2015年5月3日
東海道関宿東追分~津市江戸橋伊勢街道と合流点
自宅4時に出てJR桜井駅に車を預け、JRで奈良駅経由関西線関駅へ、駅から関宿内を進み東追分の起点へ。1日中快適な旧道歩きで、起伏も少なく、距離も手ごろであった。
関駅 8時15分 スタート
津駅 17時00分 完歩
44.729歩 26.83㎞ 1.964kl
一身田駅の北側~西への旧道を歩かなかったのが少し悔やまれる。
石山観音も少し遠くて寄り道ができなかった。
JR関駅

関駅から北への道をすすみ、関宿の街筋の十字路に出て、十字路を右に折れる
十字路の東西の道は宿内を通る 旧東海道

宿内の街筋 東海道は 十字路の左の街筋で西の追分に至り鈴鹿越えへの道。(詳細は東海道)西の追分までは 加太越え街道 重複します(歩いている)

今歩いてきた関駅方向

何度見ても素晴らしい街並みで見ごたえがある。地元の人たちの苦労は大変だと思いますがいつまでも残していてほしい街

十字路を右に折れ東の追分方向の街筋を歩くが逆光でうまく写真が撮れない


宿場内をすこし進んだ左に、御馳走場跡

御馳走場跡の石碑


辻を左に入っていくと 関神社


障害物を取り除き当時の宿場風景が堪能できる

左奥に 宝林寺

更に東への道

やがて 関宿の東の追分 の四辻に出ます。
真っ直ぐは 東海道。右への道が、伊勢別街道の起点

追分より宿場通りを振り返る

東海道との分岐点で、伊勢神宮一の鳥居や道標・常夜灯・手水鉢・一里塚跡碑 がある
伊勢神宮一の鳥居
旅人がはるか先の伊勢神宮をこの鳥居から拝んだ。この鳥居は伊勢神宮式年遷宮の時には、宇治橋南詰の鳥居を移し替える。常夜灯は元文五年(1692)の銘がある

鳥居を潜り南に進みます

南に進んでいく街道

西を見ると鈴鹿山系が見えます

国道1号線を横断してJR関西本線を潜ります

一の鳥居から約500mで鈴鹿川に架かる勧進橋を渡ります。
仮橋が架かり鈴鹿川、加太川、関川ともよばれた

勧進橋から左斜め前の景色

勧進橋から右の景色

勧進橋から右後方の関の町

勧進橋南詰

一の鳥居から約900mのところで道が分岐します。左に細い方の旧道を進みます、関町古厩地区

辻の左に 祠 右の角には 大井神社跡の石碑・御厩の松跡・鈴鹿駅家跡 があります


大井神社跡の石碑 清水を御神体として祀った

御厩の松跡
昭和58年3月まで老松が聳えていたが、病虫害により伐採された。直径2.35m樹齢約350年の根株が保存されています。
すずかねのはゆま駅の
つつみ井の
水を賜へな妹か直手よ 万葉集

鈴鹿駅家跡
旅人の乗馬や人夫を備えたり、宿舎を設けた場所

左側の 祠

左側の 祠 すぐ右側に 連子格子の家 関町古厩地区

右に 常夜灯と祠

右にカーブする左に古厩集会所敷地内に 法華経塔と庚申・常夜灯

国道25号線名阪国道を高架で越えます

越えた先100mほどで右から道路が合流してきます。丁度そこが亀山市から津市に入る境界です

右側に名阪関ドライブインがあります

300mほど車道に沿って進みます

左に緩やかにカーブします。右への道は 石山観音への道 ですが、寄り道には少し遠いようです

岩山に四十体程の観音像が彫られているようです

角に 石山観音道への道標

この先緩やかな坂ですが、庚申坂と呼ばれています

左に小さな森があります 庚申塚・地蔵三体・馬頭観音 が祀られています

左に 地蔵三体



庚申塚 葺の小堂内に、三面六忿怒形の青面金剛石像

そばにも お地蔵さん

庚申塚の傍に 馬頭観音

振り返ったところ

石仏群のすぐ先で右の旧道に入ります

楠原地区に入ります

少し進むと街道より右に入る道があり、中川に架かる橋があります、【寄り道】をします。
右の川向は 童子谷の城跡 です

城跡の山に入っていくと、覚順和上五輪塔・墓があります江戸時代後期の浄蓮寺の和尚、逆修墓は、生前にあらかじめ、自己の死後の冥福祈って仏事を営む墓

人が来ないような寂しい場所です

手前が 覚順和尚の墓 奥の 五輪塔 は覚順和尚の寿塔で筆子塚といわれている

童子谷の城跡全景(133m×155m)南北朝(1331~1390)の頃、北朝側の山田重勝が城を築いたと伝わる

この辺りから伊勢別街道の三つの宿の一つ楠原宿に入ります。この辺り問屋垣内と呼ばれていました
楠原宿

左の路地を入る入り口の右に 村社 明神社の石標 200mほど【寄り道】のため入っていきます

車道を横断その参道右に 常夜灯 文化10年(1813)銘

田植えの真っ最中です、小さいころの手植風景です情緒があって懐かしいが、これほど広い田に植えるの大変


正面に 村社明神社 の杜が見えてきます鳥居を潜り森の中の薄暗い参道を進みます

本殿


本殿の右横を上っていくと おさよが祀られた祠と右下におさよの池
昔、大雨ごとに池が決壊するので人柱を立てることとなり、参宮への途中で親とはぐれ迷子になっていた才(またはさよ)という少女を生き埋めにしたところ、雨も降らないのに大水がでたり病気が流行ったり災いがでたので、手厚く供養したという伝説が残る。


参道帰り道の常夜灯と新池

街道に戻り左に石標を見て楠原宿を進む

街道風景が素晴らしい

右奥に 天台真盛宗鷹石山浄蓮寺


境内の 法華石経塔 丹波の出で人柱となった少女「おさよ」の供養塔伝わる

宿の街並みを振り返る

T字路で鍵の手になっています、右に折れてすぐ又T字路となり左に折れます

最初の右に折れる左角に 道標 「是ヨリ 山下道」

道標の所を左に入っていくと 明林寺


鍵の手を左に折れた先の楠原宿の街並み


小さな川橋を渡ります

街道左奥に 蓮華寺 が見えます

楠原宿もこの先で抜けます

楠原は、 伊勢別街道の宿場町として栄えました。関宿から最初の宿場で、室町時代には「参宮道」「参宮京街道」と呼ばれていた。永享3年(1431)足利義教が伊勢参詣の際、楠原を通られ、その35年後には、足利義政が日野富子を同伴して伊勢参宮をしたと記されている。
また江戸時代に入り近江・京都・大阪・丹波など西日本各地より、伊勢参詣で賑わいました。宿場には「亀屋」など多くの旅籠や問屋場・高札場が置かれ、隣の椋本宿の補助的な宿場として役割を果たしていた。街道沿いには今も連子格子のある家屋が並んでいます。(説明板より)

宿の終わりのT字路を右に折れる。左角に宿の説明板があります

T字路より宿を振り返る。
左に、楠原向市場城跡(東西120m×南北70m)応仁の頃(1467~)童子谷城と共に山田氏の城であったといわれている。



右に折れて中ノ川に架かる新玉橋を渡り車道を150m程進みます

左に入る旧道があります

暫く進んでいきます


左の雑木の中に お堂 青面金剛像が祀られている。その入り口に 自然石の碑 弘化4年(1847)銘

林の集落


十字路に出ますので右に折れる

十字路の左角に、旧明村役場庁舎(国指定有形文化財)その左奥に、明小学校



十字路曲がらず真っ直ぐの旧道は 蛭谷街道 で亀山市楠平尾~安知本を経て白子への道

街道はこの十字路を右に折れる、折れた先の旧道がまっすぐ伸びている

少し先の右奥に 林穂寺

街道沿い左には 祠

すぐ街道右に、絵になるような竹と高木の景色

林の落ち着いた静かな集落を進みます

小さな川を渡り右にカーブします

その先100m弱で信号交差点を横断しますが、その右角に 道標を兼ねた常夜灯 「御神燈 右さんぐう道 左り京道」安永五丙申年(1776)銘

交差点を横断して南に進みます

雰囲気の良い中縄集落を抜けていきます

右に 真宗高田派新立寺

右に 石仏

右の石仏の先50m程で横山池の堤に出ますので、左にカーブします

横山池の眺め、慶応2年(1866)の駒越五良八が私財二万両を投じて造った池



左に折れて100m程進み、池に沿って右に折れます。池の堤の下の道を南に進みます

途中堤に上り歩いてきた、北の方向を見たところ広い池で大変な財源であっただろう

池の真ん中に東西に細い堤があります。南の方向を見る

田畑の広がる東側を堤より見る。小高く何か祀っているようだが分からない

東南方向には 西性寺 が見える


池を右にして街道は左にカーブする右堤下に 駒越翁彰功碑 昭和9年に建立 彰功碑の隣に 仁王経 上の塔碑
文化2年(1805)に建立された 自然石の碑、疫病流行の治除が目的


街道を挟んだ向かいに 沃野豊穣礎の碑

左にカーブするところから振り返る

カーブしたところから椋本宿に入る
椋本宿

宿は東南に真っ直ぐ綺麗に伸びている。宿へは西町から入ります椋本宿にはかつては20軒ほどの旅籠があった

すぐ左に前述の 真宗高田派清涼山西性寺


車も人もほとんど見当たらない静か

西町で右に200m程、途中に西町公民館の前を通り進むと 村社 椋本神社

立派な 拝殿 が立っています

椋本獅子舞
3年毎に1月1日~3日までと成人の日に神社境内と椋本地内で行われる

街道に戻る途中に 光明山佛性寺

街道に戻り進むとすぐT字路で右に折れてまた左に折れる鍵の手になった辻に出る

T字路を右に折れたところ、すぐ50mほどで左に折れる

T字路のところから宿場街並みを振り返ったところ

左に折れた街並みでこの付近に 問屋場 がありました。再び真っ直ぐの道が東南に延びています

70m程進んだ左、東日寺に入る角に 道標 「・・・・・道」読めない

道標のところ左に折れた奥に 東日寺



街道をすこし進んで右に入ると 浄土真宗光照山西方寺


北側には 浄土真宗法喜山存仁寺


少し進むと十字路右に 霊樹大椋の石標 その辻を少し入っていくと

妙光山光月寺 立派な 三間楼門 が建つ

門前近くの 祠


椋本の大椋(国天然記念物)
高さ十八m余り、周囲八mのムクの巨木、樹齢は1,500年以上といわれている。地名の起こりはこの椋の大樹から。嵯峨天皇(809~822)の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の伝説に登場する古木。明治3年9月18日の暴風雨によって枝が折れてしまった、その時の神官がその巨木の枝で獅子頭を彫刻して椋本神社に奉納した。



もとの街道十字路に戻り、さらに50mほどで右T字路に出ます、左角は百五銀行。この辻を街道は左に折れます。正面角の道標があります

中町から横町に曲がる角

標柱 明治43年の道路里程標を復元した木製の柱 「津市元標へ三里三拾三丁八軒」自然石の道標 「左 さんくう道」江戸後期のもの

角から150m程進みますと再び右に折れる角に出ます。この辺りが椋本宿の中心となります。角正面に角屋旅館が残っています

右に折れる角左に 角屋旅館本館(国登録有形文化財)
宿の中ほどにあり、鍵の手状の道が屈曲する場所にあった旅館で、建築年代は明確ではありませんが、江戸時代末期と考えられます。
保管されている 伊勢参宮講札 の最も古いものは文化3年(1806)のもので、軒下に多く掲げられ参宮講札に幕末から明治時代にかけての伊勢参りの賑わいが偲ばれます。

軒下に掲げられた 伊勢講札


新町から新屋敷への宿の街並みが続いています。なかなか歩きごたえのある街並みで楽しい



角屋から宿内の街並みを500m程進むと、左に 延命地蔵尊 正徳5年(1715)建立の石地蔵を祀っています

前には文政4年(1821)銘の 手水鉢

宿も抜けて地蔵堂の前を東に進みます

右にコメリがある街道左に仁王経があります

仁王経 下の塔

そのすぐ先で信号交差点を横断して、100m程先で左から車道が合流してきます。かつてはこの辺りから先は広大な原野が広がっていたとのことです

暫く10号線の車道に変わった街道を坦々と進んでいきます



伊勢自動車道の高架を潜ります。高架手前右奥にイオンタウン芸濃が見えます

右、芸濃IC出入り口

ICから田園の広がる中の街道を1㎞ほど進みます。車道を右に分け左に入る旧道にでます


左の旧道へ

少し先で交差点に出ます、交差点から振り返ったところです

交差点を真っ直ぐ東南に進んでいきます

すぐ左に お地蔵さんの祠

静かな街道です、すぐ右に車道と並行しているので車も少ないし快適です

高野尾町に入ります、この筋にはそれぞれ屋号を掲げた家々がある。茶屋・丸屋・花屋・団子屋・ちょうちん屋等々

左に 天台真盛宗眞照山安楽寺

暫く進んだ先左に 豊久寺

志登茂川の支流に架かる中野橋を渡る左にJA安芸高野尾を過ぎる

高野尾町の素晴らしい街並みが続く



暫く街道を進むと右に木々に囲まれた広場があり、小堂・常夜灯・句碑・銭掛松石柱 があります

小堂 中には初代の松の株を祀っています

常夜灯 文政5年(1822)の銘

香興句碑

銭掛松石柱
昔、参宮まいりの者が途中で引き換えす時、この地の松に銭を結び付け、松を拝み立ち去った。別の人が銭を取ろうとすると、銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮と同じご利益がるという民話が残っている。現在碑が立ち「ぜに可け松」と刻まれている

その先150m程進むと、右から新道10号線が合流する

合流した先から振り返る

合流して500m程先で再び分岐するので左の旧道に入る

旧道を進みます、バス通りです

広い信号交差点を横断して、真っ直ぐ南東に進みます

左、豊里中学校に突き当たる信号交差点です。街道は真っ直ぐいきます

緩やかに大きく右にカーブする右手に 慶光明寺


街道を挟んだ左に お堂と灯籠二基

南に向きを変えて進みます

200m程進んだところで中の川に架かる向沖橋を渡ります

100m弱の先で6差路に出ます。三宿の内の一つ 窪田宿 の入り口です。近年まで30軒を越える家が屋号を持ち、かつては旅籠であったという
窪田宿 いまはそれを偲ぶことはできない


右に 青木地藏の祠 六差路の青木地藏のところで、左斜めの旧道に入ります


左斜めの旧道を入ると、左奥に大里保育園

細い田畑の間の道をすすみます。150m程で車道に出ますが、すぐ又左に入り弓なりに100m程進み車道に合流します。果たしてこの道が旧道かわかりませんが



合流した右を見ると坂道が見えます
汐見坂といって親鸞聖人がここから一身田を見たという伝えがあります

右、やまもと歯科の前の街道

右奥に 西源寺 が見えます

その先、左T字路の信号交差点があります。続いてすぐ大里小学校入口信号交差点を越えて東南に進みます

この先進んでいく街道です

交差点より100m弱のところ右に 史蹟 明治天皇窪田御小休所碑 本陣跡土塀と本陣門 が残っている


本陣跡の少し先左に 天台真盛宗自性山清浄院正福寺


本陣跡前の街道を振り返ったところ

街道をすこし進み左に入ったところに 六大院 本尊に室町時代の千手観音坐像がある

大きな旧家

23号線の中勢バイパスの大里窪田町出口信号交差点を横断します

交差点を越えて200m程東に進み右に折れますがその手前で左に 真宗佛光山真楽寺


東隣に 仲福寺 藤原時代末期の阿弥陀如来坐像が安置


仲福寺の入り口から30m程先で右の坂部酒店の手前で右に折れます

車道と分かれ右に入った街道

分岐して150m程入った左に大きな常夜灯 窪田常夜灯

常夜灯を振り返ったところ高さ約8,6m 市内最大の常夜灯で、文化十四年(1,817)近江商人が寄進され


すぐ先でJR紀勢本線の踏切を渡り、線路に沿って右に折れます


線路に沿って100m余り進むと、右に一身田駅に出ます、駅の前を左にカーブします

お寺を連想させる一身田駅舎で大正十二年(1923)の建築。かつての伊勢別街道が鉄道が開通(明治二十四年)するまでは現在の駅の西側を通っていたが、東側に移行されたようです

街道は駅の前の交差点で右に折れるが、

ここで街道歩きを一休みして、真っ直ぐの道を進み【寄り道】をします
駅前の交差点を100m余り進むと、安楽橋が架かる。高田派本山専修寺を囲った堀

安楽橋の傍にお寺の 道標 「右 本山・・道」

真宗高田派本山専修寺
第十世親鸞上人が寛政六年(1465)この地に専修寺を建立、信長・秀吉・家康の庇護を受け、伊勢を領した藤堂家と姻戚関係を結び、所領三万坪の寄進を受け伽藍を建立した。
現在の伽藍は1658年以降、津藩の援助によって整備された。一身田の町は寺町と門前町で形成されている。また寺の周囲には環濠が巡らされている。
環濠は日本で唯一ほぼ完全な形で現存する寺内町を囲む環濠。東西450~500m、南北400=500mで、南側は毛無川を利用している。環濠には3か所の出入口が設けられており、橋の内側には門があった。
環濠内の東西の道路

唐門 勅使門に使われた、35年の歳月をかけ完成

如来堂(重文)

御影堂(重文)
親鸞聖人の木像、歴代上人の画像があります正保二年(1645)の大火後、寛文六年(1666)再建された。

山門(重文)
宝永元年頃(1704)に建てられた。楼上には釈迦三尊仏が安置されている

鐘楼

大玄関・対面所(重文)

賜春館(重文)

銅灯籠 御影堂の前に二基

黒門
もとは毛無川の常夜灯のたもとにあった

釘貫門・石橋 宝暦二年(1752)の創建

専修寺の支院の 慈智院

厚源寺 木造 聖徳太子立像がある

下津邸長屋門


専修寺は、
全国に六百数十の末寺を持ち、寺内町には現在4つの末寺が建っています。智慧光院・玉保院・慈智院・厚源院です、このほか本山を取り囲む土塀や、坊官の屋敷の名残を留める板塀・長屋門などの景観は素晴らしい。とても短時間で見て回ることができない。
一身田寺内町の館

高札場跡と道標
かつての黒門から北に進んだ最初の三又路に立つ道標で「右 江戸みち 左 御堂并京道」と刻まれ、天保八年(1837)の銘


環濠
東西約500m、南北約450mの寺内町の範囲を囲み南側は毛無川を利用している。日本で唯一完全な形で残っている貴重な環濠



寺内町には三か所の門があった
黒門跡
ここは寺内町一身田の正面出入口で石橋の袂に、番小屋と門があり、門は明け六つ(午前六時)に開かれ、暮六つ(午後六時)に閉じらて、夜は人を通さず、町の治安を守っていた。門は黒く塗られていたので「黒門」と呼ばれた

赤門跡(東町)
寺内町の北東の東町にあった門で、江戸方面への出入口となっていました。門が赤く塗られていたので「赤門」と呼ばれていました

桜門
西の町にあった門で、京都方面への出入口でした。濠に2~5m程の堤があり、桜並木があったことに由来していると伝わる

一御田神社 寺町通りの東端にある

太鼓門
東側にある左右に長屋がある四重の櫓門、最上階に直径1m程の太鼓がつりさげられて

周辺には古い街並みが残っているようですが時間が足りなく残念だが仕方ありません



まだまだ時間があれば見学したいが、この辺で終わり、一身田駅の前の交差点に戻り街道を南に進みます

毛無川に架かる橋を渡り一身田大古曽に入ります

その先で交差点に出ます、右斜めの広い道でなく、左側の旧道を進みます。左側は一身田小学校のグランドのフェンスに沿います。南北への方向


150m程進むと十字路に出ます

十字路左斜め後方一身田小学校

十字路右に 西信寺 があります

次の筋を左に70m程入ると 延命地蔵尊 森の井戸から出た地蔵を祀る、額には
慈悲のあみたれて教えよ地蔵尊 生死の海に志つむ我等を 書かれている

一身田大古曽の町並み

左に歴史を感じさせる 伊勢木綿株式会社

暫く進み伊勢鉄道の高架を潜る

一身田中野に入る

高架下から150m程進むと、道は分岐します。右の道を入ります。真っ直ぐの道左側にファミリーマートが見えます

分岐後150m程先で五六川に架かる五六橋を渡ります

南に進んでいきます

左、松田商店の先の左T字路の辻を右に少し入ると

見初大明神 獅子頭を祀っている、中野獅子舞が催される



隣に 慈願寺 御本尊観音立像


街道はT字路に出るので、左に折れます手前右側に 浄泉寺

左に折れて暫く東に進みます

左奥に津市立三重短大が見えます

T字路から600m程東に進んだところで近鉄名古屋線の踏切を渡りま

右に折れて100m程先で小さな川を渡ります

左に後久はり灸治療院の前を通り進みます

右に江戸橋駅を見ると間もなく終わりです

工事中の交差点に出ます。伊勢別街道の終点(起点)です 交差点の 常夜灯

工事中の交差点左の道は江戸橋北詰から志登茂川に架かる江戸橋を渡ってくる 伊勢街道 ここで合流します
工事完成後は、この付近の景色は変わっているだろう

江戸橋常夜灯

常夜灯の傍にある 道標 明治22年に再建された 「左 高田本山道東京占とをりぬけ」

歩いてきた道を振り返る

江戸橋方向江戸へ向かう藩主の見送りもここまでということで江戸橋と命名された

伊勢街道の南への街道を見る 蔵のある旧家が、帰り道は津駅まで歩いたが、旧家のある古い街並みが続いている。
何時の日か四日市から伊勢までの伊勢街道を歩くのを楽しみにしている

近鉄津駅まで約1㎞伊勢街道を歩きました。



右に 小丹神社



津駅前の広い道路に出ましたここの交差点を右に折れて津駅へ

津駅

伊勢別街道 完歩


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