薩摩街道(補足)【第4回7日目】

2025年10月18日

鹿児島市内の史跡

今日は朝からJRで鹿児島中央駅から仙巌園駅へ

駅前の島津斉彬の説明と広場

駅から 仙巌園(磯庭園) の正面方向

仙巌園駅から西側を見る

仙巌園の正面北側の 鶴嶺神社

仙巌園前の広い敷地の建物

仙巌園入り口

西郷隆盛蘇生の家へ
交通の便が悪いので、仙巌園前からタクシーで是非行きたかった。海岸線の史跡を見学します。
鹿児島市吉野町花倉 西郷隆盛蘇生の家
JR日豊本線沿い、国道より左の線路を越えたところで、案内標識もあります。この家はもと坂下長右衛門宅であった。井伊直弼による安政の大獄で逃亡を余儀なくされた、京都清水寺の僧月照とともに錦江湾に身を投げた、西郷と月照はまもなく2人は発見されるが、月照はすでに亡くなり、西郷は蘇生した。月照は市内の南洲寺に墓がある。近くの三船に 月照上人入水の地追悼碑 があるが、場所がわからず寄れなかった。
西郷が介護されたのがこの家です。茅葺で今にも壊れそうです。なんとか修復できないものか、でも痛みがひどく無理だろう。

西郷先生蘇生之遺跡碑
西郷と同じ加治屋町で育った東郷平八郎の揮亳

坂下長右衛門誕生の地碑 漁師
月照上人の遷化(せんげ)の碑、すぐ近くにあったのですが見落としました

いまにも壊れそうな 蘇生の家、貴重な写真になるかも

ここより少し北に行くと、舟は二人を引き上げた 花倉浜 につきここに運ばれた

平松神社へ(旧心岳寺跡)
花倉浜を更に北に竜ヶ水駅を通り、海岸沿いに進むと、吉野町平松に着きます。やはり国道より左の日豊本線の踏切を渡ると、 平松神社(祭神島津歳久)。歳久は秀吉に反抗的な態度をとったためと、この地で自刃に追い込まれ主従27人とともにこの地で亡くなる。島津義久は秀吉が亡くなった後、この地に竜水山心岳寺を建立して菩提を弔った。明治の廃仏毀釈により、心岳寺は壊され、のちに平松神社が建てられた。島津歳久は島津4兄弟の三男で、義久、義弘、下に家久と勇将ばかりの兄弟。また毎年命日の旧暦7月18日とその前日には多くの参拝者で賑わうようで心岳寺詣でと伝わる。是と同じように伊集院の島津義弘の妙円寺詣でがあります

平松神社(旧心岳寺跡)

日豊本線の警報のない踏切を渡り、鳥居を潜り石段を上ると拝殿があります向かって鳥居の右に  左に 仁王像

平松神社(心岳寺跡)の標柱
天正20年7月18日(1592年8月25日)島津歳久この地で非業の死を遂げた

鳥居の横に 平松神社の碑と島津金吾歳久公四百年再祭記念碑

鳥居を潜り、石段を上っていきます。往時の面影を残す、野面積みの石垣が残る

歳久辞世の句の石碑
      「晴蓑めが玉のありかを人問はばいざ白雲の末も知られず」
「歳久の魂どこへ行ったのかと問われたらこう答えてほしい、白雲のかなたのどこか遠くに消えたので分からない、と」
歳久はすでに病にかかっていて、太閤のためにもはや働けない身体であったと言っている。反抗心もあっただろうが、秀吉は優秀な島津兄弟の誰かを誅したかったのかも。
島津歳久は、悲劇の名将で薩摩武士の誰もが敬慕する将であった。その証拠にその後延々と心岳寺詣でが続いている

古い木造の平松神社 拝殿

大崎観音 神社の南にある大崎鼻の沖で海難事故が多く観音像を建てて歳久の霊に祈願したと伝わる

赤い鳥居の稲荷神社
2023年に倒壊、新しくここに新築移転された

拝殿の裏手にある歳久、従者の墓が見える

神社から目の前の錦江湾
安政5年(1858)11月15日、西郷と月照は入水する前に、無念の死を遂げた島津歳久の話をして、心岳寺に向かって一拝したと言われています

神社の前の広場の隅に ハート型の石 広場はかつて庭園の池でその借景かも

島津歳久墓の石塔 心岳良空大禅伯の法名

天正20年に自刃した歳久の遺骸(胴体)は帖佐の総禅寺に葬られ、首級は秀吉が首実験後、京都の浄福寺に埋葬された。
秀吉死後直後の慶長4年(1599)島津義久がこの地に曹洞宗心岳寺を創建され胴体を改葬した。明治5年日置島津家14代当主と一族により、首級が埋葬された、京都の浄福寺から首級を、総禅寺から胴体を掘り起こし、平松神社に合体実に280年振りであった。その後、日置の大乗寺跡に改葬された。(ようやく落ちついた、市内っ福昌寺にも墓があります)
その時、殉死者27名の墓も改葬する予定であったが。長い年数この墓を守り、この地で眠っている先祖でありこのままでいいということで、改葬されていないという。

歳久の墓の傍にあるのが 殉死者27名の墓 歳久がいかに慕われていたか

背後には 心岳寺の歴代住職の墓

石段から見たところ

碑文

踏切から見たところ

島津四兄弟 義久、義弘、歳久、家久はすべて優秀な武将たちで、それぞれの個性があって素晴らしいでした。

平松神社の見学を終わります。待ってもらっているタクシーで戻ります

戻る途中、国道を少し迂回するところの 三船神社と石仏 がたくさん並んでいます三船に 月照上人の入水追悼碑 があるのだがわからない

行きたかったところの見学も終わりタクシーで仙巌園に戻ります

仙巌園
尚古集成館の北隣に 島津家の別邸 仙巌園(国名勝) があります。江戸初期の万治年間(1658~61)に、藩主光久が別邸をつくったことに始まる。さらに斉興が回遊式庭園を拡張して現在に至る。

仙巌園の正面広場を見る正面右 
尚古集成館

仙巌園の観光客用の正面入り口

園内に入ると湾側に桜島が見えます

山階の宮大妃えい歯髪碑
29代島津忠義の娘、常子はここ仙巌園で生まれ育った、皇族の山階宮菊磨王に嫁ぐ。昭和13年没54歳歯と髪を埋葬

反射炉跡
斉彬が安政3年(1856)築かせ完成、2号炉と伝わる

山神、水神

茶寮チョット休憩美味しかった

正門
明治28年(1895)鹿児島の名工 大重伊三治により作られた、島津家の家紋や天皇から賜った五七の桐が彫り込まれている

迫ン太郎

猫神社

蘆過池

 御殿入り口

御庭

獅子乗大石灯籠

御庭からの桜島

錫門  現在修復中

もっとゆっくり見たいがこの辺にして、バスで移動して次に回ります

 南洲神社と南洲墓地へ
西郷南洲顕彰館
西郷墓地の南隣にある昭和53年(1978)完成、西郷の書跡10幅、座右の銘「敬天愛人」一幅西南戦争資料等々が展示されているその他、詳細に見たいが時間が足らない

示現流の段取りの日で、沢山の方が真剣に取り組んでいる。大変迫力もありしばし見とれました。
私も若い頃にめぐり逢いがあれば、おそらくならっていたことだろうと思う

南洲墓地  信義を貫いた巨星と群れ星ここに眠る 「命も」いらず名もいらず

写真は 桐野利秋、西郷隆盛、篠原国幹

南洲墓地入口城山陥落ののち西郷以下40人の遺体はこの付近に並べられ検死したという

1877年県令岩村通俊は政府軍の許可を得て遺体を引き取り、鳥居の付近に仮埋葬した。
その後1879年に有志が城山はじめ、市内に仮埋葬されていた220人の遺骨を収容しこの地に改葬。さらにお1883年九州各地に散在していた戦死者の遺骨を収集して、749基の墓碑数2023人が葬られている。
この中には、14歳の少年や、兒玉実直以下5人兄弟、山形県鶴岡市の庄内藩士伊地知末吉、池田孝太郎などの若き青年たちの墓があります。

南洲墓地からの桜島どこからでも見える桜島の勇姿

大常夜灯
西郷と勝が会談して江戸城が無血開城され江戸市民が兵火をまぬがれたことの感謝を込めて、昭和14年東京市より寄贈された

すべての墓碑は回れないが、一部説明書きのある墓を載せました

岩村県令記念碑 
鳥居を潜った左に土佐藩の生まれ、明治10年鹿児島県令、西南戦争の処理に努めた。西郷以下戦死者の遺体も丁寧に埋葬、墓碑も書いている。
岩村は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる」と信じ、政府への気兼ねや世間のわずらわしい噂を退けたと言われている。北街道長官、農商務大臣を歴任した気骨ある人

庄内柿

島津啓次郎の墓
旧佐土原藩主島津忠寛の三男 西南戦争で薩摩軍に参加して、城山で戦死。留学もされた21歳の優秀な若者であった。西郷に止められたが西郷を慕う一人。東京の佐土原一族の墓所にもある

中津隊士 増田栄太郎

児玉兄弟5人戦死
どれほど家族の方の悲しみを思うと———

福岡隊士

庄内藩の藩士2名の墓
西郷がどれほど庄内藩で敬慕されたか

少年烈士の墓
何れも14歳の若い前途ある少年もいます

初代県令 大山綱良 長崎で処刑

中村恕助

保存樹

南洲神社拝殿

森川政一の墓 このような人もいる

種子島彦之丞の墓

西郷隆盛の墓
墓地の中心にあります盟友 川口雪蓬が墓標 を書く

西郷墓地は岩村通俊が仮埋葬した後、河野圭一郎等が尽力して、整備が出来た

桐野利秋の墓 38歳
事実上の総司令官、城山で右額を撃ち抜かれ戦死
墓石は妻の久が岡山から取り寄せた、白御影石

篠原国幹の墓 42歳  薩摩軍一番大隊長
一番大隊長、吉次峠で戦死、薩摩軍にとっては大きな痛手であった。
薩摩街道で戦死地の吉次峠に行きました

村田新八の墓 41歳 二番大隊長
西郷の最側近で大久保とも親しい。西郷の死を見届けた後、戦死とも自刃とも伝わる。大久保たちと海外視察の一人で将来を嘱望された。別の道もあっただろうが、西郷を慕った結果
墓碑の書体は川口雪蓬
子ども 長男岩熊 18歳 次男二蔵 とも西南で戦死
岩隈は戦争前にアメリカに留学している。子ども2人はどうにか助けられなかったのかと思う。
田原坂に、「馬上豊かな美少年」の像 は岩熊がモデルと言われている

渕辺高照の墓

別府景長(晋介)の墓 30才
西郷の最後の言葉、しんどんもうここらでよか
西郷を最後に介錯したと伝わる

桂久武の墓 48歳
西郷との友情を最後まで貫いた 西郷軍の出陣をみて翻意
島津家の分家、日置島津家当主久風の五男、長兄は宗家島津忠義の主席家老、次兄はお由羅想像で切腹した赤山靱負。
城山で戦死

小倉壮九郎知周の墓 35歳
東郷平八郎の実兄 城山で戦死

山野田一輔の墓 34歳
河野圭一郎と西南戦争終盤、軍師として官軍の川村に会う、河野は投獄山野田は釈放され城山に戻り戦死。弟政治は田原坂で戦死している

村田岩熊の墓 18歳
村田新八の長男、前述に記載 熊本の植木で戦死
次男二蔵も西南の役でなくなっている、岩熊はアメリカ留学を終えて父、新八とともに参加する弟二蔵の墓は

西郷小兵衛の墓 31歳
西郷に末の弟、小兵衛を挟んで、市来宗介、宗五郎の墓。西郷の墓の右斜め後ろ
西郷一族も多くの若者が亡くなっている
小兵衛は熊本玉名の高瀬川の戦いで、胸を討たれ戦死(戦死地に行ってきました)
遺言は「兄に(隆盛)先に逝ってすまぬと伝えてくれ」余程西郷兄を慕っていたのだ

永山盛弘(弥一郎)の墓 40歳 
三番大隊長 気骨のある薩摩人

池上貞固(四郎)の墓 36歳
西郷の死を見届け城山の岩崎谷に死す
辺見十郎太の墓 29歳
西郷の死を見届け城山の岩崎谷に死す

平野正介の墓 32歳 城山で戦死
4人兄弟で 
長兄 郷田七郎 38歳
次兄 八兵衛 36歳 3人は城山で戦死
弟 猪之助 は延岡で戦死 27歳
4人兄弟の若き命、家族の嘆きはいかばかりか

墓碑が撮れていないが西郷の一族
大山辰之助 16歳 西郷の妹 安子の長男 甲突川で戦死
市来宗助 28歳 西郷の妹 琴の長男 戦争の最終日城山で捕縛され即日斬首 菊次郎、岩熊とともにアメリカ留学
市来宗五郎 17歳 西郷の妹 琴の次男 熊本の山鹿で戦死
墓は西郷小兵衛を挟んで前述のようにあります。
この様に見ていると、西郷の一族も沢山なくなっています。

一部の墓碑しか載せていませんが、一人一人の墓碑をもっと見ていくと、それぞれの物語があることでしょう。でも多くは若い青年です、夢もあっただろうに、この墓地に立っていると不思議と、悲壮感というより、変な言い方かもしれないが、一種の清々しい気持ちになるのは私だけだろか。
改めて、西郷隆盛の偉大さが伝わってきます

時間があればもっともっと一つ一つの墓標を見ると、知らないことが沢山わかるだろうが。
でも若くして命を亡くすが、それぞれ自分の石で真直ぐ進んでいったと思う、悔いはないだろうと考えてしまいます。
果たして、また機会があれば鹿児島にゆっくり来てみたいと思うが

以上南洲墓地です、これをまとめた資料があればいいと思いましたが

南洲神社電燈

南洲神社

西南の役官軍薩軍恩讐を越えて建立の由来碑

桜島を望む南洲墓地から

まだまだ見たいが、この辺で見学を終え、西郷南洲顕彰館 に入りました

沖永良部島での生活

江戸城無血開城の勝との談合

吉野開墾様子

 西郷隆盛の辞世

西郷家の墓地

最初の妻 伊集院須賀 二年間の夫婦離婚 没年不明

2人目の妻 愛加那
明治35年(1902)65歳 
奄美大島での島妻 島妻は奄美大島から出ることが出来なかった。奄美大島の名門 龍家の娘
西郷との間に菊次郎(のち京都市長)と菊草の二人

3人目の妻 糸 (旧姓岩山)
大正11年(1922)東京にて79歳没 墓は青山霊園
西郷と愛加那との2人の子供も引き取り、大家族を切り盛りした賢夫人

西郷菊次郎家の系図
西郷と愛加那との長男 西郷菊次郎家族の写真

 下鍛治屋町

見学も尽きないので、また来れたらいいのだがと思いながら、この辺りで南洲神社を終わります。

次に 照国神社へ

鶴丸城近くの西郷隆盛の像

照国神社の鳥居
鹿児島大空襲で本殿は焼失したが鳥居は残った。その後1958年に再建された。
英明な藩主斉彬を祀った神社

巨大な鳥居は功績の象徴の説明

鳥居を潜り少し進みます

 灯篭と説明板

拝殿への入り口

拝殿

 島津斉彬像

島津久光像

島津忠義像

照国神社を出ます

鶴丸城二の丸跡を進む

復元した御櫓門と石櫓

薩摩は人をもって城となす、天主閣も作らなかった。
武田信玄のつつじが埼館と同じ 人は城、人は石垣、人は堀

81歳の勇姿?

私学校跡の説明  「おはんら何たることをしでかしたか
西郷のこの時の気持ちはどのようであっただろう、私のような凡人では計り知れない

西南戦争の石垣の銃弾跡

私学校跡

西南戦争戦場跡の案内

西郷最後の地、城山

歴史資料館黎明館

篤姫の像(天璋院) 生まれ故郷鹿児島に像が建つ

内側から見た 御門

御楼門と排水溝の整備説明

 御角櫓跡

七高生久遠の像
三体は 知、情、意を象徴する。碑は七高造士館の代表寮歌「北辰斜にさすころ」記念碑

庭園跡

幻の宰相 小松帯刀像 西郷や大久保のよき理解者で、勝るとも劣らないと言われた人財。病気で亡くす

最後にもう一度城山を見る

今日はこの辺りで終わります
3連泊したホテルが今晩は空室がなく鹿児島駅近くのホテルへ
明日午前中少し見学して、午後の新幹線で帰ります

次の日はコチラ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする