2025年10月12日
宮之城史跡巡り
薩摩郡さつま町虎
第3回で薩摩街道は完歩していますが、鹿児島市近郊の史跡を数日掛けてけて回ります。自宅早朝に出発して、新幹線で鹿児島中央駅11時11分着。
鹿児島中央駅前12時52分発の宮之城行きバスで、宮之城着14時24分着。宮之城の宗功寺跡の宮之城島津家墓所、虎居城跡、御仮屋跡を廻り。宮之城17時のバスで鹿児島駅着18時49分に戻る強行軍でした。バスの本数がないので止む得ない。
宮之城島津家
島津氏の支流、島津忠良の三男尚久を祖として、江戸時代には一門家として関ケ原の戦い後、薩摩宮之城を1万5700石余り領した。2代忠長の時、慶長5年(1600)より領する。
宮之城島津家の家格は、宗家、一門家(重富島津家、加治木島津家、垂水島津家、今和泉島津家)に次ぐ「一所持(いっしょもち)」に属し、その中でも上位4家の「大身分」として重んじられた。藩政期を通じて家老としての要職を務めた。一所持4家は日置家、宮之城家、花岡家、都城家であった。
川内川に架かる宮之城橋近くのバス終点で降りて、川沿いに西に下っていきます

川内川沿いに立つ 石碑

川内川は宮之城橋より西に延びて、川が左にU字型に方向を変え東に戻り、そして南に流れている。
丁度半島のような形です。その半島の中に 虎居城跡 があります
対岸の 虎居城跡
半島の根元に県立宮之城高校がありますがその一帯が城跡、高校は写真に撮れていないが向かってもっと左です。築城は平安時代末期の祁答院(けとういん)郡司大前道助の時代までさかのぼる。
伝承では島津歳久が自害させられる要因になった城で、天正15年(1587)豊臣秀吉に島津義久が降伏したあと、降伏を嫌った島津4兄弟に三男歳久はじめ家来たちが、帰路の秀吉に矢を射かけて立てこもった城という伝承でもあります。歳久はのちに秀吉の命で自害に追い込まれています。

城跡の北西部分

城跡の真中あたり

城跡の根元、南東部分で、県立宮之城高校がある

島津家墓所(宗功寺跡)は川沿いを西に進み西の先端で左に回り込んでいる、川内川もかなり深くなっています。川の外側を回り込んでいる道

宗功寺公園に入ります虎居城跡の川内川の西の対岸に当たる海老川丘陵


宗功寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となって公園として整備されています

公園入口を右にカーブしながら坂を上っていく
宗功寺跡
島津忠長が慶長年間(1596~1615)に建てた宮之城島津氏の菩提寺で、墓地には歴代領主はじめ、35基の家形の墓石が並んでいる。



宗功寺墓所 入り口

初代 尚久は永禄5年(1562)3月に死去、この地に墓所はなく、加世田の竹田神社に宗功寺墓所と同じ家形の墓がある

宮之城では尚久の生母森御前の時に始まり養蚕が藩政期を通して盛んであった。そして明治に入り更に養蚕業の発展に尽くした 菅野平十郎の頌徳碑 が公園の一隅に立っています


かつての宗功寺本堂の鬼瓦が、墓所の傍に展示していて、その大きさから建物の大きさが想像できる。残念ながら何故か写真に撮れていないのが悔しい
宗功寺鬼瓦の説明板

宮之城島津家墓所説明(構成文化財国史跡)

歴代住職の石塔群


二代 忠長の墓
初代尚久長男 島津本家を助け、常に重要な役割を果たす。慶長15年(1610)死去59歳

祖先世功碑
島津家の由来から4代島津久通までの功績が刻まれている。5代久武が建立。大きな亀石に乗っている






忠長公の殉死者の墓
尾辻治郎兵衛

土屋市之助(一面地蔵塔)

塩田分太左衛門



公園の隣に宮之城歴史資料センターがありますので見学します
虎居城跡模型

さつま市竹田神社にある 島津忠良の墓

宮之城島津家初代 尚久坐像


鹿児島市福昌寺跡島津宗家の墓所


越前(重富)島津家墓所 姶良市平松 紹隆寺跡


加治木島津家墓所 姶良市加治木 能仁寺跡


加治木島津家墓所 姶良市加治木 長年寺跡


垂水島津家墓所 垂水市 心岳寺跡

今和泉島津家墓所 指宿市 光台寺跡


宮之城島津家 さつま町虎居 宗功寺跡

川内川、虎居城跡、宮之城島津墓所跡を望む

宗功寺跡の島津墓所より川内川の北沿いを東の市街地へ
川内川に架かる宮之城橋を渡った東側の学校は、島津家の領主仮屋敷


鳥居が建つ

宮之城のバス停の建物かつての国鉄宮之城線の駅跡


見学も終わり 宮之城17時のバスで鹿児島市へ、途中バスから武家街の風景おごく一部


鹿児島駅 18時49分着で本日の史跡巡り1日目終わる。


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