2024年11月12日
西方~川内~木場茶屋
川内のルートインホテルを出発、川内駅 7時05分発のおれんじ鉄道で、昨日の西方駅に 7時26分着。 西方駅前から今日も険しい峠道の街道もあり思ったほど歩けなかった。木場茶屋15時30分着。鹿児島市内の完歩まで後2日は十分かかりそう。
50.974歩 30.58㎞ 1682kl
肥薩おれんじ鉄道西方駅スタート

郵便局の前の国道3号、郵便局の前で国道を右に折れる

潮見寺の角を左に折れて街道スタート.右手に海岸暫く南へ

直ぐ先に 薩摩藩主が基礎及び東石に使われていたと書かれた案内がある


その先右に 西方御仮屋跡の案内
参勤交代のときに藩主以下随行の人たちが宿泊した建物で市内には西方町と向田町にあった。
参勤交代時のルートは陸路と海路があった説明もされています


その先、ブロックで基礎を造られた 石造り物 があります

その先200m程で右の海岸選への旧道に入ります。右手は西方海水浴場です

海水浴場の前方右に海に突き出た奇怪な岩が見える
人形岩

大きな岩に挟まれた人形岩,確かに人形に似ています

人形岩物語の説明案内を見ると
昔、島の洞穴の中に、若い夫婦と赤ん坊が住んでいた。若い男は丸木舟で漁をしていて、天候が変わり小船が転覆男は水中深く沈んでしまった。若い母親は赤ん坊を抱き夫の無事を祈り続け、洞穴の中でひたすら待ち続けたが、そのまま息絶えてしまった。不憫に思った海底の守り神は、乳飲み子を抱いた母親が座っているような形の岩に、母親と赤ん坊を変え、また、海の底に沈んだ夫も、小舟とともに岩の塊に変えました。
悠久の長い時が経て、洞穴の周りの浸食もすすみ、その果てに崩れ、乳飲み子を抱いた母親の形の岩が現れた、その岩を「人形岩」と呼ばれるようになった。
結びに、ひたすら祈る人形岩に会いに、小舟に乗った人の形に似た岩が海底から現れて親子水入らずで語り合う光景を、運のよい人なら見ることができるかもしれません。(西方地区)
じっと見ていると何か不思議な光景を見ているようです。
人形岩前バス停の国道に出て少し進むと国道を東に折れる

そしておれんじ鉄道のガードを潜り小川沿いを東に進む

この先の道をどのように進んだかよく思い出せない。
かつての旧道は小川の南側の白滝を進んでいて、途中から左に方向を変え西方峠頂上辺りに出ていたのでないか、白滝集落から峠に至る道は県道が出来てから歩く人もいなく今は廃道化しているとの事。
止む得ず300m余り進んで迂回します、左に折れて小川を渡り小さな集落内を北に進むと県道東郷西方港線に出て右に西方峠への道を進む

暫く県道を進むと陰陽石の表示があります右の雑木の中を入っていくがすぐ先で道がふさがれ進むことが出来なかった大きな石だ。諦める


西方峠の頂上付近 です、前述の道がこの辺り右へ上ってきていたようです。
その先150m程で県道を左に分けて、手摺のある右への旧道が雑木林に入っています。表示のある右の旧道を入ります。道というよりというより、無理やり上る感じです

人が入っている道跡が残っているのが少ない、雑木が茂って先が心配。急な坂道を上っていきます。
左側に手摺もついているし旧道跡なのだろう

振り返ったところ、ところどころ手摺で下の急斜面を防御してます

150m程登った途中で山道は完全に塞がれ廃道化した状態です。冬でこのようなので余計気候のいい時は駄目でしょう。整備しなければもうこの旧道もなくなるだろう

仕方ないので先ほどの登り口に引き返し、県道を左に大きく迂回します

県道を迂回してきたところ左に 諏訪神社

諏訪神社の正面で右に折れると直ぐ先で、右からの歩けなかった旧道が出てきます。逆に歩けるところまで少し上っていきます、100m程登ると荒れた道ですが、少しの間旧道がふさがれていたのか、今のうちに改修すれば素晴らしい旧道が復活するようです。
反対側の登り口からこちらのT字路まで400m程の峠道越です
逆に登って行った旧道で十分歩けます

途中から引き返し下るが旧道らしい気持ち良い道です

神社から下ってきた道と、旧道がくだってきたT字路を右に、伊勢美山に入ります。標識が立っています

神社の前を下ってきて右からの旧道と合流した先100m程での分岐は左の旧道を進みます

左の旧道の道

湯田川に架かる上湯田橋その先緩やかに大きく右にカーブしながら進みます

左に読めないが 道標

直ぐ先 高城石塔群
付近に野積みされていたのを昭和51年に復原された。この地は鎌倉初期から中期にかけ湯田氏が居住していた辺りで、南北朝時代・室町時代には高城氏、東郷氏支流白濵氏並びに薩州島津氏の家臣が居住したと考えられる。従ってこの塔婆はこれらの諸氏に関するものと考えられ・・・・(湯田町史実保存会)


直ぐ右に 菅原神社と御神木(しろたぶの木)
神社は貞治三年(正平十九年)(1364)この地の領主高城城左衛門尉重躬が神社を創建し、菅公の銅像を安置して祀り、別に銅像50体を設けて公の従行の人を配祀した、湯田では最も古い神社です。
菅原神社の「しろたぶ」の木は、御神木として地域の盛衰を見守ってきたが、樹勢が衰え、平成5年ついに600年余りの天寿を全うした。
菅原神社の前の旧道、分岐の辻右に湯田小学校、左に郵便局があります

かつての旧道は右の道を行くと、すぐ左に郵便局がありその先を左に折れて、右にカーブして愛宕神社の石段の袂に出て左に折れていたが、今は消失している。愛宕神社は石段を上った山にある。
旧道は消失しているので、真直ぐ進み右の高城西中学校の直ぐ先、湯田川に架かる内門橋の手前を左に湯田川に沿って進みますと、分流する川で左から右にカーブして、愛宕神社の石段の袂に出るが、その先少しの区間旧道はあるが、旧道はすぐ消失しているので、左にでて自動車道に出る。(郵便局の分岐で左に進んだ道)写真が撮れていないので説明
郵便局の分岐から400m程先で分岐がありますが右へ

その先で小さな橋があります

山裾の道を進んでいきます人もいなく車も通らない

橋から真直ぐな東南への山道

前述で分岐した道が左から合流してきます。左手に案内標示があるので間違っていないと安心、道なりに進んでいきます、枝道が多くありますが道なりです。すぐ先で左に大きくカーブしています

左にカーブした先ですぐ分岐に出ます右への道

少しの間、舗装道となっていますが


直ぐ地道の森の中に入ります。一条坂 と呼ばれている街道です。地図上には載っていない山道


街道は少し荒れているようですが、道跡が残り大丈夫です


薩摩街道危険個所足元注意の案内標識 があり間違いないことを確認、嬉しいですねここに標識があるのが
旧道らしい面影の残る道

薩摩街道(出水筋)と西南戦争の一条坂の戦い跡の説明

一条坂600m程を下り抜けるところで民家があり、その横に出ます。振り返ったところ


山深い集落の里


一旦舗装道に出た旧道は再び左の地道に入ります、左に曲がりすぐ先で山型に右にターンしてきます。先で合流しますが、300m程の間です

左に回っている旧道を進みます


北向きから南向きにカーブして、その先で、先ほど分岐した舗装道が右から合流するT字路に出て、左に折れますが、その手前に峠川に架かる山を渡ります

T字路から振り返ったところ

300mほど右に大きくカーブしながら進んだところで 馬頭観音と一条神社 があります

川内市陽成町に鎮座する一条神社


一条神社の前で左に折れて、麦之浦川に架かる朱色の橋を渡り県道340号に出て右に折れます

県道340号を暫く右に麦之浦川に沿って進み、高野バス停を過ぎ400m程先で分岐があるので、左の旧道に入ります

その先の道はほぼ真直ぐな静かな旧道

そのさき500m程進むと左の塀に案内標示があり右(南)への道へ

薩摩街道の表示が左(山側)にあります

その先左の山裾の所に 一条公墓地入口の案内と墓の写真 山に入いらなければいけないので寄りません


小園地区で、右からの340号線が合流して少し先右に郵便局がある、すぐ先左に陽成小学校跡があります。かつての御茶屋跡付近



少し進むと 中麦石塔群の案内板


この道の30m程上に、石塔群があったのを見逃した

暫く進んでいくと左手奥に 妙徳寺

暫く車道を右の麦の浦川に沿って南に進みます

鞘脇バス停があります、そこを左の山道に入る道がある(写真撮れていないが)案内標識を見逃した
地道を左に折れて直ぐ右に折れる地道で山裾を坂を上りながら進む

右に折れた先、左に イボ神様
人に知られないように夜か朝暗いうちに、「私のイボを取ってくれたら年の数だけ豆を煮てあげます」と言って拝むと治るという伝承がある。石像横に「秋善覚尼」元禄5年10月9日(1692)と書いている。
ここの通りがさつま街道で唯一原型を留めている場所でもある(陽成校区生涯学習振興会)


その先で左に折れて山道に入る、少し荒れているようですが、原型をとどめる薩摩街道の鞘脇の旧道が楽しみ

少し荒れているが道跡もしっかりしているし大丈夫です。歴史の古い旧道、どれだけの人々が歩いたのだろうと思うと興味深い


一部の区間道が隠れたり倒木が有ったり荒れています。あまり人が歩かないのだろう。夏場は少し厳しいと思う、特に一人では

薩摩街道危険個所の標識と案内地図

振り返ったところ案内板を写真に撮るの逸してしまった

急斜面には何もなく、山際にロープが張られている

ここは斜面側に防御柵がされ、足元注意の標識がある殆ど道が分からない人一人歩く幅です

下ってきました

下りきったところで車道が横切っています

車道の向こう側に横断します、一瞬ドッキトしました、何か雑木の中に道があるのかと、白い標柱のさつま街道の案内がありますが、
手摺があり足元は木の階段の跡か、整備をしなければ歩けなくなりそうです。
折角のさつま街道の数少ない原型の残る街道区間ですから

急坂を上ると直ぐ頂上に着き再び下ります

気持ち良い下りの旧道を少し進む

先ほどの横断した車道から200m余り程です。前方に一戦川橋と建物が見えてきました

橋の手前で、舗装道に出てきたところの旧道を振り返る、案内標識が立っています

一戦川橋を渡り右に折れる

右手に川を背後に工場があり、その先で右にカーブします

右にカーブする左手に、さつま街道跡と西郷どんの腰掛け石

西郷どんの腰掛石

西郷どんは愛犬ツンを連れてお気に入りのこの地をたびたび訪れ猟に出かけた、渓谷沿いの街道脇に「西郷どんの腰掛石」といわれる石が残っています。西郷どんはウサギ猟の専門でその皮を鞣して自分用のふんどしをつくることが目的であったと言われている

直ぐ先に 耳切坂(みんきいざか)の標識 と薩摩街道危険個所足元注意の標識がある

石が見事に敷かれた石畳。少し荒れてきているようですが、大変でしょうがどうか何時までも素晴らしい古道を残してほしいものです

標識に従って進んでいきます


薩摩街道危険個所・足元注意の標識

素晴らしい旧道で歩いていても全く疲れを感じさせない。一人で歩くのがもったいない気がする


耳切坂の分岐があります、左に表示があります左の道を進む


道は合流します

更に舗装道から標識と赤い紐に従って竹藪の旧道に入っていきます


梶蔵跡の説明板
梶蔵跡 薩摩藩髪は紙の原料となる楮(こうぞ)を植えることを奨励した。乾燥させた楮の皮の入れる蔵があった。楮のことを梶と言ったので「梶蔵」と呼ばれた

下り道になります
分岐した道に出ます、左へ進む

集落の中を下って行きます

坂の途中 西郷どんの手水鉢 があったが見落とした、残念。弘化3年(1846)、岩永三五郎の設計で、石造りの美しい眼鏡橋の妹背橋が架けられた。この工事の座書役として従事したのが18歳の西郷隆盛でした。竣工までの3年間、宮園さん宅に寄寓し、朝夕この手水鉢を使ったと言われています。
更に下って行くと、県道341号に突き当たり右に折れる

右におれた車道

右に折れて直ぐの所で高城川に架かる妹背橋を渡ります

橋を渡ったすぐの十字路を越えた右手に郵便局がある、その正面を左に折れます
この通りは藩政期には薩摩藩の商業町のあったところで、紺屋・人形屋・焼酎屋・旅籠などが並び賑やかであったようです「高城郷の野町跡」

200m程先で右に曲がる左に 祇園神社跡の説明板


右にカーブした先の道で左手は山際です200m程南に進んでいく

これから先の蛇行した道を南に進んでいきますが、上川内駅までは広大な京セラ工場を右に左に職訓短大・京セラとの間を進みます。写真を撮っているが、上川内駅まで歩いた道をよく覚えていないので写真で想像してください。
右から直角にやや広い道が合流します。合流辻を振り返ったところ

直ぐ先で分岐しますので右の道を進む

大きな建物を見ながら緩やかに蛇行しながら道なりに南に進んでいきます

やや広い道に合流して右に折れます

直ぐの分岐、右手は京セラ、左の道を南へ

その先の道が何故か写真に撮れてなく、地図を元に歩いた道を説明します(残念)。
京セラ工場の南東の端の分岐を左に進み南に少し蛇行しながら、右手の小川に沿って300m程進むと、十字路に出ます。十字路を横断して左に緩やかにカーブして右にカーブしたところで、道は分岐している、その間200m程で右の道を南に進みます。
少し進むと右におれんじ鉄道の上川内駅が見えています。往時の旧道は上川内駅のすぐ東側辺りを南斜めに下っていたようですが今は消失しています。仕方がないので200m程線路の北側を進み、左T字路を右に折れて本城踏切を渡ります。100m程で最初の角を左に折れます(御陵下町)。
暫く東南に直進すること500m程で川内高校に突き当たります。かつての旧道は川内高等学校、続いて隣の可愛小学校の中を抜けていたようです。
学校に突き当たり迂回します、突き当りを左に折れて高校・小学校に沿って東南の突き当りの延長線に出て、左に進みます。そして左に折れて100m程でやっと写真が残っている。
銀杏木川に架かる九札橋に出ることが出来ました。
残念ながら予定していた、薩摩国分寺跡、新田神社・可愛山陵に行くことが出来なかった。
悔しいが一人歩きでは余程資料を完璧にしておかなけば多々見逃す。
銀杏木川に架かる九札橋

すぐ先にある、国道267号線に架かる歩道橋で渡り南側に出ます。
街道は歩道橋の所、国道の分岐を右斜めの道(南西)を200m程進み変則十字路を左に折れます。
真直ぐ南東方向に大小路町を進む。左三筋目で(寄り道) 街道より左奥300m程の所にある

泰平寺
和銅元年(708)元明天皇の勅願によって建てられたと伝わる古刹。
秀吉の九州進攻の時、陣営が置かれた。島津義久(剃髪して竜伯)と秀吉の和睦もこの地で行われ、その時の情景を示す和睦石が残り、和睦の対面の像があります。
泰平寺境内であった泰平寺公園に 聖徳太子像 大正6年(1917)川内工友会創立記念


宥印法印の墓
天正15年(1587)秀吉の薩摩進攻の際、豊臣軍の本営となったのが泰平寺で、その時の住職。
義久と秀吉との和議の斡旋に努力し、その功ににより秀吉から刀や茶わんが贈られたと伝わる。


境内には 和睦石


義久と秀吉の対面の像


寄り道を終わり、元の大小路町の十字路の街道に戻る

資料整理していて気が付いたので調べていると。私の歩いた道は間違っているのに気が付きました。
今更どうすることもできないので、申し訳ないですが、
「第4部北薩摩の古道 薩摩街道 出水筋 歩行マップ」と「百街道一歩さん」の資料を引用させていただきました、ご了承ください。少し戻りますが
街道は歩道橋の所、分岐を右斜めの道(南西)を200m程進み変則十字路を左に折れましたが。
変則十字路を右のほぼ真直ぐに道を進みますが、70m程先は国道3号に出てしまうので、その真ん中あたりの細い道を左に折れます。国道3号の一筋手前の道を国道と並行しています。
そして三筋目で広い道の十字路に出ます。この十字路の東側の十字路が、上記交差点の間違った道の写真です。
正しい十字路を横断して、次の十字路を左に折れますと分岐しているので右の道を入ると右に病院がある道を折れてすぐ左に折れるとその先で突き当たります。
右角にタクシー会社があり右に折れます。
方向が違うかもしれないがタクシー会社の所です

右に折れて十字路に出ます、左に鮮魚店がある

その十字路の左角に、薩摩街道(出水路)の新しい標識が立っていますので、まっすぐの細い道を川内川の方に進む。川内川に突き当たります。
突き当たるので、右の150m程先の川内川に架かる太平橋を渡り対岸の延長線上の向田本町に出ます。

川内川に架かる国道3号の太平橋

太平橋より両対岸を見る


川内川の北側を 「渡瀬口(わたせくち)」 で南側を 「渡唐口(ととんくち)」
石組みの重厚な雰囲気が漂う舟付場であったと言われている。渡唐口とは、唐に渡る港の意味を含んでいるそうです。
太平橋を渡った左辺りに参勤交代時に藩主一行のとまる 向田御仮屋 があったそうです
渡唐口(ととんくち)向田町 常夜灯 が建っています

向田町の渡唐口からの旧道、向田本通りを真直ぐの道。向田本町から東向田町へ進むと、広い交差点に出ます。交差点を左に行くと川内駅への昭和通り

新幹線川内駅、肥薩おれんじ鉄道はここで終点で、鹿児島駅へのJR線に変わります
川内駅西口からの真直ぐな昭和通りを横断して左斜めに進む

左に進んだ右手堤防の下に、草に隠れるように 水神碑 少し堤防下に沿って右に緩やかにカーブします

右の平佐川に架かる日暮橋を渡ります橋を渡って左に折れるが、その右に

福昌寺
島津氏の菩提寺で藩政期には広大な寺であった元は鹿児島市池之町にあって明治2年現在地に移転された


福昌寺の仁王石像 市内最大級の石像



少し進んだ右手高台に 本国寺

その横に坂道があり、島津義久・義弘ゆかりの神社の白い標柱に島津の紋が入っている、参道

南方神社
義久・義弘が信濃の諏訪神社から天正5年(1577)勧請したと記されている


直ぐ先で、JR鹿児島本線の巣山踏切を渡ります

踏切を越えて分岐を右に行くが、250m程先で隈之城川に出ます。旧道は右の川に沿って進んでいたが今は消失しています

元の分岐に戻り左の道へ、すぐ新幹線の高架を潜り県道36号を進みます
新幹線の高架を潜り450m程県道36号を進むと、右手にローソンがありますすぐに

36号を左に分け、右斜めの道に入る、左に宮崎オート整備工場がある

高架を潜ってから400m程行くと分岐しますので右の旧道へ、前述の消失した旧道がここ右辺りに出てきて旧道復活します

宮崎町の分岐で右の道を進む300m程進む


小さな小川を渡ると道は分岐します。右手に新幹線の高架が見えます。左の道を進む、右の道も旧道ですが、先で合流します分岐の所に山下工務店がある

分岐から250m程進むと、左からの県道36号線が合流します
36号を少し進みますと宮崎公民館が立っている少し先で右に入ります坂道を下りながら右にカーブします。左右に石垣や垣根が並ぶかつての 宮崎郷の武家屋敷跡 だそうです

坂を下りきると新幹線の高架に出ます、そこに右から前述のもう一つの旧道が合流します
高架下に 水神

高架を潜り400m程、山田隈之城線を真直ぐ進みます

隈之城川に架かる佛生橋を渡ります

橋を渡った袂を左に川沿いに200m程進むと左への隈之城川に架かる麓橋を渡ります。この先坪塚公園まで旧道は失われています

麓橋から南に進み、左に勝目川に架かる坪塚橋を見て堤防を南へ進みます

更に250m程進んでいくと、建物に突き当たり鍵型に右に折れて左に壺塚公園の中を抜けます

さして大きくない坪塚公園公園の隅に、坪塚の由来説明板が立っています


公園の反対側(南)の石段を下りると、真直ぐの道は消失しているので右に折れて突当りを左に折れます。200m程南へ進むと自動車道に出ます。右手にホームセンタがあるの所で突き当たるので、右に折れて直ぐに左におれ南へ進む

垣根が綺麗に整備され気持ちがいい

向かって民家の左側の細い旧道を進みます

記憶が曖昧でよくわからないが新しい道や旧道らしい道を南に進んでいきます。
でも薩摩街道の標識があるので間違っていない

薩摩街道の案内標柱が立っているので間違っていないようです
右からの国道3号に突き当たります

そして国道を横断して西側に出て国道と並行して暫く南へ、ここにも案内標識があります

田重嶽遺跡(江戸期)標柱

標柱の所を入ります、少しの間旧道が残っているようです

田重岳(171m)の山頂に 火の神と石殿 が祀られているようです

その先で左からの国道3号が合流します

国道を横断していた旧道は消失しているので国道を300m程進みます

一つ目の信号で左に折れます

そしてすぐの先で右に折れると旧道、消失した旧道が左から来ていた

右に折れた先、200m余り民家の間の気持ち良い旧道を進みます

やがて再び右からの国道が合流して左に折れ、勝目川に架かる川永野橋を渡ります

その先国道が右にカーブするところまで左の旧道は消失しているので国道を進む
国道が右にカーブした先で、国道から右の旧道に入る

暫く左の国道と並行しながら旧道を進みます

国道と違って北側の旧道、気持ち良い道

400m程進んだ先で、正面のJR線手前で左に折れて橋を渡り国道3号に出て右に折れ、JR線の高架を潜るが、かつての旧道は、国道を横断して線路を右に左の山裾を山なりに進みこの先の木場茶屋駅の南側でJR線を越え国道に出ていたようです。薩摩街道標識が建っています

国道でJR線の高架を潜る

高架を潜ったs基は緩やかに左にカーブして、坂を上って国道を進んでいきます。旧道は線路の左側の山際を抜けていました

木場茶屋駅、旧道は駅の裏側(東側)の山すそをかつて通っていたが消失している

木場茶屋駅 15時30分着、もう少し歩きたかったがバックも重くここで終わる。
50.974歩 30.58㎞ 1682kl よく歩いた。
鹿児島市の起点まで後2日はかかる。
この後、JR鹿児島線で今夜の宿泊先の鹿児島市なので、中央駅まで移動します。


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