薩摩街道 【第3回 ㉖】

2024年11月15日 

昨日に引き続きレンタカーでまわる。喜入のAZホテルを出発、鹿児島市の北、姶良市へ市街地を車で見学したのが失敗で、思っていた史跡が回れず残念な一日でした。詳細に回るには歩くか自転車です。とりあえず回った史跡を紹介します。

姶良市平松
国史跡 鹿児島島津家墓所
越前(重富)島津家墓所【紹隆寺墓地】
重富家は越前家を前身とした島津氏の分家。戦国時代に家は断絶していたが、元文2年(1737)島津継豊の弟である忠紀が名跡次いでを再興して重富と名乗った。島津宗家の一門家、幕末の 島津久光は5代目
紹隆寺は越前島津家の菩提寺でした。建物は廃仏毀釈で壊され墓地が残った、16代忠紀以下歴代の藩主とその家族の墓33基あります。

越前(重富)島津家系図

国史跡 鹿児島島津家墓所入口の標柱 姶良市平松

国史跡 鹿児島島津家墓所 入口の標柱 

招魂石
西南戦争で薩摩兵士として戦った魂

歴代の当主や家族が並ぶ

重富家を興した初代 忠紀公の墓

二代忠救、三代忠貫、四代忠公、六代珍彦、七代壮之介、八代忠珍、九代晴久の墓と家族の墓 が綺麗に並んでいます

重富島津家の菩提寺 吉祥山 紹隆寺
重富島津家は元々、越前(福井)の守護で、越前島津と名乗っていた分家であった

紹隆寺の高台より西の平松城跡、岩剣城跡を見る

岩剣城跡
重富小学校の北西の、標高約220mの急峻な岩剣山に位置する山城。最終的に天文23年(1554)島津氏が治めるが、島津義弘は山頂までが大変険しく麓に平山松城を築いたのが平松城の始まり。元文2年(1737)に越前(重富)島津氏が再興され、その居館として明治維新まで続いた
蒲生氏が享禄2年(1529)頃に築城した戦国時代の山城。標高180~2230mの山頂には曲輪や土塁、空堀が残るという。天文23年(1554)岩剣の戦いでは、島津氏との間で激しい戦いが行われたと伝わる。島津義弘はこの戦いが初陣となった。

平松城跡 
現在は重富小学校で、正門背後の山は険しい岩剣城跡
義弘はここ山麓に館を築いたのが始まり。
江戸時代の元文2年(1737)越前島津重富家が再興されこの地に領地が与えられ、明治4年(1871)廃藩置県まで、居城として治めた。

居館跡の長い野面積み石垣

島津歳久
島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の三男で豊臣秀吉の命により、平松神社の近くで攻められ家臣らとともに自害。1592年8月25日55歳、悲劇の名将として、薩摩人に愛されている。
平松城跡から南の海岸近くに
御石山(おいしやま)
歳久が自害した平松神社より約5㎞、歳久の遺体はここで清められ、首は肥前名古屋城の秀吉の元に届けられ、胴体は帖佐の総禅寺に葬られた。お石山とは、歳久が生前「お石様」と呼ばれていたからと伝わる

加治木駅の西に 曽木家の門

加治木館大手門口跡 加治木島津屋形跡
島津義弘は慶長12年(1607)帖佐の平松から加治木に館を建てて移り、元和5年(1619)亡くなるまで過ごした。現在の柁城小学校、加治木高等学校が周辺に当たります。その後、明治初年まで加治木島津家の館として続きました。

正門を入った右に 稲荷神社

稲荷神社の背後に 島津義弘公逝去の地碑

欄干橋
石橋で居館の南堀にあったのをここに移した。

石碑と石仏 が並ぶ

島津義弘公逝去の地碑と欄干橋 背後は加治木高等学校

大手門跡の前の道路と石垣
屋形は重臣の新納旅庵(にいろりょあん)が監督し石垣の石は加治木の湯湾岳から運ばれたと言われている

加治木高等学校正門と隣の加治木大手門口

消化不良でしたが。鹿児島駅近くのレンタカーを返却
午前中雨でもあり、計画ミスでもあった。早めにホテルに戻り明日以降に体力を温存します。

鹿児島駅

次の日はコチラ

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