撫養街道 1回目

2026年6月11日

撫養町岡崎港~高徳線 池谷駅北側
岡崎湊から立道駅北の辻まで、淡路街道が重複
江戸初期徳島藩蜂須賀家政により、領内に5本の街道を整備、淡路街道、讃岐街道、撫養街道、伊予街道、土佐街道だった。その一つ、撫養街道は鳴門海峡に面した撫養港(鳴門市の岡崎港)で淡路の福良から吉野川の北岸に沿って東西に貫いている。そして三好市池田町の州津の渡しで、伊予街道と合流する80㎞余りの道。吉野川の北側を通るところから川北街道とも呼ばれている。特にこの道筋には吉野川で生産された「藍」の交易路となって栄えた。街道の中間あたりの交通の要衝、脇町は江戸時代藍の集散地として栄え、豪商が軒を並べた。今も無籠窓や卯建をあげた町家がたくさん残り重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
鳴門駅近くのホテルファーストシーズン鳴門を7時25分出発。歩いて岡崎港まで結構時間がかかる。

         撫養港(岡崎港)8時10分スタート
         池谷駅    13時30分 着
          26.588歩  15.95㎞

撫養町岡崎(撫養港跡)岡崎は淡路福良を経て阿波に入る玄関口で、四国八十八ヶ所を巡礼するお遍路さんの起点であり大変賑わった。今は岡崎からの撫養街道もその賑やかな面影を見ることが出来なく、静かなたたずまいの街並みとなっていました

撫養港から前方に、神戸淡路鳴門自動車道の撫養橋がみえます。撫養川の河口で土佐泊り漁港が右の対岸撫養川の河口辺りから福良への船が出ていたのだろう

かつては大変賑わった撫養港の海岸線

土佐泊度のバス停

撫養川に架かる撫養川大橋近くに行くと、かつての旅籠か商人家か大きな家が残っています

撫養川の河口の港

左の堤防を少し東に沿って進むと、岡崎バス停

左標識のある所で、岡崎港を背にして右に折れます

この辻を右に折れます

この起点に、岡崎御屋敷があった、陣屋としての役割を持っていた。約3000坪の広い敷地で、参勤交代時には休憩所として使用されていた。今は跡地に道路が出来て周辺も整備されているので全く面影はありません

鳴門市を歩いて一番残念であったのが、沢山の史跡があるに関わらず、殆どその説明や標識がなかったことです。行政も貴重な歴史の遺跡を保存していこうという姿が、私には少なくとも見えなかったのが残念でした。ですから当然街道沿いに住む方々もあまり関心がないように見えました。第三者が偉そうなことを言って申し訳ありません

撫養の街を南に進みます

遍路石道標と祠

妙見山のめぐみ 桜井戸

少し奥に入ると 下井戸

岡崎城
左の妙見山(標高約60m)戦国時代に小笠原将監の居城と築城、その後四宮氏、益田氏が領し、天正13年(1585)に蜂須賀家政が阿波に入国、阿波九城の一つとして益田氏が在城。一国一条城令により寛永15年(1638)廃城となる。

右手に 市杵姫神社

祠

右に緩やかにカーブする左に

左石段上る袂に 延命地蔵や題目碑等 が

妙見神社や撫養城跡への石段と鳥居

妙見神社への石段なんと328段足腰にきた

妙見神社、撫養城跡

拝殿

境内の 天照大神

山上からの鳴門を望む

模擬天守閣昭和40年に建設された、鳥居記念館

鳥居龍蔵は鳴門市の生まれ、人類学、民族学、考古学の権威

328段の石段を下って行きます

撫養の旧道を見る

振り返ったところで、向かって左から歩いてきました

山上の撫養城

暫く西に進むと信号交差点に出ます

撫養川に架かる文明橋,明治3年に橋を架けられたが、それまでは渡し船であった。撫養川を挟んで東側は林崎、岡崎は夜ともなると歓楽街で賑わったという文明橋を起点として水上交通で徳島城下へも行き来して繁盛したようです

その先の交差点と鳴門線の踏切を越えます。右に折れていけば鳴門線の終点鳴門駅です

少し進んで振り返った街並みこの付近に 鳳鳴閣跡 大正9年(1920)ドイツ兵俘虜により設計され公会堂として建てられたが、昭和38年(1963)取り壊された

郵便局が右にあり、手前右に入る分岐が 北灘道(黒崎道)

郵便局の付近 回船商山西邸跡 あたらしく建てられたり取り壊されたりして何も残らないが、残念ながらその跡の説明もないです

右手に 事代主神社「おいべっさん」と呼ばれ商売繁盛の神様として親しまれている境内に松尾芭蕉の句碑が立つ

すぐ左に 市杵島姫神社「べんてんさん」として親しまれている。境内には藤原基房の歌碑があります

左はいると撫養駅

左に名前がわからないが小さな神社

左に鳴門渦潮高等学校

学校のすぐ近くに、ごみの山 ここにくるまでも別にもっとひどいのがあった
こうなるまで行政も指導しないのかな

直ぐ隣にこの看板があり意味がない

その横には墓地 忠魂永憩之地碑

右手に 西楽庵 右T字路で昨日歩いた 下板街道の起点 下板街道は左に折れる

T字路を振り返る

下板街道の旧道

撫養街道を真直ぐ進みます

右に 三柏子酒造

旧家が残っています

朽ちかけた 遍路石道標

郵便局が左に

右手に 金比羅神社と長谷寺 が並んでいます明治の神仏分離令により分離

ここの金比羅神社の石段も216段、2つの神社で朝から544段上ることとなった

立派な山門

拝殿

上から見た石段

手の込んだ 祠 が有ります

長谷寺が隣なので、上から入ります 本殿

長谷寺境内に大木の銀杏がある。慶長3年(1598)蜂須賀家政より駅路寺(阿波独特に制度)、藩内の主要街道を旅人たちの便宜を図ると共に、監視する重要な役目を負っていた(駅路寺は真言宗8ヶ寺がこの役目を負っていた)

鐘楼

街道沿いに出てきて正面石碑に 高野山真言宗駅路寺長谷寺

左に入ると鳴門線の金比羅前駅大きな旧家

高速道を潜ります、その手前右に お堂

右手にこんもりした山、 木津城跡(標高64m)中世の山城

立派なお堂に数体の 石仏 説明がないのでよく分かりません

直ぐ右手立派な塀と建物、天理教撫養大教会 ここまで必要なのかと思ってしまう

八幡神社の鳥居、参道が長く鳥居から拝しておきます

木津の街並みを進みます

新池川に架かる原地橋を渡ります

すこし先で振り返ったところ、この辺り大津町大代 一里松跡 何もありません鳴門市に大津町大代、大麻町池谷、大麻町桧の3ヶ所があった。

古民家が残っています

大代谷川に架かる薬師橋

橋から振り返る、この筋に 大江卯之助邸 文楽人形の首(かしら)の制作を一手に引き受け文楽再興に尽くした人形師。平成9年没89歳

薬師橋西袂に 道標 背景は鳴門市大津西小

大津市大代の街並み

お堂

長屋門のある大きな旧家

西への旧道を進みます

大津賀神社と道標

徳島自動車道を潜ります

潜って300m程先で、 淡路街道との分岐、淡路街道は左に折れて徳島城鷲の門へ。
左に入ると鳴門線の立道駅
淡路街道はこの地点まで、岡崎港から同じ道で重複してきました

左の淡路街道

右手に 地蔵

振り返った分岐

150m程先で高架を潜ります

左に 浄土真宗園勝寺

架潜った道路が右より合流してきます

右手遠望に 鳥居

直ぐ先で車道と分か左に入る

左に折れた左木の下に朽ちた 道標

吉田神社の 石柱とお堂

左学校

お堂

大谷川の手前右奥に 大谷焼の里現役の登り窒があります

橋の袂の 石碑

大谷川に架かる大谷橋を渡りますと大麻町商工会館前の 石碑

福寿醤油 歴史がありそうだ

右手の 宇志比古神社 の長い参道を奥に入る

長い参道

石段両側には地元大谷焼の灯篭等が並ぶ

宇志比古神社本殿(重文)

隣に建つ 東林院
天平5年(733)行基が開基したと伝わる古刹。四国八十八か所一番札所霊山寺の奥の院ともいわれる。
昭和59年に本坊が再建された

弥勒菩薩坐像(重文)

街道に戻り少し東に進むと右に 阿波神社 承久の乱で、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ流され、土御門天皇は土佐へ。その後、阿波に戻り当地で崩御された

土御門天皇火葬塚

御陵

御陵が切れた辻の分岐右に入る

右に 本家松浦酒造

前の道を進んでいく

左に曲がります、右手に鳴門市大麻中学校左に曲がり正面の信号交差点を横断

信号を横断します

道なりに南に進みます

右T字路の辻に出ます街道は真直ぐ進みますが

2日間歩いてきょうは体や足が重くまだ時間が早いが、今日の目的地まで行けないが、ここで終了とします。ここを左に折れて150m程行くと、鳴門線と高徳線の池谷駅に行けます。

左に折れた正面突き当りに 池谷駅

駅構内に 段四郎大明神

    撫養岡崎 7時25分 スタート
   池谷駅  13時30分 着
      26.588歩  15.95㎞

目的地まで歩いておけば、次回の撫養街道少しでも楽であるが、無理しないでやめます。
昨年の12月鼠経ヘルニア手術後、久し振りに泊りがけで歩いたので疲れたようです。明日があるし、JR鳴門線で今晩の昨日に続いての鳴門のホテルに戻るのが早いので、高徳線で徳島駅に戻り少し時間つぶしをします。
予定では7月になるが撫養街道、池谷駅から歩きます。

1日目撫養街道おわり

次の日はコチラ

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