薩摩街道 【第2回 ⑬】

2024年3月2日

宇土宿~八代宿
6時30分ホテル出発、400m程歩き昨日の起点、南段原町の交差点へ
       57.927歩 34.75㎞ 1901kl 

南段原町交差店

]暫く南段原町の街道を進みます

やがて九州新幹線の高架を潜ります

続いて鹿児島本線の花園踏切を渡ります

踏切の先、左に 地蔵座像

地蔵より少し歩くと左から県道14号が合流します

合流した先暫く歩き、柏原踏切を右手に見た近く右に 地蔵堂「夜泣き地蔵」

更に進むと、不知火町御領の分岐に出ます、街道は右斜めへ

300m程先、松橋町松橋信号交差点に出ます

交差点右手奥正面にJR松橋駅。街道は信号交差点を左に折れる

左に折れる手前左奥に 浄土宗本願寺派正願寺

左に折れて進む街道、小川の橋を渡る

左に 浄土真宗西本願寺派究意山明覚山

街道は真直ぐ行きますが、(寄り道)明覚寺のすぐに十字路があり右角に中華料理店。そこを右に折れ、カーブミラーがあるところを左に少し歩いていくと、右手にマンションが建ち、その手前の広場の右奥に、山伏塚があります

松橋町松橋 カーブミラーを左に折れた先正面茶色の二階建てのマンションの手前右

マンション手前駐車場の右手奥を見える

山伏塚

街道に戻り進み信号交差点を渡る

そのさき右手に 地蔵堂と五里木跡の石柱

五里木跡のすぐ先右に、松橋中学校

明神川に架かる大野橋を渡る。現在改修工事中

大野橋のすぐ先の十字路を街道は右に折れます。横断歩道の直ぐの

右に折れた少し先の大野川に架かる久具橋を渡る

橋を渡った左手に 久具橋地蔵と標柱

左手斜め後方から車道が合流。五差路の交差点、左に緩やかに道なりの道

そのさき大野川に架かる久具新橋を渡る

直ぐに分岐右斜めへの旧道に入ります

道なりに左にカーブしながら進むと、右手に 上久具大明神のお堂

古木の立つ分岐を右へ

左に 石塔

更に左に、日露戦役記念碑 と六地蔵

碑の横に 堂ノ前の六地蔵

やがて前述の道が左後方から合流してくる

更に200mほどで左後方から国道3号が合流

600m程国道を進むと松橋町豊福地区で、国道3号を左に分け右に入る誘導を進みます

右に入った左角一段高くなったところに、景行天皇遺跡
心吉(こころよし) 小字名
第12代景行天皇、熊襲征伐の後、葦北の火流浦(あしきたのひながのうら)現在の日奈久より船で出発、火の国(宇土半島基部)へ至らんとされたが、暗くなり行く先が判らなくなった。遥か前方に火に光が見えたので、光の方向に船を進ませ、やがて岸に辿り着いた。天皇は「何という邑か」と問われ、里人は「ここは八代県豊村であると、また火のことを問われると「その火の主は知らない」と、ここで天皇は「火の国」とし、また「不知火」と名付けられた。豊村は豊福村のことで、着岸されたところは。西下郷島の江口とされている。
天皇の軍隊は、上陸後東の方に1㎞程進んだころ、短い夏の夜は、白々と明け始めた。そこを後日「白明隈」または「白曙隈」と呼び、今の小字「白毛熊」である。風にのって北の方から時雨が通過したので、この場所を「微雨」と名付けた。天皇の軍隊は移動、全面が広々とした海の眺め、さわやかな朝の海風が吹き渡った。天皇は思わず「快し」と申され、後日、この地一帯を「心吉」と名付けたとされる。(案内板より)

景行天皇遺跡を振り返る

左の豊福小学校を見ながら旧道を進む

その先左に 豊福阿蘇神社 振り返り正面より

拝殿 と境内の御神木、楠ノ木 樹齢推定1100年、高さ45m、幹回り18m立派な社殿

手豊福郵便局かつて 三角屋という御茶屋跡

郵便局のすぐ先右に入ると 浄土真宗本願寺派誠光寺 薩摩島津氏が参勤交代時に休憩所として使われたお寺。山門が立派

そのさきの街道

そのさきで浅川に架かる浅川橋を渡ります。橋の左斜め後方、国道の向こう側に  豊福城址 があるが確認できない。城跡の東に 超伝寺跡に相良氏の供養塔があるようです

浅川橋の先で左からの国道3号に合流

国道3号をしばらく歩く

少し進むと右に 地蔵と六里木跡石標

更に左の 祠に不動明王

この先の国道は何もなく真直ぐな国道を2㎞程坦々と歩きます

長い国道を自動車の騒音に悩まされながら歩く

やがて左手に夕月ホテルの看板がある分岐を、国道を右に分けて左に入ります。旧道が少し迂回して残っている

左手からの道との合流角に 古木と地蔵

北部田川に架かる三軒屋橋を渡る

橋を渡った左に 三軒屋番所・関所跡の標柱

迂回した旧道は右からの国道に合流
合流して河江川に架かる河江橋を渡る

その先、小川町北新田信号交差点を国道3号と別れ右に入る

左の水路に沿って歩く。途中で旧道は左に折れるのだが、間違って真直ぐ進み、小川駅まで行ってしまった。小川駅前に蒙古襲来で有名な高崎季長の墓と館跡等の案内板があったが遠いので歩けない

駅から400m程間違った地点に戻る、進行方向左に、ひがしだ歯科の看板がある辻を左に折れます。あとでみたらわかりやすいなんだけど

左に曲がる辻の、道路を挟んだ右の林の中に 

小川本村地区、歯科の辻左に折れた100m余り先での旧道、パールうきの角を右に折れる

右に折れ400m程南西に進みます。十字路の交差点に出る
その先直ぐ広い車道に突き当たり、左に折れますが直ぐ右に入る旧道があります。右の二階の建物の向こう

右に入り暫く小川町江頭地区を進むと左に 地蔵堂

分岐を左のほぼ真直ぐな道を進む。暫く南東方向に歩く。とにかく歯科医院からの道は、曲がりくねりながらややこしい道

左に 地蔵尊の祀るお堂

左の地蔵堂と街道を振り返る

すぐ先、国道3号に出る手前に左に 七里木跡の碑 があります

すぐ先、国道3号線の西北小川交差点に出ます

右手前に出て来て、国道の信号を左に横断、斜め右(向かって左)の旧道に入る

小川町夫婦えびす巡り亀之町の夫婦えびすモニュメント像

国道より分岐して、200m程先の十字路で左に入ります

 【小川宿】に入ります 熊本県宇城市小川町

小川町商店街亀の町通りの看板があります

左に 弁才天
しあわせ探しの夫婦えびす巡り。1428年に小川に「えびす堂」が建立されてから,えびす神の信仰が始まったとされています。しかし、いつから、どうして今の男女一対の夫婦えびすの姿に変わったのかは、古文書の記録もなく誰にもわかりません。ただ言えることは、この小川の上人は夫婦で仲良く力を合わせて、末永く、家業の反映をえびす様に祈ったに違いありません。あなたも、優しく微笑みかけてくる、七つのえびす様を巡ってお願い事を叶えてみませんか。(入り口案内文)

突き当りに、 浄土真宗慈光山正善寺

宿場内の街道は突き当りを右に折れるとすぐ砂川に出て宿を抜けるのですが。宿内を回るため、左に折れてすぐの辻を右に折れます

右に折れた小川の旧道

200m程進むと左に郵便局。さらに真直ぐ100m程進む

小川阿蘇神社正面から今きた街並みを見る

T字路で突き当たる。正面に 小川阿蘇神社 
小川阿蘇神社は、長久元年(1040)の創建という長い歴史を見てきた古社

鳥居をくぐり石段を上る途中に 大楠 樹齢 約1300年、樹高 約32m、樹囲 約13m圧倒される大木。
舟つなぎの楠とも呼ばれる

上から見ると、鳥居が小さく見えます

大木を見ていると拝殿も何もかも小さく見えます

小川阿蘇神社の突き当りを右に折れます。右に折れた先、100m程の分岐を直角に右へ

右に折れる東側の高台に 曹洞宗妙音寺

右(西)への宿場内の街並み

左に  浄土真宗本願寺派菩提山延福寺

お店、古い建物

右に宇城市立小川郷土資料館がありましたが今はもうなくなっていました

宿場内街道は左のこの看板の手前を左に折れます。前述の正善寺の手前のT字路を右に折れると、正面の道がここで合います要するに宿場を時計回りに回ってきました

左に折れる角に 豪商伊勢屋跡 の看板

またこの辺り 高札場跡 があったところです

小川町商店街中町通り看板の所で左に折れる辻から今来た中町通りを見る

直ぐに、砂川に架かる苅萱橋

苅萱橋の手前左に 中町の夫婦えびす様と祠 

苅萱橋から小川宿方向を振り返る

砂川

苅萱橋を渡った先の街道。氷川町に入る吉本の集落。昔は小川宿と一体で苅萱の宿といわれた。左に老舗の商家があります

橋を渡った左に老舗の 白玉屋新三郎店
寛永15年(1638)創業386年の歴史を持つ。中に入ってお茶と白玉セットを食べた、美味しかった

白玉屋の隣は空地になっているがかつての かつての

その先苅萱の宿も古い町並み、建て替えられた民家多いが情緒がある

左に 恵比寿さんの石祠

その先で、左に折れてすぐ右に折れる 枡形の辻 で宿を出ます

枡形の抜けた先の街道

枡形から暫く曲がりくねりながら進むと左遠方に 高塚熊野座神社 があるが少し遠いので諦める。この先道路改修により間違いやすい

分からなくてたまたま歩いていたご婦人に道を訪ねる

結果的には、道路のトンネルを抜けて、右に折れ新しい道路に沿って下ると国道3号に出るのでその交差点を左に折れます。国道3号に出て左に折れたところですが、トンネルを潜った先の旧道は分からない改修で消失しているのかも

少し先、交差点の手前右手に、竜北道の駅

すこし国道を歩いた先に、左に入る旧道がある

旧道は右の国道を下に見て進んでいます

300m程迂回した旧道は右からの国道3号に合流

700m程国道を歩くと、野津バス停があります

野津バス停のすぐ先で、再び左への旧道があります

右の国道より高いところを旧道は進みます

左手に 薩摩街道八里木跡の石柱と石仏 が並ぶ

法道寺地区の静かな集落

左手に 法堂寺薬師堂の楠の大木 樹齢600年推定

法堂寺薬師堂の前の細い道を右に数十m下ると

平安時代の 法堂寺跡の石碑

法堂寺の正面に戻り街道を進みますが。振り返ったところで、楠の大木が聳える如何に巨木かよくわかる
完全に旧道を覆い民家を覆いかぶさり小さく見える

少し進むと左に 川原大神宮の鳥居  天保12年(1841)建立

鳥居の前すぐ先で氷川の堤防に出ます。かつて薩摩の島津氏が川越に渡ったという 島津硯が今はその跡は不明

右に折れて200m程川を左に国道3号の新しい橋に迂回する。左に 石の祠 が建つ明治3年と大正6年堤防が決壊したときの洪水の歴史が刻まれている。

氷川に架かる国道3号の橋を渡り、袂を左へ折れて川を左に進みます

左に折れて、左の氷川に沿って対岸の旧道の延長まで進む道

左の後方国道3号の橋を見る

旧道の延長対岸より、氷川を渡った 島津硯 の跡を見たが分からない。この辺り氷川を渡っていたようです

街道はここで右折れして堤防を下るが、そのまま暫く直進すると、600m程先堤防近くに阿蘇神社と氷川戦争記念碑があります。記念碑は、明治10年3月21日氷川を挟んで政府軍と薩摩軍との戦いの跡の記念碑ですが、残念ながら少し遠いので寄れなかった

氷川橋跡・御高札場跡二本の石柱 の所で右に折れ、宮原の街並みを進む

信号の交差点に出ますと左角に郵便局。その向かい街道を挟んだ右手に

まちつくり酒屋(旧井芹家)
国登録有形文化財天保3年(1832)頃の重厚な旧家まちつくり酒屋(旧井芹家)国登録有形文化財天保3年(1832)頃の重厚な旧家

その向かいに 道標 「金海山釈迦院道」
天台宗金海山大恩教寺 
釈迦院は八代市泉町柿迫にあり、西の比叡山と称され、日本一の石段 3333段があることでも有名。遠いので寄れません

そのさき右に見落としたが、井芹家が創始した銀行、現在 まちづくり情報銀行 です

そのさき右公園の一角に、親地蔵・小地蔵
親地蔵・小地蔵の由来
慶応2年(1867)の秋、薩摩街道沿いのこの川の淵の前で、旅人の母娘が座り、思案に暮れていました。哀れに思い通りかかりの人が尋ねると、夫を探していますという。おなかをすかせた女の子に付近の人がご飯をあげると、母娘は涙ぐみ合掌しました。しかし、翌朝、身を投げたと見られる二人の遺体が淵に浮かんでいました。付近の人はお寺でお経をあげてもらい、段の山に埋葬。翌年、二度とこのようなことが起きないよう淵を埋め川を浅くした。明治2年(1869)母娘の霊を供養するため、地元の人が話し合い、親子二体の地蔵を建立した。それがこの親地蔵・小地蔵と言われます
毎年、8月23日・24日の両日には地蔵祭りが執り行われ。二つの地蔵建立を祝い始まったとされる、舞灯籠は、川の流れを利用し、造り物を回転させる仕掛けで、宮原町地蔵祭りの特徴です。(案内文より)

更に宮原の静かな街並みを進む

信号交差点の左に、宮原小学校

そのさきの左からの辻はほぼ真直ぐ

さらに右からの辻は左へ、右に進むと国道3号へ

すぐ先で左に折れる右角に 道標 「是従原標九里」と刻む石標

右角の道標

道標の辻を振り返る

少し歩いた左に 浄土真宗本願寺派護念寺

そのさき交差点左角に 早尾六地蔵

薩摩街道と(五木村へ通じる)旧四浦往還の接点三又路にあり、今寺に通じる追分の六地蔵である。
昭和初期まで、五本松という松の大木があって景勝地であった。六地蔵は、地蔵菩薩が、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)の能化として説かれ、その信仰が発展して日本で考案された六人の菩薩が、それぞれ六道を守護し、人々を救済すると言われている。町内には、町指定の六地蔵が他に、「はらあみどう六地蔵」・「立神六地蔵」・「三宮社六地蔵」がある。(案内文より)
栫(かこい)地区に入った街道は,岡町小路、岡町中、岡町谷川地区を緩やかに曲がりくねって進んでいく。

早尾六地蔵の先の静かな街道

岡町小路に入ると小川があり左手に 弥勒川板碑

直ぐ近くに、 栫馬之神 と街道
天正15年(1587)秀吉は、37ヶ国の兵を動員し島津との戦いで八代に入った、栫の村はずれで、愛馬村雨が亡くなり、この付近に葬られ「馬之神」としてまつられ、里人は日常馬の平安を祈ったという

そのさき、右に曲がり国道に接近して左に曲がり進む

国道3号に突き当たる手前左に

右の国道に沿いながら少し進みます

岡町中地区に入ると右手ブロックを背に説明板 薩摩街道九里木跡

岡町谷川地区に入ると、街道に沿って右に麓川の小川が、政5年(1822)球磨川から引かれた用水路です

麓川に沿って進んでいくと左に、竜峰小学校がある。すぐ先右の麓川の橋を渡ると対岸に 
石の祠に板碑や石仏

街道は次の橋を右折れするが、右の橋の反対側(左)に進むと、真言宗醍醐派龍峯山 明言院 がある。明言院のある興善寺町一帯は、興善寺廃寺跡で飛鳥時代末~平安時代にかけて栄えた古代寺院があった。(残念だがうっかり寄るのを逸した。)

右折れして橋を渡った先左に 道標 摩耗していて読みずらい

国道3号に合流します
国道に合流したところに興善寺バス停。国道3号に合流して少し先で左を見ると、竜峯山(標高517m)自然公園

九州自動車道の高架下を国道3号で潜る

高速自動車道の高架下の先の国道、旧道は完全に失われている。川田町東地区

右に西川田地区の旧道があったので入ってみる

国道3号に合流

西川田バス停

八代ICのバイパスの高架を潜る

上片町地区の九州自動車道の高架

高架手前に 二枚の板碑 が安置されている・方見堂(こうみどう)高架下で国道3号と分岐して右折れ

方見堂と国道3号を振り返る

ガードを右に折れた上片町地区の道

左上片町バス停の前に 十里木跡の標柱

上片町の街並みを西に

変則十字路があるので、正面左側の街道を進む

そのさき九州新幹線の高架を潜ります

新幹線の高架を潜りほぼ真直ぐ西に進む

萩原通り(殿様道)との追分。萩原通りは薩摩街道の迂回道で八代城下を通らない近道。肥後高田駅前で合流する

古麗川の福正橋を渡る

そのさき左手一帯日本製紙の大きな八代工場が続く

左、日本製紙工場が延々と続きます

鹿児島本線のガードを潜ります

そのさき県道14号の交差点に出る手前を

左斜めに折れて14号線を斜めに横断する

〖八代宿〗に入ります

14号線を横断して斜め右の、鉄砲小路に入ります

大手町の鉄砲小路を西に進みます。やがて街筋は出町に入ります

東西に走る車道に出る手前右に 浄土真宗大谷派光徳寺

天正15年(1587)、名和長門の子孫・明信の開基。薩摩街道から八代城下の松江口番所の入り口にあたる要の位置重厚な  山門と本堂

明治10年西南戦争の時 官軍本陣跡

境内の イチョウの名木

銀杏の木の隣に 彦一塚
江戸時代八代城下に居住した、とんち話で有名な彦一

妙見宮祭礼の獅子舞楽創始者 井桜屋勘七の墓
江戸時代の八代城下の豪商で長崎へ何度も商いに渡航するうち、諏訪神社の祭礼(長崎くんち)に奉納される羅漢獅子に魅了され、これを八代の妙見宮(八代神社)の祭礼に取り入れたいと願い、元禄4年(1691)に妙見祭に奉納した。以来、獅子舞は妙見宮の祭りの行列の先導役として、現在も中国風の衣装や楽器で豪壮優美な獅子舞を演じながら禊払い(みそぎはらい)の役をつとめる。

光徳寺を背に左にカーブして車道に出て右に折れ車道を進みます

車道を進む右に郵便局の先に 浄土真宗光圓寺 
細川三斎(忠興)ゆかりの梵鐘。織田信長33回忌に造られ、当初は小倉の泰厳寺に寄進、忠興が八代城に移ると共に、お寺と共に八代城下移されたが、明治初期廃寺となり、梵鐘 は忠興ゆかりある光圓寺に引き取られた

そのまま車道を進むと、左に八代城跡なのですが時間的に無理なので、次回に寄ることにして諦める。光圓寺の前を左(南に)に折れた、通町の通りに入ります

街道より一筋東側の道沿いに 真宗大谷派正法山 浄教寺 菩提樹の里 と呼ばれ、境内に樹齢370年以上の菩提樹がある

同じ筋の少し北側に 曹洞宗久厳寺

更に南に 浄土真宗本願寺派 浄喜寺

更に南に進むと 日蓮宗了覚山 浄心寺 八代城代加藤可重の菩提所

(見落としたが街道沿い)、ホテルルートインの東側に、   
真言宗白雲山 医王寺 がある
本尊の薬師如来立像(国重文)で、浄心石塔は天平16年(1361)の古いもの。また境内には、足手荒神 が病気やケガから守ってくれるそうです。

街道に戻り、進むとアーケードのある十字路の商店街に出るので、本町1丁目のこの辻を右に折れます

右に折れたアーケードの商店街が街道

本日はここで終了よく歩きました。近くにあるセレクトロイヤル八代に泊まります。
宇土のホテル 6時30分出発で、コンビニでパンだけ食べただけでよくあることですが、1日歩き通し。  ホテル着 5時40分  約11時間     
         57.927歩  34.75㎞  1901kl
 
 

次の日はコチラ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA