薩摩街道 【3回目 ㉑】

2024年11月10日 

出水駅前~阿久根駅前
    出水駅前 6時35分 スタート  
    阿久根駅 16時30分 着
     50.479歩 30.28㎞ 1604kl

朝出発時は雨が夜中に降って止んでいたが、歩き始めて11時ごろから降り始め、この後、降ったりやんだりで大変であった。でも思っていた史跡も回れたので満足。
また野田郷で親切なおじさんに軽トラックに乗せて頂き、少し離れている伊牟礼城址に行くことができた。城址からはタクシーとしました。乗せて頂いたお陰で随分時間が短縮できてよかった。有難うございました。

出水駅前のホテル6時35分出発

出水駅、新幹線と肥薩おれんじ鉄道が併設、綺麗な駅です出水駅の西口で昨日に続き、薩摩街道は南へ、昭和町出水市は ツルの飛来地として有名

駅前を南へすすむ

おれんじ鉄道のガードを潜る

直ぐの交差点を右に折れ広瀬の町筋を少し進むと、米ノ津川に架かる広瀬橋を渡ります

橋を渡ると、栄町・中町・本町と続く出水宿の街並みに入る
出水宿

橋を渡り500m程進むと 出水麓伝統的建造物群保存地区に選定されている、出水麓は亀ヶ城(出水城)に続く丘陵地の高屋敷地区と、平良川左岸の向江地区からなる。
麓(ふもと)武家屋敷は上堅馬場・堅馬場・諏訪馬場・山崎・上山崎から形成されている。
熊本藩との境に位置するため、領内の郷の中でも最大の規模であった。質実剛健な薩摩武士の暮らしが偲ばれる。

街道より少し入るので、自由に散策します。

街道の中町で左に入ると 諏訪神社

才願寺墓地(源久院跡)の標柱が立っている

麓武家屋敷群の生垣やいしがき綺麗

宮地邸 平成10年の大河ドラマ「篤姫」のロケ地

古い建物は数軒しかなく新しく変わっているが、石垣や垣根が整然と区割りされ素晴らしい

ゆっくりと散策します

出水御仮屋門 (出水小学校門)
武家門は島津義弘が居城していた帖佐の門を移築、以後「御仮屋」が置かれ、御仮屋門として今に伝わる。藩政期は藩主の地方巡行や参勤交代時に利用された

出水麓歴史館

島津斉彬の像

西郷と大久保像

竹添邸・税所邸の案内

竹添邸

税所邸

地蔵菩薩

日本一のお地蔵さん
一刀彫りでは、日本一台座まで含めると高さ4.15mある

街道に戻り本町交差点に出て西(右)に少し行くと平良川に架かる平良橋を渡ります。橋を渡り左にカーブします

石碑と祠 が有ります

この先ほぼ南西に真直ぐの道を進む

600m程先で328号線の交差点に出たところで左に(寄り道)をします。左に暫く進み米ノ津川を渡る

その先の 達磨山龍光寺
亀ヶ城址(出水城)の西側山山麓

龍光寺正面

薩州島津家菩提所
島津本家の分家の一つ薩州島津家。初代、島津用久(もちひさ)から7代忠辰(ただとき)までの140年間出水5万石を治めたが、秀吉により領地没収され7代目で断絶した。1593年忠辰は朝鮮出兵で現地で病死

島津忠謙 イボ神様
薩州島津家5代実久の弟、讒訴により悲劇の最期を遂げた武将

薩州島津家の墓・山田昌厳の墓入口

薩州島津家の墓
小高い丘の上にあります
石垣内正面にある墓塔は、初代用久公とその夫人。
右側に並ぶ墓塔は、二代国久公以下、三代重久公、四代忠興公、五代実久公、六代義虎公、七代忠辰公のものです。つづいて、夫人や家臣等の墓。
また、正面左側に並ぶのは龍光寺歴代の和尚の墓と言われる。
薩州家が初代用久が出水で享徳二年(1453)~七代忠辰が薩州家が断絶する文禄2年(1593)までの治乱興亡の歴史がこの地に秘められている。(出水市教育委員会)

さらに山に上ると 山田昌巌の墓 があるが寄れなかった、宝永6年(1629)出水郷第三代の地頭で、いろいろな産業の新興に勤め善政をしいた。

見学後再び前述の交差点に戻り街道374号線を西南に真直ぐ進みます。暫く歩いた右手奥に、西出水駅があります。街道左手に出水高等学校がありその前に「出水兵児」の案内標示があるのだが逸しました。
更に進んでいった、左Aコープの手前左、山内農園の手前を左に入ると、島津忠辰供養塚 があったのですがここも見落としました。

Aコープの向かい、街道右手に 観音寺

観音寺に隣接した茂みの中に 三百塚
文禄2年(1593)朝鮮出兵中の薩州家7代島津忠辰は秀吉の怒りにふれ、領地没収された、戦地で幽閉中に病死したため家は断絶した。沢山の小石を積み上げた三百塚は忠辰の後を追って殉死した家臣たちの多さからその名がついたと伝えられている

374号線をひたすら直線の道を進みます

上り立バス停を過ぎる

長い道のりです、歩道があるので助かるが、雨が相変わらずしとしとと降っています

やがて高尾野川に架かるやふさ橋を渡ります

橋から500m程進むと左手に 霧島神社

宝樹寺

高尾野の町に入ります

恵美寿天と大黒天を祀る祠 手前交差点の右に入ると高尾野駅

高尾野駅南の街道から石坂までの直線数キロを西に進みます。やがて石坂に入りその先で分岐、左の道を入ります

左の旧道を進みます

200m程先で野田川の堤防に突き当たる、かつてはこのまま真直ぐ野田川を渡河していた。旧道は無くなるので、元の分岐まで戻ります

分岐の右の国道504号を進み、野田川に架かる野田橋を渡ります

野田橋を渡り左に折れて川沿いを200m程進み、左、前述の対岸で野田川の堤防に突きあたった、延長線上まで歩き堤防を左にみて右に折れる。左の野田川の堤防をみると野田川のかつての渡河辺りですが草が茂っていて確認はできない。対岸を見る

この辺りの写真と記憶が曖昧になっています。とにかく田畑の中の道を300m程の真直ぐな道を西に進む。そして十字路に出たところで横断します。さらに直ぐ先50m程で十字路に出ます。
その十字路を左への南に進むのが旧道で「別府道」と呼ばれています。
この道を進まず寄りたいところがあるのでこの先野田郷駅南まで進み南に折れる薩摩街道(出水筋)を歩きます、南に進んだところで合流しています。別府道は本道の迂回路だろうか。十字路を真直ぐ進むと100m程で右からの504号線に合流します

堤防の所からの真直ぐな田畑の広がる300m程の西への道

十字路を横断して50m程先の十字路左への道が別府道。この道がそうであったか少し記憶が薄いです

とにかく2つの十字路を横断した先、右からの504号線に合流して暫く504号線を西に進みます

左手に 祐信寺

隣に 八坂神社 と江戸時代中期の 庚申供養塔 があります

その先504号線を250m程進んだ交差点で一旦街道歩きを中断して(寄り道)をします。
野田郷駅前から南に400mほどきた、この交差点を左(南)へが薩摩街道(出水筋)になります。
交差点を右に折れておれんじ鉄道の野田郷駅の北側に出て駅前からの道を北に歩いていきます。
駅の北側から600m程北に歩きます
俊寛僧都碑
僧俊寛は、平家打倒の謀議が発覚して、藤原成経、平判官康頼とともに、鬼界ヶ島(硫黄島)に流され。藤原成経、平判官康頼は許され京に帰ったが、俊寛は重罪として一人島に残された。
野田の伝承では、家の子、有王に救い出された俊寛は、船中で病気となり、荒崎の津に着き、山内寺に身を寄せ、この寺で亡くなったと伝わる。墓はもと土塚でしたが、俊寛500年忌にあたる延宝5年(1677)に野田郷士の吉富十郎左衛門がこの 石碑 を建てて祀った。

少し南側の森にある感応禅寺に向かう

先に、感応禅寺の隣にある 筥崎八幡神社 に寄ります

感応禅寺入口に 二体の仁王石像

感応禅寺
1194年島津家初代忠久公により創建された、開山は日本臨済宗の祖栄西禅師であり、日本で一番古い禅寺です。
島津家の菩提寺

感応禅寺のソテツ

鐘楼

木の袂奥に 

島津五廟社への参道

島津五廟社の標柱

島津五廟社
文治2年(1186)島津忠久は薩摩・大隅・日向三国の地頭職に任ぜられ、忠久は家臣の本田貞親を任地をに向かわせ野田を中心に一帯の豪族を従わせ、山門院の木牟礼に城を築き、島津氏三州支配の基礎となった。忠久自身は木牟礼に定住しなかったが、この後、忠時・久経・忠宗・貞久の5代までここを拠点とした。
木牟礼城跡から野田郷に向かう途中に鎖国山感応寺があり隣接して五廟社があります。
島津初代から5代までの当主が祀られています。

島津忠久公の坐像

感応禅寺/五社廟

見学が終わり、次に木牟礼城跡に行くのだが1㎞余りある。ここで軽トラックのおじさんが送ってあげようと乗せて頂き助かった。ご親切に有難うございました。時間的に短縮できてよかった

木牟礼城跡

小山が残るだけで何もないが、島津の発祥の地と思えば心が高ぶる

城跡に建つ 石碑

ここから野田郷駅まで歩いて戻るには時間もかかるので、先ほど、おじさんからお聞きしたタクシー会社に電話して迎えに来てもらつた。
途中で中断した野田郷駅南の交差点までタクシーで戻ってスタートしました。

交差点から南に1.2㎞ほど野田郷の街並みが続きます武家屋敷群が立ち並び、玉石垣が続いています

左手野田小学校はかつての、 御仮屋跡 

玉石垣が美しく並んでいる、武家屋敷群の跡

小松神社跡と庚申碑

街道に沿って両側に武家屋敷群の石垣と玉垣が続きます。立派な門構えの 武家屋敷跡  このような道は絶対車では味わえない情緒

その先四辻の角に 大日の庚申碑と大日の仁王石像

その先右手に 天神の石敢当

その少し先で、左からの別府道と合流します時間的に別府道は無理なので諦めます

合流地点に 菅原神社(天神さん)

この変則十字路を右に折れる、標識があります

野田地域に庚申碑が13あり、この 庚申碑 が最も古いと記されている

菅原神社前の表示に従って右に折れる

200m余りさきで分岐があり右の道に進む

暫く進むとオレンジロードに出ます、右から直角に合流してくる道との合流点、左からのオレンジロードを進むと
野首バス停

右T字路で左に折れます、角のカーブミラーがありますこの辻の所、左鋭角後方から右斜めの道が交差しますが、その道を横断してすぐ左に入る旧道です
間違いやすいかもしれませんので見落とさないこと

左に入る旧道の下り

曲がりくねった下り道

やがて折口川に架かる橋を渡ります
直ぐ先のT字路で右におれる 

右に折れて暫く山間の道を西へ

再びオレンジロードに突き当たり左へ、大迫口の辻

西へ500m程進むと、再びオレンジロードに突き当たり左へ、大迫口の辻

オレンジロードを進む

小川内川に架かる小川内橋で渡ります

阿久根市の表示があるところの、左T字路を右に入るオレンジロードは真直ぐ進んでいきます

右に入り山間の道を進みます。相変わらず雨が降り続いています

真直ぐの下り坂で西へただ坦々と歩くのみ

雨も結構強くなっています。心配なのは持っている資料が濡れてしまわないか注意する。資料と首にぶら下げたカメラ、合羽を着て傘をさして大変だ。車が走らないから助かる

右手に 大山祗神社の鳥居 鳥居をくぐった左に 庚申塚

島津但馬守墓100mの案内があり寄ってみる

雨で急な石段なので滑るのに注意しながら狭い石段を上ると
 大山祗神社

その奥に 島津但馬守墓
説明板が立っているが、字は全く読めない。
この近くの桑原城主であったが、野田城主の島津忠兼と桑原城主であった島津但馬守が、薩州島津義虎に謀殺された武将という。
折角なので、新しい説明版に変えてほしい

細い坂道と、石段を下ります

神社の直ぐの先で自動車道に突き当たる、その右角に 「街道の店とみよし」があると資料で見ていたので何か食べ物と思っていたが、閉まっているようで残念

自動車道を左に折れると内田川に架かる赤剥橋を渡るとすぐ右斜めに入る旧道があります

右に入り少し左にカーブして進む

更に次の分岐は、桑原城跡の案内に従って右へ90度に

右に折れた先の旧道

200m程進むと左に折れる角の 桑原城跡の案内石碑

城跡の遺構は全く残っていない

左に折れて結構広い車道を下ります

左に折れて200m程進むと

小川の橋の所で右の舗装道を分け、左の草道の旧道に分岐します

雨で草道は濡れているが気持ち良い旧道です

今の時期はいいが草が茂ってくると少し歩きにくいかも

小さな小屋だろうか舗装に変わります

とにかく道なりに歩く途中南から西にカーブします

この先、写真がなくてよく分からないのですが説明します。
やがて右から、前述に分岐した桑原城址からの舗装道が合流してきます。
この先、道路の新設や改修により沢山道が出来ているので、年々景色が変わるようです。
そのさき100m程で、右から広い道が合流してきます。枝道がありますが、道なりに西に進みます。
更に100m程で途中九州自動車道を高架で越えます、(何時超えたか写真に撮れていない)。

高速道を越えて下り真直ぐの道が続きます

右手高台に馬頭観音と書かれた 鳥居 

石段を少し上ると 石の祠の馬頭観音 があります

この分岐は直進

暫く進んでいった先の十字路、左角に株式会社海運がある辻を右に折れる

右に折れた街道

緩やかな坂を上り竹林と雑木の山道を進みます

右手に阿久根総合運動公園が見える、体育館もありますその先暫く行くと左に鶴翔高等学校がありますそして町筋を下って行きます

高等学校も過ぎた先で、左からの道が合流してきますので右に折れる

直ぐ先で車道に突き当たり左に折れます振り返った辻

国道を600m程真直ぐ進みます

寺山入口信号交差点を右に折れます

折れた先大きく左にカーブして進む踏切の手前で分岐しているので左の道を真直ぐ進み

肥薩おれんじ鉄道の寺山踏切を渡ります

踏切を渡ると直ぐ橋があり、渡って左にカーブする。右手に市民病院がありますこの先の旧道は消失しているようです

市民病院の切れたところの真直ぐな道
この道の海側にも並行して二本の道、左は国道と、更に線路を挟んで東側にも道があり、どれが旧道か見当がつきません

国道の一筋西側のこの道を旧道と思って進みます、新町の町並み

阿久根駅前の広い道路に出ます

左におれんじ鉄道の阿久根駅

本日は阿久根駅前で終了。雨でなければもう少し先まで行きたいが無理しない。雨でやはり注意散漫で史跡の見落とすところが結構あったのが残念。阿久根駅16時57分で川内駅へ移動17時33分着

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