2024年11月14日
本日と明日は街道をいったん中断して、鹿児島駅前でレンタカーを借りて、今日一日 日置市、南さつま市の加世田、知覧、指宿市の喜入町の島津関係の史跡を回ります
鹿児島駅前の 若き薩摩の群像
19人のサムライ、日本の夜明けへの出航


鹿児島駅前 駅前でレンタカーを2日間借りる

日置市吹上町永吉へ
梅天寺跡
永吉島津家初代島津家久公(豊久公の実父、豊久公は関ケ原の戦いで義弘の身代わりとなって退き時に戦死)の墓所。家久公は貴久の四男(義久・義弘・歳久の弟)、伊作城で生まれた。串木野城主・佐土原城主として、宮崎の「耳川の戦い、長崎島原の「沖田畷の戦い」、大分の「戸次川の戦い」では総大将として、島津の九州全土をほぼ統一するのに絶大な貢献をし、敵将の首を戦国時代最も多く取った戦国武将の一人であった。2代豊久公の関ケ原での戦死を経て、永吉島津家は島津本家の支流として明治維新まで続きました。

梅天寺跡の墓
島津4兄弟の末弟 家久の墓

決して大きくない墓ですが 永吉島津家初代家久の墓
1587年7月10日佐土原にて病死、41歳。4兄弟の中で最も早くなくなった。
家久・豊久とも長命であれば、島津氏にとっても大きな損失



梅天寺跡の北、永吉川の対岸近くにある
天昌寺跡
永吉島津家2代 島津豊久公の墓所





関ケ原合戦四百年記念 豊久公顕彰碑


永吉島津家歴代の墓が並ぶ

手前右の五輪塔が 島津豊久公の墓


豊久公の前面には、島津久敬公の墓
今和泉島津家から養子に入られた方で、天璋院篤姫の実兄

2代目 豊久公の墓
島津豊久公も、父家久公に勝るとも劣らない、若き武将で父病死後、叔父の島津義弘に教育を受け各地に転戦勝利を収める。最後は義弘公と関ケ原に参戦、止む無く大坂方に付き、歴史に名高い島津の「退き口」、徳川本隊はじめ有力武将の真っただ中を鬼神の如く島津の勇者は大半を失いながらも大将義弘を生かすため敵中突破で、豊久公は義弘の身代わりとなり奮戦討ち死する。
その後、領土の佐土原は没収されるが、遺臣たちの働きかけにより義弘の配慮により、永吉の地を与えられ島津一族として明治維新まで続いた。

3代 忠栄公夫妻の墓


忠栄公次女千代鶴姫の墓

天昌寺歴代の僧の墓

この天昌寺には豊久以来、歴代の領主及び夫人たちの墓となった

墓所全景、静かな地区にあります。またどの島津家の墓所も廃仏毀釈でお寺は殆ど原型をとめていません


墓所の敷地内に 山下宗五郎の墓 墓石が横になっているのは無念の証か


日置市吹上町中原3143へ
伊作島津家菩提寺(多宝寺跡)
伊作島津家歴代領主及び島津貴久を祀る石亀神社が建立された
神社の背後が多宝寺跡島津氏の分家で、歴代の領主(3代と10代を除く)と夫人の墓がある。10代の忠良は戦国時代の島津氏の基礎を作った武将。忠良の墓はないが両親と娘の墓はある


多宝寺跡の伊作島津家墓への山道


3代親忠は天徳寺跡に墓所、10代忠良は加世田市の竹田神社境内に墓所

伊作島津氏の墓所
忠良の息子が貴久、孫が義久、義弘、歳久、家久で、近世島津氏は、ここ伊作の地から勃興します。


樺山久高夫妻の墓


伊作田兵部太夫道材の墓
地南北朝時代の伊作田城主で南朝方に付いた、北朝方の伊作島津氏に敗れた。墓地には7基の五輪塔が並んでいる


神社の背後の山が 亀丸城跡 で近世島津氏の本拠で忠良、尚久、義久、義弘、歳久、家久などこの城で生まれている。誕生石や誕生碑があるという。近世島津氏の発祥の地として重視された


城は1300年代後半に造られた 伊作城の本丸(亀丸城跡) であった。標高72.5m、面積50ヘクタールと南九州屈指の巨大な中世山城であう。

日置市吉利へ
清浄山真宗大谷派 清浄寺
小松家菩提寺で、かつてはこの寺の北1㎞ほど行ったところにあった 園林寺 でしたが、廃仏毀釈により寺は完全に取り壊された。昭和33年小松家32代・重春公夫人の依頼により1代から15代まであった佐多・根占2ヶ所の墓地より遺骨の代わりに霊土譲り受け、また永吉・鹿児島の墓地からも同様に譲り受け持ち帰り、昭和34年小松家先祖供養塔を園林寺墓地に建立した。同時に「小松家累代之総儀」の位牌を清浄寺に安置し、以来、小松家の新たな菩提寺となった。

小松帯刀の像
江戸末期から明治の初め吉利の領主であり、島津本家の家老として日本の夜明けに大きく貢献した.
小松帯刀は天保6年(1835)喜入領主の肝付兼善の三男として生まれる。のち吉利領主の小松家に養子に入る、小松帯刀清簾と改名。小松家の名君と呼ばれた。本家島津斉彬に仕え明治維新に大きく貢献し手腕を発揮した。新政府の中核として最も期待された一人であったが明治三年(1870)36歳の若さで死去。その早すぎる死で維新後の活躍が果たせなかったことを惜しみ「幻の宰相」と呼ばれた。
もしも長生きしていたら、西郷隆盛の生涯もかわっていたかもしれない。


小松家菩提寺清浄寺の少し北側に 吉利小学校(元御仮屋跡・南谷城跡)
この場所は小松家の 御仮屋跡 で文禄4年(1595)小松氏の役所として建てられ、以来明治元年(1868)までの長きにわたり使用された。

吉利小学校(元御仮屋跡・南谷城跡)にも 小松帯刀の銅像 が立つ。余程慕われていたのだ




清浄寺から少し北に走ると左に 南方神社

右手に 鬼丸神社 吉利村の村社


さらに北に走ると日吉町吉利の 園林寺跡にある小松家歴代の墓 に至る



小松家歴代の墓が並ぶ



小松帯刀夫人お近の父


向こう側、小松帯刀夫人 お近の墓


小松帯刀第二夫人 お琴の墓 大坂より改装


昭和天皇より祭粢料御下賜記念碑


阿弥陀三尊像 園林寺の時から残る数少ない遺跡

日置市日吉町日置352へ
光禅寺跡
日置初代島津歳久の夫人悦窓院は、慶長7年(1602)に瑞喜山光禅寺を建てた。
三代島津常久と夫人、初代歳久公夫人その他島津家ゆかりの人や、殉死した家臣の墓がある

光禅寺跡墓地入口の仁王像

西南戦争招魂塚
西南戦争で戦死した38名を祀った碑

墓石群の一角に玉垣に囲まれた 「悦窓永喜大姉」島津歳久夫人の宝篋印塔 1602年没。他の方たちの墓碑は分からない。廃仏毀釈で整備はされているが建物はないです
日置市日吉町へ移動
日置島津家
島津宗家15代貴久の三男で島津歳久を祖とする。豊臣秀吉に反抗的であったため命により悲劇の最期を遂げる。
島津4兄弟の一人として最後まで骨のある武将であった。歳久の三男常久は成人の暁に旧領を回復する約束により年数を置いて、成人となった常久が日置に転付「日置島津家」は、島津本家の家老として明治維新まで続いた。
大乗寺跡
大乗寺は、島津貴久の夫人雪窓(ゆきまど)によって建立、文禄4年(1595)常久は、父歳久の冥福を祈るため、ここを 日置島津家の菩提寺 に定めました。明治2年の(1869)廃仏毀釈で廃寺となりました。
日吉八幡神社
大乗寺跡はこの背後にあります

史蹟 大乗寺跡の標柱 から石段を上る
石段も歴史を感じさせる古さ





墓所に入っていきます

左力強い 吽型(うんがた)の仁王像右 阿型(あがた)の仁王像 が両側で見張っています


石段を上って行った正面中央に 島津歳久公のお墓
秀吉に反抗的な態度をとったため、命により自刃に追い込まれた。骨のある武将であった。
自刃したときは、首は秀吉に送られ、京都の浄福寺に埋葬され、胴体は帖佐に埋葬されたのを、平松神社に一体となって改葬されていた。大正の終りか昭和の初めに、現在地の大乗寺跡に改葬儀葬現在に至っています。


歳久の遺体は、京都浄福寺に埋葬された首と、帖佐の総禅寺に埋葬されていた胴体が一体となり平松神社に改装された後、昭和の初めに大乗寺跡に改装された。

日置島津歴代の藩主の墓が並ぶ


大乗寺跡から東へ
桂山寺跡
日置山桂山寺は、曹洞宗龍雲寺の末寺で(日置市東市来町長里)、元は霊徳寺という寺であったが、文禄4年(1595)日置島津三代常久の時、桂山寺と改められた。そして父忠親の菩提寺とした。やはり明治2年の廃仏毀釈で廃寺となった。

史蹟 桂山寺跡
赤山靱負が有名で、周辺は舗装され駐車場まで整備されている


赤山靱負の墓近くにも日置島津一族の墓が並ぶ

赤山靱負の墓
お由良騒動にて切腹した薩摩藩の重臣、日置島津久風の子嘉永3年(1823)27歳没、西郷隆盛の父吉兵衛とも親交があり、西郷隆盛が薫陶を受けた尊敬する一人。切腹に当たり吉兵衛に介錯を頼み、その血染めの襦袢を隆盛に託したと伝わる。斉彬藩主擁立の中心で、ここにも若く将来を嘱望された優秀な青年重臣がいた。明治維新を見て欲しい武士でもあった

直ぐ近くに日置島津二代 島津忠隣の墓 への道正面で少し雑木に覆われている

島津忠隣は、薩州島津義虎の子で、日置島津初代島津歳久の養子。天正15年(1587)島津と豊臣と戦った日向の根白坂の戦いで戦死、わずか19歳の若さであった。墓所入り口両側の 仁王像

島津忠隣の墓 倒木があり少し荒れています


桂山寺跡と、赤山靱負の墓は正面左へ、島津忠隣の墓は正面奥右

南さつま市加世田に移動します
加世田川沿いにある 竹田神社、もとは日新寺
永禄7年(1564)島津忠良が再興して菩提寺と定める。明治2年(1869)廃仏毀釈により廃寺となるが、1873年社殿が建立され竹田神社となった。戦国時代に生きて島津氏中興の祖忠良を祀る神社。
子には島津宗家を継いだ貴久、孫には島津4兄弟と続き島津氏の基礎を築く。また忠良は自身も含め子供や家臣の教育の一環として「いろは歌」を作っている。
竹田神社の起源は、室町時代の保泉寺に始まり、忠良(日新公)の菩提寺で日新寺となり明治2年廃仏毀釈によって廃寺となった、明治6年跡地に竹田神社が建立された。
竹田神社

神社入り口近くの クスノキの巨木

竹田神社標柱

拝殿



武田神社境内の島津忠良公の墓への 「いにしえの道」「いぬまき並木」は市民の憩いの場




墓所への小道には、日新公の47首のいろは歌の歌碑 が点在しています
忠良公の墓所への「いにしへの道」には歌の石碑が並んでいます
薩摩武士の郷中教育の基本精神で、47首の歌です。その後、薩摩武士の精神的心の柱として明治維新のまで続いてきた。例えば47首の一部紹介すると
い いにしへの道を聞きても唱えても わが行にせずばかひなし
ろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の心にこそは 高ないやしき
・
・
す 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜の空


常潤院の仁王像
廃仏毀釈から百十数年ぶりに昭和57年、ここから約30m東の土手下に埋まっていた仁王像を発掘。首と腕が壊れているが一対での発見。享和3年(1803)の寄進と刻む

島津忠良公の墓所入り口

島津忠良の墓


殉死墓

二人の殉死墓


寛庭芳宥(かんていほうゆう)大姉の墓日新公夫人の墓


井尻神力坊の墓


日新公と傍の墓

殉死者の家族はここに代わりの墓を建てて拝んだと言われている


神社境内に 三代島津尚久の墓 があるがわからなかった
島津忠良の三男で、兄貴久とともに活躍した優秀な武将であったという。惜しいかな1562年32歳の若さで病没。
子孫は薩摩宮之城島津家
島津忠良(日新公)、戦国島津の礎を築いた武将、そしてその子、島津貴久はさらに島津氏を強固にした中興の祖と言われる優秀な武将、そしてその子供に、義久、義弘、歳久、家久と綺羅星の如く素晴らしい武将が輩出しています。
それまで島津家も幾多の内戦を繰り返し、戦国期以降は強力な集団に変わっていった。もしではいけないが、もっと京都近くにいたらまた別の戦国時代があったかもと思ってしまう。
近くを少し回ります、六地蔵塔
忠良が天文7年(1538)の加世田の別府城の戦いで亡くなった人々の供養のために天文9年に」建てた。洪水で流され、慶長2年(1597)に再建

加世田麓の武家屋敷群
薩摩藩の外城として栄えた、今も街並みが残っている、イヌマキと石垣が美しい
加世田麓は重要伝統的建造物群保存地区

鯵坂家屋敷跡





気の向くまま加世田麓を散策

本町の石倉




加世田川畔の 別府城跡(尼ヶ崎公園)の石碑 1177年別府忠明によって築かれた


別府城跡からの加世田麓の一部

加世田麓のあと知覧に回ったが、少し時間が無くなり止む無く今夜の宿泊地の鹿児島湾の指宿市の喜入へ
今和泉島津家墓所
JR指宿枕崎線の薩摩今和泉駅の北東300mにある今和泉小学校と指宿商業高等学校一帯は、今和泉島津家の屋敷跡。宝暦4年(1754)初代島津忠郷に始まります。
今和泉島津家は、重富家、加治木家、垂水家とともに家臣団最高位の一門家とされました。
この墓地には、今和泉島津家初代から6代目までの代々の当主や、その家族を合わせて13人の墓があります。
天璋院篤姫の父である忠剛や兄の忠冬もこの墓地に葬られています。今和泉島津家は、家臣団の中でも最高位の一門家であり、薩摩藩主の島津宗家を支える家として江戸時代に重要な役割を果たしてきた。

篤姫は徳川13代将軍家定の御台所で、明治16年47歳没、上野寛永寺に家定と並んでいる


墓所の全景


篤姫の父 五代島津忠剛の墓


整然と並んだ墓所


今和泉島津家の屋敷跡 海岸側には松並木や防波堤の石垣が当時をしのぶ少しの遺跡が残る

屋敷跡の今和泉小学校

海岸線を北に進み喜入町に
伊牟田尚平誕生地碑

西郷の指示により討幕のきっかけを作る江戸城下の騒乱を作るため、益満休之助らと動く。
その後、近江の豪商を襲い約4千両を盗むも捕らえられ打ち首獄門となったというが、詳細は不明。過激派の志士であった。
地元の人たちによって、立派な碑が建てられたのも見ても、一方では好かれていたのだろう

本日は終了して、近くのAZホテルに宿泊


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