真宗本願寺派東嶺山西教寺

二里木跡
江戸時代に幕府が定めた法でキリスト教禁止や抜け荷(密輸)などを領民に周知するために高札(今の掲示板のようなもの)といい、掲げてあった場所を 高札場 です。この場所を勢屯(せいだまり)という。
川尻は江戸時代に熊本と鹿児島を結んだ薩摩街道沿いにあり、熊本城下札ノ辻から二里(約8㎞)の地点に当たり、その距離を立札に書き、目印として榎(二里木)が植えられていました。

川尻宿の街並み

岡町バス停の手前で道が分岐しています。 高札場・二里木の標柱 右斜めに入るのが旧道です。右の旧道に入ると小さな高札橋を渡るとすぐ右に川尻小学校があります

川尻小学校の前の旧道

少し入ると左に 木村正彦を育てた道場跡の標柱
大正六年(1917)生まれ、少年のころから柔道で数々の素晴らしい成績を残し、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、格闘家として今なお広く尊敬されています。柔道七段。小さいころプロレスで木村、力道山のテレビを思い出した

更に静かな宿内を進んでいきます

宿場の途中に、無田川に架かる小路橋を渡る
橋の袂の案内板には、この小川は細川忠利時代から明治初期まで熊本へ米や諸物資を高瀬舟で運ぶのに利用されていたという

左手に 浄土宗帰命山無量寿院法性寺
浄土宗は徳川家康によって深く帰依され、葵のご紋を大切にしている。また細川氏からも篤く帰依された名刹
門の扉の葵の紋

すぐ先左に 本陣跡(小路町の待賓館跡)の標柱  
江戸時代細川藩の重要な港町で栄え、熊本から八代・水俣・薩摩を結ぶ重要な街道であった。
宿場町としても大変繫栄していた。宿場町には大名や貴賓を泊めるための「本陣」や「脇本陣」が設けられ、川尻宿本陣には、参勤交代で往来する薩摩藩や相良藩の藩主などの宿泊場所として利用された。

本陣跡の標柱と宿場の街並みを振り返る

旧道は加勢川の堤防に突き当たる

加勢川のかつての 河港跡 かな

加勢川の突き当りの右手に、鹿児島本線・九州新幹線の高架橋。寄れずに逸したが堤防を右に行くと、鹿児島本線の陸橋の手前に、 川尻御蔵前の船着場 見えないがその手前に、川尻薩摩軍本営跡の標柱奉行所跡 があったここまで来ていたのに残念
特に長い街道歩きの時は往々にして見逃してしまうことが多い

堤防より川尻町並みを振り返る加勢川の突き当りになるので、また今来た旧道を戻り元の小学校があった分岐にもどり左の車道を進む

分岐に戻り車道を少し歩くと右手に 天満宮の鳥居と小さな社

耳地蔵尊
無田川を背に地蔵堂と石仏が並ぶ、耳の病気に霊験があるというお地蔵さん

無田川を越えた右手に 真宗大谷派西蓮寺

更に進んでいくと左に 真宗大谷派浄慶寺

浄慶寺の道を挟んだ左奥に 日蓮宗常妙山法宣寺
本妙寺初代日真上人が慶長14年(1606)に創建。加藤清正の正室清浄院の供養塔がある

本堂前に、加藤清正正室 清浄院の供養塔
清浄院は明暦2年(1656)75歳没

車道に戻り進むと、道は分岐している左の道が旧道右から前述の河に突き当たった手前のところからの道もあり、この分岐の右車道を越えて分岐に来ている?

二股のすぐ右に 薩摩街道の標柱

少し先で加勢川に突き当たる

突き当たったところから旧道を振り返る

加勢川の突き当り左手に 日蓮宗発迹山本立寺

この旧道も加勢川に突き当たるので右に折れて新町橋へ
かつてここに 渡し場跡 があったのか

(まとめ)
右手に学校があった分岐で、最初は右の道を進みました。かつての川尻宿の街並みに間違いはない、無田川を渡り、その先で加勢川の堤防に出ました。当初はそこから渡しで加勢川を対岸に渡っていたと思っていたが、湊跡であったようです。その手前を少し戻り、確認はしていませんが、東(進んできて左への)への旧道があったようで、そして後から歩いた学校のある分岐で左の車道(これは後日の新しい道だろう)を進み無田川を渡り、前述の分岐に出たところで、右から宿内を進んできた旧道と合流し左の道を進んでいたと私は思っています。(間違っているかも分かりません)

加勢川の突き当りで止む無く右に進んで、加勢川に架かる新町橋に迂回します
新町橋を左に見て直ぐ先の堤防沿いに

正中島弁財天の標柱と祠案内板があり、祠の中に板碑状の一字一石塔

新町橋を渡る

 新町橋を渡ったすぐ右手に 浄土真宗本願寺派西楽寺

また橋を渡った左の袂に沢山の地蔵を祀っている 地蔵堂 真中が享保16年(1731) 放牛地蔵

旧道のかつての 渡しの跡 の対岸を見る、新町橋より少し上流、車道より一筋東側の旧道を進む

川尻6丁目の街並み

左に 浄土真宗本願寺派金仙山正行寺

正行寺の先も真直ぐな旧道

そのさき車の多い、国道3号と県道50号を歩道橋で渡ります

歩道橋からの国道3号

歩道橋を渡り堤防上のような道をしばらく進む、右下に記念碑が建つ

300m程進むと緑川に突き当たります

今来た道を振り返ったところ

突き当りを右にカーブします。左側は緑川 大神宮の社

右にカーブする大神宮の東側辺りから、対岸に渡っていたようです特に案内がありませんので、どのような方法で渡っていたのか

すぐ西側の緑川に架かる緑川橋を渡ります。緑川橋に並行して東側にかつてどんど(吞吐)橋が架かっていたとの事です。

橋を渡ってかつての渡河地点 どんど橋跡

橋を渡り一旦堤の下にでて、右折れして国道3号の下を潜る

更に新幹線の高架を潜り、続いて鹿児島本線の小岩瀬踏切を越える

堤防を少し進んだ左下に、若宮神社

冨谷町古岩瀬の集落 神社境内の一角にある お堂

立派な仏様が祀られている

左下若宮神社を見て過ぎると、左に下る道があり古岩瀬の集落に入る。右手は緑川

堤防を右に左に下る 南区富合町古岩瀬地区

左にカーブして右に小川に沿って集落を進む

300m程先で右に折れます

右に折れて数十mで小川に沿って左に折れます

左に折れた先の街道は真直ぐ伸びています。この付近に、薩摩塚があるのだが見当たらない。諦めていたところ暫く歩くと左でおじさんが作業していたので聞くと、通り過ぎていると教えて頂いた。個人の家の中にあるので了解をとってはいるといいと教えて頂く。

元の左に折れたところまで戻る。左に折れる右手のお庭の広い志水家でした。了解をとろうと挨拶に玄関に行ったが不在のようで戻ろうとして少し庭を見ると薩摩塚 が庭にあるご自宅勝手に侵入して済みませんでした

薩摩の武士が亡くなり霊を弔い地蔵を建てたそうですが、昭和20年の時、爆弾で無くなったそうです
庭の真ん中あたりに 塚 のような石がありました
また庭への入り口近く木の下にも  の様なのがあるがどうでしょう

黙って写真を撮らせていただきすみません

200m歩いたところで車道を横断

そのさきで浜戸川を渡るが、橋の手前右下斜面に お地蔵さん

浜戸川に架かる国町橋を渡る

国町橋から浜戸川を見る

国町橋を渡った先の冨谷町の旧道このように長い先の道が見えると何時もアアーと思います。でもこのような旧道ならいいが、国道であるとどっとして疲れが出る

暫く歩くと左手に鹿児島本線の冨谷駅と九州新幹線の高架が見える

冨谷町志々水地区、車道の交差点を越えて少し先十字路の右角に

三里木跡の標柱

そのさき300m程進んだところ、右にカーブしている辻があり、少し迷うところですが道なりに右に進む

更にすぐの分岐は左にカーブ道なりに進みます

左にカーブして真直ぐ南へ

300m余り真直ぐ南に来たところ(左からきて)T字路に突き当たり右に折れたところを振り返る

更に何も表示はありませんが100m余り進んだところ、自転車で出てきた辻を左に折れる

150m程先で 潤(せ)川に架かる三拾町橋(さしちょうはし)を渡る

橋を渡り西方向に進む、田畑の整地で旧道が消失なっているようです。そして橋から300m程先で左に折れます

三拾町の田園の中の道が真直ぐ伸びています。整地された道を約600m

この様な表示もない田園の中の整備された道を歩いていると、方向と道が合っているのかいつも不安になります。とても資料を持っていなければ歩けない

T字路の正面に 曹洞宗吉祥山西安寺 旧道は正面の西安寺を右に、向かって左の細い道に入っていきます

本尊は 聖観音菩薩・薬師如来立像

本堂前に石仏が並んでいます、中に83体目の 放牛地蔵 があります

要するにお寺の裏側に左から回り込みます、そして小川沿いの道に出ます

直ぐ大坪川に架かる観音橋を渡ると、松原町です

左に大坪川が離れていくここより400m程東にJR宇土駅があります

300mほど自動車道に合流右に進む

宇土市街入り口交差点

交差点左斜めの細い旧道に入る

旧道に入らず少し(寄り道)西に行くと 城之浦天満宮

天満宮のすぐ近くの街道沿いの城之浦児童遊園地に 薩摩街道の案内板 江戸―薩摩

すぐ先でT字路右折れ

右折れしたすぐ先で交差点からの車道(県道297)に出て左へ、すぐJR鹿児島本線の城之浦踏切を渡ります

踏切の先の道 本町6丁目

船場川の手前左に入ると 浄土宗境智山円応寺 
山門の傍に 芭蕉塚 字は摩耗して読めないが  里の名も聞きたき夜の山の道

芭蕉を偲んで作られた塚や句碑は熊本県内に35か所あるそうです

【宇土宿】に入ります 熊本県宇土市

街道は船場川に架かる船場橋を渡りますが、その前に川に沿った史蹟を見ます。かつての武家屋敷が立ち並んでいた一帯。船場橋は陶器でできた 眼鏡橋

橋の右手には、船場川に沿って古い建物や武家屋敷が並んでおいたそうですが、今はその情緒が残るが古い建物は少ないが雰囲気が漂う

案内板のかつての  五丁目堰跡

船場橋の右手にある 眼鏡橋船着場や石段・石畳が多く残っている景観

船場川に沿って散策。川に沿って植えられている榎、季節的に葉はないが、川・両岸の建物・榎がよくバランスが取れていて素晴らしい

武家屋敷とエノキ群

川の両岸に並ぶエノキ群は、夏には川面に緑の影を映し、船場橋や蔵屋敷とともに素晴らしい景色を作っている。古いものは樹齢150~200年になると言われている。現在では数が減り左岸3本、右岸3本となっている。

轟泉(ごうせん)水道井戸
良好な地下水に恵まれなかった宇土では、早くから上水道の設置を進め、宇土支藩の初代藩主の細川行孝の命により、寛文3年(1663)に造られた、初期は陶管製で、後に馬門石製の樋管へと変わった。我が国最古の現役上水道です

轟泉水道井戸の横にある せんばのお地蔵さん

船場橋
長さ13.7m、幅4.1mの石造り単一アーチ橋で、輪石35個を使った熊本式の石橋で、壁石は安山岩、高欄はピンク色の馬門石(まかどいし)を使っている。路面は三和土で、現在は養生のために三和土層の上に馬門石敷を行っている。
元禄期の古図には、船場上流にある五丁目橋と並んで描かれている、このころはまだ土橋であったと思われる。石橋になったのは安永9年(1780)といわれている。当時は五丁目橋も石橋で共に眼鏡橋と呼ばれていたが、五丁目橋は、馬車の通行に不便ということで木橋になり、その後コンクリート製になりました。
轟泉水道井戸(ごうせんすいどういど)
轟泉水道井戸は末端にあたる。江戸時代前期に完成した水道は、轟泉源から宇土城下町を抜け、船場川に至る約3.0㎞という大規模なものであった。
当初は松橋焼の土管を使っておいたが、後に馬門石に取り替えられた。当時、船場は交通の中心として栄え、ここから出港する船は上納米などの物資とともにこの井戸の水を積み込みました。
いまではこの井戸も上水道の普及により使用されなくなり、樋管も一部破損し、途中までしか水が流れていない。

元禄期の宿古図 (案内文や図より)

武家屋敷と船場川を挟んだ対岸の 浄土真宗本願寺派教信山善行寺

(寄り道)も終わり、元の船場橋に戻り歩き始めます

すぐ先左に、立派な鐘楼門が建つ 浄土真宗本願寺派正栄寺

本町に入り4丁目交差点を左に入り(寄り道)、一筋目を左に折れると、現在は使われていないようです。右に宇土公民館・宇土市教育委員会の建物があります。
宇土細川藩陣屋跡 です
宇土市新小路町95正保4年(1646)熊本藩2代藩主光尚が従弟細川行孝(宇土細川藩初代藩主)の陣屋をこの地に定め、1647年9月陣屋が完成。重臣・知行取りの侍衆の屋敷は本五丁目南側・本町筋・八代道に囲まれた区画へ、そのほかの武士の屋敷は石ノ瀬・船場町に建設され、その総数は316を数えた。(陣屋跡案内板より)

宇土公民館の向かいは 温知館跡;藩校跡

本町4丁目の交差点に戻り本町筋を進むとすぐに右手に 真宗大谷派善宗寺

地蔵さん が祀られている

更に右手に、 浄土真宗本願寺派法教寺

本町筋を進みます

やがて右手に教会が建つ、辻を左に折れる

左に折れる右手に日本福音ルーテル宇土教会

左に折れた旧道の街並み。折れた右角に 高札場 の案内板が立つ宇土の高札場 であったこの場所は、熊本新町一丁目の札ノ辻より四里の位置。薩摩街道はここから南(左)へ折れて、松橋に向かう。当時の宇土郡ではこのほか5村に高札が設置されていたそうです

この辻で街道歩きを一旦中断して西にある 中世・近世宇土城跡 に(寄り道)します
かなりの距離があるようですが元々寄る予定だった

辻のすぐ西側にある 祠

 宇土城
宇土城は宿場より少し離れています。近くに宇土高校・小学校があります。南北朝時代に宇土氏によって築かれた。この城は宇土古城として独立丘陵に築かれた跡で、中世宇土古城跡
宇土氏はその後滅亡し、代わって名和氏が城主になった。天正15年(1587)秀吉による九州平定で筑前の国に入れ替えられ、宇土古城を追われた。
代わって天正16年(1588)小西行長が宇土古城にはいり24万石の領主となった。行長は、天正17年(1589)古城の西側に新城を築いたのが、近世宇土城跡
1600年関ケ原の戦いで西軍に与した行長は、敗れて処刑された。その後を加藤清正が肥後一国の領主となり将来の隠居所として整備したが慶長16年(1611)死去。寛永14年(1637)天草・島原の乱で廃城となり破壊された。その後、熊本藩主細川忠利の弟忠孝の子、行孝が3万石で宇土藩を立藩し城跡に陣屋を建設して11代続いて明治に至る。

近世宇土城跡の道標

宇土城のわずかな遺構として残る 本丸跡

本丸の一角に建つ 小西行長像

永禄元年(1558)~慶長5年(1600)豊臣秀吉の家臣として薬種商から大大名に出世したキリシタン大名。
関ケ原の戦いで石田三成の西軍につき敗れ、石田三成・安国寺恵瓊と共に京都で処刑された。今日の宇土市街地の基礎を造った武将

本丸周辺の石垣や一部堀跡(現代城跡全体公園)

朝鮮出兵時に宇土に連れて帰られた少女の話

近世宇土城遠景と城下町の想像図

宇土古城跡跡への道標

宇土古城跡の遠景

中世宇土古城図
通称「西岡台」と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にある。西岡台の東約500mには、キリシタン大名小西行長が築城した近世宇土城跡があるため、西岡台の宇土城跡を「中世宇土城跡」と言って区別している。

綺麗に整備されています

堀跡

本丸跡

 堀跡

見学も終わり元の高札場跡に戻り街道を進む

 左に 

一里木町の街並みを進む地名が残っているところから、この付近に四里木があったのだろうが何も標柱がに残らない

右手に 水道塘(とも)

水道塘(とも)の説明案内板

一里木町、熊本の札ノ辻から 四里木跡 標柱も何もありませんが

右手に 地蔵堂

左手に 祠

本日はここで終了します、街道近くにある宇土センターホテルに泊まる。16時30分着で少し早いがゆっくり休養します        
          41.069歩  24.6㎞  1335kl

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