薩摩街道(補足)【第4回6日目】

2025年10月17日

鹿児島市内を今日1日レンタルサイクルでまわります

僧俊寛の碑
平安末期の僧、平清盛に鬼界島に流刑の刑に処され、この地から船出した場所。当時川があったのだろう。中町のアーケード近くのビルの一角にある

泊まったホテルの近くにある 坂本龍馬とお龍の像

天文館のすぐ先で市電がカーブするところの交差点の一角にある

草牟田1丁目 甲突川の上流、鹿児島本線を越した北側に広がる 
草牟田墓地へ

草牟田墓地の正面の手前にある お寺

非常に広い 草牟田墓地 正面

陸軍火薬庫跡碑  西南戦争発祥の地碑

益満休之助の墓
正面入り口の手前、花屋さんの間の道を左に入いっていき突き当りに、益満家のお墓があります
その中に 益満休之助藤原行武戦死の墓 
慶応4年(1868)27歳 上野戦争で没、西郷の命により江戸を撹乱の役を負い、戊辰戦争のきっかけを作るも捕らえられ、勝海舟が預かる。官軍による江戸城総攻撃の前に、勝の命により山岡鉄舟に同伴、駿府の西郷に会いに行き、結果、西郷と勝の会見により、江戸を救った役割を担った一人と言える。そして江戸城総攻撃の中止、無血開城となる。惜しいかな上野戦争での怪我により戦死。

村田新八
正面を右に折れて高台に上っていく
村田家の墓で、新八の名も刻まれている。遺骨は南洲墓地に眠っている。詳細は南洲墓地の時に

墓所は2等3号地で高いところです

村田家の墓所

墓地前からは非常に景色がいい、大きな墓地です

東郷重位の墓
戦国から江戸初期の島津家の武将、剣豪家で示現流剣術の流祖。寛永20年82歳没
左に入って行ったところ古い墓石です

これだけ大きな草牟田の墓地だから、著名な人がもっと沢山眠っていることだろうが分かりません

草牟田墓地を後にします

草牟田墓地より甲突川、3号線に沿って左に北へ、右奥の鹿児島工業高校、伊敷中学校の東側に、護国神社の北側に
 鹿児島神社

更に北側に 石敢闘当

島津氏玉里邸庭園
玉里邸は天保6年(1835)島津斉興の隠居屋敷で現在鹿児島女子高校の校庭内。
斉興、久光が好んだ茶室がなじむ回遊式庭園。

石造り灯籠でキリシタン灯籠 ともよばれている

 書院造の茶室

全景

鹿児島女子高校で、その中に庭園がある

女子高校から西へ150mほどの所

お由羅騒動の斉興の側室、由羅が住んでいたところという説

 さらに北に行ったところに、伊敷中福良城址の説明板

案内板の所に、伊通色神社の鳥居

見学を終わり、護国神社の南の草牟田2丁目と城山1丁目の間にある 
座禅石公園 
南林寺や福昌寺の住職を務めた名僧、無参和尚 に西郷、大久保が指南を受けたという座禅公園は 元誓光寺跡

公園と座禅石、碑

少し離れた鹿児島駅より東北の祇園之洲町へ途中易居町1-10 市役所の近くにて目に留まった

浄土宗鎮西派養泉山不断光院目立つ山門 で、両側に仁王門。島津貴久が開基と伝わる

鹿児島駅の北側になります、
祇園之洲公園、石橋記念公園が隣接

公園の一角に 祇園社(八坂神社)

公園内の 岩永三五郎の像
江戸時代後期の肥後と薩摩藩で活躍した石工。甲突川に架かる五石橋を架けた(新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋、玉江橋)のも岩永三五郎です

公園内に移設された 高麗橋

薩英戦争記念碑

碑の近くに移設された 玉江橋

祇園之洲台場跡
幕末鹿児島藩に祇園之洲を含め9か所に砲台が築かれたが、ここ祇園之洲砲台は島津斉彬の命で築かれ、砲台10座、兵士70名がいたという。1863年の薩英戦争でイギリス艦隊に壊滅的な打撃を受けた。

祇園之洲砲台跡

西南戦争 両軍戦死者 13.240余人
西南の役官軍戦没者慰霊碑 元ここに官軍墓地があった

移設された 西田橋

復元された 西田橋御門

西田橋と御門

寄れていないが、更に東側の人工島に ザビエル上陸記念碑 が建っています。天文18年(1549)来日したザビエルもこの付近に上陸した。

広い公園の道を挟んだ北側高台の多賀山公園の一角に

元帥東郷平八郎の墓
昭和9年(1934)没し、国葬で東京多摩霊園に葬られた。
薩英戦争の激戦地を見下ろすこの地に遺髪が埋葬された。日露戦争では連合艦隊司令長官として、日本海海戦でロシアバルチック艦隊を壊滅させた

墓地の横手に軍艦の舷梯(ふなはしご)を模して造られている、狭い急な石段を上ると、
東郷元帥の像聖将の碑

湾を見下ろす所に建つ

まだまだ見たいところもあるがこの辺で祇園之洲公園付近の探索を終えます

更に海岸近くを北に走りますと、マナハウス、重富島津家の別邸へ 
薩摩重富島津家の別邸を再生した邸宅跡。4000坪の庭園や桜島、錦江湾を望む高台にあり絶景

桜島、錦江湾の景色

別邸  薩摩藩御一門筆頭の別邸 国の有形文化財
何か格式が高いようで入るのを躊躇したので入らなかった

結婚式場もありお二人にとって最高の場所いい思い出になるでしょうお幸せを願ってます

点前一角にフレンチレストランがあります。私にとっては少し上品すぎて敷居が高かったのですが、私の思い出に勇気を出して入りました。レストランからの景色

フレンチレストラン オトヌ でのひと時

南西に進み10号線を越えたところの春日町
春日神社

西側の 重富島津本邸跡

島津一門家筆頭大きな屋敷跡です

西側の大龍小学校は、明治17年 大龍寺跡 に学校設立、以来100年以上の石造りの校門を通って、小学校に学んだ子供は何万人に、学校の歴史が刻み込まれた、4本の旧門柱

蓑懸松跡地の案内板

砲術館跡の碑

大龍寺跡の碑
鶴丸城完成に伴い廃城となった島津氏の内城の跡に、薩南学派の南浦文之が開山した寺院。明治の廃仏毀釈で取り壊された

付近の地図

さらに西側に 今和泉島津家本邸跡

徳川13代家定の正室 天璋院篤姫の生家 で天保6年(1836)この屋敷で誕生。建物はすでにない石塀が残っています

少し離れていますが、北北西の坂元町19の 
坂元墓地へ 川口雪蓬の墓
出身は種子島、陽明学、書道、漢詩も修得、久光に沖永良部島にながされ、元治元年(1864)西郷帰島後、慶応元年(1865)雪蓬も帰島、その後西郷家に居候。
明治10年(1877)西郷家で西郷の妻糸らと子供たちと暮らし教育も行う。西南戦争後、西郷従道によって再建された武屋敷で居住、西郷の子供たちを教育して一生を終える、明治23年(1890)71歳没

広い墓地です玉泉院の電柱広告があります、その奥に上之園花屋があります

左に折れると正面奥に石段が見えますのでその石段を上る

石段を上った正面の突き当りを左に行くと

右手に中川家と書かれた墓がある、向かって右の古くなっている墓が 
川口雪蓬の墓 
明治23年(1890)武屋敷で没、西郷隆盛が名誉回復し正3位の追贈を受けたのが明治22年なので、雪蓬がどんなに喜んで逝ったのか想像がつく。ただ、何故西郷家の墓に入らなかったのかな?

上竜尾町37-37 福昌寺の裏山にある 常安(とこやす)墓地 小高い場所にある
島津最後の藩主忠義とその家族の墓

鉄条門で閉まっていて入れなかった

暐姫(てるひめ)の墓 
斉彬と伊集院須磨の娘、忠義の妻、明治2年(1869)難産で亡くなる。18歳の若さ
寧姫の墓(ねいひめ) 
暐姫の妹、忠義の後妻、明治12年(1879)難産で亡くなる。26歳の若さ
忠義の墓
一番高いところにある (1897)57歳没
忠重の墓
忠義の息子 (1968)82歳没

常安墓地より東に下って行きます
宗家 鹿児島島津家墓所
鹿児島市池之上町の 福昌寺跡 にあります。結果裏側から墓地に下って入ってしまった。

墓所からの桜島の景色が正面に見える本当に桜島はどこからも見える

下る途中の福昌寺跡の北西の端山手に 
キリシタン墓
明治2年(1869)長崎浦上のキリスト教徒が捕らえられ、各藩に預けられた際、375人が福昌寺に収容された、うち滞在中に58人が病死したその墓がキリシタン墓とよばれている

更に下ったところに 福昌寺歴代住職の墓 
が並ぶ開山石屋真梁から71世白洲の墓がある

下って行きます

福昌寺十二景竜灯松跡の案内

墓所が始まります

下りきったところで玉龍高等学校に出ました、その山手側一帯が島津家の墓所になっています

国指定史跡 鹿児島島津家墓所(宗家) 入口池之上町48

曹洞宗玉龍山福昌寺です
その跡地に玉龍の名のついた学校です、墓所はその裏側です。明治の廃仏毀釈で破壊され廃寺となり、一般の墓地は移転して、島津家の墓地だけ残る。
福昌寺は南九州屈指の大寺であり、多い時には1500人ほどの僧侶がいたそうです。廃仏毀釈は鹿児島が特に強く、大名家が特に率先して取り壊したようで、今残っていればと思うと残念ですね。
福昌寺は1394年第7代元久によって建てられた。1549年にフランシスコザビエルが鹿児島にきたとき、その時の当主貴久がこの寺に宿泊させた。6代当主氏久から28代斉彬までの墓がある。この大きな 灯籠 が墓所の外塀際に残っています

入口を入ると広い墓所が広がりますが一部です

大きな石塔の塀の内側の墓地さすが区画の間隔が広くゆったりしています

第17代名将 島津義弘公の墓
戦国期の代表的な武将の一人、関ケ原の戦いでの島津の退き口でも有名

島津元久公の墓
南北朝~室町時代の武将 島津7代当主 1411年48歳没

第8代 島津久豊公の墓
室町時代の武将 1425年病死51歳

島津久保(ひさやす)公の墓
義弘の次男 1593年朝鮮の役のとき巨済島で病死

15代島津貴久公の墓

16代島津義久公の墓

横山安武墓

中が繋がっていないのでもう一つの入り口に進みます

長い塀に囲まれた墓所です、こちらの門を入ります
門柵には島津の紋が入っています

福昌寺墓所の案内図

28代当主 島津斉彬夫妻の墓
斉彬1858年49歳没 
英姫栄樹院 一橋徳川家より嫁す、1858年2ヶ月後を追うよう亡くなる 53歳
英明な島津斉彬の墓、少し奥まって処にあります

それに比べ、この方の墓所は非常に広く、また宗家の藩主でもないのに、少し違和感を覚えました
私があまり好きでないひがみかな
島津久光の墓 明治20年(1887)70歳没
島津宗家の藩主でないが、息子忠義が斉彬の跡の藩主で岳父として幕末明治維新に実力を握っていた。墓域が非常に広い

福昌寺には常に1500人の修行僧がいたという大きな寺であったのだろう。見事に廃仏毀釈により建物の跡形もない。
これほど廃仏毀釈で寺を取り壊したのが、薩摩街道を歩いて知った

もう少し時間をかけてみてみたいがこの辺で終わろうとしたとき、ふと島津歳久の墓を見てないと、最初の区画に戻ります

見落としたので久保公の後ろに 
島津歳久公夫妻の墓
島津四兄弟の一人、骨のある武将、秀吉の命で自刃

島津宗家の墓所を見学、もう少しゆっくり一つ一つの墓名を見ていくと言いにだが残念だが本日はこの辺で終わります。
明日帰宅予定であったが、もう少し是非行きたいところがあるので1日延長します。昨日と同じホテルへ3泊目

次の日はコチラ

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