薩摩街道(補充)【第4回4日目】

2025年10月15日 

姶良市帖佐の史跡~鹿児島市内史跡回る
ホテルで自転車を借りて午前中姶良市の史跡を廻り、午後鹿児島中央駅にJRで戻り再び市内を回る

JR帖佐駅より北、別府川の帖佐橋を渡った北側の鍋倉へこの付近に史跡が集まっています

正面突き当りに鳥居が見えます

島津義弘帖佐(ちょうさ)居館跡(御屋地跡)
文禄4年(1595)~慶長11年(1606)平松城に移るまで住まいした。
帖佐小学校の西側を北に入っていくと付き当たりに鳥居と石垣がある。館跡で一角に稲荷神社が鎮座していました

居館跡に 稲荷神社

 大手門跡

帖佐居館跡の近くに 花園寺跡公園 入口の元 米良家武家門 を移築

公園にある 枯山水跡の案内

地図がありますがよく見えない

さらに北に500m程進んでいくと、島津義弘の愛馬で有名な
「膝跪騂」 (ひざつきくりげ)の墓

義弘が乗馬していた愛馬の「龍白号」の愛称。確か薩摩街道歩いた時、伊集院駅前にこの馬に乗馬した義弘の銅像がありました。今も残る愛馬のお墓があるということは、手厚く葬ったのだろう。馬も満足しているだろう

この辻を左に折れます、民家は少し手前にあったが付近は畑です

墓は正面真ん中の林の袂にあります

白いのが見えます畑と雑木林の間の畦道を入っていきます

戦国時代に義弘とともに二十数回戦場に出たそうです。墓の傍に、義弘の家臣で馬の世話をした
橋口対馬夫妻の墓 があります

これだけ義弘に可愛がられた馬も幸せだと思いました

橋口対馬夫妻の墓

何かいいものを見せてもらった

次に少し南に下った帖佐小学校の裏側(北)、総禅寺跡の豊洲島津氏の菩提寺であった総禅寺墓地へ
今は大きな民間の墓地で、目的の墓は、草にまみれ相当荒れていました。ここにたどりつくまで、墓参りに来ている人何人かに聞いて見つけることができした。
豊洲(ほうしゅう)島津家は島津宗家の分家で8代久豊の三男季久(室町中期)より始まる。

総禅寺跡墓地

総禅寺は豊州家島津氏の菩提寺として室町時代の文明12年(1480)頃に完成し、豊州家初代である 島津季久 が埋葬された

6代 島津豊後守朝久の墓
島津義弘の娘婿、文禄2年(1593)文禄の役の陣中で病死

初代 島津豊後守季久の墓
文明9年(1477)没

御屋地様の墓
義弘の長女千鶴 朝久の正室、朝久病死後義弘のいる帖佐の館に住み、領民に慕われ「御屋地様」と呼ばれた。寛永13年(1636)平松城で死去。総禅寺に葬られた

当時の古い墓が草に覆われています

更に草を搔き分け奥に入っていくと、島津金吾歳久胴体埋葬地碑 が見つけることができた。そしてアーチ型の石門と墓標がありました。
秀吉の命で自刃し首は秀吉の元に胴体はここに埋葬され、二百数十年後の明治5年(1872)京都に埋葬されていた首と胴体が一緒に、自刃した近くの平松神社(心岳寺)に移され長い年月を経て一体となった。

ここは胴体が長い年月埋葬されていた場所で、今は墓所跡となっています

島津家総禅寺跡の墓地は、他に較べると荒れています
総禅寺墓地をあとにします

帖佐(ちょうさ)地区の歴史、古くなって字が読みにくくなっています

花園公園の近くに学校を背に 帖佐地頭仮屋跡

島津義弘がここ栗野に 浄土宗如意珠山願成寺 を創建した。廃仏毀釈により今は墓地のみとなっています
墓地入口JR帖佐駅の北10号線を越えたところにあります

新納旅庵の墓
島津家の一族新納家、17歳で出家していたが島津義久に才能を見出され、義弘の家老となった。島津家を支え続けた。
1602年大坂薩摩屋敷で没

願成寺跡から程近い、南の帖佐駅の北側に
島津忠将の供養碑と石灯籠

島津忠良の子で、兄に宗家を継いだ貴久がいる。
分家で相州島津家を興す。垂水島津家の初代とされるが、垂水に入ったのが二代の以久。
霧島市福山で戦死。永禄4年(1561)41歳没

後藤塚 山路後藤兵衛種清墓
島津義弘に殉死を約束した8人の中の一人です

すさましい根性ですね、でも8人一緒に殉死したかっただろうと思う

鹿児島島津家墓所 松齢山長年寺跡 加治木島津家墓所
姶良市加治木に向かいます、帖佐から東に別府川を渡り、JR錦江駅北西より湯湾岳の東の山麓長年寺は廃仏毀釈で今はありません。宅地化して墓地のみ残る

加治木は島津義弘が帖佐より移り晩年を過ごした地、加治木館 慶長12年(1607)~元和5年(1619)。加治木島津家は島津義弘の子の家久(忠恒)その三男の忠朗を祖として宗家島津家に継ぐ一門家

墓位置

墓地入口の案内板を見て入っていくと加治木島津氏の墓地に出ます

墓地の中央に 亀趺碑(きふひ)
墓ではなく島津都美さんの33回忌の供養碑で重豪が母のため建立した。
島津都美は島津重豪の母19歳で重豪を出産、その日に亡くなったそうです。延享2年(1745)のことです。重豪はいつまでも自分の身代わりになった母を思っていたようです。碑の足元は亀の台

供養碑の傍に 都美さんの墓

椿窓院殿供養塔
島津忠良の三女で 御西と言われ肝付兼寛の母

歴史の感じる墓が並ぶ

加治木島津氏の墓所はもう一か所、能仁寺跡にもある。

島津義弘終焉の地加治木館跡
前回も行ったが再度訪問、島津義弘が帖佐より慶長12年(1607)にこの加治木に館を造り移り住んだ。元和5年(1619)に亡くなるまで過ごした。

島津義弘公薨去の地碑
元和5年(1619)この地で逝去する。85歳,遺骸は鹿児島市内の福昌寺に葬る。家臣の殉死者は総勢13人であったという

 加治木図

加治木屋形跡
石垣が残る、敷地内に柁城(だじょう)小学校と加治木高校の周辺が敷地に当たる

曾木家の門
義弘の重臣で曽木播磨守重治が1572年の木崎原の戦いで戦死した、その功により、その子にこの門を与え、江戸期を通して家老として曽木家は続く

屋形跡より東へ日木山川の加治木橋を渡った少し南東に
精矛神社(くわしほこ) 島津義弘を祀る

義弘が朝鮮から持ち帰った、石臼と手洗鉢経典読誦塔

義弘公ゆかりの 小径の案内板

 境内に立つ 渋谷稲荷

加治木島津家のもう一つの墓所(能仁寺跡)
墓所入り口

少し奥に入ります

加治木島津家の墓所は、前述の長年寺跡と2ヶ所あります。歴史を感じる古い墓石や石碑が所狭しと建てられています

墓の東側には車道が墓を分け通っています

墓石が整然と並んでいます

墓の一部車道を挟んだ東側には 義堂和尚 たちの墓が並んでいます。この時点で知らなかった。
義堂は曹洞宗能仁寺 の開山、初代島津忠朗が福昌寺の末寺として創建、万治2年(1659)。

村社の神社 があります

精矛神社を出た近くに大きな 日本山宝塔 が並んでいます

白木山川を左にみて、一筋東側の道を北に進み高速道路の手前右手に
史跡 肝付之墓の石柱

墓地を少し入って奥に 加治木肝付氏墓 肝付氏は4代以降、喜入に移る

この地区にもまだまだ行ってみたいところがあるが、
大口筋 龍門坂の旧道、加治木城跡、安国寺の南浦文の墓、肝付氏東郷寺跡墓地、加治木郷士館、実創窓寺跡、その向かいの島津義弘に殉死した7人の殉死地。大口筋白銀坂の旧道、蒲生八幡神社、地頭仮屋の門、蒲生城跡、蒲生どんの墓、蒲生一族歴代の墓石群山田の凱旋門 他にもありますが、自宅から遠いし年齢的にも、また来ますという訳にはいかないのが残念。
借りた自転車午前中の約束だから止む得なく、歩いていけるところでないし、この後JR14時48分で鹿児島に戻ります。

再び、鹿児島市内の史跡を回ります

河野圭一郎誕生地碑
高麗町の甲突川の西側鹿児島女子短大の傍、西南戦争では西郷に従う、西郷の敬慕武士 大正11年(1922)没75歳高麗町25-2南洲墓地整備に尽力する

河野圭一郎は山野田一輔と 西郷助命のため城山より政府軍に下ったが、助命却下され、この二人の運命はここで分かれた。小野田はすぐ釈放され城山に戻り、西郷とともに自決。河野は捕らえられ投獄される。数年後恩赦により解放され、軍人、神職(最終は霧島神宮の宮司)、その間鹿児島に戻り三州社を結成して西南戦争で荒廃した鹿児島を復興に力を注ぎ、また戦死した人の遺骨等も整備、更に現在の、南洲墓地を整備した一人。西南戦争で西郷とともに死ぬことが出来なかった悔恨とともに素晴らしい業績を残した。没後墓は南洲墓地に、山野田一輔没時34歳と共にあります。

有村雄助、次左衛門誕生地碑
鹿児島女子短大の一筋西南
安政の大獄で水戸藩士とともに桜田門外で井伊直弼を襲撃暗殺する。襲撃後次左衛門は死亡、雄助は鹿児島にて捕縛切腹 

川村純義 誕生地碑
有村兄弟誕生地より一筋西の車道を南へ進み交差点手前左 荒田1-1

荒田八幡宮北随神

泉町 五代友厚像

泉町 鹿児島銀行本店の裏に 月照上人の遺跡の碑 鹿児島入りして宿泊した俵屋旅館の跡

更に南の交差点に大きな 石灯籠(方言でイシジㇿ)いづろ電停近くの交差点

この近く金生町に、今夜から3泊するリッチモンドホテル鹿児島金生町が近いので今日はここで終わります

4日目終わり

次の日はコチラ

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