薩摩街道 【第3回 ㉒】

2024年11月11日

阿久根駅前~おれんじ鉄道牛ノ浜駅~薩摩大川駅~西方駅
昨日の雨の影響かスタートから足が重く、予定していた川内まではいけなかった。
でも明日予定であった、川内駅からタクシーで島津歳久とその家来たちの殉死墓に行けたので、明日は川内を素通りできる。
朝、川内駅 7時05分発—昨日の起点 阿久根駅着 7時41分  
         7時45分 スタート
   西方駅に 13時30分着   そして13時59分発で川内駅に戻り連泊
         30.212歩  18.12㎞  965kl

肥薩おれんじ鉄道 阿久根駅

駅前より西の499号線の旧道に入ります阿久根駅の西側、南北に四筋の道が南北に通っていて、昔の旧道はよくわからないようです

街並みも民家が並んでいるが新しい民家ばかりです。とりあえず南への役より二本目の町並みを南へ、新町から琴平町、浜町で左に折れます

左折れした道はやがて本町交差点で左からの国道に合流右に進む

国道と重複して高松川に架かる高松橋を渡ります

橋を渡った先の国道

右に商工会議所がある角を右に入ります

右に折れた旧道、大丸町100m程先で左にカーブしていた旧道は、建物等で消失しており、適当に左の道に迂回して、光接寺の東側の道に出ます

右手に 浄土真宗本願寺派光接寺

光接寺を右に南への旧道を進むと直ぐ鶴見川を渡ります

250m程進むと真直ぐ南に進んでいた旧道は、再び正面白い建物の所で消失、左に迂回

この先、牛之浜手前辺りまでは、旧道は殆ど消失しているようで、国道を歩きながら右を進んでいた旧道を想像しながら歩きます

左に折れて150m程行って国道に突き当たり右に折れます

右に折れた国道進んで 大橋川に架かる塩居橋を渡る

やがて塩浜町1の佐潟口信号に出ます。この辺り右に、前述の消失した旧道が一旦国道に接近して、再び右手を進んでいた

国道に沿って左下に旧道でないだろうが、国道を歩くより楽だから歩きます

高ノ口で行きどまりで右に上がり線路を越えて国道に出ます

国道に出た高ノ口信号交差点の近くに少し国道より高台に 稲荷神社 国道を開削したので高くなったのだろう

直ぐ右手は入り江で橋を渡ります

鹿児島76㎞ 薩摩川内26㎞の表示

右手奥に西目小学校

隣に郵便局旧道は小学校からこの郵便局の裏辺りを通っていたようです

その先信号の手前に左への旧道跡の道がありますが、大川島信号交差点から左へのオレンジロードの道で消失しています

右手の大川島バス停の向こうに入江が綺麗に見えています

左に線路が近づいてきたところの分岐は左に入らず国道を進む
更に200m程進むと、公園下バス停で、国道を右に分け左に入り、すぐの牟田平踏切を渡る旧道に入る

頼山陽公園への案内板

公園に 頼山陽の詩碑 があります文政元年(1818)、頼山陽が牛之浜の風景を見て詠んだ碑で、眼下の奇岩からはるか遠く台湾を望む、という雄大な景色を表している詩

案内表示

国道より少し高台になった旧道で右手は海が広がる

大山祇神社

案内標識

右手におれんじ鉄道の牛ノ浜駅です線路をトンネルで抜け国道に合流します

ガードを潜り国道に出て牛ノ浜信号で国道の海岸側を歩きます

右手に牛ノ浜海岸が綺麗に海岸線が続いています

ガードの傍に長迫バス停がありますすこし先の長迫信号交差点で国道3号を右に分けて、左の旧道に入ります

左の肥薩おれんじ鉄道に沿って海岸より高台を進んでいきます

車も走らない静かな旧道

左の山をおれんじ鉄道はトンネルで抜けています

仲仁田の陸橋の下を潜りますと直ぐ分岐していますが、右の道を進む

分岐の右に、薩摩街道(出水筋)矢重坂(やつざか)の表示

緩やかな下り道を下る切通のような旧道になるこの辺りの坂が八重坂(やつざか)

旧道を木が覆いトンネルのように見える

その先で開け集落と海が見えてきました

正面に大川小学校が見えます

八重坂を下って行くと突き当りに出ます

フンドンの墓という表示 があるのでこの時点で誰かわからなかったが、案内標示に従ってほゞ真直ぐ下る地道があります

案内標示に沿って下って行きます、この道が薩摩街道であった

フンドン(不動尊・不動明王)のことで、山伏、修験者のことで、その姿が不動明王と一体になることを意味するという。藩政時代に上納の際枡取役人に不正をしないように忠告した修験者(山伏)が役人の怒りにふれ斬られてしまった。ここはその修験者を葬り祀ったところと伝わる。(説明文より)

墓の所で学校の北の角に出るので、左に少し折れると分岐するので右に折れます。数十mで学校の右角にプールがありその角を右に折れると、学校の北の端に出てきた旧道が学校に突き当たり消失した道がここに出てきていました

この地道の急坂を 八重坂というのか、多分そうだろう薩摩街道当時の雰囲気が残る、当時は薩摩街道の難所の一つと数えられた

案内標識

学校の金網を右に沿って進み、旧道が復活して途中の分岐を左に折れます

左に折れてまっすぐ70m程進んだ分岐を右に折れる

右に折れてすぐ先で大川川に出ます右に折れる

右に折れたすぐ先左の、大川川に架かる橋を渡る

橋を渡りおれんじ鉄道の寺下踏切を渡り、右の道に折れる左の 浄土真宗本願寺派正覚山大昭寺 を左に見て折れる、すぐ右に薩摩大川駅があります

大川駅の前で道は分岐する右の道は薩摩大川駅へ、街道は左に進む

案内標識がある

200m程進んだ右手高台に 松岡神社

広い敷地の神社です

神社の奥に 雪渓の墓
長寿寺の住職で、島津義虎(薩州島津家6代)が師として仰いでいた。義虎は東郷氏と戦う弘治3年(1557)11月7日まで十余年、無益な戦いで住民を苦しめているのを憂い雪渓を和議に遣わしたが、失敗に終わり戦いに及びついに和尚は戦死した
隣の小さな墓は 牧武蔵守の墓

松岡神社の前の街道を南に進む右に綺麗な真っ青な海が気持ちいい

その先下り坂を蛇行して下ります右に竹の迫公民館の角を右、左に曲がり下って行くと尻無川に架かる竹迫橋に出て橋を渡ります直ぐに自動車道と交差します

橋を渡ると上り坂となります

竹之迫の集落が見えます

蛇行しながら上っていきます

上り切った辺りのこの分岐は右に下る

右に折れた先の道

鈴木段集落に入るところ、右鋭角に下る道はあるが真直ぐ、右手に案内標示が立っています

右手に鈴木段公民館を見たところで坂道を下る

鈴木段集落の坂を下って行きます

下った先で分岐があります、街道は右へ

鈴木段踏切の標識

鈴木段踏切を渡り少し左に下って行きます

そして国道3号に合流する

国道から右の海岸線が綺麗

やがて国道は左にカーブしておれんじ鉄道のガード潜って東へ街道は右の分岐道を進みます

右の下に見える綺麗な海岸を見ながら進みます

真っ青な右の海

200m程先で深迫二号踏切を左に渡ります

踏切を渡り暫く右の線路と並行しながら進みます振り返ったところです

右下をおれんじ鉄道が並行しています

のんびりと海を見ながら歩くのが素晴らしい

振り返ったところです

やがて右に緩やかにカーブしたところで

おれんじ鉄道を路線橋で渡ります

左にカーブして右に浦小路バス停を見て、すぐの所で右の細い坂道を進みます。この付近 遠見番所跡

上り坂を進む

右手の下は海、結構断崖絶壁注意

高台の気持ち良い道

墓の間を抜けていきます

そして急坂の道で滑らないように下りきったところで左に折れます

左に 浄土真宗西方寺 その先で西方橋を渡ります

西方橋から右手入江の景色

橋を渡った左手に、肥薩おれんじ鉄道の西方駅があります

その少し先の街道沿い左に 浄土真宗本願寺派西城山潮見寺 があります島津藩主が参勤交代時等に使われた
御仮屋宿跡地 に建てられた

街道沿いの御仮屋跡の案内板

今日は少し疲れているようで、予定は川内までであったが、まだ距離もあり無理せず本日はここで街道歩きは終了します。
西方駅そばの潮見寺着 13時30分 13時59分発で川内駅へ移動します。時間もあるので、明日に予定であった 
島津歳久の墓 に川内駅からタクシーで見学しておきます。

川内駅からタクシーで約15分の所、天沢寺(てんたくじ)跡

島津歳久と殉死者の供養塔
島津歳久は戦国時代の武将、島津貴久の三男、義久・義弘・を兄に持ち、弟家久と島津4兄弟と言われた優れた武将。また日置島津家の祖に当たる。 秀吉の勘気に触れ自刃に追い込まれる。
天文6年7月10日(1537年8月15日)生まれ~天正20年7月18日没(1592年8月25日)享年55歳。義久や義弘に比べ知名度はやや少ないが非常に優れた武将であったようです。

秀吉の命により、島津家を守るため兄義久の追討を受け、文禄元年(1592)竜ヶ水(鹿児島市吉野町)で自害する。その時27名の家臣が殉死しました。秀吉没後慶長4年(1599)に歳久公自刃の地に兄義久によって曹洞宗の菩提寺・心岳寺が建立された。明治2年の廃仏毀釈により平松神社となりげんざいにいたっているが、平松神社の裏には殉死者27名の墓が建てられているそうです。
その島津歳久と殉死者の供養塔が、ここ川内市東郷町田海の天沢寺跡にあります。この東郷に何故供養塔があるいわれについては詳細を省略させていただきます。
島津歳久という武将は、兄の義久や義弘に較べると知名度は少ないものの、二人には勝るとも劣らない武将であったような気がする。地元での人気も高い。一旦断絶したものの、通常ならそのままで終わるが島津のいいところで、歳久の長女の子常久が成人後、日置領を賜り歳久公を初代、2代忠隣公(戦死)、常久公を3代として日置島津家が成立している。
寛永10年(1633)この地の東郷に移りましたが、延宝8年(1680)再び日置への復帰が成ったため、家臣のすべてが日置へ移らずこの地にとどまった、そのためか歳久や殉死者の遺族の多くがこの地のとどまった経緯があり、供養塔も立て祀られたようです。
以来、歳久公の18日の命日や17日の夜には盛大な奉納行事が大正頃まで続けられたと言います。
日置島津家は維新に至り、男爵のに叙されている。

島津歳久及び殉死者の供養等塔 案内標柱

天沢寺跡入口
一対の仁王像(寛政5年(1793)が刻まれている

天沢寺は廃仏毀釈で建物は残っていません奥に入っていきます
鎮守碑

島津歳久及び殉死者の供養等

島津歳久供養塔
石畳と石の囲いで立派なもの

殉死者の供養等

天沢寺跡の井戸案内標示

入口の所に戻ります

タクシーの運転手さんが待っていて頂き、祈念撮影、歩いて戻れば1時間はゆうにかかるので助かる

島津歳久公遺跡も巡れて満足
見学を終わり、川内駅近くのホテルルートイン薩摩川内にて宿泊

次の日はコチラ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする