2025年12月30日
上記の年月日は歩いた日でありません。それぞれの道を何度か歩いて集約したものです。
紀ノ川より高野山川の山系

真田幸村大坂入城の道を検証
目次
第1章
【1】はじめに 大筋
【2】高野山から九度山までの道
【3】九度山から葛城山・和泉山系を越える峠道
【4】本題の九度山真田庵から大坂入城の道について検証します
① 滝畑街道(蔵王峠越)
② 高野街道(紀見峠越)
③ 九重峠越
第2章
九度山真田庵から各峠越の道
① 滝畑街道(蔵王峠越)の脱出道を歩きます
② 高野街道紀見峠越本道と脱出峠越の幾道かを検証
高野街道本道、行者道(修験者道古道)、巡礼道、馬こかし坂
出合いの辻から高野街道を河内長野まで進む
③ 九重越の道(幸村脱出の峠越新設)
和歌山県側からの九重峠、大坂三日市からの九重峠への古道
第三章
河内長野から四天王寺までの道を歩く
東高野街道~古市街道~庚申街道~四天王寺
西高野街道~下高野街道~四天王寺
西高野街道~中高野街道~庚申街道~四天王寺
第四章
四天王寺から大坂城までの、幸村史蹟を中心に進む
結果
第一章
【1】はじめに 大筋
慶長五年(1600)、関が原の戦いに西軍(石田三成方)に味方して、中山道を西に進む徳川秀忠率いる東軍の軍勢を信州上田城で真田正幸、信繁が釘付けにして奮戦するも、西軍が関が原で敗れたため城を開城徳川に降る。
過去に真田昌幸父子に何度か煮え湯を飲まされている徳川家康にすれば、真田父子に対する憤怒が骨髄まで達していたから、当然、死罪は免れないところであったが、兄信幸が東軍に属し活躍、また信幸の妻小松姫がその実父である家康の重臣、四天王の本多平八郎忠勝らの必死の助命嘆願により死一等を免れ、紀州高野山への配流となった。同年10月9日昌幸・信繁父子は、昌幸の家臣16名、信繁の妻子と家臣高梨内記ほか数名で、真田家の菩提寺である高野山上の蓮華定院に身を寄せた。
高野山は女人禁制であったので妻子は山麓の九度山付近に留まったことだろう。その時、昌幸53歳・信繁32歳であった。蟄居まもなく同年冬には高野山の表玄関である、現在の九度山に下ることが許され、信州上田の信幸や蓮華定院の住職が手配したであろう寓居に、父子と信繁の妻子、従者らが移り住むこととなる。その後、14年という長い年月を九度山にて過ごす。現在その跡地に建つのが善名称院(通称:真田庵)です。
長い配流生活の中で蟄居を許されることを願っていた、父昌幸が慶長16年6月(1611)病没、享年65歳でした。信繁は庵内に墓を建立、昌幸の一周忌も過ぎ昌幸の従者13名は信州松代の信幸の元に厚く迎えられ去って行った。高梨内記、青柳青庵、三井豊前が残ったと伝わる。
一方、豊臣秀頼と徳川家康の亀裂が決定的となった、慶長19年10月(1614)信繁の元に大坂城の豊臣秀頼より手厚い支度金の上、大坂入城依頼があり、信繁は昌幸の念願でもあった、最後の一旗を挙げることにためらうことなく大坂入城を決定するに至る。
信繁(時期は定かでないがこの時分から名を幸村と変えているようです)の大坂入城に先立って幸村の正室は、石田三成の盟友で関ケ原の戦いに敗れて自害した大谷吉継の娘、竹林院は幸村と昵懇であった高野山蓮華定院の行永によって幼子の娘2人と匿われて入城はしなかったという説もある。大阪落城後捕らえられたが命を助けられ京都にて落飾、慶安2年5月18日没。墓所は京都妙心寺塔頭大林院の昌幸・信繁(幸村)の傍に眠る。
配流時よりの家臣高梨内記、青柳清庵、三井豊前ほか数名とうわさを聞いて集まってきた、元幸村の家臣たちや幸村を慕う人達と共に入城の準備手配を行い、いよいよ九度山より脱出する事となる。
九度山からの脱出にあたり、諸説あるが、私は和歌山浅野家の監視下にあったとはいえ、14年間もの長きにわたる配流生活の中で、また比較的自由な生活をしながら過ごした年月、九度山村の村人たちとはそれなりに親しく助け合っていたと想像できる。 また監視下の浅野家は元豊臣家の親族でもあり比較的監視が緩やかであったかもしれない。もちろん幸村も九度山脱出後、村人に咎めが受けないよう計画的な脱出をしたのでないだろうか。あれだけの知恵者の幸村からすれば大坂城への道は詳細な計画の元、比較的スムーズに進めたと想像しています。
幸村信望者からの私の見方では、村人の協力説をとります。おそらく豊臣秀頼からの莫大な支度金の中からお世話になったお礼を村人たちにも十分にしたことでしょう。
浅野家にすればもちろん家康より疑われて家を取り潰されても困るが、豊臣家への信義からしてやや緩やかな取り締まりでなかっただろうか。そこには家康の思惑もあったかもしれない。父昌幸が生存ならば家康も徹底的に監視を強化命令して脱出を阻止したが、家康からしたら幸村はあくまで昌幸あっての幸村と甘く見ていたのかもしれないし、家康が煮え湯に合った過去も昌幸がいたからと。関ケ原の戦い時、秀忠軍を信州上田に行進を遅らせた戦術は、家康は父昌幸あってのことと思っていたのでは、父以上に知恵者で戦術家であったとは夢にも思っていなかっただろう。
この時点ではすでに家康は揺るぎない力を持っていたし。この際、徳川にたてつく不平武将たちを、大阪城に入城させ排除してしまうだけの絶対的な自信があったと思う、でも家康が思っていた以上に、幸村はむしろ父昌幸以上の武将であったことに驚嘆したと想像できる。
浅野家や徳川がその気になれば、地元で住んでいる私としては、九度山の地理的に見て脱出を阻むのはそれほど難しくないと私は思います、まして妻子連れであり。
浅野家は九度山より西の和歌山城下に近づいた峠越えの脱出は絶対阻まなければならないが、幸村もその辺りはよく承知していただろう。また九度山より東の大和五条二見の陣屋には、徳川方の松倉重政が城主として目を光らせていた、松倉重政は豊臣秀吉の直臣であったが、1600年(慶長5年)関ケ原の戦いで徳川方に付き、その恩賞として、大和五条の二見城主となった。その恩義は絶対であり、大坂の役後九州島原城主となるも、天草四郎の島原の乱により改易となった。また橋本(紀見峠)以東の峠越えは家康に忠誠心に固まっている松倉の領内は絶対通るのは不可能であったと承知していたと思います。
一方風吹き峠からの西の峠越えは和泉の岸和田城下を通過する。岸和田城主は元秀吉の従弟小出吉政の嫡男小出吉英が城主であったがまかり間違ったらお家取りつぶしになりかねない、関ケ原以降徳川方であった。また泉州を迂回して大坂城に入るには余りにも道のりが遠いと思う。
幸村が家族と家臣数名で九度山を出立したのは、慶長十九年(1614)10月9日の未明で10月10日には大坂城の南の四天王寺辺りに集合場所と決め、ここでは相当な人が集まり、堂々と隊列を組み当日大坂入城を果たしたと伝わる。それにはやはり道のりには限度がある。
脱出時の方法については諸説あるがそれは省略します。
九度山から大阪城までの幸村の脱出ルートは真意の程は分からない。如何に智将とはいえ家康に弓を弾いて敗れているので、徳川時代にはその真意は殆ど残っていたとしても抹消され残っていないと思う。
前述したように、私個人の考えることでは、家康も大阪城攻めでは敗れることがなく、むしろ幸村等の大阪城入城には暗黙の裡に目をつぶったかも、厳しく取り締まるのであれば、監視を任されていた浅野家にもお咎めがあったはずと思う。九度山の地理上からすれば阻むことはそれほど難しくなかったと思います。
そして幸村は当然、大坂城入城を決めた時点で、お世話になった高野山の菩提寺である蓮華定院に前以てそれとなく参拝していたと思う。
【2】 高野山から九度山までの道
1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いで徳川家康(東軍)軍と石田三成(西軍)との戦いで、真田昌幸・信繁は信州上田城に立籠り、秀忠率いる徳川軍の関ケ原参戦を阻止したが、西軍が敗れた。
昌幸・信繁の処断は免れぬところ、東軍に味方した兄信幸とその妻小松姫の父、徳川四天王の一人であった、本多平八郎忠勝らの助命嘆願により、死一等を免ぜられ、所領没収の上、高野山への蟄居を命じられた。
慶長5年10月9日、昌幸・信繁父子とそれぞれの従者数名ともに、紀州高野山の真田家菩提寺の蓮華定院に謹慎した。時に昌幸53歳、幸村33歳であった。
まもなくして、妻子との生活を許されて、高野山上の蓮華定院から山麓の九度山に居を移りました。その跡地に建つのが現在の善名称す院真田庵です。
配流から11年、再起を期していた昌幸は病没、享年65歳。真田庵に墓所が建つ。昌幸の従者は信州上田に帰藩しました。
1614年(慶長19年)大阪城の豊臣秀頼からの招聘をうけ、倅大助(1602年幸村36歳の時誕生)と妻子(別の説もある)と共に大阪城入城を決意します。
入城にあたっての道は、本題ですので詳しく後術しています。
九度山隠棲中に、何度も高野山の真田家菩提寺蓮華定院の住職と親しく交わった。
その際の、高野山登り下りした道は、町石道が主であっただろうが、そのほかの道も時に応じて通ったとも思われる。
その旧道は、
町石道、 三谷坂道、 麻生津道、 京大坂道(不動坂道)、 黒河道
私も、何れの道も何度か歩いています、特に町石道は高校の頃から数えきれないほど歩きました。
町石道は
高野山へのメインの古道で弘法大師も慈尊院の母の元に通った道です。
高野山大門~山麓にある慈尊院までの道。
三谷坂道は
町石道途中にある、二つ鳥居~八町坂を下り天野の里・丹生都比売神社~笠松峠~鎌八幡宮・三谷の集落~河南大和街道の紀ノ川の三谷の渡し場への道。
麻生津道は
和歌山方面からの主要道で、根来寺・粉河寺を参拝して高野山への道であった。町石道の途中近くにある、花坂の集落から~梨子ノ峠から幾つかの峠を越えて麻生津峠から一気に下り~横谷の集落~河南大和街道の紀ノ川の麻生津の渡しに至る道。
京大坂道(不動坂道)は
江戸期に入り整備された街道で町石道より短縮され近世の主要道となった。高野山女人堂からケーブルに沿って不動坂を一気に下り~神谷宿場~河根宿場~河南大和街道の紀ノ川の学文路の渡しに出る。
黒河道は
高野山役場の傍の黒河口女人堂~弘法大師廟の北側を抜け~高野三山の一つ揚柳山(標高1,008.5m)と摩尼山の間の黒河峠~粉撞峠~休校中の久保小学校の分岐~太閤坂又は戦場山コース~国木山(標高552m)の国木神社の麓を抜け一気急坂を下って行きます~賢堂集落の定福寺~河南大和街道に出て~紀ノ川の三軒茶屋の渡し場へ
以上、紀ノ川沿いの渡し場からの真田庵に関係した高野山への道です。
大坂城入城の道として、それぞれの在郷の人、特に高野山の僧兵が大坂城へ下った道でないでしょうか。
【3】 九度山から葛城山・和泉山系を越える峠道を探る
どの道を利用して真田庵~大坂城に入ったかは後述に記載するとして、その前に
紀州(和歌山)から大坂側に抜けるには、和歌山県の北側から奈良県の北西側には和泉葛城・大和葛城山系が縦断しておりその峠道を越えねばならない。昔から「葛城二八越」と呼ばれ厳しい峠越です。
入城の道としては関係がない道を含め、私が歩いた範囲で紹介します。でも関係がないといっても、それぞれの道はおそらく、高野山の僧兵、紀州雑賀党、根来衆、在地の人が大坂に参じた者たちが越えていった峠道であっただろう。
まず西からの道、記載している峠道は一応全て歩きました。
大川峠越街道(紀州街道脇往還・淡路街道)
和歌山城下~加太淡島神社~【大川峠】~深日~紀州街道へ。最も西の道です
西畑越街道
和歌山城下~南海加太線西ノ庄駅近くの上淡路街道の分岐が起点~【猿坂峠(申坂峠)】~泉南郡岬町多奈川駅西で大川峠越え道と合流。
東畑越え街道
和歌山城下~木ノ本の上淡路街道の分岐点~【木ノ本峠】~多奈川谷川で大川峠越えと合流。
紀州浜街道(紀州街道脇往還)
和歌山城下京橋~紀ノ川の北島渡し場~ここで前述の西への街道が分岐~【孝子峠】~深日にて前述の街道合流~淡輪~泉南市岡田浦で江戸中期以降の紀州藩主参勤交代の道の紀州街道に合流。
鳴滝越え
詳細な道がわからず歩いていません。
井関越え
上淡路街道六十谷駅東側の分岐~直川~【切通の井関峠】~鳥取ダム~南海尾崎駅・紀州浜街道分岐点。
近世の紀州街道・一部 熊野古道
紀州徳川家の江戸期前半は大和街道で松阪へ、江戸期中期以降は紀州街道で大阪湾沿いに天満へ。城下を出た街道は川辺で熊野街道と合流、中筋口延で上淡路街道と交差~【雄ノ山峠】~山中渓宿~信達大苗代で熊野街道と分岐~南海岡田浦駅の北で紀州浜街道と合流。
根来街道(三畑越え)
紀ノ川岩出橋の東側、岩出の渡しで左岸を東へ進む河南
大和街道、右岸を東に進む大和街道と分岐北へ~根来で上淡路街道と交差、根来
寺を抜け~【風吹き峠】~信達童子畑・進達金熊寺~熊野街道と交差~泉南市樽
井で紀州浜街道に合流。
粉河街道(五本松越)
JR紀伊長田駅より北1㎞余りの長田中、上淡路街道を起点として~桜池~【松峠~志野峠】~犬鳴山温泉~土丸~鶴原~熊野街道と交差~南海貝塚駅西の脇浜で紀州街道と合流。
葛城街道(粉河街道~塔原街道)
かつらぎ町大谷で大和街道分岐~広口~成高峯(809.6m)の北側~【葛城山越え】(858m)~水間嶺道と分岐~塔原~牛滝街道支線(槙尾道)を横断~土生町で熊野街道を横断~南海岸和田駅南西の踏切~岸和田城北側で紀州街道に合流。
父鬼街道(鍋谷峠越)
かつらぎ町穴伏で大和街道と分岐~串柿の里道の駅~【鍋谷峠】~父鬼~国分峠~JR鳳駅北側が起点。
父鬼街道、鍋谷峠越え・七越峠越えの道ももしかとも考えるが少し遠くて、峠
越が厳しいと脱出には遠回りで時間がかかる判断します。
父鬼街道は元々七越峠を越えていたが、明治になり鍋谷峠を越えるようになっ
たため、昔の七越峠道(未踏破)は取り残された山道となっている。
紀州に入り四つの道に分岐。1つは西国巡礼道から笠田に至り高野山へ。2つめは堀越観音から高野山へ。残り2つは
桧原越で槙尾施福寺と行者道から和泉葛城山への道。
以上前述した、これらの街道は、九度山からも遠く迂回していて、また浅野家城下
に近く、和泉で岸和田藩領内も通過する必要があり、実際歩いてみると翌日
に天王寺に着くのは無理がある。列記した各峠越えは根来衆や雑賀衆他在地の
人々が一旗あげようと幸村のもとへ、または大阪城へと向かった道であったと思
います。
紀州側は東西に交差している上淡路街道(加太~粉河)、大和街道、河南大和街道
(岩出の渡し~吉野)に合流しています。全ての街道を歩きました。
また一部東側(奈良県)からの峠道は
九度山の北側東西に流れる紀ノ川の上流(東)、和歌山に隣接している大和五条
(奈良県)の、
大沢越え街道(五条街道)
五条~大沢寺~【大沢峠(行者杉峠)】~石見川~観心寺~長野村(現河内長野)。その東には
千早越え街道(五条道)
天誅組の通った道でもある。五条~【千早峠】~千早村~森屋~富田林に至る。
五条はいずれも、徳川の松倉氏(後の島原藩主で天草の乱で改易)の監視が厳しく脱出道としてはむかない。
【4】九度山真田庵から大坂入城の道について検証します
九度山の寓居から大坂城までどの道を進んだか先輩諸氏の資料に基づいて、私なりに峠道を三つに絞りました。私は全くの素人で歴史研究家でもなく、趣味の域を出ない薄識ですが、自分なりにルートを歩いてみましたが確証もなく想像の域にすぎ
ませんので悪しからず。
この辺りから、信繁から幸村に改名しているようです。幸村一行は10月9日未明に九度山を出立、翌日10日に天王寺辺りで集合して身なりを整え大坂城に入ったとすると、少しでも浅野城下に近づかず、まして東の五条松倉領を避けて、九度山に近い紀ノ川を渡河しそのまま北上して、和泉葛城山系の峠を越えて河内長野付近へ抜けるのが安全かつ近道だった。
河内に入ると摂津の国、大坂城豊臣秀頼の息がかかり比較的安全であった。後に北条氏信が狭山藩主となりこの地に陣屋を構えたのは、大坂落城後の元和2年(1616)だった。河内の国から摂津の国に入れば安全領域に入る。
最終的には各ルートから幸村を慕い、または大阪で一旗揚げようとした在地の人たちが集合地の天王寺に参集し幸村の隊に入り大阪城への勇姿を想像するのが楽しい。
真田幸村の九度山からの脱出道は、私なりに以下の山越えの峠道ルートに絞られると思っています。
⓵ 滝畑街道(蔵王峠越え)
⓶ 高野街道(紀見峠越え)
紀見峠越ルートについても幾つかの道があります
⓷ 九重峠越え
九重越ルートについても2つの道が考えられます 九重越は私の新設 です、何故、幸村が歩いた峠越として先輩諸氏の参考資料に乗っていないかが分かりませんが、3つの中で私が強く思った峠越の道です
以上の3つのルートに絞り写真を交え紹介します。(参考までに)
上記記載した街道の峠越は全て歩います
九度山真田庵から真田幸村(今まで諱は信繁であったが、大坂入城をするにあたりから幸村と名乗ったようです)。
これまで、和泉・葛城山系の大半の峠越を実際歩いてうえで検証してきましたが、その中で私が決めた、幸村はどの峠越でまず河内長野まで脱出したかと判断しました。蔵王峠・九重峠越・紀見峠越えの3峠越です。
更にその中でも幾筋の旧道があるので、最終的にまとめ私の脱出道説を決めたいと思います。
その前に、河内長野から大坂城までは、豊臣の息がかかった領土であり、それほど難儀することなく進めただろう。ではどの道を進んだかについても実際歩いています。
西高野街道、下高野街道、中高野街道、東高野街道のいずれかを利用したことにほぼ間違いがないと思います。もちろん一つの高野街道でなく別々の街道が重複しています。
集合地点は、幸村のもとに集まる者たちを天王寺辺りであったのはまず間違いがないだろう。
四天王寺で隊列を整え真直ぐ北の大坂城にむけて、堂々と入城したことでしょう。
第二章
【真田庵からの各峠越の道】
真田庵からどの道を抜けて、大阪城に入城したのか、今となってはそれぞれの文献から想像するよりないが、幾筋かの旧道を想像しながら歩いたのでまとめてみました。
あくまでも私の想像ですので確証は何もありません。幸村は住み慣れた九度山を後に、南に聳える高野山に向かって礼拝し、北の葛城山系を越えて大坂城への死出の戦いに向かった。
真田庵より西に向かったとすると、紀ノ川の左岸(南側)を下る河南大和街道。または紀ノ川を川舟で下る。
紀ノ川を渡河して大和街道を西への道の3ルートがある。
前述したようにあまり西に進むと、大坂城への道が遠くなるし、浅野家の城下に近くなり危険度が増す。かつらぎ町より西の峠越は出来ない。
限度は、笠田穴伏の父鬼街道の鍋谷峠越ですが少し遠回りになります。妙寺からの滝畑街道(蔵王峠越え)の道が限度です。
真田庵近くで紀ノ川を渡り高野口からの九重峠越え(岩湧山の東)の道、または河南大和街道で学文路にて紀ノ川を渡河し山田からの九重峠越えの道。
真田庵から紀ノ川を渡り大和街道を東へ神野々から古代高野街道で御幸辻から紀見峠越えの道。
真田庵から河南大和街道を東に現在の学文路橋付近で渡河して。近世の高野街道で紀見峠越えの道。紀見峠越えには何筋かのルート道がある。
紀見峠越えの東には、五条の大沢街道(大沢峠越)、千早峠越の道で河内長野に出る方法もあるが反豊臣の松倉氏の領内で無理。
大きく分けて上記3街道が常識的と思っています。特に私は九重峠越えに興味を持った。
【真田庵】 禅名称院
かつての信繁(幸村)ら家族・主従が寓居した跡
真田庵の山門


境内本堂前に 真田昌幸公墓地 真田幸村公慰霊碑



本堂

真田庵より南側には丹生川の渓谷。紀ノ川や丹生川で幼子は水遊び、従者は水練をして身体を鍛えていたことでしょう川水は非常に綺麗

山門を出て東への道

山門を出て西への道

すぐ一筋北側の筋、河南大和街道の九度山の街筋。東への旧道

すぐ一筋北側の筋、河南大和街道の九度山の街筋。西への旧道

① 滝畑街道(蔵王峠越)の脱出道を歩きます

写真は大坂側から歩いているので少し、見づらいです。
真田幸村は真田庵から脱走ルートとして大坂入城の道を九度山から蔵王峠越えの滝畑街道を通ったとする説があります。距離も短く九度山の西よりの妙寺から北東への山越えで河内長野への道で、比較的に近い道で浅野藩の番所もなく手薄な街道であったと思う。
① 真田庵から丹生川を渡り、すぐ先、高野山町石道が下ってくる慈尊院の前の参道から紀ノ川の渡し跡辺りを対岸の 高野口に出て、大和街道に合流し西へのルート。
② 河南大和街道を紀ノ川の左岸を進み、右手に朱色の高野参詣大橋を見て600m程先、中飯降の渡し辺りで対岸に渡り、すぐ近くに大和街道が通じているので西へ。
③ 河南大和街道を更に進み三谷橋で、南(左)の天野の里から下ってくる三谷坂と合流して、三谷橋の直ぐ下流の三谷の渡し辺りを対岸に渡り、大和街道を妙寺で横断、北へ進む道。
④ あるいは九度山から紀ノ川を川船で下り三谷橋辺りに対岸に出るか。
和泉葛城山系の峠越で河内長野とかつらぎ町妙寺を結ぶ旧道です。東の紀見峠を越える高野街道と、西の鍋谷峠を越える父鬼街道の中間に位置する、峠越えの街道。
途中滝畑ダムが昭和57年に完成しています。旧街道沿いにあった滝畑村がダム湖の湖底に沈んでいます。
滝畑街道はかつらぎ町妙寺の中飯降にて大和街道と分岐して北に進む。JR和歌山線を越え小田井堰を渡りその先、京奈和自動車道を潜り左に池を見ながら緩やかな坂を上る。広野地区で農道を横断、左角に大きな堀越観音の看板が立っています。その先左右に池を見ながら進むと短野集落に入り観音寺を見ます。どんどんと蛇行をしながら急坂を登っていくと、左T字路に短野の標示を見て右に折れる。かなりの蛇行を繰り返す。かつての旧道は消失しているが、多分真直ぐ登っていただろう。振り返るとかつらぎ町や紀ノ川の遠望が出来る。谷川に沿って登り峠が近くなってくると、かつて消失した旧道跡が確認できます。
左に湧き水、結構地元の人々に利用され、いまも大阪側からもお店の水等に使うと言って汲みに来ているそうです。やがて右T字路に出て左に折れます。真直ぐ行くと堀越観音へ。左に折れて峠手前右に蔵王神社、朱塗りの鳥居が並び綺麗、この神社は修験者の人々の信仰も篤い。
県境の蔵王峠(標高560m)に着きます。かつては資料には峠から旧道が下っていたが、今は少しだけ峠の案内板の傍に旧道が残っています。少し探索しようと入っていきました、暫く旧道らしい綺麗な道跡ですが次第に荒れてきて遂には消失していました。
峠に戻り、先の蔵王峠橋を渡り下って行くと峠橋に出ますこの日は1月23日で頂上辺りの日陰には雪が積もっていました。
そして石峰橋、みょうがざこ橋を渡ると谷川に漠が見えます。滝畑地区から中之茶屋橋を渡り植林のされた綺麗な街道で心が和む。谷川には多くの小さな漠が水しぶきをあげて落ちています。やがて光瀧寺のキャンプ場と光瀧寺の名刹があります。参道を下り滝畑四十八瀧の説明を見た先マス・アナゴ釣り場がある。暫く進むと左に槙尾山施福寺への登り口の道標。
つり橋を見て西の村落を通り左に170段の天神社がある。宮前橋を渡り右に夕月橋を見て進む。
更に右手に岩湧山茅場(897.2m)の山頂が見える。滝畑ふるさと文化財の森センター内には、古民家が移築され、木食供養碑・望郷の詩・護郷の鐘・石碑群があります。その先、竜胆橋、清水橋、明神橋、潮降橋を渡ると、池畑第二隧道が正面にトンネルを潜る。弥勒橋、荷越橋と続け渡ります。振り返ると滝畑集落とダムの本体が遠望できる。石川の滝尻橋を渡り滝畑集落を抜ける。山林を暫く進み石川に沿って、内野集落を抜けてやがて汐滝橋で石川の絶壁が凄い。
高向の情緒ある街並みに入ると高向神社が建つ。大津街道と交差した近くに野作薬師寺、西代観音堂、西代神社が街道にあります。やがて分岐の角にさくら池地蔵尊の道標を見て分岐を右に、原町6丁目で南北に通る西高野街道の交差点を横断。
ここで左に折れて西高野街道に引き継いでもいい。
その先南海高野線を高架で越えると、東側の段丘下に170号線の東高野街道が見えます。その先で右から東高野街道が合流、自然石の道標。
ここで滝畑街道は終わります。
東高野街道に引き継いでもいいが少し遠回りになる
幸村が歩いたとするとどうだろうか。
以上が 滝畑街道(蔵王峠越)から河内長野までの概略の道です。
上記道筋を以下写真で見ていきます
真田庵を出て河南大和街道を西に進むルートで、慈尊院の街並みを進むと、丹生川に架かる橋を渡ると、右に道の駅があります

暫く慈尊院の街並みを進んでいくと、赤い欄干の小さな慈尊院橋に出ます

越えた左手に石垣が積まれたところが 慈尊院 です

町石道の登り口で、慈尊院の境内に入ると中を抜け、石段を上る右手に180町石があり、1町石の高野山壇上伽藍まで建っています。更に境内から石段を上り、丹生官省符神社に参拝して高野山町石道を登ります。
左、慈尊院の山門、その正面の北への道を200m程下ると紀ノ川手前の信号のある車道に突き当たります


横断した車道の交差点の向こう側右角に、下乗石建立跡の石碑 が建っています

慈尊院の渡し場跡 今はその痕跡は残っていませんが、私の小学校低学年の頃は残っていて、何度か乗った記憶があります。幸村もこの辺りを渡ったかも

渡し跡からみる慈尊院の山門

対岸は支援学校の西側になる。紀ノ川対岸から慈尊院の渡し跡を見る。対岸に、慈尊院、その上に紙遊苑、町石道の雨引山

山門前を更に暫く西に進と、右に朱色の高野参詣大橋を見て、河南大和街道を更に西へ、300m程でゴルフ練習場があります。その手前辺りが、中飯降渡し場跡 です。(雨引山の中腹からの写真)

中飯降の渡し跡の対岸の写真です。西から東を見たところで橋を渡った正面右、対岸の渡し場跡付近、右は 大畑才蔵が造られた小田井川

渡しの場跡の 繋ぎ石 が草に覆われて残っている

紀ノ川の対岸を見る、右上にゴルフ場のネットが見えます

渡し場跡

繋ぎ石から150m程西に行くと、大和街道が丁度右の倉庫建物の向こう側から。右からきて右に折れて西への街道、合流します

元の対岸に戻り、紀ノ川を右に河南大和街道を西に進んでいくと、右川沿いに街道名残りの大木が立っています

やがて右の三谷橋の所で十字路になっています。対岸の小さく見える白いのが、観音像です。橋の左(下流)100m辺りが、かつての三谷の渡し跡です。

三谷橋南袂の河南大和街道の旧道を入る。左側に並行して370号線が走っています

150m程入ったところ、右に 渡し場跡にお堂と常夜灯 が建っています

真田幸村が滝畑街道を進んだ場合、三谷の渡し場跡辺りを渡河するか、川舟でこの辺りに着いたか、またはすぐ慈尊院辺りを対岸に出て大和街道を進んできたか。興味の湧くところです。今となっては分かりません。
徳川には向かった大坂方の武将ですから、文献は抹消されたことでしょう。
渡し場跡の西側の河南大和街道の旧道を振り返ったところ。天野の里から下ってきた三谷坂もここが起点として合流しています

対岸へは前述の十字路を右に折れて三谷橋を渡ります。
三谷橋から、100m程下流の三谷の渡し跡を見る

三谷橋を渡り堤防を左に折れた、100m程の所から、対岸の三谷の渡し場跡を見る。

旧道でないが三谷橋から北に進むと、大和街道との交差する十字路に出ます。
また紀ノ川の対岸に出て大和街道を西に進んでくると、前述の中飯降の渡し跡対岸から、さらに右手に和歌山医大紀北分院を見て、旧道の妙寺の街並みを進んでくると、右手に精肉店のある十字路に出る写真です。大和街道は前方から手前に、十字路向かって右に行くと三谷橋。向かって左に行くのが滝畑街道です

300m程で信号交差点国道24号線を横断し、すぐにJR和歌山線の踏切を渡り、右に道なりにカーブしながら坂を上り小田井川に架かる橋で左に折れる。橋の下の川は小田井堰で、この川を造った大畑才蔵によりどれだけ昔の人は潤ったか素晴らしい遺跡、

北への道

その先、北に暫く進んでいくと京奈和自動車道を潜ります

左に池を見ながら坂を上っていく

広野地区の農道の信号交差点を横断

左右に溜池

続けて2つ橋を渡る弁天谷川に沿って登っていきます
短野集落に入ると 観音寺

振り返るとかなり登ってきました。谷間を蛇行しながら登ってきたのが判る
道は左T字路となり左から上ってきて、手前(右)に折れる。「短野」の立て看板


かなり蛇行の繰り返しで上ってきた、かつての旧道はこれほど蛇行しなかっただろが、旧道の痕跡は分からないので、61号線を登ってきた

振り返るとかつらぎ町、紀ノ川が見える更に谷川が付かず離れず街道に沿っています

更に蛇行しながら登るが蔵王峠も近くなってきた。本来の旧道は蔵王峠からこれ程ど蛇行せず下っていたようですが、今は廃道となっていて分からない。多分この辺りに下りてきていたのだろう。
右に急カーブした右手に、旧道らしき跡が残っています。(正しいか分かりませんが)

その先で左に湧き水が、結構知られていて車で汲みに来る人が多い。特に大阪あたりの喫茶店等の飲み水として利用されたが今は水が少ないようです

そのさきで堀越観音右への案内標示がある、右T字路の分岐に出ますので左に進む。右手に 蔵王神社 真っ赤な鳥居が建ち並ぶ、修験者の神社

峠から蔵王峠橋を振り返る。手前が蔵王峠

この案内板の横から下る旧道跡があります。
県境の 蔵王峠(660m)
少し旧道跡が残るようなので探索

蔵王峠で和歌山側の旧道に挑戦(下った先で旧道は完全に消失)
61号線はここで右にカーブして登るが、旧道は今歩いてきた下の前述の辺りに真っ直ぐ一気に急坂を下っていたと資料にあるので挑戦。確かに旧道跡らしい道があります。どこまで行けるのか分からないが、少し旧道に挑戦してみることとした。
蔵王峠の標識に向こうがわに旧道跡が
真っ直ぐ下る旧道はしっかりした道のようだ、落葉で地面もやわらかく歩きやすい


でも100mも行かないうちに、だんだん道が怪しくなってきました。左が急傾斜で滑り落ちないよう木や枝につかまるが、この時期の枝はもろく危険

もう道とは言えなく、歩いた跡もなく四苦八苦


一応道案内の紐はつけてくれているところを見ると、かつては歩けたようです

かなり下ったが、ついに道が分からなくどこを歩いているのも分からないので、これ以上無理をするといけないので、引き返すこととして正解。後で地図を見ると、もう少し右を下ると果てしなく山を下り迷ってしまっただろう。またもう少し左に下る道があれば、下の柿畑に出ることになるが紙一重。苦労して引き返すがこれもまた大変、でも正解であった。元の蔵王峠の案内板の所に戻りました。峠直下の和歌山県側は上記の状態。

峠より進んでいきます

峠の先で道が分岐西に進むと、堀越観音への道

峠口橋を渡ります。大坂側は雪が結構残っているので滑りやすく注意、この先は谷川沿いに暫く下る。
次に石峰橋を渡り、街道の名の滝畑地区です

橋より見る滝この先車止めのある、中之茶屋橋を渡り谷川を右に下る


この渓流には滝が結構あります

左手に光滝寺キャンプ場

近くに名刹、光滝寺 があります

お寺の右下には61号線の街道が、相当高いところにお寺があります

左手に、石川の瀧昔から滝が点在し、滝畑四十八滝で知られています。

橋を渡って川の東岸を北に進む、橋を渡った右側に観光農林組合マス・アマゴ釣り場。ハイキングコースとして沢山の人が利用されている。

左対岸へのつり橋が架かる。西の村集落を通る左への道は、ポテ峠から槇尾山施福寺への道

暫く歩くと、滝畑ダム湖が見えます。しいたけ栽培所の所に出ます。
ダム湖の湖底に沈んだ集落・旧道は左後方からこの辺りに出て、右の旧道に進んでいた

天神社からダム湖、この底にかつての集落が沈んでいる

天神社滝畑七ヶ村の氏神で、もと大梵天王社と呼ばれていた

その先で宮前橋を渡り、ダム湖に架かる夕月橋を右に見て進みます。右手に 岩湧山茅場(標高897,2m)の岩湧山山頂にひろがっている、この山頂の茅場を所有し利用している滝畑地区では、「キトラ山」と呼んでいる。茅場は山頂の北側斜面に東西約700m、南北約100m、比高差約60mで広がっている、面積は約8ヘクタール。

滝畑ふるさと文化財の森センター、民家が移築され展示されている。民家棟・旧梶谷家「妻入横割型」が特徴の滝畑型民家と呼ばれている。18世紀の中頃の建築で当時の庶民の暮らしを知るうえで重要な建物。屋根には「キトラ山」と呼ばれている岩湧山山頂の茅が使われている坂の上からの新しい滝畑の集落、当然建物は全て新しい眼下に見える、橋は夕月橋前方の蔵王峠を越えて、手前に歩いてきました

湖底に沈んだ集落、新しい住宅の滝畑集落。旧街道は湖底に、ダム湖を右に見ながら、この先、龍胆橋・清水橋・明神橋・潮降橋を渡っていきます

ダム湖にともなう右の鋭角に下る、旧道は廃道となっているので、池畑第二隧道を潜ります。

トンネルを抜ける前に、右の旧道を下って行きます(寄り道)
旧道はダムが出来るまではそのまま谷間を進んでいた。正面向こうから歩いてきた地点。新道は右、旧道は左に下り滝尻集落を通り、ダムの擁壁近くまで行けます。擁壁の手前まで旧道を進みました。その写真です

坂を下ると、滝尻バス停で滝尻集落

バス停の先で石川の滝尻橋を渡り川の西側に出る

数戸の集落で寂しい、右に古風な民家が残っています

旧道を進んでいくと正面に大きな滝畑ダムの本体が見える

かつての旧道は消失して立ち入り禁止、でも万一ダムが決壊したらと思うと—–
先祖が残していった、土地建物にはどうしても愛着がある

元に戻ります気持ち良い山林その先で苔むした上出橋を渡ります

前方に日野の集落、左の石川に沿って緩やかに下る

河内長野市日野地区の風景 日野不動尊を通過します

左は石川の絶壁

その先で汐滝橋を渡る。古保バス停通過し高向小学校を見て、河内長野高向局の前の道、右に高向神社を見る

高向の豪壮な建物と高向の集落街並み

先で広い交差点を横断、左に長屋門、右に上野町会館の間を通る。野作の町並みを抜ける
信号交差点で170号線を交差する六差路にでる。西代区会館、交差点南東への細い道、大津街道が交差する。
角に西代観音堂

その先、右に長野小学校、更に右にJA大阪南、右にロイヤルホームセンター、その先で分岐を右に、丁度分岐の角にさくら池地蔵尊、更に進むと左に関西スーパーがあります。街道より左に関西スーパーがあり、街道沿い左には祠左から鋭角に細い道が合流する角

原町6丁目で南北に走る、西高野街道 に交差する。北西角に常夜灯,滝畑街道は手前に歩いてきた


西高野街道の北の筋

ここで滝畑街道を歩いた場合、西高野街道に引き継いで幸村は進んだかも。またはそのまま西高野街道を横断し、原町を進んでいくと東側の段丘下を170号線・東高野街道が走る、かなり高低差がある。

滝畑街道起点で 東高野街道 に合流。
正面左右に分岐する、左の道が東高野街道。滝畑街道は右の道から下ってきた。
東高野街道は石川の河岸段丘を下り河内長野市街地へ。滝畑街道は段丘上を進む。
滝畑街道から幸村は東高野街道に引き継ぎ、古市まで行ったのだろうか。遠周りになるので通らなかっただろう。
起点の分岐点に 自然石の道標


滝畑街道(蔵王峠越)は以上の通りです
私は、もし幸村がこの道を北らとしたら、西高野街道の辻で左に折れたと思っていますます。
② 高野街道紀見峠越本道と脱出峠越の幾道かを検証

真田信繁(幸村)九度山の脱出道として通説となっている道。
紀見峠越えには何筋かの道があり、どの道を歩いたか確証はありませんが、幾筋かの旧道を歩いて確認しました。紀見峠越えの道の概略をまとめてみました。
⓵ 真田庵を出て九度山近くで紀ノ川を渡河して北へ、高野口の蛭子社前で西からの大和街道に合流、大和街道に重複して東に進む。紀伊山田駅近くの辻で左(北)に折れる。
⓶ 真田庵から河南大和街道を東へ、学文路の渡し付近で渡河して北へ国道24号線を横断、左に紀伊山田駅を見て線路の高架を越え大和街道の辻に出る道。
⓵⓶ 同じ道でこの辻から出塔・菖蒲谷を通る古道の高野街道で御幸辻に抜けた。大坂の陣時期ではまだこの道が主流であったと思います。
⓷ 今回まず先に、よく知られている高野街道を歩きます。⓵⓶が合流した神野々の辻を北に進まず、大和街道を更に東に市脇から東家の十字路へ進み右からの高野街道と交差、大和街道は真直ぐ進むが高野街道は左(北)に折れる。(大和街道のファイルに詳細)。
あるいは真田庵を出て河南大和街道を東に、学文路の渡しを左に見て右から高野山から下ってきた不動坂道と合流、更に東へ南馬場・清水・賢堂で高野から下ってきた黒河道と合流して、橋本の三軒茶屋の渡し付近を渡河して高野街道を進む道。(河南大和街道のファイルに詳細)三軒茶屋の渡し跡と対岸の東家の渡し場跡には今も常夜灯が建っています。東家の渡し場跡は紀ノ川の支流、橋本川が合流する地点です。
国道24号線を横断民家の間の旧道に入る。旧道を少し進むと道標の立つ先で前述の東西に通る大和街道と交差します。この辺りはかつての橋本宿の西端辺りです。
その先でJR線・南海高野線の高架を潜り橋本川を右にして北へ、京奈和道を潜り小原田地区を進みます。
後述する御幸辻駅の東側の赤い小さな鳥居の辻で、左から古道の高野街道がここで合流します。(幸村が紀見峠を越えたとしたらこの古道の方が有力)
橋谷地区を進み左に高野山五里石を見て、国道を左に分け右の大福寺への道に入る、右手奥の蛭子神社をみて、左遠望に南海林間駅が見えます。慶賀野の旧道を通り、右の地蔵堂の辻で371号線に合流。300m程進んだところで左紀見峠駅への旧道があります。真田幸村が越えたかもしれない旧道の一つ(後述します)。
この先の矢倉脇まで緩やかな坂を進む。
(1) 本道の紀見峠越えの道を、九度山真田庵から矢倉脇の道を紹介しますが。九度山からの脱出道としてこの旧道ではなかったと私は思っています。
真田庵を出た幸村は河南大和街道を東へ、学文路の渡し跡 を左に見て
右から高野山女人堂からの近世の 高野街道 が合流します

清水地区の立派な旧家が残る街並み

左にお堂と常夜灯、この少し先に右から、高野山から下ってきた 黒河道 が合流します

紀ノ川の三軒茶屋の渡し跡にでます

渡し場跡から対岸の東家の渡し跡を見る、そして右の橋本橋に迂回します

橋本橋の北側付近が藩政期に栄えた橋本宿。紀州藩の江戸時代中期までの参勤交代の街道、大和街道と高野街道の交差する橋本宿跡で本陣や藩主の紀州藩の茶屋御殿も川沿いに建っていました。
橋本橋を渡りすぐの国道24号線に出て左(西)に折れて100m余り先で24号線の橋本川に架かる橋を渡る。左へ折れた橋本川が紀ノ川に合流する地点が渡し跡です。常夜灯が建っています

紀ノ川対岸の三軒茶屋の渡し場跡を見る。背後の山から黒河道が上っている

東家渡し場大常夜燈籠
高野街道は京都・大坂・堺からそれぞれ、東・中・下・西高野街道を使って河内長野付近で合流し、紀見峠を越えて御幸辻で、古くは西に折れ菖蒲谷から神野々を抜け高野口から紀ノ川を渡り慈尊院を経て、町石道で高野山に登っていた。その後、橋本が開けることにより、御幸辻から南下し橋本に至り、ここから紀ノ川の渡しで対岸の三軒茶屋に出て、河南大和街道に合流して西へ進み、清水から学文路に出た、途中清水からは高野山奥の院の近くに出る黒河道があった。
学文路から藩政期に入り高野山の表参詣道として学文路口がにぎわった、更に河南大和街道 を西に進み、九度山の街中を進み慈尊院に出ると町石道の登り口がある。
東家の渡し場跡から北に24号線に出たところで、建物の間の細い道が高野街道の旧道です

信号交差点が東西の 大和街道 が交差する。振り返ったところで、向かって分岐の左の細い道が渡し場に通じている旧道。左に大きな道標があります。信号右(西)からが高野口からの大和街道です。左はかつての橋本宿を抜けて五条方面へ
高野街道はこの先、JR和歌山線・南海高野線の高架を潜り橋本川に沿って進み。御幸辻地区に入り、菖蒲谷川が左から橋本川に合流してきます。
暫く北に進むと、左から高架を下ってくる新しい道に信号交差点で合流します。車道を右に分け左の旧道に進み暫く集落を進んでいくとやがて南海御幸辻駅の南東近くに出ます。

小さな赤い鳥居の前の辻にでます。左から紀伊山田駅からの古道の高野街道(後述します)に合流します。
もし幸村が通ったとしたら、古道でこの辻に出てきたと思っています。

この辻で一旦中断します。
(2) 紀見峠越え本道より、それ以前の古道高野街道でこの辻に出てくる、もし紀見峠越を歩いたとしたら、私はこれからの載せる道でないかと思っています。
真田幸村 九度山脱出の道については、どの資料も近世の本道の高野街道の紀見峠越が通説である。その件については何も異論を申し上げるつもりはありませんが、ただ紀見峠越えの山道にも幾筋かあるので検証しながら歩きました。
(A)真田庵を出て西の慈尊院の渡し付近から現在の九度山橋辺りで対岸に出て、北へ進み高野口名倉の蛭子の辻で大和街道に合流して、重複しながら東へ、神野々のJR紀伊山田駅北側の十字路にでる道。
(B)真田庵から河南大和街道を東に進み、現在の学文路橋の少し上流辺り学文路の渡し付近から渡河して、紀北工業高校辺りを北へ進み、紀伊山田駅東側にでて神野々の十字路で大和街道と交差する道。
(A)(B)とも十字路を北に進む、柏原集落を右手に山田川にそって出塔地区へ、山田川を渡ったすぐ先で、古道は分岐します分岐する角に自然石の道標が古道を偲ばせてくれま。どちらも先で合流しますが、左の道は更に山田川に沿って山田集落から地蔵寺を回り菖蒲谷に抜けています。右の道は出塔集落に入り北に進み菖蒲谷に至ります。後者の古道は前者より近道で急いでいる幸村にしたら後者を選ぶでしょう。
菖蒲谷から菖蒲谷川に沿って東へ、現在の左の柿の木坂、右のさつき台を抜け御幸辻駅の南側の南海高野線を潜ると、すぐ先の変則十字路で右からの高野街道の本道と合流します。
その右角に小さな赤い鳥居と祠がある辻です。ここから左に本道と重複します。
今歩いてきた近世以前の古道高野街道は御幸辻で近世に入り主要道となった高野街道に合流します。私見として真田幸村が歩いたとしたら、九度山から橋本の渡しを付近で渡河して紀見峠に行くより、九度山(慈尊院)・学文路辺りで紀ノ川を渡河して御幸辻に出ていたと思います。
【高野街道初期の古道】を少し写真で紹介します
(A) 真田庵からAを進むコース。
真田庵の紀ノ川の川向で渡し場跡、堤防を下った右はきのかわ支援学校です。確定は出来ないが渡ってとしたらこの辺りから、右(東)の九度山橋辺りか。北へ進む

堤防を進むと右に県立きのかわ支援学校がある、私たちのかつての中学校跡、中学校の時、紀ノ川が決壊して水害となったのが憶えている。そこから幼少期の時分に、学校の南側から渡しで慈尊院へ渡ったことがかすかに記憶の中にあります。
対岸が慈尊院、正面の山を慈尊院から急な山道を登り、雨引山の向かって山頂近くを右(西)から裏側を回り東に進む高野山への町石道。天気であればよく見えるのだが

堤防から左斜め後方の眺め、左に見えるのが九度山橋で、その向こう側の街中に真田庵があります。

この先、旧道は消失していて分からないので、堤防を東に歩き九度山橋に出ました、橋の袂を左に折れて南に進みました。

この建物、お風呂屋さんだったかチョット思い出せないが、今は取り壊しています

暫く進むと信号交差点を横断、真直ぐの町並み

今は小田井川はコンクリートで蓋をしているが、かつては橋があって、その親柱が残っています

直ぐ先、国道24号線の信号交差点を横断します

100m程先右に 垣花大師のお堂 お堂の横に 嵯峨天皇腰かけ石


旧高野街道の街筋を北に進みます、かつては町筋も賑やかであったが、今は開店している店も少なくなった

やがて少し広くなった十字路に出たところを振り返る

交差点左角にある名倉(蔵) 市場蛭子神社 名倉市場を守護する神社、名倉村は高野山領荘園内でも古く村落も鎌倉時代から開村されていた。
この辻、西から 大和街道 が合流してきます。暫く重複して進みます
西への大和街道の街筋

十字路の辻を真直ぐ進みます。今ではなんでもない坂ですが、この坂を昔から「ばばたれ坂」とよばれていた、多分、牛馬がこの坂がきつく、ばばを垂れながら上ったところからの名前であろう。
この筋は,よく街道の情緒を残す街並である

坂を上り切ると五差路の辻で、右の真直ぐに道を進む。

右角の左に 信太神社参道の石標 左に行くと高野口駅

100m余り先でJR線の踏切を渡りすぐ右に折れます。振り返ったところ

踏切の西には高野口駅、JR線が付いた当初は高野山への参拝客が、高野口駅で降りて紀ノ川を渡り、慈尊院から町石道を経て高野山へ参拝をする人がすごく多かったと聞いていますが、南海線が出来てその必要もなくなりました。駅前にはその当時の立派な旅館があり、今も旅館はしていないが文化財として残っています。
左に石の 祠

分岐を右に緩やかな坂を上っていきますと左に
不老の瀧井旧蹟
弘法大師、高野山開創じょ砌、八町四方の伽藍でありし名古曽廃寺に錫を留め万民の浄財福を祈りて、薬師如来の霊像を刻み、身とこころの病患を癒す不老の浄楽を残せりと伝う。

すぐ右に弘法大師 新規上人霊跡 不老山瀧井寺

坂を上り切ると十字路に出て左に折れます

100m程先の十字路を右に折れますが、十字路正面両側に 住吉神社参道の灯篭二基があります

参道50m程先右に 住吉神社

元の参道居る口に戻り、東に100m程進むと、更に十字路に出ますので左に折れます
そして100m程進んだ左に
名古曽廃寺跡のお堂
白鳳時代の寺院跡で、塔跡と金堂跡が確認されている。法起寺式伽藍配置と感がえられている


さらに進んでいくと左に 石標一里松跡 和歌山城下京橋から「10里四方ところ払い」の罪人はここで解き放されたという。
その背後に入った小高い処 山彩壺出土地
昭和38年この地の柿畑から白鳳時代の三色の器の高さ約22cm、最大直径約27㎝の三彩壺。骨蔵器で中国の唐三彩の技術で作られたもの、重要文化財として国立京都博物館に保管されている。

その先、橋を渡り交差点を越えて進み、信号交差点を右に折れて、数十mで左に入ります
左に 応其三社太神社

やがて右から前述の道が合流します、ふりかえったところ

伏原地区を進む、雨は止む気配もない

右の吉原への道、上に見える堤がひきの池。上り口に 道標「一言主神社」

左角に新しい大和街道の道標

少し先で吉原川に架かる橋を渡ります

150m程緩やかな坂を上ると、左に折れる道があります。九度山慈尊院から紀ノ川の対岸に出て大和街道を東に進んできた場合は、神野々の十字路(紀伊山田駅北側の)手前200m程のこの辻を左に折れるのが便利、角に 道標「子安帯解田和地蔵尊」正面の道は大和街道


もう少し進んでみます、左の鳥居のある広場で雨絵が降っているが炊き出しのお祭り

橋本山田郵便局が左に

学文路渡し跡付近からきた旧道は右から合流します、この十字路の辻、大和街道は真直ぐ進みます。高野街道古道は十字路を左に折れます

この辻で高野口の渡し跡からの古道を一旦中断します。
(B)真田庵からBを進みます
高野街道古道のもう一つの道、真田庵を河南大和街道を東に進み、紀ノ川に架かる学文路橋に進みます、学文路橋の南詰を100m程行くと、右手は南海高野線学文路駅があります、この駅の東側に極楽橋から江戸時代の本道ととった近世の高野街道が右から下ってきて、河南大和街道と合流して東に折れて三軒茶屋の渡し跡へ進んでいました。
学文路駅の南、紀ノ川を渡る学文路の渡し跡があった。
この付近を幸村は渡ったかもしれない道、
紀ノ川を渡り振り返ったところです

学文路橋を渡り南詰の堤防に出て、暫く堤防道を東に進む右の河原は神野々緑地、対岸は清水町・学文路地区です
堤防を振り返ったところ

300m程進んだところで堤防を右に、左への道があります、多分このところが学文路の渡しの北側の跡と思います
分岐の辻を振り返る

手前に入ると、木に覆われたトンネルのような舗装道があります、七から振り返ったところで、このような道を100m程進みます。入り口を振り返る

このような道に変わります

木に覆われた薄暗い道を抜けたところです。振り返る

抜けたところで少し左に入ると 光三宝荒神狩場明神
白河法皇御盛見 光三宝荒神狩場明神の標示がある

石造り物





紀北工業高校が左に

ブロック塀に囲まれた 祠

左角に 祠

子どもだんじり祭りに沢山人が出ています。道は曲がりくねってますが、かつて高校の敷地内を真っ直ぐ渡し場に進んでいたのだろうと想像します

岸上保育所の前を進み岸上地区を進みます、そして細い道を100mほど進みます。振り返ったところです(逆に写真が撮れているので分かりにくいと思います)

やがて集落を進んで、国道24号線に出るので横断します、横断した突き当り、JR紀伊山田駅です。
振り返ったところで、向かって正面2階建ての民家の左からの道を出てきました

陸橋より左を見るとJR紀伊山田駅

陸橋を渡った数十mの交差点が、大和街道との合流辻です

少しまっすぐ進み振り返ったところで、大和街道との交差点ここから高野街道は分岐する、真っ直ぐ進み24号線を横断する道は、紀ノ川の学文路の渡しで高野山への登る道。右は、大和街道(当時は南海道であったかも)で高野口から紀ノ川を渡り慈尊院に出て、町石道を進む古道。

前述の古道とここで合流して、ここから先を進みます
すこし先左の角に立つ神野々入り口の明治23年の 道標「万部為往来安全也」
この辻で、左からの合流する道が前述した高野口から大和街道を進んできて、左に分岐してきた道が合流する


振り返ると、左の道が学文路への高野街道、右の道を進むと大和街道に突き当たり右に折れて、高野口から慈尊院への道
100mほど先から分岐する辻を振り返る

左の山田地区公民館を過ぎた左奥に 六郷極楽寺

旧家が残る旧道を進んでいく

京奈和自動車道の高架を潜り振り返る

右に大きな 宝篋印塔と祠

左奥に 三輪神社

左高台に西部小学校が見えます

その先左に出塔農事集会所があり十字路を左に入っていくと 薬師寺

薬師寺の東北の山裾に見える うぶすな神社

橋の方向を見ると大きな屋敷が見えます

先ほどの凄い大きな旧家が土塀に囲まれて見える。多分庄屋跡だろう

出塔地区に入り山田川を渡ると、分岐左の広い方の道は子安地蔵寺の方への道、右への上る道がある近道の古道、先の菖蒲谷で合流します
右への道を進みます。分岐の間の左角に 自然石の道標 「右 大坂道」
この右への道標の道は、後日調べて分かったのだが、出塔の集落から菖蒲谷の集落を抜け御幸辻に出る旧道で、子安地蔵寺を通らない近道。道標があるということは右への道が初期の高野街道と思っています。幸村が通るならこの道を抜けたことでしょう

季節によっては草で隠れて道標が見えなくなっていた。右への大きな家の方に上っていきます

大きな家を右に見て、左にカーブして進むと更に分岐しているので右へ

その先でまた大きな家の手前の細い道を左にカーブ

左にカーブして少し進むと十字路に出ます。正面の建物の間の狭い道を入る。

直ぐに道なりに右へ進み左にカーブします。その先で車道に出て右に折れますが。
往時は真直ぐ菖蒲谷の集落に下っていたと思いますが、古道はすでに消失しています

止む無く右に折れて車道を暫く上っていきます

坂を上り、左を見ると下って行く道に出ます。菖蒲谷の集落へ真直ぐの道筋、手前民家の左辺りに前述の消失した古道が来ていたと想像します。菖蒲谷の集落内を進んでいくと、子安地蔵寺の筋に出ます

ここでまた、子安地蔵寺を回る道を参考に進むので、元の道標のある分岐に戻り左の道を進む

農道の信号交差点を越える

左に塚月酒店がある

山田集落の道、大きな古民家が沢山あります。この先の子安地蔵寺や一言主神社への参拝の道でもあります。

坂を上る途中谷川を渡るがその手前右に 石碑

左手の山田川に沿って進んでいくと、十字路に出て左の道は一言主神社へでる道です。御幸辻へは十字路を地蔵寺の案内通りに進みます。幸村大坂城入城の道に、私の新しい見解に九重峠越の調査結果があり、この一言主神社の先についてその時に検証させていただきます。(後述します)
やがて子安地蔵寺の横に出ます。高野山真言宗易産山子安地蔵寺
本尊は地蔵菩薩で一切女人安産御守護の為天平九年(737)に僧行基が安置したと伝わる。堂宇は天正九年間に兵火で消失したが、正保五年(1647)紀州徳川頼宣により再興され現在に至る名刹。このお寺にお参りする旅人は、この古道を進んだことだろう。

子安地蔵寺から菖蒲谷の集落、この先進みます

正面に子安地蔵寺が見えるところで振り返る

安産子綬祈願等の参拝者は絶えることがない。近年は「紀伊ノ国十三佛」「関西花の寺」の各霊場として参拝者も多い。そのすぐ先で、前述の菖蒲谷を通ってきた古道が右から合流してきます。

その角に 道標 があるが読めない「右・・・・・・・」

その先道なりに暫く進みます、新しい柿の木坂バス停交差点を横断します。
やがて南海御幸辻駅の南に着き、右からの高野街道に合流します
【高野街道初期の古道】まとめ
大坂方面からくると御幸辻駅東の道標のある辻(朱色の鳥居)で分岐、右に進む道。
この先、西に進み菖蒲谷から橋本市の西北部神野々に抜け、高野口で紀ノ川を渡り
慈尊院から町石道を大門へ登る高野山詣での表参詣道であった。中世初期ごろになると、神野々で紀ノ川を渡り、学文路から河根を経て不動坂を登る参道が開かれた、学文路口(不動坂口)である。しかしまだ主流は町石道であった.
高野街道が高野詣での主流参詣道になるのは、近世に入り応其上人によって(1585年頃)橋本の街が開かれ、主要参詣道は橋本宿を経由して、清水から学文路を通り女人堂へのコースが主流となって来た。
そのようなことで、この分岐点で以前主流となっていたコースの道をたどりながら歩いてみました.
初期の高野街道と高野街道が合流する辻

この先は高野本道と重複して進みます
分岐点に 道標 「子安帯解 田和地蔵尊 従是十三町」「かふろへ出る道なり」

祠の前の橋谷の集落を北に進みます


橋谷橋を渡る

その先左の民家の間の細い坂を上ると西福寺

六地学園があります

その先で橋谷大橋の高架を潜ります。振り返ったところ

高架を潜ると右の国道に合流します、すぐ左に 本門佛立宗清泰寺

少し進むと、高野山五里道標石 が左にあります。北に進んでいきます

その先左に入る細い旧道があります

暫く進んだ先で、右の国道に合流して、国道の反対側にでて旧道に入ります。右の高台に大福寺が見えます

旧道に入って坂の上から国道を見たところ

大福寺の下の旧道

街道から右山裾に慶賀野蛭子神社を見えます

左(西)には林間田園都市駅と高いマンションが見えています

慶賀野集落の細い旧道を進んでいきます

広い道路に出る右に 地蔵尊のお堂 があります

交差点に出たところの左の旧道を振り返る。左の国道に合流します


ここからは前述のとおりです
この先の紀見峠越が幾筋かに本道から分岐している迂回道があります。どの道とか確定は出来ませんが順次歩いた道を紹介します。幸村も紀見峠越をしたなら、この中に含まれていることだろう。
この信号で右からの車道に合流する慶賀野緩やかな坂の広い車道を上っていきます。この先の矢倉脇で紀見峠を越えない古道で役の行者の修行の人々が利用したと言われる行者道・巡礼坂・馬こかし坂(後述します)があります、幸村も歩いたという説を唱える資料もあります。私も個人的には紀見峠を越えたとしたら宿場内でなく、行者道が面白いと思いました。
(2) 本道の紀見峠越を進む
沿道の桜満開です

矢倉脇で左から右に歩道橋で371号線を東に横断。正面に紀見峠の下を抜ける紀見トンネルの入り口が見えます。正面の山が紀見峠越えです。東(右)に坂を上る右手一帯に紀見ヶ丘住宅地が広がる。
正面向かってトンネル左の民家辺りから一気にトンネルの上を登る馬こかし坂と、更に左側を越えていく巡礼坂、更に写真に写っていないが左に行者道。

桂本に入り左手に紀見トンネルが老朽化したので、新しい天見紀見トンネルが出来てます。その先、左にお寺が見える横の細い道を上っていく

右に続いて 葛城神社 右からの旧国道に合流して、道なりに峠への旧国道を右にカーブして進む
神社の歴史は古く、正平四年(1349)頃、戦火により焼けその時に古文書も焼けてしまったので創建等わからない。紀伊見峠の山麓にあり高野山に至る街道として古くから知られてきた。当神社は牛頭天王社ともいい、除疫神として京都祇園社(八坂神社)が総社である。最近まで祇園社の紋が胡瓜の切り口に似ているところおから胡瓜を食べなかった風習が残っていた。

境内のムクロジ樹高29.7m幹回り4.2m、高知県須崎氏勢井白王神社のムクロジに次いで全国2番目

右にカーブして200m程先で左に旧国道が急カーブ地点で分岐、旧道は右の細い山道に入る。建物の向かって右を、旧国道は左に大きく蛇行しながら迂回しています。

今はあまり利用されていない道のようですがでも旧道跡も残っている

暫く歩くと左下に旧国道が並行して走っているのが見えます。振り返っています

坂を上り切る角に民家。そこで紀見峠の左右の街並みに出ます(宿の南寄りに)

坂を上ってきて宿場に出てきた辻(向かって左)で、左の道が出てきたところ

辻を右に折れた左すぐに紀見峠宿時代からの丹波屋

高野街道紀見峠宿の宿場の面影が残る街並みを進みます


宿も北の端に架かる、岡潔生誕地碑

ここにかつて目通し約3.7mの松が聳えていました。この松は高野詣での人々や峠の人々に長い間親しまれたがたが、昭和48年に枯れたので、二代目の松を植えました
岡潔博士生誕の地の標柱

高野山女人堂六里石

番所跡の標柱


紀見峠
紀見峠は紀伊の国と河内の国の境にあり高野街道の中継地に当たり賑わったようだ。中世以来、京都や西国からの高野山への最短距離で参詣路として利用された。特に近世に入り通行人も多くなり、峠の宿場として形成された。
慶安元年(1648)には紀州藩により番所が設置された。明治33年紀和鉄道(現JR和歌山線)が開通、大正4年の大阪高野鉄道(現南海高野線)が紀見トンネルを貫き開通後は、峠集落の宿場の機能が失われた。さらに昭和7年県道が開通し、峠の集落西側をバイパス化、37年国道に昇格したが集落を通過する車のみで集落の回復には至らなかった。昭和44年今度は国道371号線が、峠の下を紀見トンネル(1454m・標高290m)が開通して完全に宿場の機能は消滅したが、峠の集落として現在も健在で往時の面影を偲ぶことのできる素晴らしい場所である。宿場町として旅籠6軒があって賑わいを見せた。
宿場の北の端 高野山女人堂六里石 宿の出入口、国道沿いに立っています

六里石のすぐ先で、左への坂道があります。国道が出来るまでの本来の旧道と思います(後述に説明します)。
とりあえず真直ぐ旧国道で下って行きます。またここに戻ってきます。
旧国道を下って行く、私の子供の頃はトンネルもなく車で地道を、この峠を越えた思い出があります。今は地元の方たち以外はほとんど通らない道になっている。
少し下って行くと、奈良から和歌山のダイヤモンドトレールが東西に山系の尾根道を縦走している、山歩きの人たちに人気の道があります


更に下って行きますと写真は下からですが、左手に土砂崩れの防御がされている(旧国土の道を下ってきました)。
ここに旧道が出てきます。峠の宿の出口に戻る。

元の宿の北の端に戻り、左の旧道を進みます。
幸村らが紀見峠越をしたならこの道だろう、一軒の民家の前を緩やかに細い道を進みます

細い道を下り途中、直ぐ先で巡礼坂が左に上ってきていますが、でもすでにその面影はないようです

後日歩いてみましたので後述で紹介します。左下の巡礼坂

左に巡礼坂
少し上った左に看板があります、この右に巡礼坂が登ってきていますが、今は荒れてしまって歩く人もいないそうですが、橋本ガイドの会、森脇稔さんがここを復活整備するとおっしゃっていました。
巡礼坂の歴史は古く、下から登り口の「行者道」と同様、平安時代に遡ります。また空海が高野山を開くことで高野参詣道として利用された古道。平安時代の白河上皇はじめ多くの上皇や藤原道長など貴族にも多く利用された。一度探検したい道である距離は1㎞ほどの急斜面の谷川沿いの道と聞いている。
巡礼坂を左に見て山道を進みます。整備もされていて道跡もしっかり残っています。

丸太の階段を下る、途中岩湧山への上る道が分岐しますが右へ

暫く下って行くと土砂防御擁壁があり鋭角に右に折れる

その先、急斜面なのでロープまでつけて頂き有難い

右の谷川に沿って下って行くと

旧国道が金網の向こうに見える。国道に出るところの金網で柵があるがわずかに隙間がありますのでここで抜ける。
折角の旧道遺跡、整備すれば素晴らしい古道になるが

柵を越えて旧国道に出ます(前述に個々ここまで下ってきた辻)。
やはりこの山道はかつての旧道と確信しました。幸村もこの道を越えてきたのか。良い道なので残してほしい(いいはやすしですね)

合流して旧国道を下って行きます、右下には紀見峠トンネルを抜けてきた371号線が見えています。かつての旧道はこの辺りから右斜めに斜面を真直ぐ下っていたようです

下ってきたところ振り返ると、前述の斜面を下った旧道跡らしい道が残る

旧国道は坂を150mほど登ります。そこでヘアピンに左にカーブして、南海高野線のトンネルの上を越えていきます。かつての旧道は、371号線と旧国道のV字に分岐する間を登り、やや左斜めに上って紀見トンネルの上あたりに出て、前述の柵の手前に出て右山道に入っていたようですが、今は畑や民家、トンネルなどの改修で完全になくなっています。すぐ先でトンネルを抜けてきた371号線と合流します。
そして一旦旧道は371号線を越えて右下に降り川沿いを進む。そして集落に入り再び371号線に合流して、今度は371号線の左側の旧道に入ります。
国道右下の天見川、谷が深く「蟹井の淵」と呼ばれていた

国道より右谷向こうに蟹井神社の杜を見る

国道から右に下って天見川に架かる橋を渡り、神社の前の旧道を進みます

右手上に 蟹井神社 天喜三年(1099)創建と伝わる

さらに進むと右に 妙雲山安明寺

坂を上った右に一部建て替えられているが旧家が残る

坂を上って左からの国道に合流します、振り返った今歩いてきたところ

すぐ先で国道より左の旧道に入ります。旧道に入り振り返る

右側に 正法大師堂

左の旧道に入ると山裾に沿って大きな旧家があります。長い白壁が街道に沿う。元庄屋ということです、長い白塀が続いています。庄屋というのは当時、権力も金もあったのだ


旧道は400m程続き371号線に合流すると信号交差点。出会いの辻 です。交差点から右に入る旧道を見る。
出合いの辻交差点で、右に折れ高野街道は続きます。

ここで一旦高野街道の本道を中断して前述の別ルート道を歩いて検証します。
矢倉脇の歩道橋まで戻り
(3) 【馬こかし坂】を歩きます
この道は紀見峠宿に入るところに出るし、短いが急坂で通っていないと思っています。
371号線の桂本交差点へ戻り歩道橋から紀見トンネルを正面に見る。左への馬こかし坂への道、左に市立たんぽぽ園があります。その先の分岐を右に、右角に赤い消防器具保管箱、急坂を登っていくと左に祠を見ながら旧道の雰囲気があります。途中一部手摺が滑らないようにつけられています。この坂は下からほぼ真直ぐに登っている急道で「馬こかし坂」と呼ばれる。やがて上の旧国道に出て、角の道標を見て国道を横断、正面の宿に入る旧道の坂を上る。紀見峠宿の東南の端 にでて宿に入っていくと、右から前述に出てきた道と合流、左に丹波屋があります。
桂本の371号線の歩道橋に戻り、正面に紀見トンネルを見て今度は西側(左)の集落に進む。(峠から下ってきた写真なので逆方向になっています)。

歩道橋から西への道、市立たんぽぽ園があります

峠への登り口、防火ホースの保管箱と民家の間の道

民家が何軒か建っています。すでに急な登り坂です

急坂ですが舗装がされていて滑り止めにより防御されています。

急な登り坂をほぼ真直ぐ進む


手摺が設置されています

距離にして数百mで上の旧国道に着き、横断すると宿の入り口旧道があります。紀見峠宿の南端にあたる

旧国道を横断して振り返ったところ。馬こかし坂の下り口の道標確かに名前の通りです。幸村が抜けた道としても、宿内を通らなければいけないし近世に入って作らた道かも

左右の道は旧国道です。途中まで本堂として上ってきた道です

国道を横断して左にカーブして坂を上ると、右手に碑があり宿の南端の出入口です

旧紀見峠宿に入ります。国道から外れているので、かつての宿場の面影が残る情緒ある街並み

暫く進むと、旧旅籠丹波屋 この手前右から前述の本道と合流します

馬転がし坂は比較的新しい道のようで幸村が抜けた道でないだろうと思う。
この先は本道の旧道と、出会いの辻まで同じです。
ここで再び慶賀野に戻り、紀見峠越の別ルート道を進み、巡礼坂と行者道を歩きます。
(4) 巡礼坂を進みます
御幸辻の十字路から高野街道本道を進み、紀見峠集落の北の入口に出ます。巡礼坂の下り口を探し巡礼坂を下ることとする。丁度、峠近くで三人のご年配の地元の男性が話されていたので、道を聞くと下り口まで案内していただいた。現在、橋本ガイドの会の森脇さんが中心になって古道の整備にかかっているとのことでした。今整備中で、思っていた以上に荒れた道でした。近いうちに古道らしい道に蘇ることでしょう。ご苦労様です。
実際に歩いたのは巡礼坂下りの写真ですが、流れとして下から上に歩いたように説明しています。巡礼坂について橋本ガイドの会の森脇稔さんの書かれたトレッキング資料より引用させていただきました。
794年奈良から京都(平安京)に都を遷都されるとともに、南海道は奈良廻りではなく京都から生駒山西麓を通り紀伊見峠越えとなった。「日本紀略」に延暦15年(796)2月25日勅命により、真土越えの南海道は紀伊見峠越えにかわった。その後、和歌山の雄の山峠え、孝子峠越えと移っていくにつれて、紀伊見峠越えの古道は「官道」としての機能を失っていったが、弘仁七年(816)に空海が開いた高野山により、京都と高野山とを結ぶ信仰の道として蘇った。白河上皇・鳥羽上皇はじめ沢山の皇族・貴族・武士や一般庶民の参詣の道として栄えた。江戸期に入ると紀見峠宿も形成された。宿の中を京阪地方からの、東高野街道・中高野街道・下高野街道・西高野街道が河内長野で合流して、高野街道として紀見峠越えで高野山への参詣道であった。
その中で紀伊見峠越道も幾多の変遷を得てきた。巡礼坂は江戸期以前の古道であった、今は殆んど歩く人もなく名前だけ残って廃道化しているが地元の 森脇さんを中心にして古道を復活させようと努力頂いているのには頭が下がります。それ以降歩いていないので、その後の様子はわかりません。
途中までは巡礼坂と行者道は重複します。林間田園都市駅から、東に新道を下り慶賀野橋を渡り新道に出て北に進む国道、旧高野街道は新道の右の慶賀野集落の山裾を通っています。次の信号で右から合流してきます。
国道の左は側溝、少し坂を上っていくと右の紀見ヶ丘住宅から下ってくる信号に出ます

その信号を振り返ったところです、向かって正面の二階建ての民家の左側に高野街道の旧道があります

信号から200m程坂を上っていくと左に入る道があります。高野街道本道は国道をまっすぐです。
紀見峠宿の街並みに入らない旧道です。幸村らが紀見峠越をしたとしたら、これからの巡礼道か途中で分岐する行者道だと思っています

左の道に入り矢倉脇集落を進みます

暫く進むと、左の谷の対岸に南海高野線の紀見峠駅が見えます

少し先で左の橋を渡らず真っ直ぐ行ってもいいのですが、左に折れて橋を渡り、紀見峠駅前に出ます、

橋から見た紀見峠方向の上流

橋を渡ったすぐ右に 真言宗宝形山延命院地蔵寺

地蔵寺の前を少し坂を上ると南海高野線紀見峠駅にでます

駅の前から地蔵寺の傍を通り、少し北側に細い道を線路に沿って進む。矢倉脇マス池集会所を右に見て踏切を越えます。以前はマス釣りが開かれていたが現在は営業がされてないようです

踏切を渡り坂を上っていきます

少し上ると右に曲がります

右に折れる辻の左奥に

牛頭天王神社

神社から西側山腹に国民紀見荘が見えます

神社の前の道、右の下側の道を進みます
右角に 養叟庵宝形山徳善寺

養叟和尚は一休さんの法兄(1376~1458)

山裾の集落内の道を進む左に石垣の積まれた旧家

集落を抜けると坂を下り谷川に架かる橋を渡りすぐ左にカーブして坂を上る

右に南海高野線の紀見峠トンネルの入口が見えます。トンネルは紀見峠の下を抜けています

トンネルの入口の上から紀見峠駅方向を見る

トンネルの上を越えると突当りとなり、左への山道に入ります。正面に金剛生駒紀泉国定公園の看板、岩湧山への登山道登り口の一ついでもあります

右に谷川に沿って登る 巡礼坂の登り口。ほぼ真直ぐ急斜面を紀見峠宿の北端に出ています。

巡礼坂の入口を右に見て、谷川の小さな橋を渡りコンクリート道路の山道を登っていく山道が、行者道と岩湧山への道です。(後で紹介します)

右へ巡礼坂入り口

橋から見る根古川の谷

人一人歩けるかの狭い道を入っていきます

斜面になってしまっている旧道です。かすかに跡があるようで旧道と言えないかも

この辺りはまだ道跡が残っています

旧道跡が物語る小さな祠が祀られている


廃道化寸前で谷川を登る


谷川を歩いている感じですが、何か古道の形骸が残っています

この先歩けるか心配、もう道ではないで


谷川の水が少なくて助かる。雨が降ると無理です。どんどん登っていく


古道に見られる、馬の背で両側が削られています

どれぐらいで上に着くのか、余り距離はないのですが長く感じる

谷川の中を歩く、何時ものことだが、よく一人で歩くと自分ながら感心する

ここまで来たら藪を搔き分けて登るしかない

やっと狭い斜面に道らしく見えてきた

でもところどころこのような快適な古道があります、左は谷川ですが浅いです。整備すれば素晴らしい古道が出来るかも

2月の時期だからいいが、夏場等の草が茂ってきた時期は歩くのは難しいかも

微かに踏み跡が残っています、登りばかりです。この巡礼坂の地下は南海高野線が通っています。

上が開けてきました紀見峠宿の西端に出ました

民家の裏側の少し広くなった場所に出ます、3人の男性が話されていた近くです。宿の西端分岐に見えていた民家です

この分岐で右に行けば紀見峠宿の西端へ、分岐を左に折れて、山道を進み途中右の紀見峠から下ってきた金網のされた旧道への道です。宿内は通りません(ここからは前述に載せています)
巡礼坂を終わります。
(5) 行者道を歩きます
紀見峠越を幸村が歩いたとしたら、この道がそうでないだろうかと思っています。
修験者たちが歩く道として、15年の生活の中で知っていたのでないでしょうか。また当時の紀見峠の集落はどれほどの賑わいか分かりませんが。人にもあわず最適の道のような気がします。
葛城修験者の古道(行者道)
真田幸村が危険度の高い紀見峠越えでなく、行者道を抜けた説もあるので歩いてみました。確かに実際に歩いてみて私見ですが、この古道がひょっとしたらと思わせる脱出道。
紀見峠宿の西側の山の中を歩くこの道は、紀見峠宿の集落に入らなく抜けることができる。
行者道について一説には、真田幸村は危険度の高い紀見峠宿を避けて古くからの葛城修験者の道であった行者道を抜けたという説があります。確かにこの道には番所もない山道で集落もありません。
真田発祥の地といわれる、長野県小県郡真田町の奥地角間渓谷は真田忍者の修行場といわれ、(歩いていますが)紀見峠ぐらいの山道は十数年の隠棲期間に十分調査済みであったと思います。
高野街道本道と御幸辻で合流して371号線に沿って進んできて、慶賀野で371号線を右に分け、左の旧道に入り矢倉脇集落を進むと、左の谷の対岸に南海高野線の紀見峠駅が見えます。その先の分岐を真直ぐ行ってもいいし、左に折れて橋を渡り右手の延命院地蔵院の前を進み、駅前の細い道を右に折れ線路沿いを進み、矢倉脇マス池集会所を右に見て左にカーブ踏切を渡る、坂を登っていく先右にカーブする左に牛頭天王神社があります。
カーブする右には養曳庵徳善寺を見て左集落の旧道を進む、集落の先で坂を下り谷川に架かる橋を渡り、左にカーブして坂を上ると右手に南海高野線の紀見峠トンネルの入口が見えます。(ここの辻までは巡礼道の古道と同じです)。
南海高野線トンネルは紀見峠の下を抜けています。突き当りを左に折れ山道に入る道は、岩湧山への登山道でもあり行者道の登り口です。少し進んだ先で橋を渡りますが、この右への登り道は巡礼坂です。この巡礼道は急坂を登り紀見宿の西の端に出ています。
谷川に沿って素晴らしい古道を上っていきます。左にダムの擁壁のある所にでます。案内標識があります、行者道は右への山に入る登り口が少しわかりにくいので注意。この辺りの標高は327m、真直ぐは岩湧山への道。古道は踏み跡も残り整備もされていていました。だんだんU字型の道になり石ころがゴロゴロ、途中斜面にロープを垂らして岩登りになる。
やがて少し広くなった台地にでます、広場の奥に葛城十七番経塚が祀られている。
岩湧山、紀見峠への標示を岩湧山の方へ進む。その先登っていくと分岐注意、左は岩湧山への登山道で、行者道は真直ぐ砥石の谷へ進みます。古道はよく手入れされているので助かる、整備が大変だと思います感謝の気持ちでいっぱいです。
右に鉄塔を見ながら下り谷川に架かる木橋を渡り右へ下る。その先整備された木組みの階段を下り谷川に架かる鉄の橋を渡ります。砥石谷です(標高は約436m)。やや大きめの橋を渡り右にカーブ、右の谷川に沿ってどんどん下って行きます。やがてコンクリート道になると右に畑、遠望に集落が見える。畑から下ると左右に通る舗装道路の旧道に出ます。
行者道はここで一応終わりですが、左への道は流れ谷を通り行司河原分岐に出て、岩湧寺から葛城山への古道です。
右に折れて舗装道を流れ谷川に沿って右(北東)に下る、やがて左朱色の八幡橋が架かる、対岸には八幡神社と樹齢千年といわれる杉・大銀杏の巨木が聳える。その先暫く下って行くと、高野街道と合流する出会いの辻に出ます。
この古道を歩いていると、九重峠越え旧道と同様、幸村が大坂入城の脱出に歩いた道かなと思ってしまいます。
地元の愛好者の整備管理に大変ですが、何時までも残していただけたらと勝手なことを思いました。
【紀見峠越えの行者道】 写真で簡単に追ってみます
林間田園都市駅を左に見て、国道371号線を進みます、旧高野街道は新道の右の慶賀野集落の山裾を通って合流してきます(何度も出てくるところです)

少し坂を上っていくと左に入る道があります。高野街道本道紀見峠宿へは国道を上っていきます。
左の道を入り矢倉脇集落に進みます

左、谷の対岸に南海高野線の紀見峠駅が見えます

橋を渡らず真っ直ぐ行ってもいいのですが左に折れて橋を渡り紀見峠駅前に出ます

橋を渡ったすぐ右に 真言宗宝形山延命院地蔵寺

地蔵寺を少し上ると南海高野線紀見峠駅大正四年(1915)3月11日開業、右に折れて進む

駅の前から地蔵寺の傍を通り、少し北側にある、矢倉脇マス池集会所を右に見て踏切を越えます。以前はマス釣りが開かれていたが現在は営業がされてないようです。

少し上ると右に曲がります。右に折れる辻の左奥に牛頭天王神社

神社の前の分岐道、右の下側の道を進みます。右角に 養叟庵宝形山徳善寺 養叟和尚は一休さんの法兄(1376~1458)

山裾の集落内の道を進むと左に石垣の積まれた旧家

集落を抜けると坂を下り谷川に架かる橋を渡り、左にカーブして坂を上る

右に南海高野線の紀見峠トンネルの入口が見えます。トンネルは紀見峠の下を抜けています

トンネルの上を越えると突当りとなり、左への山道に入ります。正面に金剛生駒紀泉国定公園の看板、岩湧山への登山道でもあります

橋の手前右に、巡礼坂の登り口 ここまでは重複しています

巡礼坂の登り口を右に見て谷川の小さな橋を渡りのコンクリート道路の山道を登っていきます

谷川に沿って西への方向に登っています

素晴らしい気持ち良い道が続きます

橋を渡ります左に谷川が変わります

左が少し広くなり、ダム擁壁工事の作業をしていました。

少しわかりにくいが 行者道 はここで右の山に入っていきます

この入口で失敗しています。2016年9月3日に団体で歩いたときは、ここを右に入ったのですが、団体の場合は殆んど付いていくだけで、あまり道順までも頭に入っていないことが多い。
今度はカメラを持って一人で2017年1月28日歩いたとき、この辺りを入るとわかっていたのですが、今と同じように車が何台か駐車していて入り口が分からず、通り越して岩湧山への道をかなり登ってしまつた。再びここに戻りここから入ったのがよかったが、また途中で鉄塔の下に出てしまったため、その日は踏破を諦めて紀見峠の頂上に出て終わりました。
前に歩いていたから大丈夫と、安易な気持ちで歩いたのが悪かったようです。
3回目の今回2017年2月25日の挑戦の時も車が二台置いていましたが、今度はそこから行者道入口を間違わずに入りました

ここから地道に変わり北への方向と変わります

入り口から少し先まではよく手入れされている、踏み慣らされ補修もされています、後でわかったのですが、これは行者道より岩湧山へ登る人たちのようです

だんだん古道らしく、V字型の登り道で少し荒れてきますが、まだハッキリと道は残っています。
急な斜面のゴロゴロした谷川を登っていきます

左への階段は上がらない、関電道で鉄塔の下に出る。谷川沿いに進みます。前回この道を左に上がって間違ったところです。標示があります

急な斜面にでますので綱を頼りに駆け上がる
2016年10月に団体で歩いたときのロープが残っていました。急斜面の谷川道を登りますが、足元が湿っているので滑ります。かなり厳しい崖登りになります

暫くはこのような道だと想像してください


そこを越えるとやがて踏み跡のしっかりした道になります

そして台地で広くなった休憩できる場所に出ます。

広場の傍の小屋の向こう側に

葛城十七番経塚が祀られています。


広場の左側に標識があります岩湧山への標示に従って登ります。方向としては北です。

暫く登っていくと分岐がありますので間違わないように、左は岩湧山への登山道、真っ直ぐ砥石の谷への道でこの古道を進む



暫く進みますが徐々に下りにかかります。道跡がよく残っているので間違わないです。古道がこれだけ残っている、
古道を地元の方が、よく手入れしていただき保存に力を入れてくださっています。私はいつも歩くだけで何もしなくて感謝の気持ちでいっぱいです。


右方向に鉄塔を見ながら下ります

下って行くとやがて谷川の木橋を渡り右へ下る

木組みの階段綺麗に整備していただいてます

小さな谷川に架かる鉄の橋を渡ります

砥石の谷 を下っていきます

谷川も少し広くなってきて、やや大きめの橋を渡り右に下る


右の谷川に沿ってどんどん下っていきます。

やがてコンクリート道になりますと間もなくです。下って行くと左に廃小屋がある、右にカーブしていきます

更に谷を右に見ながら暫く下る。古道らしく石畳の道跡が残っています

右に畑がつくられています

右遠望に天見の集落が見えてきました

畑から下っていくと間もなく突当り、左右の舗装道路に出ます

正面右から下りてきたところで鋭角に右に向きを東に変えて下っていきます

舗装道の西側(左)の登り道は流谷・岩湧寺方向への林道。九重峠越えを下ってきた道でもあります

左の流谷川に沿って下っていきます

流谷川を下っていくと左に朱色の八幡橋が見えてきます。対岸に 八幡神社 京都石清水八幡宮別宮、創建長暦三年(1039)の古社橋の袂の樹齢千年といわれる杉の大木、大いちょう樹齢七百年大銀杏で、11月の紅葉は圧巻だそうです。

勧請縄かけ、1月6日(石清水八幡宮より勧請した日)に200尺(約60m)の注連縄が架けられる。縄が長い間切れなければ豊作といわれている。
神社より更に下って行きます

下っていって右にカーブする右角に

出会いの辻の 祠

すぐ先の出合の辻交差点で右から、紀見峠宿を下ってきた高野街道本道等々と合流します
出合いの辻で、今までの幾筋かの旧道、紀見峠越が合流します。
幸村が紀見峠越えであればどの道であっただろうか。
紀見峠越を幾筋か踏破して
【出会いの辻から高野街道を河内長野に進む】
右から371号線が合流、出会いの辻の信号交差点で右へ折れる、左からの道は流れ谷川に沿ってきた道、右の高野街道を進むと南海高野線の天見駅前にでます、その先左に料理旅館南天苑・天見小学校を見て、国道に出る手前橋を渡らず天見川に沿って暫く歩きます。やがて左に松明屋を見て分岐を右に進み南海線を越え線路に沿って進む。右手高台に薬師寺が見え岩瀬集落に入る、天見川沿いの旧道は街道面影が残る。左の天見川を渡り国道に出て暫く進んだところで国道を右に分け石仏集落を抜ける。右の美加の台駅を見て高野線に沿うような形で国道を進む。左に一国一字庚申堂の鳥居を見て進んでいくと三日市に入ります。国道沿いに高野山女人堂八里石が建っています。
やがて三日市駅前に出ると、九重峠越道が左から合流します。三日市宿を通ると豪壮な八木家住宅を中心に古い町並みが見られます。橋を渡りお寺の辻で左に折れ371号線を横断した先で、烏帽子形八幡神社、喜多町から長野町を通り石川に架かる橋を渡ると河内長野駅前に出ます。
この辻で高野街道本道と九重越の古道は終わります。
出合いの辻から河内長野駅前まで写真で追っていきます(詳細は高野街道の資料参照してください)
出会ノ辻
南北朝時代の古戦場、正慶2年(1333)南朝方の楠木正成と北朝方の北条とここで出くわし「安満見合戦」が行われたところでこの地名が付いたと伝わる。

出合いの辻交差点を東から北(右)に曲がっていくと、南海天見駅前に出ます。この道は高野街道です。

駅の左手に料理旅館の 南天苑(国の登録文化財)直ぐ隣左に天見小学校があります

左谷迎いは国道です

新しく作られた道のようですが綺麗です、多分国道は歩道がないから危険なので、小学生の通学路です、車止めもしている快適な道です

天見駅の前を通り天見川に沿って北に進むと、左に 松明屋跡

国道沿いに 高野山女人堂へ七里の里程石 があるようですが車で危険なので寄りません

かなり荒れているように思える。戦前まで弘法大師直伝の糗を旅人に売っていたお店。

前の所に立つ 石標「おたいまつ・・木」

高架を潜った先、天見川沿いの集落の旧道、いい景色です

天見川沿いの旧道を進み、その先左に懐かしい屋根の勾配の急な民家が見えます

御所の辻、常夜灯と道標「右 かうや」が立っています

辻に 地蔵堂のお地蔵さんと、宝篋印塔

左に折れて天見川の橋を渡ります、橋の袂にある 祠

天見郵便局があり右角には新しいが大きな民家が見えます、右角に、清水自治会館があります。右に折れます。折れたところ振り返る


国道を少し進み左の旧道に入り清水の集落を進もうと思ったが、この道は南海線の西側の旧道です。
少し前述の辻に戻り、南海高野線千早口駅の東側の旧道を進むこととしました。要は天見川・南海高野線をはさんで、西側の道か東側の道かです。先で合流します。
千早口駅北側の踏切を渡り岩瀬集落を進みます。
右手高台に 融通念佛宗医王山石宮薬師寺
創建沿革は明らかでないが、南北朝時代には、観心寺の末寺であったと伝わる。境内北側の石造五輪塔は暦応4年(1341)に造立された。貴重な文化財。
参道の上り口に宝篋印塔や石仏が並ぶ


途中斜面に 宝篋印塔二基と小さな石仏数ヶ所に

その先左に天見川と南海線が沿います。途中南海線が美加の台トンネルに入りますが、川沿いを進んでいく、やがて2つ目の橋を渡り左からの371号線に合流します。
合流して国道を横断左側の旧道に入ります、石仏集落。集落の左に石仏寺があります

500mほど集落の中の街道情緒を味わいながら進む
左は新興の美加の台駅や美加の台住宅が建ち並ぶ。私たちが小さい時分は民家が散在するだけの山中であったのだが様変わり、高架で371号線を越えて旧道に入る。右手に南海線が走ります

左に一國一字庚申堂 があります

天見川に架かる新町橋を渡ると右から南海線が接近します
三日市町に入る 高野山女人堂八里石

南海高野線の三日市駅前にに出ます(写真に撮れていませんが)
駅前のロータリーから西への旧道を進み、天見川を渡って南に進む旧道があります。
(後述しますが、私が一番に推奨するの新設、幸村一行が越えてきた九重越えがここに出てきます)
町の道も綺麗に整備された三日市町の街並み

八木家住宅(国の有形文化財)
木綿問屋を経て、酒造りが営まれ、米の露・味噌一正宗が醸造され「東家屋」という屋号。 19世紀後半の建築で町家の伝統様式を残している

三日市宿の街並みは素晴らしい
江戸時代には高野街道の 三日市宿 として栄えた

石川を渡った左に 月輪寺

石川に架かる新しい橋を渡る、左に折れる付近はかつての、林代官所跡・三日市村役場跡
少し進み松屋坂を上っていきます。振り返ったところ。途中歩道橋があります

少し先左にふれあいの丘長野敬老院があり、松屋坂(煎餅坂)を上る、街道右に 金刀比羅宮


小さな公園の角に増福寺と高札場跡

その先、由良鍼灸治療院の手前に交差点があり横断してします
少し先左に 地蔵尊 前を振り返る

左に 烏帽子形八幡神社

背後の山が烏帽子形城跡、高野街道は、通称「別久坂」または「ビック坂」と呼ばれる急坂を下り、途中国道371号線を横断して坂を下る、烏帽子形山の東側山麓を進んでいきます。この山の頂上にあった「烏帽子形城」は、築城年代は不明だが、伝承では楠木正成が築いた城の一つといわれています。
神社と背後の烏帽子形山

河内長野市喜多町 右にに青山第二病院の建物、山の上には清教学園や新しい住宅地が遠望できます

左の山際を進みます。烏帽子形公園で古墳、烏帽子形城址 です。振り返った筋

やがて別久坂を下り371号線を横断する、振り返る

そして石川に架かる橋を渡り右に折れて、一筋目を左に折れて、長野町を右斜めに進んでいきます。
歴史の感じる土蔵を振り返る

土蔵の手前に高野街道の道標 がります

河内長野の素晴らしい古い街並み 天野酒醸造元の西条酒造の前の街道西條合資会社旧店舗主屋・土蔵、高野街道を挟んで酒蔵と事務所があり、国の重文となっている旧店舗主屋と土蔵がある。

右手石段を上ると 長野神社
本殿は重文で一間社流造・正面に千鳥破風と軒唐破風をつけた檜皮葺で室町時代末期建築と考えられている

左にカーブする角に 吉年邸の旧家、敷地内のクスノキの大木があります。樹高約20m、幹回り約4.7m、枝張約30m

やがて河内長野駅前のロータリーに出ます

高野街道に沿った幾筋かの旧道を歩き河内長野駅まできました。この先の、東・西・下・中高野街道が河内長野駅前で一本の高野街道となり高野山への道となっています。
河内長野駅からの先、大坂城まではほぼ安心で、幸村も最短距離の旧道を進んだことだろう。
一旦ここで中断して(後述します)
九重越の道
九重越の道とはあまり聞きなれない道であったが、小さい頃には自宅のすぐ北の山道に九重道・九重集落をよく耳にした。紀見峠・蔵王峠はよく資料にも載っているが九重峠はその間に位置する和泉葛城山系の一つで。標高922mの南葛城山を最高峯に東西に13㎞に渡って走っている。
真田幸村九度山脱出の道として、紀見峠越が通説でありますが、前述にも説明していますが、紀州浅野家や徳川幕府が厳しく取り締まれば、とても九度山脱出は地形的に無理であるが、そこに徳川家康の意図もあったのではないか、その気になれば紀見峠に番所を設け黙って見過ごすわけにはいかない、下手をすれば藩の存亡にかかわることでもある。その点、前述の蔵王峠やこの九重峠越えは最適で、また大坂城にも紀見峠越えよりもやや短く九度山より、ほぼ河内長野までは直線上である。
だが資料も乏しく唯一の平成7年発行の「関西山越の古道(上下)中庄谷 直」様の著書を参考にさせて頂きました。
行き着くところは、いにしえからの地元の人々を中心とした高野山への古道でもあった、ルートとしては、
- 高野山女人堂、京大坂街道=学文路~山田(山田川に沿って)~三石山(738.6m)の西側~九重峠へ。
- 高野山町石道=慈尊院~高野口~下中・上中~信太神社~九重(九重谷)~札ノ辻~九重峠へ。
- 九重峠で合流~左(西)に岩湧山登り口を見て~五ッ辻~加賀田川に沿って~神納~三日市で高野街道本道に合流。
実際歩いて検証しました、何日かに分けて歩いてみました。
- 九重峠で合流~左(西)に岩湧山登り口を見て~五ッ辻~加賀田川に沿って~神納~三日市で高野街道本道に合流。
下記の写真は和泉葛城山系、右端が奈良県の金剛山系です。
葛城二八越の一つとして九重越は地元近隣の人々が利用された山道・高野への古道として古くからの高野に通じる道であり地元では高野街道として呼ばれていました。
九重峠越えは、滝畑街道(蔵王峠越え)と紀見峠越高野街道との間の峠で、東は三石山、西は岩湧山と。あまり知られていませんが、九度山から北へ九重峠越のほぼ直線的な古道です。三日市で高野街道本道に合流、距離的にも短く、あまり厳しくない旧道の山道です。
幸村が九度山から脱出した道として一番安全な山道と思いました。今までどの資料を見ても取りあげられていない、どうしてなのか少し不思議な気がします。私の考えが間違っているのか分かりませんが。
ひょっとしてこの古道は幸村が大坂城への脱出道でないかと私の新設として実際歩いて感じたので紹介しました。
九重峠へは二つのコースが考えられますが、今から紹介する古道が本道と思われます
【真田庵~高野口から北のコース道】
真田庵をでて九度山で紀ノ川を渡河して北へ、高野口旧名倉村の蛭子社の辻で大和街道を西へ、大野を通り北に向きを変え、田原川(一般的に四川とよぶ)を渡り、九重坂を上り京奈和自動車道を潜る。蛇行しながら坂を上っていくと左に産廃処理場が見えます。
下中で農道を横断して上中に入り坂を上っていきます。右に休校している旧信太小学校を見てその先右に信太神社の楠の巨木が旧道を覆っています。神社から数百m左の川に沿って上っていく、この辺りから九重に入ります、暫く進んだ先で車道は左の川に架かる橋を渡りカーブしているが、旧道は橋を渡らず、すぐ右にカーブしている細い道に入ります。100m程坂を上っていくと正面が山林で、山林の登るところには旧道の踏跡が残る道が続いています。旧道の狭い道を登っていくが、だんだん荒れたかすかに古道の残骸の道となっています。
下の民家のおじさんと先ほど話をしたら、子供の頃にはよくこの上の池まで登って遊んだと話されていたが、最近登ったこともないし歩く人もいない、また斜面が崩れたと聞いていて、池までは行けないだろうと言っておられた。
確かに忘れられた高野への古道であるが廃道化しています。
すこしでも登ってみようと、道の消えている山道を暫く登っていくと正面上が明るく行けるかと思ったが、丁度その時正面が大きくえぐられ右の谷川に土砂が崩れ進めない、崩れた先に細い道跡らしきのが見えるので、左斜面上に迂回しようと思ったが
藪が遮り斜面もきつく無理なので諦めて元に戻る。
後で地図を見ると上のかつての札ノ辻までもう少しという地点であった。唯一の資料「中庄谷直氏の著書関西の山越えの古道」平成7・8年(1995年)発行ではまだ谷川伝いに上の道に歩けていたようです。
後日、別の登り山田川から九重峠のコースを歩き、帰り峠から下ってきたとき思いがけなく前述の斜面の崩れた上の道にでて、近くに池のある札ノ辻に出た時は感激しました。
九重峠に繋がったのです。
便利上、札ノ辻から九重峠への旧道の説明をします。(歩いたのは峠から下ってきているのですが)
札ノ辻から左の崩れた旧道の谷を見ながら少し上ると、左に小さな池があるさらに500m程登ると林道が真直ぐ登っています。そこから右に紀ノ川や高野山系の遠望がよく見えます。
林道をすぐ左鋭角に折れて、またすぐ右鋭角登っていくとやがて左からの尾根道を縦断している山道が合流。標高750m辺りで、その先北に向かって2㎞程大坂・和歌山県境の尾根道を緩やかに上る。やがて少し開けた場所に出るここが多分九重峠だと思います。
右手からもう一つのルートの道が合流します。
辻で左に折れて五葉の谷道の比較的平坦な山道を600m程進むと五ッ辻に出る。ここから三日市方面へは下り坂になります。この辻から、岩湧山、岩湧寺への道が左に整備されています。
右への下り坂の古道を進もうと思ったが、残念ながら少し先で古道は消失しています。
(続きは後述します)
【九重峠越高野口大野 経由】 写真で追ってみます
紀ノ川に架かる九度山橋を渡り、少し堤防を西に進んだところから、対岸からの慈尊院の渡し跡を見る

渡し跡からのかつての旧道が消失して分からないので、九度山橋に迂回してを渡り真直ぐ高野口向島の町を進む

暫く進むと名倉地区で国道24号線を横断します

その先右手に弘法大師が祀られています嵯峨天皇遺跡もあります。


名倉の街並みを200m程進むと十字路に出ます。右手に蛭子社が祀られ左からの大和街道が合流して北に折れていきます。

この合流辻を左に折れて大和街道を西に進む。東への大和街道は、車の方向で「ばばたれ坂」を上っていきます

右角の蛭子社

西への大和街道の街筋

大和街道を重複しながら、高野口駅から下ってきた十字路右角に高野口郵便局、左角には旧前田邸の旧家を見て進む
やがて大野地区のこの辻に出ます、左に旧家があり、右角に生地砂糖とシャッターに書かれているところを右に折れます。まっすぐ進む道は大和街道です。

右に折れて50mほど行くとT字路となり、右角に大野児童館がありますので左に折れ直ぐの分岐を右に進みます。(あくまで仮想道です)正面の角に消防分団の車庫があります

正面2階建てが消防分団車庫、右の道です

その先数十mで左T字路を右に折れて北にしばらく進みます

JR和歌山線のトンネルを潜る

その先で、田原川に架かる橋を渡り、九重坂を上ります(上り口がいくらかあるがこの坂を進みます)

この西側(左),嵯峨谷川に沿って北に進む道もありますが、下中・上中集落を抜けていたのは間違いありません。
上り坂の途中、京奈和自動車道の高架を潜りさらに坂を上っていきます

左手に産業廃棄物処理場が見える

正面の窪んでいる山が九重越道です。右の端が紀見峠越

やがて農道に出て横断し左に道なりに坂を上る。この辺りは高野口町上中地区

左に折れ坂を上ったところから振り返ったところ。天気が良ければし正面に高野山が遠望できます

正面は上中の集落、左からの車道に出たところで右に折れて坂を上る

坂を上ると右に旧信太小学校の校舎があります現在は休校中です

旧信太小学校、まだ数年前に休校になったばかり


九重バス停の少し先で、左T字路を右に下っていけば、田原集落を抜け、田原川に沿ってJR和歌山線高野口駅の東側の踏切に出て大和街道に合流します。前述合流した蛭子社の辻に出る。そしてさらにまっ直ぐ南に進んでいくと旧名倉集落(現高野口町名倉)から紀の川の九度山橋に出ます。この道も古くから存在していたと思われます。

T字路から少し先右にクスノキに囲まれた 信太神社(信太五社大明神)、田原・上中・下中・九重の総氏神

信太神社の樟樹の神木、根元から胸高周囲2.1mのクロガネモチの大木が癒合した奇観。(県指定天然記念物)

信太神社を右に、左の川に沿って登っていきます

谷川に沿って九重地区を登る

立派な九重集落の建物

やがて川沿いの九重集落の中ほどで旧道は左の谷川に架かる橋を渡らず、九重越道は右の地道の坂道を上ります。

舗装道路が消えて右の地道になる、いよいよ峠越えの道に入る

橋を渡って左に折れて登っていく道を見たところ。左側の道は民家があります。葛城山系の一本杉への道。

民家もなく谷川に沿った道

やがて小さな橋を渡り右にカーブします

橋から100m余りまっ直ぐ進んだところで、道は一気に山林の中に入ります

急に景色が変わり右手に谷川が続きますが深くなってきました

振り返ったところです

少しの間快適な古道を登っていく

足元がやや悪いが道跡はよく残っています

道は急に悪くなりほとんど消えかかっている。地図からすれば右の谷川沿いに登れば上の池近くに出ることになっています。池までは下の分岐のところから約1㎞余りの距離、山道で1㎞は結構あります


今では山仕事以外は人が入らないのだろう

ところどころ道の痕跡があります。斜面がきついので木を持ちながら滑り落ないように木が頼りです

これなら何とか池まで行きつけるだろうと、冬場で正解夏場は無理。右側は谷川でかなりの急斜面

かなり荒れています右の谷を見ながら登っています

すると突然前方の斜面が崩れていて道の痕跡が無くなり前に進めません。左上に迂回しようかと思ったが藪と斜面で無理、右の谷川に下りるのも無理

崩れた向こう側に道跡らしきのが見えるが谷へ降りて進むか迷いましたが、果たして辿り着けるか分からないしここまでとして引き返します。この崩れた後を見るとあまり古くはないようです。正面上を見ると道らしきがみえるが1人歩きなので無理しないようにしています。

右の谷はこのような状況です、この古道も間もなく完全に消失することでしょう。
もう少しという所で残念だがここまで歩けたら満足。かつての古道があったことを確認できた

元の登り口に戻ります
帰り道、すぐ下の民家で作業しているおじさんがいたので道の状況を聞くと、最近は歩いたことはないが子供のころはよく谷を登り、上の池まで歩いたと教えてくれました。最近の土砂崩れで歩く人もないそうで、かつては地元の人も利用されていたと教えて頂き九重峠越えの古道で間違いがないと確信しました。
またおじさんのお話では、昔高野山への参詣道として利用もされていたと、話に聞いたこともあるとおっしゃっていました。
高野口の名倉、大野からの登り道をいったん終わります。
九重越の別道ルート
【九重越え・山田川・吉原川に沿った道】
前回歩いた九重越、高野口町大野からの道は途中がけ崩れがありました。
別のルートの九重峠への道を今回辿ります。
橋本市の吉原川沿いの道と山田川沿いの道を歩きます。いずれも山田の一言主神社で合流している。
真田幸村が越えた道としたら前述の道と思いますが否定はできないので紹介します。真田庵から九度山で紀ノ川を渡河して高野口で大和街道に合流して東に進むか。
または紀ノ川の左岸の河南大和街道を東に進み学文路に出て、現在の学文路橋の上流辺りで紀ノ川を渡河(学文路の渡し場辺り)対岸を北上、紀北工業高校の横を進み神野々を抜け国道24号線を横断、左に紀伊山田駅を高架で渡りすぐの辻で大和街道を交差し北に進む旧道。紀見峠越えの古道の道です
少し歩いて京奈和道路の高架を潜り右手の山田川に沿って柏原集落に入る、そして出塔に入り橋を渡ったところで右に細い道が分岐して道標があります。右の道は御幸辻への高野街道の古道で菖蒲谷を抜けています。
分岐を真直ぐ暫く進み山田地区に入った分岐で、右に進む道は地蔵寺から御幸辻へ、へその分岐を左に折れて山田地区を進んでいくと、やがて一言主神社の鳥居前に出て吉原川に沿ってきた道と合流します。
合流した道は山田川に沿って坂を上っていくと右手に石山不動寺、その先右手に山田の最奥の一軒民家が建っています。さらに左手に不動滝を見て、右手に三石山(738m)が見えてきます。川の両側が急斜面の山でその間に細い旧道を緩やかに上りながら進んでいきます。やがて少し広くなった地点に出た分岐を左に折れる。
すこし先で右に折れると左から九重を登ってきた古道に合流九重峠だと思う地点。
次に吉原の道ですがJR紀伊山田駅より600m程西へ大和街道を進み、右に溜池の堤が見える辻で大和街道と別れ右の坂を上る。右角に一言主神社の大きな石碑が立っている坂を上り右の池に沿う。京奈和自動車道を潜り右手に吉原川が並行して北へ進んでいく。吉原集落が過ぎると正面に一言主神社の鳥居の前に出ると、右から山田川に沿った道が鳥居前で合流します。この道の方が少し短いと思います。
九重峠で合流した先、暫く五葉の谷道を進むと五ッ辻に出ます。
五ッ辻は岩湧山道、栃谷道、紀見峠道、千石谷道に分岐している辻で、下る道は岩湧寺への道、中ノ谷道、栃谷道があります。
栃谷・中ノ谷道が旧道の跡と思うが、残念ながら五ッ辻からの下る道が少しあるが消失しているのかよくわからなかった。今は岩湧山への登山者は岩湧山道で登るので古道は自然歩かないので廃道化してしまっているのだろう。仕方なく五ッ辻に戻る。
一応和歌山県側からの九重峠越はほぼ達成しましたが、残る土砂崩れのあった上の池から九重峠までを検証すればほぼ完ぺき。
帰り道に前回土砂崩れで札ノ辻への古道を地図を辿りながら下った結果、前述のとおり九重からの旧道を少しの崩れた区間を除き完歩で来た。(実際に歩いたには九重峠からの下りです)
別ルートの九重峠越を写真で紹介します
九度山・高野口からの九重峠越えの時は、この右に蛭子がある辻で大和街道と合流し左に分岐したが、
今回はそのまま大和街道を暫く重複します。正面のばばたれ坂を進む。高野街道紀見峠越古道で説明しているので簡単に進みます。

この坂道を、小さい頃から「ばばたれ坂」と呼ばれていた。坂道は短いが急坂で牛もばばを垂れたと教えてもらった。旧道の雰囲気が残る。

坂を上り信号交差点を真直ぐ、左斜めに行くと直ぐJR高野口駅。左角には 信太神社の大きな道標が立つ。右の道を200m程真直ぐ進むと高野口駅東側のJRの踏切。横断後すぐ右に折れます

その先、緩やかな坂を、途中の分岐を右に、坂を上り切ったところで左に折れて、住吉神社参道入口に建つ二基の常夜灯手前の十字路を右に折れます。名古曽地区を100m程進むと十字路で左に折れます。
応其地区に入り右に大きくカーブしながら暫く進むと、左上に溜池の堤が見えるところの十字路交差点を横断します。20m程先で左に入る小さな橋を渡ります。真直ぐ左に小川を見ながら進んでも500m程先で合流します。左に折れ狭い道を進んでいくと途中左に神社がありますので更に100m余り進み前述の道が右から合流します。
合流して150m程先の十字路を左に折れます。十字路を真直ぐ進むのが大和街道で400m程で紀伊山田駅北側の辻に出ます。
大和街道と分かれ、ここで左に折れて溜池の西側の道を上っていきます。この旧道は吉原川を右に沿って登っていく旧道。
南側から北を見たところで、正面のため池の手前の道を左に上っていきす。
上り口の東西の道が大和街道です。

十字路左角に 一言主神社道標 「是ヨリ北三.三五・・」と新しい大和街道の道標が建っています

池の先で京奈和自動車道を潜る。

吉原の集落を抜けていきます。

やがて広域農道の信号交差点が見えて来ます

吉原の北の端で広域農道の交差点を横断。右角に吉原の地蔵堂

500m程坂を上っていくと、正面に白い一言主神社鳥居が見えてきます。
鳥居の手前で右から山田川に沿ってきた道が合流します。

吉原川に沿って上ってきた道を鳥居の前で一旦終了します。元の大和街道に戻ります。
もう一つの山田川からの九重峠への道を歩きます
真田庵を東に九度山の河南大和街道の街筋を進むと歩道橋の交差点に出てきますが、この道は新しい車道で、河南大和街道の旧道はおそらく九度山の街筋の東で、左に下り現在も田畑が広がる低地を岸上橋辺りに通っていたのでないかと想像します。

やがて岸上橋の南袂の信号交差点に出て橋を渡らず右に折れます

右に折れたすぐ右手高台が南海高野線の学文路駅です。駅の東側に高野山から京大坂道の旧道が下ってきています。左の辺りに学文路の渡し場があったようです。このまま東に進むと、橋本の渡し場跡に出ます。

岸上橋からの渡し場跡を見る。慈尊院の渡し場と並んで、高野山への古高野街道の重要な渡し場跡と考えられます。

学文路側対岸へは、現在の岸上橋を渡り対岸に出ます

岸上橋を渡り信号交差点を右に堤防の車道を600m程先の分岐を左に入ったところから振り返る、対岸学文路との渡し場跡辺り、ここの堤防との分岐を手前に入ります

左に折れた道が渡し場跡の延長で自然と思う、堤防の車道と分岐して左のこの道を入ると

すぐ左に旧道跡のような樹木のトンネルのような道があります。この道に入ると200m程続きます

思っていた以上に気持ち良い道です

この道を抜けると左に神野々廃寺跡の小さな森が見えます
更に進み紀北工業高校を左にみて北に進む。

やがて国道24号線にでて横断すると左下にJR紀伊山田駅があり、線路上の橋を渡る、振り返ったところ
正面二階の左の細い道を出てきた

すぐ先で大和街道との十字路に出ます。横断して真直ぐ進む

大和街道との交差する辻で、左(西)へ200m程行くと右手に道があります。つまり西から大和街道を来ると左への道、左角に祠と道標が建っています。子安帯解田安地蔵尊と道標
西からの旅人はここを左に折れたと思います。角の道標が案内しています

300m程先で右からの大和街道との十字路の古道高野街道が(紀見峠への本道と区別するため古を付けます)合流します。右角に道標。

この道標の所で、右十字路からの旧道が合流しています。向かって右の細い道から来ました

山田地区公民館の先で京奈和自動車道を潜る

柏原集落を進み山田川に架かる橋を渡ると、子安地蔵寺を回らない出塔集落から菖蒲谷集落を通る、御幸辻駅の辻への古高野街道の近道になる分岐。紀見峠越えの時に歩いています。
右上り口の左に道標があります。左の車道を進みます

出塔地区の北で信号交差点に出る。山田川は左に沿っています

山田の集落中の十字路、真直ぐは子安地蔵寺から御幸辻の辻へ。九重峠越えの道は左に折れてここで分岐します

左に折れた先を進むとT字路になります、左から前述の吉原の道からの道が合流してきます。右に折れて合流して進む

山田集落の北外れに来ました。いよいよ正面に九重峠越えの谷が近くに見えます。

一言主神社の前に着きました、鳥居に向かって右から上ってきました、吉原からの道は左手前からの道、左に上る道は新道です。吉原川の道と山田川からの道が鳥居正面で合流

一言主神社
吉原川沿いの道と山田川沿いの道が神社の前で合流して、いよいよ九重峠越えに挑戦します。一日の無事を祈って参拝します。

正これから歩く北面右手奥に、三石山(738m)紀見峠越えは三石山の向こう側です

神社の横から北に登っていきます、集落の北の端の山田集落が見えています。正面の右手は三石山で、左奥は岩湧山の山系で、九重越は中腹あたりを抜けています

少しの間平たんな道に変わり民家も少なくなってきた、最北端の集落です

右から山田川が接近してきます

やがて右手奥に 真言宗三石山不動寺 延暦13年(794)弘法大師が21歳の時、この地で草庵を結び修行したと伝わる

移転された境内にある熊鷹大神・不動明王




不動寺を右に山田川を左に緩やかな坂を奥地に進む

山田地区の北の端の立派な一軒家でここで民家が無くなります


左の山田川に 不動滝(手水の滝)

滝の先も、緩やかな坂を上っていきます。今の所道もよく急坂でない

と、思っていたら前触れもなく前方に通行止めの立て看板が見えてきました。斜面のがけ崩れ等で車止めをしていますが、歩けないか少し入ってみます。


歩くには支障がないようです、快適な道です

かなり坂と思えない緩やかな上り坂を歩いてきました


小さな滝があります

さらに登っていきます舗装された道でかつては車が通れたのでしょう

やがて北側の車止めの看板があります

登ってきた道を振り返る、崩れたところもなく歩くには支障がなかった。

少し広場になっていて軽車が通っていました。広場に出たところで右に折れる道がありますが、三石山を右に見て御幸辻の方へ下る道のようです
向かって手前の道(登ってきた左へ)を進みます

正面角に立っている標識

岩湧山への矢印方向へ歩きます

尾根道(標高約774m)を少し進んでいきます。774m登った感覚が全くない

左に谷を見ながら登っていきます

やがて左にカーブする辻で、右に案内表示が立っていますので、右の岩湧山への道に入っていきます。三石山・橋本市山田は今歩いてきた道です


右の岩湧山へ登り道を入ります

さらに暫く道なりに登っていきます。道の説明できないので、写真で想像してください

地道でなくコンクリート舗装がされています



右に標識があります

正面突き当り、一段高い左右の道に出ますので、案内表示通りに右に折れます


右に折れたところから振り返ったところ。標識の左から登ってきました

その先で、平たんで結構広い場所に出ます。紀見峠・岩湧山・西への南葛城山方向へ進む、ダイヤモンドトレースの分岐点です。九重峠 に着きました

五っ辻から九重越をしてきたこの分岐で、高野街道は山田から紀の川の学文路の渡しで高野街道を登る道へ。また、九重から大野に下り紀の川を渡しで慈尊院へ渡り、町石道から高野山への道が合流しています
ダイヤモンドトレールの石標、和泉山系の尾根道を奈良から和歌山までのコース。岩湧山への道を進みます


すぐ林の中の気持ち良い道で、この付近に来ると、何処から登ってきたのか結構登山者が歩いています。(多分大坂側からか紀見峠方面からだろう)


さすがに沢山の登山者が歩いているのだろう、道がよく踏みならされてます。快適な道です

古道というより登山道ですね


やっとのことで 五っ辻 が見えてきました、でも不思議と疲れがないです。
幸村たちもこの九重峠を越えれば疲れなく危険もないことを知っていたかも

左斜めへの道が、岩湧山登山道 右は、旧道の栃谷・中ノ谷の下り道

標高754mの五っ辻につきました

岩湧山への登り道で標高897mの標高差で、山頂までは143mです。
登っている人は登山者で岩湧山への目標です。私のようなもの好きはいません


右長尾への道、前述の栃谷・中ノ谷への道でもあります。大坂側に下る道

右への尾根道を入っていきます

この時点では最初の予定通り、大坂側を下り三日市に抜ける予定でした
下っていきましたが、中ノ谷・栃谷への道がわからなく途中で諦めます。廃道となっているようだ、でも、大阪側と和歌山側の境の五っ辻に出ました。完歩ではないがこの時点では十分満足しました。
後日、幸村の峠越道を歩くにあたり調べなおして大坂側を歩くことになります。
真田幸村が下ったとしたらどの谷道を下って行ったか、この峠道も真田幸村の大坂城へのルートとしては捨てがたいと思う。
むしろ私は実際歩いてみてこの道でないかと今は思っています。三日市からの旧道はどうなっているかによりますが、(後日歩いて検証します)。

止む得なく五っ辻に戻ります。


五ッ辻の一つはしっかりした木の柵で入れなくしています。多分この先で消失しているのだろう。
滝畑への谷道のようです

ここでまた冒険心が出てきた、
五つ辻で終わり前々回、高野口町九重からの登り道が、途中山の斜面が崩れた場所の上の道まで、間違わないよう探しながら下ります。
高野口から九重道を上って、途中土砂崩れでそれ以上進めなかった、上の池の傍の旧道を探せないものかと、「関西山越の古道」中庄谷 直著全三冊と地図とを見ながら下りました。真田幸村大坂城への旧道の方向は峠からの下りなので逆歩きです。
五つ辻から暫く来た五葉の谷道を戻ります、九重峠まで戻り、少し広くなった場所で、左への山田・吉原コースに入らず。右(西)へのみちにはいります。

大阪府と和歌山県の境界にでます。南葛城山への方向で、右の尾根道になります。


少し歩くと左から前述の広場に出る道が左右に走りますので、右へ折れます

右に折れて快適な道を暫く南西に進みます説明がむつかしいので写真で追ってください

地図と見比べながら歩いています。大阪府と和歌山県の和泉山系の尾根道を進んでいると思う。(標高800~900m)

旧道らしい快適な道です、日がよく透し明るいのが何よりです


分岐の道がありますので左へ枝道が結構あるので注意が必要です、忘れられた古道なので、標識はありません


さらにこの分岐も左(南)へ、この分岐と思いますが、真直ぐは尾根を西に進む道です。南に下らなければ高野口方向に行きませんので


この分岐も左へ

どんどん舗装に沿って降りていきました。(もちろん仮定の道で正しい旧道でないかもしれませんが)

急な山道でなく歩きやすい



やがて左からの林道に出ます、鋭角に右に折れて合流する

右上より降りてきた鋭角の辻を見たところです。鋭角に曲がって下ります。
写真をたくさん撮りましたが、峠からの距離は2㎞程です

鋭角を少し左に林道を上ると、右手に紀の川や高野山が見えます

右に円を描いて進みますが、かつての旧道は資料によると、右に折れずまっすぐ進んでいたようです。歩けるかわからないので新しい舗装の林道で迂回して進みます

林道は右から左に蛇行しながら少し迂回しています

迂回してきたところで、向かって木の右側に道跡が見えます、そこに前述の道が下ってきていたようです

すると右手下に池が見えてきました、この池こそが初めに登ってきて谷道が崩れていて、上り切れなく断念したところ当たりです。やっと完全でないが九重峠が繋がりました。ほぼ九重峠越えの旧道、和歌山側歩けたことに大感激の一瞬。
峠道を下ってきたがほぼあっていたのだ。関西山越の古道(上下)中庄谷直様の著書、大変役に立ちました。感謝申し上げます。この本がなければ歩けなかったことだろう
右下に池があります,まさしく九重から上ってきて、途中崖崩れで前の進めず、その上あたりに池があるのがここでした。つながった

向かって左下が崩れていたところで、もう少しの所でした、見たところ完全に旧道は消失しています

右下の池を見ながら少し下ってきたところで、左側後方から道が出てきています。この道はおそらく前述の右へ迂回するところの辻を真っすぐ下る旧道跡でしょう。
見る限りでは道があるように見え、今は途中藪で廃道化しているようです

下ってきたところがかつての 札ノ辻跡
池を見たところで、九重峠越えの和歌山県側の旧道は踏破出来た。
次は大坂側を歩かなければ真田幸村脱出のルートは完成しない。いよいよ気持ちが高揚してきた
池の傍を少し下ったところが、かつて札ノ辻と呼ばれていました。
この辻で左に下っていく道がありますが、後で資料を見ると山田地区へ下る道で、札ノ辻からこの道も古高野街道の旧道跡だったようです。(高野山に繋がる旧道は高野街道と一般的に言われたようです)
ただこの道の先の様子がわからなかったので、山田への道は歩きませんでした。またこの道が廃道化して歩けるかどうかわからないこともあるので。
札ノ辻のところから、再度右の下の谷道を見ますとやはり崩れた後はかつての旧道は廃道化されているようです。
前述に記載している下の民家の人の話では、小さいころにはこの池までよく遊びに来ていたといっていた。現在は旧道を見つけることは難しい


札ノ辻から山田への下る道を見る

札ノ辻で南からの2ルートの旧道を歩きましたので終了します
山田地区へ林道を下っていきます南に見える紀の川、右上が高野山

下っていくと山田地区に入り、一言主神社につきますよく歩きました。
三日市側からの九重峠道の検索
真田幸村九度山から大坂城入城の道を探索していますが、九重峠越えの和歌山県側は一応踏破しましたので、今回大坂側の南海三日市町駅前の高野街道本道と分岐して九重峠越えの五ッ辻まで逆に歩きます。
和歌山県側を登っただけですが比較的厳しい道も少なく、歩いているうちにヒョットしてこの山越えをしたのではないかと思うようになりました。
三日市駅まえで高野街道と分岐して紀見峠に進まず、東南に加賀田川沿いを遡り行司河原分岐に出てその分岐から幾筋かの谷道を登る山道です。一般的には岩湧寺・岩湧山への参詣または登山道ですが、古くは高野山への古道として利用されたようです。
関西山越の古道(下)中庄谷直様の著書(平成8年発行)に、葛城二八越の一つとして九重越が掲載されていましたので殆ど参考にさせていただきました。ありがとうございました。
三日市駅前の楠木正成の幼少時多門丸が大江時親に学んでいる像を見て、三日市宿の高野街道を進み新高野橋を渡り、高野街道と別れ右に折れ更に天見川に架かる新前川橋を渡り加賀田川に沿って緩やかな坂を上る、途中の高架道路を潜り加賀田に向かう。この辺りは新興住宅地で開発されています。やがて加賀田川に架かる内田橋を渡り坂道を上っていくと、右奥に楠木正成の教育に影響を与えた大江時親邸跡に家が建っています、もしかして子孫の方が住んでおられるのかな。
その先右手に横手地蔵尊の前を進み、加賀田川に沿って山道を登っていきます。加賀田川が分流している地点で橋を渡って左へ行くと行司河原分岐点にでる、分岐の角に石碑が立っている右に行くと岩湧寺への車道です。
行司河原分岐から九重峠手前の五ッ辻まで幾筋かの小さな谷川の登り道があったようですが、どの道が一番利用された本筋なのか分かりませんが、歩いた範囲ではどの道もすでに廃道化して五ッ辻まで完歩出来ないようです(間違っていたら教えてください)。
私の感想では栃谷コース道と思いました。
分岐に案内板が立っている、左への道をとるこの先道を進んでいくと後述する天見の出会いの辻に出ます。暫く進んでいくと右に分岐する山道があります、この登り口が栃谷コースですが入り口に通行止めの標示と説明板が立てられています。舗装道でもあり左の谷川に沿って歩けるところまで登ろうと進みました。舗装も途中で地道に変わりますが谷川沿いの旧道を偲ばせる山道を登っていきます。左に小さな滝が見えます、さらに登っていくと、小さなコンクリート橋に出ますが、その先ところどころ道が崩れ足場の悪い谷川を歩く、倒木もあり道も荒れてきて道らしい道が無くなる。冬場だからいいが夏場は無理です。入り口から40分程登りましたが、もう道なのか谷川なのかわからなくこれ以上無理と思い断念しました。
元の道を戻る途中、下る途中左に細い坂を上る道がありましたので、150m程急坂を登ると尾根道らしい跡に出ました少し左に登ってみましたがそれ以上歩ける状況でなく進めなかった。右下方向に岩湧寺への車道が見えるので、この廃道化した道は多分中ノ谷コースの旧道跡と後で地図をみて両コースを繋いでいた道と確信した。繋いでいた道は人一人の幅で急坂であるが道跡が残っています。また元の道を下り栃谷コースに登り口に出ました。
もう少し天野の方への道を歩いていくと、大谷林道があるようですがここも通行止めです。大きく左に迂回している九重峠への道であったようですがこの道は旧道でないようです。
再び行司河原分岐に戻り、右の岩湧寺への道を300m程川に沿って進むと再び分岐があり、右が岩湧寺・岩湧山登山道で、左に坂を登る中ノ谷コース道があります、やはり入り口には柵がされています。右に祠があり、暫くは快適な登り坂でやがて小さな橋がありその先、雑木が倒れ道がふさがれていますので進めない。この道が前述の尾根道の廃道化した旧道に繋がっているようですが。ヒョットしたら五ッ辻まで行けるかもと期待したが消失しています。中ノ谷コースが行司河原分岐から五ッ辻まで一番近いかも。
行司河原分岐から岩湧寺回りの五ッ辻への旧道があると思うが今回歩いていません。
一応大坂側の九重峠越えの旧道が探索できたと思っていて、九度山から三日市まで繋がったので満足。
何度も言っていますが、私見ですがこの九重峠越え道が真田幸村の九度山脱出から大坂城入城時の道として書籍に載らないのは何故だろうと思っています。この道が一番の入城の道でないかと今は思っている新設です。
行司河原分岐から帰り道は、東へ前述の栃谷道の入口、すぐ先の谷川に架かる栃谷橋を渡り右にカーブして左に折れると、右に大谷林道の入口前を通り旧道を進みます。
谷橋からタケノ谷橋を渡り、流谷地区に入ると短いトンネルを潜り流谷集落を抜ける、その先で右から下ってくる細い道が合流します。一説には真田幸村が九度山脱出時に紀見峠越えの西の山道、修験者が利用したと言われる古道の行者道が合流します
さらに坂を下って行くと左対岸に架かる朱塗りの橋が架かる八幡神社があります。勧請杉の巨木が聳えています。その先暫く下って行くと天見に入り高野街道本道と天見の出会の辻で合流します。
三日市から大坂側の九重峠越の旧道を歩いた写真を紹介します(写真は逆に歩いているので見づらいかも)
南海三日市駅

駅前北側の前にある 道標と傍の案内図隣に 高野街道三日市宿・弘法大師常夜燈




すぐ隣に 楠木正成と大江時親の座像 河内といえば何といっても楠木正成・一族

正成が多聞丸といわれた幼いころ、大江時親に学問を学ぶ

駅の前で高野街道本道と分岐して、それでは歩き始めます
銅像のすぐ先で左に折れます。高野街道が右(写真手前)から合流します

左に折れて100mほど進んだ先の広い道に出たところ

そこを左に折れたすぐ右にある 大師寺河泉地蔵第二番 日限地蔵

すぐ東側に南に入る高野街道があります。そこから駅方向を見たところ

高野街道三日市宿を少し重複して進みます

三日市宿の街並み新高野橋を渡るその手前左に

高野街道八里石の道標「西 高野山女人堂江八里」南側には 南無大師遍照金剛 文政遁四年巳年二月三日市宿と刻まれている

橋を渡って数十mで、左T字路を右に折れ、この辻で高野街道と分岐、九重峠越えへの道

右に折れた道筋

すぐの広い道を横断して進むと、天見川に架かる新前川橋を渡ります

すぐ先の信号で左に折れます

左に折れて、左手の天見川に沿って南に進む天見川はすぐ先で、加賀田川と分岐して高野街道に沿います。

加賀田川を左に見ながら高架道路の下をくぐり進む

緩やかな上り坂の住宅地を進みます

左からの加賀田川を加塩橋で渡ります、川は右に変わる。左の高台に加賀田神社がありますが、この先の時間が想像つかないので寄れません

右に学校、左に郵便局を見たところを振り返る

道は緩やかですが上りか続いてます。右手左手には新しく開発された大きな住宅地が広がります

田作バス停の付近、右手に大きな家が見えます。その向こうは大矢船中町・南町・西町・南ヶ丘の新興住宅地が続きます

加賀田川に架かる内田橋を渡り、川は左側に沿います

左に加賀田川に架かるごうのきた橋を見て進む

すぐ右に坂を上るところ 道標 が立っています大江時親邸跡への道です。「大江時親邸跡碑へ一丁」すぐ先で右に大江家の大和棟の旧家で、十八世紀前半の建築といわれています。

大江時親邸跡
大江時親(毛利時親)は朝廷に仕えた公家の名家。楠木正成の軍学兵法の師といわれ多聞丸時代には観心寺から7㎞の道のり通い兵学を習ったと伝わる。また大江時親は戦国時代中国地方の覇者、毛利元就の始祖と家系図にあります。

道標のすぐ先で道は右にカーブしています正面、高架道路、手前建物は中自治会館

高架をくぐり進んでいくと、加賀田川に架かる岸上橋を渡ります。右に川が沿います

更に進むと榎平橋を渡ります、渡るとすぐ右に 横手地蔵尊が祀られている。しばらく左側に変わった加賀田川が沿います

加賀田川が分流しています、橋を渡って左に進む

三日市からスタートしてからは長い緩やかな上りが続いてきました

中央に石碑が立つところ道が分岐していますので左への道を進みます

左の道を少し進んでいくと橋に出ます、橋を渡ると道がまた分岐しています。この辻が 行司河原分岐の辻 に出ました。

行司河原分岐の辻
行司河原分岐から九重越峠の手前の五つ辻まで幾筋か谷道・尾根の登り道があったようですが、どの道が一番使われていたかわかりません。
結果的には、廃道化して五つ辻まで辿り着くことができませんでした。
この分岐の右のまっ直ぐの道は岩湧寺を経由する舗装道で、岩湧寺からは岩湧山(898m)への登山道(岩湧山道)で、五つ辻にでるコースです。また岩湧寺を左に見て西に山中を進んでいくと滝畑ダムに出て、滝畑街道(蔵王峠越)からかつらぎ町に出ます。
またこの道を進むと途中で左の山道に入るのが旧道中ノ谷道で五つ辻までは一番の近道だそうですが険しい山道です。
山越の古道、資料参考にして行司河原分岐で左の道をとりました。(関西山越の古道上中下の著書が完成した1995年頃にはまだ旧道は残っていたようです)
行司河原分岐に立てられている案内板
この分岐から東から、大谷林道(かなり迂回していて遠回りです)、栃谷コース、中ノ谷コース、そして一番西の岩湧寺から岩湧山の登山道があります。


分岐から今渡った橋を振り返る

分岐を左に進む道、この道の先は流谷から高野街道の天見駅に出ます。結果的には後でこの道を歩くこととなりました

少し進んでいくと右から地道のかつての旧道らしき道が出てきています。分岐から旧道がかつてここに出ていたのかも

地道が出てくるところを振り返ったところです

そこを右に見て、しばらく緩やかな上り道を歩いていくと、右に通行止めの看板と説明版が建っています
五つ辻への一つのコースである 栃谷の登り道 です

説明によると、以前は車も走っていた林道か舗装もされているがかなり荒れていて走れない納得

通行止めの立て看板を入り振り返る。右から地道の道が出てきています旧道跡か

気持ちの良い道です、このまま九重峠へ登れる気がしてきました。でも車が通っていたとは驚きです。山林関係の人だけ利用したのでしょう

何度も歩いた、かつての旧道の山道を彷彿します。幸村の大坂城への道だったかも。左は谷川が沿います

振り返ったところです

左は谷川で小さな滝が見えます

左の谷川には、小さな滝が沢山あります

緩やかですがかなり登ってきました、振り返る

小さなコンクリートの橋が架かっています山深くなってきました、谷川沿いに登っていきます。

さらに奥深く登っていきます

道が少し石がゴロゴロ荒れてきました。車は当然無理です、第一Uターンが出来ない

ここまで来たらもう尾根道に近くないのだろうか。もうどの辺りを上っているのか分かりません



ここで道は崩れた跡があり谷川の中の道になっています。でも前方が明るく峠に近いのかも。私は登山に詳しくないのでよくわかりませんが、振り返ったところです

道は狭くなり荒れてきましたが歩くには問題ありません

だんだんと倒木もあり歩くのも大変。多分山仕事以外の人は入ってこないのだろう。もの好きなのは私だけか?
少し先が不安になってきました


果たして五つ辻に行き着けるのだろうか心配になってきた。どのあたりまで来ているのかもわからない。冬場だからいいが、夏場は一人では無理です。五ッ辻に近づいているのは間違いないと思うが、資料では近くなると右に急カーブするのだがそこまで来ていないようです。
もう谷川と旧道は同じです。谷川の中を歩いている感じ


道にコンクリート跡があります

もう道の踏み跡もなくなり谷川を歩いています

ここにきて先に進めないので断念するか決心しかねたが、もう少し登ってみたいが、登山の素人がこれ以上は道がないので諦めます。(登り口から約40分)
分からなかったら無理しないで戻ると、自分自身のルールで決めているのでここで諦めます。多分峠の五ッ辻に近いか、なりいいところまで登ってきていると思います。
栃谷コースの登り道断念します
「関西山越えの古道、中庄谷直」の資料を再考してみると、この辺りでないだろうか右の尾根に登る道があると記載されています。戻る道をよく注意しながら下ってきましたがそれらしい尾根道はありませんでした。著書発行は平成7年(1996)なので30年弱の調査資料なので、おそらく人もすでに歩かない道で廃道化していても不思議でない。
戻る途中下の流谷への車道近くまで来ると、下から登ってきた右に細い急斜面の道がありました。谷から尾根に登るようです。栃谷を登っていくと途中で尾根に登る道があり古道らしい快適な道とありますが。この道のことだろうか、それなら登りかけてすぐ右へと記載するのだが、この道が中ノ谷コース道とつなぐ道のようです。
参考に登ってみました、下から登ってきたところで右へ

急な狭い登り道ですがしっかり道が残っています


人一人歩けるぐらいの細い道を登る

かなり急坂を登っていくと、尾根に至りました。向かって左から登ってきて、正面は尾根道のようです。右は下っています想像ですが五つ辻の一つである中ノ谷道に通じているのではないか

よくわかりませんが、詳しい方がおられたらご教授頂きたい気持ちです
尾根道をもしかとして少し進んでいきましたが、途中で道が怪しくなってきたので引き返しました。

栃谷ルートを諦め、元の行司河原分岐の辻に戻りましたが、峠近くまで行ったような気がします。幸村もこの旧道をもしかしたらと思うとワクワクします
2つ目のコース、中ノ谷コースを検索します
行司河原分岐から右の道、岩湧寺への道を進みました。 融通念仏宗湧出山岩湧寺 は岩湧山(標高898m)の中腹にあります。開基は役の小角といわれ、創建は大宝年間(701~704)、多宝塔(重文)・木造大日如来坐像(重文)があります。(今回は目的が違うので寄りません)

300m程進んでいくと、車のところで道は分岐しています。右の真直ぐな道は岩涌寺への道で、岩湧山登山道を経由して五っ辻への一つのルート道です、遠回りになります。
幸村が歩いたとしても岩湧山コースでないと思う。
車のところ左への入る道が、五っ辻への一つ 中ノ谷ルートです。この道は一番の最短コースで厳しい山道だそうで、少し旅人には敬遠されていたようです。中ノ谷道に入ってみます。(ほぼ真直ぐ登り五ッ辻に達していたようです)

左に入り登りかけた右に、祠があります

少し登って振り返る

快適な山道です


舗装もされています

かなり登ってきたところで小さな橋が架かっています

橋の先進んでいくと、雑木の倒木で道がふさがれています。この道も今では登山者も入らないのだろう

それでも古道跡が残り歩けます

道は地道に変わり荒れてきました


これぐらいの道なら五っ辻まで行けると思いました

道が狭くなり怪しくなってきた


かなり登ってきましたが、道はもう限界のようです。危険なのでこの辺で戻ります

中ノ谷道は南に最短に登り、五っ辻の手前で栃谷道と合流して五っ辻に出ていた。結局、両方のコースも廃道化して踏破し合流点まで到達できなかった。
中ノ谷道を断念して再び行司河原分岐に戻ります
私の歩いた限りでは、資料からしても大阪側からの古高野街道。九重峠越道は踏破するのは今では無理のようでしたが、九重峠越の古道歩けて満足。
歩いて検索してみると、幸村の九度山脱出ルートとして、紀見峠越え・蔵王峠越え・九重峠越えを加えてみました。3ルートの内で、私見では九重峠越が最有力です。(研究者の方たちから見れば何を勝手なこと言ってるのだと叱られそう)
これで九度山真田庵から3つの峠越を歩き、河内長野までの幸村大坂城入城の道を完歩しました。引き続き、完結として河内長野から大坂城まで後日歩きます。
行司河原分岐へ戻ります(補足として)
行司河原分岐に戻り帰りは東に道をとり 、流谷から南海高野線天見駅前の高野街道に合流します。この道も古くから存在していたようです。
先ほど通った右手栃谷道登り口です

上り口を振り返った処

右に栃谷のルート登り口です、振り返る

登り口のすぐに谷川に架かる、栃谷橋

栃谷登り口より少し進むと、左にカーブすると右に大谷林道があり、この道も栃谷道と並行した道で五っ辻に出ていますが、距離は遠回りとなり、現在は鎖で通行止めにしているところを見ると、先で通れなくなるのだろう


すぐのところで同じように大谷橋を渡ります




トンネルをくぐります。旧道は消失しているようです

トンネルの先の道


やがて流谷の集落が見えてきました

流れ谷 竹のたわ


右のところに、紀見峠越より古いともいわれる修験者が通った行者道が出てきています。想像ですが、真田幸村は大阪城入場時に紀見峠越をせずこの行者道を抜けたともいう説があります

修験者は手前に道をとり岩湧寺方面へ、下っていきます。流谷 竹のたわと天見駅の案内


やがて左川向に 八幡神社

前方に天見が見えてきました

八幡神社を振り返る

神社を下っていくと出会いの集落に入ります


高野街道出会いの辻に出ます。交差点を横断して右からの高野街道本道と重複して、南海高野線天見駅前に出ます
九重峠越えを一応完歩
第三章
いよいよ真田幸村の大坂城入城の道も、河内長野まで来ました。ここまでくればもうほとんど障害物はなく、いかに早く進める街道を模索して、四天王寺まで進み、そこで体制を整え威風堂々と大坂入城するだけです。河内長野から大坂城への道は、沢山ありますがどの道であったか、文献資料もほとんど残っていなく、おおむねの道の資料は散見されるが、詳細の道の文献は皆無に等しいので、この先は私の想像ですのでなんの確証はありません。

三日市で合流した高野街道(九重越含む)は、
(1)東高野街道
(2)西高野街道と分岐
(3)西高野街道から中高野街道
(4)さらに下高野街道が分岐する
① 東高野街道を進んだ場合はほぼ真直ぐ北に、この街道は京都府八幡市石清水八幡宮の西麓の木津川に架かる御幸橋手前までの街道です。
途中古市で東高野街道と分かれ西への古市街道を進み、大和川に架かる明治橋を渡り、庚申街道で四天王寺への道。
かなり遠回りで、途中で1泊ならいいが少し大坂城への道としたら遠い。
② 次にこの道であると思う、私の私見で四天王寺への道を検索します。河内長野からの道は、豊臣家の管轄であり、殆ど障害がないので、少しでも早く四天王寺へ道を進む。
河内長野より西高野街道を進み大阪狭山市の三津屋川に架かる三津屋橋に出ます。この辻で西高野街道は真直ぐおわり坂を進み、起点の堺市大小路交差点への街道。四天王寺への道としては、下高野街道に分岐の起点を右の三津屋川沿いを北に進む街道で、大和川に架かる下高野橋を渡り、近鉄阿倍野駅・JR天王寺駅を抜け真直ぐ北に四天王寺に進む。
③ 河内長野から西高野街道で進み、南海千代田駅の西北の千代田高校と楠小学校の間の辻、西高野街道と分岐する、中高野街道の起点を北に、大和川に架かる高野大橋を渡り、平野の杭全神社南に出て、西北に方向を変えて四天王寺への道。
① ② ③ の道を少し写真に沿って掲載します。
私は②の道でないかと思考しています。
① 【東高野街道・古市街道・庚申街道】のルート
河内長野駅前から北に進み、近鉄汐ノ宮駅西側を通り錦織南で右に石川が近づく辺りで富田林市に入る。国道に出て少し進み錦織東で右に国道を分け、錦織中の旧道を進む。右に滝谷不動駅を見て近鉄線を右に並行して進むと錦織北に入ります。新家の集落を通り自動車道を横断すると右手に川西駅があります。駅の北側の高架で線路を越えて西側へ、右に石川、左に近鉄線で甲田、谷川町へと進む。やがて左に富田林高校を見て寺内町に入ります。
かつての豪商たちの旧家が碁盤の目に立ち並びいにしえの時代に戻ったかの思いがします
(国の重要伝統的建造物保存地区)。地内町を抜け若松町で右に新堂小学校の前を抜け中野町に入る。左に栗ヶ池、市民会館を見て左方向に貴志駅があります。貴志町で右の旧道に入り暫く歩き南阪奈道路を潜ります。古市に入ると左の安閑天皇陵をかすめ、近鉄南大阪線の踏切を渡る。300m程先、古市蓑の辻交差点に出ます東西に交差する街道は竹内街道で道標が建つ、左に入った奥に古市駅と白鳥神社があります。交差点を横断して少し先郵便局の辻で左、右と進む左に古市小学校を左に見て北へ、近鉄線の踏切を渡りすぐに170号線を斜めに横断した先で右角に道標のある辻に出る。
古市街道、真直ぐ進むのが東高野街道でこの辻で別れ、辻起点の古市街道に継ぐ左に折れる。誉田八幡宮を右に西に進みます。右奥に応神天皇陵が見えます、その先で170号線を横断左に羽曳野市役所、右手に野中神社を見て進むと正面に170号線外環状線の高架下を潜り右に折れ、野中北交差点で左斜めに入る。
暫く北に進み右に弘仁可児病院のあるすぐ先の信号を左に折れる西へ。左手に仲哀天皇陵を見て北に進むと葛井寺に突き当たり左に折れてすぐまた右へ進むと、近鉄南大阪線の藤井寺駅の東川の踏切を越えてアーケード商店街を抜けます。その先右から長尾街道が合流し400m程重複して小さな川を渡った先で長尾街道は左に分岐します。城山古墳を右に見て津堂地区を進むと、西永川の馬街道橋を渡り、左の池の先で藤井寺高校をみて小川に入る。右手に西名阪自動車道が接近、松原JCTをくねりながら大和川の大堀八幡神社に出ます。街道は神社辺りから大和川を渡河していたが、西の明治橋に迂回する。古市街道は対岸の専龍寺の西で北に分岐していきます。庚申街道は古いと街道と分岐して大和川の堤防道を西に進んでいく、途中高野大橋の手前で中高野街道と交差する。その先で阪神高速松原線を潜り1㎞ほど更に進む、住道矢田地区で右への旧道に折れます。すぐ左に慈眼寺、常栄寺の前を通り真直ぐ北に進む。やがて城南学園、手前左角に城南学園高校との間の辻を左へ、更に少し先で矢田北小学校を右に見て右に折れる。479号線の広い車道を横断して湯里に入る。屈曲しながら北へ進むが途中左に湯里住吉神社があります。右の南百済小学校の手前で左から八尾街道が合流してきます。400m程重複して、八尾街道は中井神社手前で右(東)に分岐します。途中左方向に針中野駅がある、その先で阪神高速松原線の高架を潜り西今川地区を北に暫く進む、1㎞程の所で左に折れます。真直ぐは鶴橋街道ですが(歩いていません)。左に折れて近鉄戦の高架を潜り更に西に進むと、阪神高速と阪和線を潜ります。左に桃ケ池の辻で左阪和線に沿って下高野街道が合流します。この先四天王寺まで重複します。右の阪神高速を潜り北側に出て、文の里地区で右に明浄学園高校を、その先、蛇行しながら松崎町を抜け阿部野橋駅に突き当たる。天王寺駅を地下や高架で北側に出て、その先四天王寺南大門に向かって進む。
河内長野駅前ロータリー正面のアーケード商店街、高野街道に続き河内長野駅前の交差点で東・下・中・西高野街道が分岐します。この辻で、東高野街道は起点とする、この先の道はノバティながのを挟んで東西どちらの道をいってもいい、先で合流します。

右の街道を進むと菊水町交差点に出る、手前の道が五条市への 大沢越え街道。

石川の対岸に汐の宮温泉病院が見える所で、河内長野市から富田林市に入るが、すぐ先、史蹟東高野街道錦織一里塚跡石標 本来街道を挟んで一対があった。金剛鍍金工業所の北隣にのこるものはその西塚でエノキが植えられていた。

新家集落を抜けていきます

近鉄南大阪線、汐ノ宮駅、滝谷不動駅、川西駅を右に進み、川西駅の北側の高架を潜り線路の東側に出ます。
やがて富田林町にはいり、富田林街道と交差します。

若松町の五差路の交差点に出ます。旧道の雰囲気が残り、町並は旧家の残る街道筋に入っていく。富田林の町並みもまた素晴らしい右、家の軒に灯籠


左には、栗ヶ池が広がる。桜井交差点より少し進むと、中野町3交差点で道が分岐するので、右の道に入る。貴志南交差点、交差点を左(西)150mほど行くと、近鉄長野線の貴志駅に突き当たる。
国道より右の旧道に入り並行して進んでいきます。やがて南阪奈道路を潜ります

左に、二上山が望める

左に高屋神社があり、高屋集落の中に位置する古社。宣化天皇3年(538)勅命によりこの地に創建されたと

高屋の集落を進んでいきます

左に 安閑天皇陵があります.この地区には沢山の天皇陵や古墳が散在します。やがて南大阪線の踏切を横断し大乗川に架かる橋を渡ると、古市の町並みに入ります。古市も旧家の残る建物が並びます

右から 竹ノ内街道 が交差する古市蓑の辻に出ます。この辻が 古市街道の起点 で、北に暫く東高野街道と重複します。(街道詳細は別紙、東高野街道、古市街道、竹ノ内街道をご覧下さい)

左に古市駅、ヤマトタケルの命を祀る白鳥神社をみて、北へ、近鉄南大阪線を越えた300m程先での十字路を左に折れます。この辻で東高野街道は真直ぐ進むので分かれます。左に古市街道を進みます。
直ぐ先右に 誉田八幡宮の楼門
誉田八幡宮の北西に広大な応神天皇陵があります。墳丘長415m、幅60~80mの濠をもつ古墳で、面積では仁徳陵に次いで全国二番目です。堆積では日本最大です。5世紀初頭の築造

道標二基 「藤井寺大阪方面」 「右 大峯山 つぼさか ・・・」

塀際にも 道標

古市街道
近鉄南大阪線の古市駅の東150mほどの辻、竹之内街道と東高野街道と交差する交差点~大坂市平野区の宇賀神社南の25号線宮前交差点、自宅4時40分に出て林間駅へ河内長野から近鉄に乗り換え古市駅へ行く。古市街道は見るべき旧跡が多く、昔の面影を偲ぶ街道で素晴らしかった、沢山の他の街道とも交叉し御陵も沢山あるコースである。
古市は「日本書紀」にもその名が記された長い歴史をもつまちで、竹内街道と東高野街道が交差する江戸時代の古市は、石川を行き来する剣先船が着く水運の要地でもあり、商業や産業が発達して栄えた。
竹之内街道と交差する、‘’信仰の道‘’東高野街道は、およそ1200年前に空海が開いた高野山への参詣は、皇族や貴族の間で始まり、しだいに武士や庶民に広まった古道。京都から生駒山地の麓を通って高野山へ至る東高野街道は、主要な参詣道の一つ。東高野街道と交差する、江戸時代の賑わいの道‘’竹内街道‘’の起源は、今からおよそ1400年にさかのぼる。「日本書紀」には推古天皇の二十一年(613)に「難波より京に至るまで大道を置く」と記され、飛鳥のみやこと、海の玄関である難波とを結ぶ道が、国をあげて造られた。
みやこが京都に移った後もこの道の重要な役割は受け継がれ、江戸時代中期以降は、「竹内街道」とよばれるようになった。商業で栄えた泉州堺と、数多くの寺社があり農産物の産地であった大和を、また、遠くは神宮がある伊勢とをつなぐ道として、多くの人々や物資が行き来した。(説明版)
誉田八幡宮その先を西に進むと170号線の交差点を横断、左に羽曳野市役所。その先左に葛山古墳、右に野中神社を見て、外環状線の高架を潜ります。右に折れて少し高価の側道を進み左の旧道に入ります。


暫く北に300m程町筋を進むと、右に弘仁会可児医院がありすぐ先の信号交差点を左に折れる。
更に500m程西に進みますと、なな保育園のすぐ先が、三叉路に分岐しているので、右に折れます。左手奥に
仲哀天皇陵

暫く進んでいくと正面に、葛井寺 で突き当たる南大門

そのさき左右に折れて北へ商店街のアーケードに入る。アーケードを抜けると近鉄南大阪線の踏切を渡る、すぐ左が藤井寺駅。踏切を渡り再び北商店街アーケードに入る。
その先の四辻で右から 長尾街道 が合流します

街道は四辻を真っ直ぐ、長尾街道も暫く重複

小さな小川の橋を渡るとすぐ、この辻で長尾街道は左に折れて分かれる。

北の真っ直ぐな旧道を進み、やがて右に大きな 常夜灯

右に藤井寺小山郵便局があり、そのすぐ先で右に産土神社があり、その前を左に折れます。

西氷川に架かる馬街道橋を渡ります、街道は池に突き当たり右側を進みます。小川の集落を進むと、深居神社
神社の前の道を真っ直ぐ北西に進み、阪和自動車道に突当り旧道は消失。迂回して反対側に出る

この先高速道の松原JCTで旧道は消失分からない、とにかくJCTを抜けるまで私の歩いた道を記載します。
左の東除川と共に、阪和道と中央環状線道を潜り、50mほど進むと交差点で左には橋が架かっているところを右に折れる。50mほど進む、右に松原市消防団第四分団があるので、そこを左に折れる、植松畳店の細い道を入る。
その先、民家で突当り左に折れる、すぐ右に高速道の高架が迫る。左に折れると、右に教専寺があり、右に見て真っ直ぐ進むと、東除川に突き当たるので右に折れると、すぐ広い道に出て横断する。左の橋は、東除川の大堀小橋。すぐ先の高速道の地下道を潜る。
要は、高速道の松原JCTを抜けて、大堀八幡神社 にでる

神社を左に真っ直ぐの道は、大和川で行どまり。以前はここから左斜めに向って、対岸の長吉への川辺渡しがあった

迂回して大和川に架かる明治橋を渡り対岸に出ます。対岸の堤防左下に
川辺八幡神社 神社の東側を北に、古市街道が進む。そして引き続き 庚申街道 は大和川の堤防を西へ進む。この分岐から大坂城の街道としてこうしんかいどうを進みます
堤防左下に川辺八幡神社

神社近くの 庚申街道の起点 川辺八幡神社を右に見て西へ堤防を進みます

1.5㎞程進んだ大和川に架かる高野大橋の手前で 中高野街道 と交差します。その先400m程で阪神高速松原線を潜ります。そして1㎞程先住道矢田9で右に折れる。すぐ左に慈眼寺、常栄寺が左に並んでいる筋です。そして北に11.2㎞程進むと十字路の左向かいに城南学園小学校のある十字路を左に折れて、更に300mほどさきの右に矢田北小学校の見える十字路を右(北)に折れます。
屈折しながら北に進むと、左に湯里住吉神社があります。その先300mほどで左から 八尾街道が合流してきます。右手に南百済小学校、その先左奥に針中野駅が見えます。そして右に中井神社が見える十字路で右に重複してきた八尾街道が分岐します。
右への道は八尾街道が分岐

阪神高速松原線の高架を潜る、

西今川の町並みを北に進んでいくと、鶴橋街道(歩いていません) が分岐北に進んでいきます。庚申街道は左へ。少し進み小川を渡ると近鉄線南大阪線の高架を潜ります。
やがて左後方斜めから阪神高速道が、そして同じところで阪和線を横断します。線路を越えた左から下高野街道が合流してきます。左は桃ケ池があります。
下高野街道と重複して、右の高速道を潜り、左に高速道の近くを文の里をジグザグに北西に進みます。
阿倍野区の松崎町の南で左から 熊野街道 が合流してきて北に重複して折れます。そして松崎町を進み大阪阿部野橋駅に時当たり、旧道は完全に消失しているので、正面の階段を上り、近鉄阿部野橋駅、JR天王寺駅を越えて少し北に進むと四天王寺に出ます。
東高野街道、古市街道、庚申街道を次いで幸村大坂入城の道を検索してきましたが、少し迂回路が遠く、多分東高野街道は使っていないと思った。(写真が逆で申し分かりません)
② 【西高野街道~下高野街道~四天王寺へのルート】
私は、このコースをあるいたのでないかと思っています
河内長野駅前で高野街道に続き東高野街道と分岐している。
河内長野の本町から北西に道を進み、左に寺本記念病院角で左鋭角に折れ、すぐまた右鋭角に進む。170号線の高架を潜り原町を進む途中、高野山女人堂九里石の道標が建つ。木戸西町を通り右に楠小、左に大阪暁光高校の辻、楠町東で街道は分岐、西高野街道は左の道です。
途中、中高野街道起点 は右の道で常夜灯と祠が建っています。(後述します)
西高野街道から下高野街道の道は、もう少し西高野街道を進み、右手に松林寺を見て松ケ浜中町を暫く進む、大阪狭山市と河内長野市の境界近くの高野山女人堂十里石をみて、采茰木の街並みを抜けるとやがて、三津屋川の三津屋川橋に着きます。下高野街道の起点で三津屋川に沿って川沿いに進む。
分岐の辻を西高野街道は真直ぐ「おわり坂」上っています。分岐には三津屋地蔵が祀られています。
この先おわり坂を上らず、この辻で 下高野街道 をすすむと、四天王寺までは近い。
(参考までに)西高野街道は、岩室1丁目で左からの天野街道が合流、女人高野で人気のあった天野山への参拝道。岩室から山本南、中、北と進み、310号、36号線を越えて中茶屋に入り関茶屋を進むと、左に大阪公立大学がある。やがて南海高野線が接近し、JR線を越えると右に三国ケ丘駅で、左手には仁徳天皇陵の北側を抜けて右の南海高野線を越えると榎元町で、右から竹内街道が合流してきます。そのまま重複して進み南海高野線の踏切を渡ると、一条通りに出て正面に堺市役所の高層ビルを見て、その北側を西への車道を進んでいくと、大小路交差点に到着します。西高野街道、竹内街の起点であり、紀州街道が南北に通っています。やはりここまでくると遠回りになる。
まず西高野街道の概略写真で進んでいきます(詳細街道案内は別ファイルをご参照ください)
高野街道に引き継ぎ、河内長野駅近くでで、東高野街道との分岐起点し、本町を進みます、そして方向を左に変えて吉野町を北西に500m程進むと、左に寺本記念病院をみて、その切れたところで371号線に出ますので、鋭角に左に折れます、50m余りで371号線は真直ぐ進み、街道は右鋭角に折れて北に進みます。そして300m余り先で広い170号線を横断します。
河内長野駅前 東高野街道との分岐起点

本町に入り左へ、北西に真直ぐ進みます。この筋には沢山のお堂等が祀られています。

まず福寿地蔵と金龍大神、旧阿弥陀寺の地蔵講によって祀られた、十三仏板碑二基・地蔵菩薩像・観音菩薩像
更に 高野山女人堂九里石
病院の手前に、行者講のちいさな東屋と大峯三十三度記念の碑 九里石の横には 道標「中本山極楽寺左さかい四里 大坂七理」

左に寺本記念病院があり371号線に出ます、その辻を鋭角に左に折れ50m余り371号線を進むと、371号線は真直ぐ南へ、街道は右鋭角に折れて北に進みます。
原町6丁目の170号線の高架を潜る手前塀際に、道標 西国巡礼道の交差するところで半分埋もれている「左まきのお 右さかい大坂」
170号線のを横断して進むと 陰陽師・安倍晴明にちなむ晴明塚と常夜灯

原町から木戸西町を進むと、右手に南海高野線千代田駅が国道の東に、更に右に楠小学校、左に大阪暁光高等学校の間で街道は分岐します。
その辻に立つ古い 地蔵と常夜灯 果たして幸村はどちらの旧道を進んだのでしょう。(中高野街道のコースは後述します)
向かって右は 中高野街道。左は 西高野街道

中高野街道と西高野街道の分岐の辻
京の都と仏教の聖地高野山を結ぶ高野街道は、平安時代の皇族、公家や、中世から盛んになる武士、庶民の高野山参詣に利用されました。
この街道には、主に4つのルートがあります。1つは「東高野街道」です。古代官道のひとつ南海道が前身ともいわれ、京から石清水八幡、洞ヶ峠、生駒山西麓を南下し、河内国分、富田林寺内町を経て市内の本町で「西高野街道」と合流しています。
また、「西高野街道」は、堺市の大小路を起点に、現在の国道310号線に沿って南下し、大阪狭山市の茱萸木から、西除川を渡って市内の松ヶ丘(西町と中町の境)に入り、ここ楠町(西と東の境)で「中高野街道」と合流します。
また、「中高野街道」は、大阪市の平野からまっすぐ南下し、松原市の阿保、堺市美原区の舟渡池、菅生神社を経て、狭山へ向かっている。
さらに、四天王寺から「中高野街道」とほぼ平行する形で狭山に達する「下高野街道」もありました。
このように、市内では、「西高野街道」と「中高野街道」はここ楠町で、「西高野街道」と「東高野街道」が河内長野駅前の本町で合流し、紀見峠を経て、和歌山県の高野山へ向かっている。
左に西高野街道を進みます、少しさきに松林寺があります
河内長野市松ヶ丘中町の、西国三十三度供養塔と大神宮常夜灯

大阪狭山市と河内長野との境界近くで天野橋を渡ると 高野山女人堂十里石、暫く茱萸木の街並みを進んでいきます

やがて三津屋川にでて堤を100mほど進む左の三津屋川に架かる三津屋川橋を渡ります。
橋を渡った辻で、西高野街道は真直ぐの「おわり坂」を上っていき西高野街道と分かれます。右の三津屋川の堤を下高野街道はここを起点として、四天王寺へと進みます。
幸村が西高野街道を進んできたとしたら、この辻で下高野街道に継いだことだろう
分岐地点の緑地の中にある 祠

参考までに、この先の西高野街道は(詳細は西高野街道を参照してください)、交差点を横断しておわり坂を上っていきます

このまま西高野街道を進んでいくと、堺駅東の紀州街道の大小路に行きつくが、わだわだ遠回りで四天王寺へ到着したと思えない。
南海堺駅前より真っ直ぐ東南に広い車道を進み、大道筋の大小路交差点(堺北警察署前)へ大小路筋は紀州街道
大小路交差点が西高野街道の起点とされている。

三津屋川橋の分岐より 【下高野街道】に引き継ぎます
河内長野駅前から西高野街道に重複して原町、木戸西町、楠町東、松ヶ丘中町、菜菓木、今熊で三津屋川の三津屋川橋の辻で西高野街道は真直ぐおわり坂を上り岩室へ、
下高野街道は三津屋川に沿って進みます。池之原で狭山池を右に、左に副池との間を進んでいき、池尻中の先で南海高野線の狭山駅を右に見て、その先で踏切を渡り北へ左手方向には北野田駅、北野田駅を抜けてきた和泉街道が東西に走る交差点を横断。南余部集落の先で富田林街道が東西に走る交差点を横断します。真直ぐ北へ阪和自動車道を潜ると、大響地区から小寺地区の町並みを抜ける。やがて大阪中央環状線を八下町で横断すぐ先で竹内街道が東西に通る交差点を横断、そのすぐ先左へ、八坂神社を右に見て右折れ、堺市北区野遠町に入る。左の尻池と右の古池を抜け南新町へ、右から西除川が接近して進むと東西に通る長尾街道と交差、右手川向方向に布忍駅があります。左の布忍神社の前を抜け北新町に入る、天美南5辺りで西除川は左(西)に離れていく。暫く進むと大和川に架かる下高野街道を渡り矢田に入る。矢田駅を右方向に見て長居公園通りを横断。鷹谷神社を右に鷹谷地区を進み、東田辺に入ります、南港通りを横断南田辺商店街の中を進み、左に山坂神社を見て北に折れる。左に阪和線の南田辺駅を見る、山坂1丁目で左に折れ線路に沿って右に進む。左に桃ケ池が広がる。池の北端で阪神高速の高架下に出ます。右から東高野街道、古市街道と継いできた庚申街道が合流して四天王寺まで重複します。
その先阪神高速の高架を潜り、北西に文の里から松崎町へジグザグに進んでいく。途中大坂市立工業高等学校、関西外語専門学校をみてやがて部伸ばし役に突き当たります。陸橋で天王寺駅を越えて北側に出る、玉造筋と交差する角、西下胃腸病院前の道標を見て、北川堀町の五ッ辻の道標を見て、谷の清水と地蔵尊から庚申堂、左に超願寺前を通り国道を横断すると、四天王寺南大門が正面に見えます。
西高野街道とおわり坂で分岐

三津屋川沿いの道

300m程三津屋川沿いを進み、左の狭山西小学校の角で左に折れます。少し先で広い道路の34号線に出ますので歩道橋で横断します。池之原3を北へ進んでいくと、310号線を横断150mほどで小川を渡ると、右に大きな狭山池の展望に出ますので、300m程堤防又は堤防下の道を進みます。綺麗な池周辺で、市民の憩いの場所になっている。

狭山池の北の端で、左側の池の所で分岐しているので右の道、池尻中を北に進んでいきます。途中左に地蔵型道標の祠が有ります。
やがて南海高野線の狭山駅南側に突き当たり、駅の北側の踏切を越えます。

北へ進んでい右に牛頭神社、そして 和泉街道 と交差します。左に行けば北野田駅に出ます。

堺市東区北野田付近、この街道は旧道の情緒が漂っていて素晴らしい

西除川に架かる野田橋を渡り南余部を通り暫く屈折しながら北へ集落を進みま。
北余部交差点にでると、東西の交差する道は 富田林街道

交差点少し先左に萩原神社

阪和自動車道の手前に、かつて高札場があっていまは札場地蔵があります
そして阪和自動車道の高架を潜ります。堺市美原区付近

街道は北に八上小学校の前を北に進みます。学校の角に地蔵尊型道標 「すぐ大坂 東ふじいてらみち 西いずみ南 かうやみち」
おわい地区を進むと、鍵型道になっている辻。右角に 道標 「左 大さか天王寺道 右 かうや大みね道すぐ富田林ふじゐ寺道」が立っています。そして100m程先右に西方寺、門前横に道標型地蔵は建つ。
小寺の集落に入ります、右奥に菅原神社があります。
八下の街道雰囲気の残す集落の中を進む八下町3丁目付近

大阪中央環状線を越えると100m程先で、八下北で東西に通る 竹内街道 と交差する

竹内街道を越えて100m程で左に折れて、更に200m程で右(北)に折れます。野遠町の集落の中、左に折れた途中右に、西教寺、八坂神社があります。北へ進み、尻池と古池の間の旧道を進みます。

街道沿いに立松地蔵尊、大きな蓮如上人御遺跡の碑が左奥の報恩山称名寺の参道入り口にあります。
すぐ右に西除川接するところ東西に通る街道は 長尾街道 でその右手に近鉄布忍駅があります

南新町地区で、右の西除川に沿って進むと、西除川に架かる赤い宮橋が右に架かっています。街道左に布忍神社、右川向に融通念仏宗布忍山大林寺があります。
暫く川沿いを進み、天美南で右の高木橋を渡り東側に出て北西に進みます、西除川が西に離れていきます。
200m余り進んだ十字路右角に
地蔵型道標 「右 志ぎ山ひらの三宅村 左 天王寺あま岸」裏面「すぐ高野山狭山道」

天美南で川は西に離れていきます。天美南6丁目、右に天美小学校、天美東公園を見ながら暫く古い建物も残る天美の街並みを進む,

天美北七の交差点手前右に関西出雲久多神社、交差点を渡り大和川に出る手前左に阿麻美許曽神社があります。
大和川に架かる下高野橋を渡る

その先右に、光明寺

光明寺の少し先右に 地蔵尊は道標を兼ねている
更に左に、西光寺と光西寺が並んでいる。その先右に大阪芸術大学短大の前を進む
矢田2北信号交差点で長居公園通りを横断

鷹合4丁目を進むと右奥に鷹合神社が見えます。すぐ先右のお寺の十字路を左に折れて、100m余り進み左鷹合小学校の角で右に折れます。そして600m程北に進む、東田辺3の十字路で左に折れて150m程進むと、26号線に出ます、右に折れて26号線を北へ、400m程進んだ十字路(途中左に郵便局があるその先3筋目)を左に折れて3筋目の十字路を右に折れます、南田辺3辺りです。3筋目で東西の南港通リに出ます。横断すると正面に南田辺商店街のアーケードの中を進む、左に南田辺駅があります。

アーケードを抜けて左に50m程進むと正面に山阪神社、その前を右(北に折れます)。
少し先右に田辺不動尊法楽寺があります

法楽寺より北側十字路より左3筋目を左に折れるとJR線に出るので、手前の筋を右に折れます。300m程進むと高速道路の高架下に出ます。右から 庚申街道 が合流して四天王寺まで重複します。
高速の高架に沿って進むと左に桃ヶ池公園が広がる

池の切れたところで車道を少し左に折れて、すぐまた右に折れて高速道路を潜り北に進みます。
その先北西に蛇行しながら進み、少し説明が難しくなりますので省略します。文の里地区です。
大阪市立工芸高等学校の横に出ます。蛇行が続きます

関西外語専門学校を右に見て松崎町3

阿部野橋駅の南を見た筋です。

この先は駅により完全に旧道は無くなっています。近鉄線大阪阿部野橋駅~JR天王寺駅を高架で越える

北川堀町の五ッ辻

北への道筋を進んでいきます

四天王寺南大門 が見えます

下高野街道は四天王寺を起点にしているのが特徴、平安時代には皇族、貴族の高野詣や熊野詣に出かける前に四天王寺にまず参詣することが多かったところから起点となったのだろう。この下高野街道は旧道の雰囲気もよく残り、新道とは殆ど重ならない趣きがあって寺社が点在し飽きのない街道歩きとなる。
四天王寺に着きました

西高野街道、下高野街道とつないできた、真田幸村の大坂入城道。ここ四天王寺で隊列を整え正装して大坂城に進んだことでしょう。
③ 【西高野街道~中高野街道~庚申街道のルート】
河内長野駅前から西高野街道を進む、本町、原町、木戸西町、南海高野線の千代田駅右手に見て、楠町東で街道は分岐、西高野街道は左、中高野街道は右の旧道を進む。分岐の角に地蔵を兼ねた「道標」と常夜灯が建っている。
北に進み須賀に入ると右に滝谷駅、暫く線路に沿って進む、伏山の集落を北へ半田から途中右手に金岡駅の西側を通り、線路を東側に渡り暫く進むと大阪狭山市駅につき南側の踏切で西側に渡ります。その先、郵便局の辻で川を渡り右に折れて北へいくと、東小学校線路を潜った先左に狭山北条氏の陣屋跡がある。
東池尻に入り右手に大鳥池の横を進み東野中信号交差点に出る。その先で東西に走る和泉街道が通る、街道は真直ぐ北へ舟渡池の東側にでて池の北東の角で富田林街道が東西に通り交差、その北側の交差点で309号線を横断すると、右手に美原中を見て北へやがて阪和自動車道を潜り、その先真福寺の辻で左そして神社の所で右へと蛇行して北へ、丹南に入り大阪中央環状線を越えた先一筋目が竹内街道で東西に走る、さらに北へ岡、新堂、上田と蛇行しながら近鉄河内松原駅の西側の踏切に出ます。この辺り松原の古い町並みが残る。
踏切を越えた安保茶屋交差点の東西に走る旧道は長尾街道。安房の街並みの右手に海泉池があります。阿保から三宅中に入る右手に屯倉神社の前を進む、やがて阪神高速松原線の高架を潜った先で瓜破南に入り大和川に突き当たり、左の高野大橋で対岸に出ます。ここは庚申街道の起点で大和川に沿って西へ進み住道矢田で庚申街道は北に折れて四天王寺へ。
もう少し大和川沿いに西に進み下高野橋で右(北)に折れる道が下高野街道。いずれかの道もありますが今回は中高野街道で北に進んだ街道は、瓜破の街筋で左に瓜破天神社を見て瓜破東へ、広い車道を横断して平野区に入る喜連から平野本町で大念仏寺の東側を抜けると、JR平野駅の南東の杭全神社前に出ます。ここが中高野街道の起点ですが、ここから西北へ広い車道の25号線を進むと天王寺駅に出ますが、前述の庚申街道を進むのがベターと思います。
前述の、西高野街道との分岐向って左が 西高野街道、右が中高野街道
右の中高野街道を進むと、少し遠回りになるかも、幸村は果たしてどちらの道を進んだか
楠町東

中高野街道に入ります

松ヶ丘中町付近の旧道

富田林市須賀3丁目7、右手方向には南海滝谷駅

伏山の集落の旧道

大阪狭山市半田

右に南海金剛駅前

金剛駅北側の右斜めの踏切を渡り反対側へ、暫く左の寸路に沿って北に進みます

やがて再び南海高野線の大阪狭山市駅の南側の踏切を左に渡る。少し学校の南側を西に進み、優分極の前で右に折れて川に架かる橋を渡り北へ進みます

その途中に 狭山藩陣屋跡碑 狭山北条氏は、小田原北条の子孫。天正18年(1590)秀吉に滅ぼされた後年北条氏規が初代として、2代氏盛が狭山藩1万1千石の大名として陣屋を建てたのが元和2年(1616年)
真田幸村がこの付近を通ったとしたら、まだ狭山藩がなかった。

その先、南海高野線の高架を潜りふたたび右に出て北へ

右に大鳥池

東野中信号交差点で 和泉街道 が左に分岐、少し重複したところで、すぐ先で右に分岐します、

暫く進んでいくと、左に舟渡池

池の北端で、東西の道は、富田林街道 富田林街道は大きな舟渡池を南北に二分した中の堤の道路を通っている。
富田林街道の西筋、舟渡池の中央の道を進む

富田林街道の東側舟渡南の交差点東の筋、広い交差点を真直ぐ北に横断します

黒山警察署前信号

前方に阪和自動車道の高架を潜る

そして中央環状線を横断した一つ目の交差点で 竹内街道 が交差します。角に南図書館があります

そのさき、郵便局の手前で左へ、100m程先で右へ、さらに300m程北で左へ、そしてまた60m程で北(右)に折れます。150m程先で左への 住吉道(歩いていません) が分岐していきます。
辻の道標と住吉道、右から中高野街道

やがて右に河内松原駅を見て踏切を渡ります

200m程先で左右の道は 長尾街道

阿呆地区から、三宅に入ると右に 屯倉神社 の前の街道を暫く北へ

阪神高速下の街道

瓜破南に入り大和川の新高野大橋を渡ります

大和川はかつてはこの辺りから真っ直ぐ対岸に渡っていたが、左に迂回して高野大橋を渡り対岸へ。中高野街道の延長線上のここに、旧高野大橋が架かっていた。
橋を渡って大和川を左(西)に沿って庚申街道 を進むにも方法もあります。また更に西に600m程進むと 下高野街道 が通っています

瓜破の町筋を北へ

地下鉄谷町線が通る喜連住宅前交差点を横断する

専念寺前の街道

平野区喜連七丁目1街筋

北口地蔵 尊真宗大谷派専念寺

平野本町五丁目9

流口地蔵
この地蔵は平野郷木戸口の一つで流口にあった

平野本町を進む

本町商店街が東西に交差します、アーケードのある商店街

平野本町商店街を抜けた道

やがて突き当たり左に折れたところを振り返る

角に道標

T字路を左に折れてすぐ先、右斜めに進む、正面が大念仏寺
鳥居の前の25号線を横断して、正面の道を入る、改めてここが、資料によっては、中高野街道の起点となっている、古市街道の起点でもある
鳥居から見た街道起点を振り返る

杭全神社の大鳥居

ここまでくると、左(西北)に進み天王寺駅へ出れますが、前述の大和川の 高野大橋を渡ったところで、大和川を下り、庚申街道を進む方が近道。
ただ、大坂の戦い(1615)時、大和川の改修前だから流れが違っていたと思いますが。方向的には間違いないが、あくまで想像ですのですみません。
西高野街道から中高野街道を継いできた大坂城入城の道
第四章
四天王寺から大坂城まで
四天王寺から大坂城へは北に進めば間違わない。当時は大坂城の天守閣も場所によっては眺めることができたでしょう。真田幸村はおそらくこの辺りで、集まり隊列を整え、大坂城へ入城したと思われます。
ここからは道沿い近くの史跡を検証しながら進めます。
四天王寺




四天王寺まえから天王寺駅方向(南)を見る

四天王寺の西、25号線沿い左の 茶臼山の一心寺 大坂の役時、家康が一時本陣を構えた

25号線を挟んだ向かい(北)に 安居天満宮

真田幸村戦死地跡碑



少し細い道を奥に入っていきます

神社境内にある 井戸

井戸を石段の上から見る

幸村公最後の地



真田幸村戦死跡之碑

真田幸村公之像


横の急な石段を上ると 愛染さん で親しまれている
重要文化財の勝髪院・愛染堂 金堂や多宝塔等々が残る



北に進みます、谷町筋のこの辺り一帯は非常多くのお寺が集中しています。
地下鉄夕陽ケ丘駅近くの寺町の中に、赤穂浅野家、忠臣蔵に関係深い、曹洞宗万松山吉祥寺(義士寺)、お寺の塀に義士討ち入り時の装束、山形ダンダラ模様になっていて面白い。
由縁は、お寺が寛永7年(1630)開基で11代住職が播州赤穂より着任し浅野家との関係が深く、内蔵助が密命で寺坂吉右衛門に義士たちの遺髪等々をあずけこの寺に一部預け墓碑を建てたという。その後、本家浅野家からの依頼もあり、墓碑を整備したと言われる。
空襲でお寺が全焼するにあたり木像他焼けてしまったが、その後再建された。境内には内匠頭、内蔵助や義士の墓、大石内蔵助の石像、四十七士の石像が並んでいます。(前に行っているので写真が撮れていません)

谷町通りより一筋西側の筋にある 増福寺 薄田隼人正兼相の墓


向かって左側



谷町筋7の辺り郵便局の所を右に折れ、上町筋を越えて5筋目の交差点左角に
真言宗豊山派雪光山円珠庵 別名悪縁を断つ寺「鎌八幡」
大坂冬の陣の折、幸村が戦勝を祈願して、神木に鎌を打ち込んだところ

また境内に 契沖の墓 があるが通常非公開

交叉点からの全景

交叉点を横断して東に進むと、左に明星高校、更に十字路を越えると真田小学校があります。
右車道を挟んだ南側一帯が真田山町で真田山公園で 真田丸推定地。
真田丸公園



公園の一角に真田山陸軍墓地があります

真田小学校のすぐ北側に 浄土宗真田山心眼寺
真田丸出城跡幸村、大助の供養のため再建された



門前に 京都見廻組 桂早之助 渡辺吉太郎の墓所



境内の 真田幸村出丸城跡碑

幸村には関連がないが更に北側の筋左角に 高野山真言宗如意山善福寺 別名「どんとろ大師」

少し東側に 三光神社


鳥居を潜っていくと 真田幸村の像



少し東に戻り上本町筋を北に進む


やがて法円坂の中央大通りに出ます、その手前右角が 難波宮跡遺跡 かつては城内であっただろう



中央大通りの高速道を潜りますと、目の前の大坂城が見えます

正面右一帯が大坂城で真直ぐ進むと天満橋駅


大坂城の石垣、でもこの石垣は徳川時代の石垣です。豊臣時代の遺構は少ない


大手門への道と大手門


間仕切門跡・太鼓櫓跡



大坂城天守閣



天守閣の北の内堀際に 淀君並びに殉死者32名忠霊碑 があります刻印広場の西側一段高くなっている、明け伊作に囲まれた木が立っている箇所

淀君並びに殉死者32名忠霊塔その中には
幸村の子大助 も含まれる


真田大助も含まれているが撮れていなかった

和歌 「山里の悪夢はさめむ永しえに弥陀の浄土で一蓮托生」


殉死者の碑がある一角

刻印石広場

天守閣の西側に歩いていくと豊臣秀頼と淀君ら自刃の地この辺は山里丸と呼ばれていた




天守閣・山里丸を背に内堀に架かる極楽橋を渡る



真田幸村 大坂城入城の道 完歩
真田幸村 大坂城入城の道 完歩した結果真田幸村大坂入城の道をすべて検証して、私が思い描いた結果として以下の通りです。
【1番目は】
九度山真田庵を出て~紀ノ川を渡り高野口名倉村へ~下中・上中を上り~信太神前を通る~途中斜面の崩れで通れなかった九重谷の古道~上の池の札ノ辻に出て~九重峠越~岩湧山登山口の五ッ辻~栃谷コースか中ノ谷コース(廃道化で少し歩けただけ)を下り~行司河原分岐で加賀田川に沿って下り~三日市で高野街道に合流する古道。
【2番目は】
九度山真田庵を出て~紀ノ川を渡り高野口名倉村の蛭子社で分岐東へ~JR紀伊山田駅北側で大和街道と分岐して北への古道高野街道~出塔・菖蒲谷~御幸辻の辻で高野街道に合流~紀見峠宿を避けて慶賀野で高野街道と分岐~矢倉脇集落~葛城修験者の古道行者道~南海天見駅手前の出合いの辻~高野街道と合流~三日市で九重越と合流~河内長野へ
【3番目は】
九度山真田庵を出て~西への途中紀ノ川を渡河して中飯降で北へ~広野・短野~蔵王峠越~光滝寺~滝畑のダム湖~石川に沿ったて日野~河内長野市街地へ~野作町の西代神社~原町で西高野街道に合流。
1番目の道が私の新仮説です

