2025年12月30日
この日に歩いた記録でありません、何度か歩いて集約したものです。
(あくまで私の推測です)
[はじめに]
1582年(天正10)5月17日、光秀は信長に急遽中国の毛利への出陣を命じられる、家康接待役を免じられ、近江の居城坂本城へ帰城し中国出陣の準備に入る。5月26日坂本城を発って、本城の丹波亀山城に帰城。翌27日山城と丹波の国境に聳える、標高924mの愛宕山の愛宕神社へ参拝。祭神は愛宕権現太郎坊で火伏せ(火難除け)の神。愛宕山への参道は幾筋かありますが、光秀はどの山道を登っていったのか。
5月27日の夕刻、愛宕権現太郎坊に参拝。翌28日愛宕山西之坊において、連歌師宗匠里村紹巴他数名で連歌会を催した。28日愛宕山を下り亀山城に帰城。
【光秀の愛宕山上から京都本能寺までの道を検証しました】
第 1 愛宕山上から暫く表参道を下って、途中の分岐で、左は表参道の清滝へ下る道
右の水 尾の里に下り水尾川に沿って南に下る道で、途中右の水尾川を渡り西への明智越えの尾根道に入り亀山城へ進む道。
第 2 愛宕山上の南側より裏参道で亀山城へ下る古道の山道
28日愛宕山より亀山城に帰城した光秀は、中国出陣の準備のため29日は1日亀山城。5月は小月で29日までの暦。
6月1日午後亀山城を出発。総勢13000と伝わる。出陣ルートとして何軍かに分けて京都を目指したと思う。13000人を滞りなく本能寺を囲むには隊列が前後あまり長く伸びすぎると思う。この時点では、主だった武将には京都本能寺を襲撃する旨伝えていたと想像します。
第 3 亀山城から桂川渡河への道
(1)亀山城から本隊は、山陰道(篠山街道重複)で老ノ坂を越え沓掛に出て桂川を渡る街道で定説。途中足利尊氏が旗揚げの地、篠村八幡宮を通り、深夜老ノ坂峠を越えて2日早朝沓掛を通過、午前5時頃には桂川を渡河した。
(2)別隊は亀山城下から山陰道を進み、現在の馬堀、王子村あたりで左(北)に分かれ、山陰道の北側を並行してする尾根道、唐櫃越を進み物集女街道と交差する山田の岐れを横断して、現在の上桂駅付近を通過して桂川を渡河するルート。
(3)さらに別ルートとして、
(イ)亀山城からすぐ北、現在の亀岡駅の北側、保津川に架かる保津橋辺りを
渡河して保津八幡宮から明智越えの山道を進む、途中で右に下り保津川を渡
河して、急な坂道を駆け上り(この道はよくわからないので歩いていません)唐櫃越に合流していたか。
(ロ)もしくは、以前歩いた時、明智越を終わったところで保津八幡宮まで道案内していただいた地元のおじさんが、ここから保津峡を抜ける古い道があると教えていただいた、保津川に沿った左岸の道を進む道。がけ崩で通行止になっていたが歩けましたが、当時果たして存在していた道かわかりませんが。
途中で右に下り保津川を渡河して、急な坂道を駆け登り(この道はよくわからないので歩いていません)唐櫃越に合流していた旧道があったようです。右にトロッコ保津峡駅を見て、坂を保津川に沿って右にカーブ、急坂の六丁峠を越えて、嵯峨鳥居本にでて愛宕街道に合流。そのあと嵐山付近で東南に京都市街地に入り本能寺・二条新御所へ。または嵐山を南にぬけ、物集女街道で南に進んだ先で、右からの本体に合流する道もありますが、この道は少し遠回りになります。私の想像にすぎません。
第 4 桂川を渡河した先、本能寺・二条新御所への道
A 明智軍本隊が桂川(現在の桂大橋辺り)を渡河したのが午前6時ごろ、桂川から本能寺まで約6㎞、山陰道を現在の七条通りを進み、京七口の丹波口に入った。当 然軍勢は分散して左(北)への筋、千本通り・大宮大路通・西洞院通を通り本能寺へ進んだと思われる。
B 唐櫃越をしてきた別動隊は、途中で本隊に合流したか、もしくは山田の岐れ東へ、現在の上桂駅付近から東の桂川を渡河して四条通り東へ、南から進んでくる本隊と千本通り・大宮大路通・西洞院通りで合流、東側は西洞院通、西側は油小路通、南側は蛸薬師通り、北側は六角通に囲まれた本能寺を囲んだことだろう。
C さらに別動隊は堀川通りまで北上、堀川通の北側に位置する妙覚寺、信長の嫡男信忠は宿泊していたが、光秀の謀反を知り東側の室町通りの一筋東側の衣棚通りの東側に接していた二条新御所に移り、ここで奮戦の後自刃した。本能寺は、四方の一辺が約120mで堀と土塀を巡らしていたが、信長の近辺は女性も含め100名程度で如何ともしがたく、午前7時ごろ炎に包まれた中で全国 統一の途中の夢半ばで自刃した。また信忠も二条新御所で自刃したのは午前9時ごろと言われています。
D 想像で、どの資料にも載っていませんが、嵯峨鳥居本から嵐山を出た一隊があったとすれば、嵐山の渡月橋を渡らず、東(左)への道をとり、本能寺・二条新御所を急襲したかも。
第 5 本能寺変後の光秀
① 光秀は6月13日山崎の戦いで秀吉軍に敗れ、勝竜寺城を通り坂本城への帰路山科の小栗栖の藪で終焉。その他、墓碑等関係資料
結論的には、実際歩いてみて13000人の軍列を山陰道の老ノ坂だけでは隊列が長くなり時間的に無理と思う。唐櫃越を含め分隊して本能寺を目指したと思います。ただ山陰道に比べ唐櫃越や明智越の道は狭く厳しい道であっただろうから、荷駄や馬の移動は大変で、本隊はあくまで山陰道を進んだと思われる。
(注) 誤解のないように補足しておきます。私は歴史家でありません、あくまで街道歩きを趣味としているもので、果たして本能寺までどのような道を歩たのかと思って実際歩いた記録です。
第一章
愛宕山からの下り
天正10年(1582)5月17日徳川家康の接待役を免ぜられ、安土から坂本の居城に帰り、毛利への出陣の準備を行い、5月26日丹波亀山に向かい亀山城に入る。
翌27日、亀山城の北に聳える愛宕山(標高924m)登る。この時点ではすでに心は決まっていたので、戦勝祈願のため山頂を目指した。
翌28日愛宕山西坊で連歌の宗匠里村紹巴他8名の参加者と連歌会を行っている。
この日、光秀は山を下り亀山城に帰城している。
29日で5月は終わり、二度と戻ることのない6月1日亀山城を出発。
まず、愛宕山の登り、下りをどの山道を歩いたのだろう、亀山城へは2コースの下りがあります。
【第1】 愛宕山上~水尾の里~明智越え~亀山城下
愛宕山頂の愛宕神社から表参道を下り途中の水尾の里への分岐まで歩きます。分岐から水尾の里を抜けて明智越の入り口まで。
山頂よりの遠望

愛宕神社拝殿

拝殿から下って行くと建物が立ち並ぶ愛宕神社社務所この辺りに、明智光秀が本能寺への四日前に催した連歌の会を開いた西坊威徳院があったようです。下って行きますと

京口惣門(黒門)神宮寺の白雲寺京都側の惣門(愛宕神社まで450mまで下りてきました)

下って行きますと坂の途中右に、花売り場の建物。四十三丁石とはな売り場愛宕さんの火伏の神花樒の売り場。水尾の里の女の人が毎日ここまで上ってきて樒を売り、お参りした人々は、火災を除く神符としてお土産にした。
近年まで水尾の女性は、椋の木で染めた三幅の前垂れをつけて、樒を背負って水尾から愛宕神社まで上り、神前に供えてから販売をしたと云う。毎日樒の葉を一枚づつ、オクドさんにくべると火事にならないと言われ、無くなった今でも多くの人が買い求める姿を見ることができる。

更に下って行くと、前方の突き当り分岐に小屋が見えます

分岐の角に立つ水尾への案内板(3㎞の下り)

愛宕神社と水尾の里への分岐点です。上から見たところで、左へは登山口方向へ下る道で、右が今回歩く水尾の里への下る道です。分岐点にある、柚子の里水尾への表示、3㎞

水尾への下り道

気持ちよい下り道。結構急峻な道で登る人は所々で休憩しています

非常に歩きやすくきれいな古道です


水尾まで600mの表示

木々の隙間より下方に里が見えてきました



水尾の里に近づいたところの案内表示

古道を偲ばせる切通を下る


愛宕山への登山道表示


登山入り口の突き当りを右に下ります

右に折れてコンクリートの道を下ります、嵯峨水尾の集落に入ります

下った突き当り市立水尾小学校のところで右に折れすぐ左に下りますが

その前、左に折れたところに浄土宗粟田山円覚寺もと藤原基経(836~891)の山荘で粟田山庄を前身とする。古い歴史を持つ。毎年8月国の重要文化財に指定されている「京都六斎仏」の一つ、水尾の六斎念仏が行われている

元に戻り坂を少し下って行くと水尾の里の中を抜ける車道に出ます

そこに掲げられた標識、右に1.7㎞上ると清和天皇陵に行けますが、少し遠くて方向が違うので寄れません左に折れます

左への愛宕山登山口を見て集落を進む

柚子の果樹がたくさん植えられています。静かな山里

集落内少し進んだところ左への入る道の角に標識があります

左に入る道を少し入っていきます(寄り道)

入る右角に 愛宕山の道標

坂を上った先で右に入る細い道があります 米買い道と呼んでいますが、今は先で廃道化しています

突き当りに 清和天皇社


拝殿


もとの角に戻ります 「右 清和天皇水尾山陵」道標

石垣のたもとに沢山の 石仏


もう一度水尾の里を振り返る古くからの集落で、今も柚子風呂と鍋食事の予約を数件受けているようです。

古道は右下を抜けていたようです


水尾街道花街道の標識が立っています。かつては人里離れた集落で、今でも交通の便は少なく、車でないと行き来は大変です

今では道も整備され舗装道です

暫く緩やかな下り道を進んでいくと、右下に谷川に沿って細い道が見えてきます

かつてはこれが本来の古道であったのだろう

舗装道の右真下、谷川に沿って道があります。このあたりに丸太橋がかかり、亀山城下への明智越えの古道で、愛宕山から光秀が亀山城へ古道と思われます。

振り返ったところで、右が今下ってきた水尾の里への道、左がこの先の明智越えの道
このような磐余で明智越えの名前がついているのか

一つの仮説として、明智光秀は愛宕神社で句会の後、この道を下ってきて明智越へで亀山城へ戻ったかもしれません。

明智越えせず、真直ぐ下って行くと保津川峡駅に出ます。
愛宕山より水尾の里に下り 明智越えで亀山城下へ
明智越えの旧道もハイキングコースとなっている、山の道であるがよく踏みならされていて、快適な旧道であります。この旧道も唐櫃越えと同じように終盤に山からほぼ真っ直ぐ急斜面のガレ道を下ることになる。よく昔この道を馬で戦場に行ったものと感心することしきり。7㎞ほどの距離。
光秀が愛宕山での歌会を終わり、前述の愛宕山から下り、水尾の里に下りてきて明智越えで亀岡への下った一つの道として歩きました。
左のガードレールのところにある道標 右は水尾の里へ、左は明智越で亀岡へ

左の水尾川に沿って少し入ります

左の水尾川に架かる丸太橋が見えて来ます、愛宕山から水尾の里経由での山道は正面の道があるようです。よくわからなかったので、舗装道を下ってきてしまった

丸太橋の袂に明智越えの標識が立っています

いよいよここからが 明智越 といわれる亀山城下への峠越えです。
左の水尾川に架かる丸太橋を渡る、先は鬱蒼と茂った杉やヒノキの山道

唐櫃越と同じような道で説明が難しく、また写真ばかりになるので、この先の主な道順を説明しておきます。
丸太橋を渡り鬱蒼とした杉林の急な山道を上る。右に愛宕山の眺望ができる。その先で左の保津川へ下る分岐点がある、旧道は更に上る。右眼下一面に柚子の里水尾の山里の風景が見えます。
峠を越えて右に、神明峠への分かれ道を過ぎる。山深い尾根道であるが歩きやすい快適な旧道であります。光秀が丹波を治め、道を整備し愛宕山への参詣道として利用した道だけあって。年月も立つ中でよく残っていたものだと思います。
更に進んでいくと、右手の山際に「土用の霊泉」の立て札が立っています。
この先からの尾根道を下ることとなる。そのあたりが、「峯堂」跡で。その先に鐘撞堂跡があります。この左保津川との間に、ハタ城があり監視のためここに鐘があったとのことです。
道はこの後一気に坂を駆け下り、閑静な保津の集落に入ります。
集落の中の保津八幡宮に参拝一日の厳しい無事安全を感謝する。
神社から新しい道の保津橋を渡り、亀山城下に入ります。
丸太橋から水尾川を見る橋を渡って杉林の中の道を上ります


よく手入れがされているので非常に綺麗

保津川に下る分岐点、旧道は右の道真っ直ぐです。

明智越は長年の浸食により荒れています。坂道を登っていきます
V字型の道で歴史が刻まれています。非常に歩きにくい上り

やがて鉄塔の下にでます

右に柚子の里水尾の集落が山間によく見えます丸太の登り口から結構登ってきました

鉄塔の下を抜けていきます

再び厳しい道が続きます

右の崖に滑り落ちないよう注意が必要です。このような道を人馬が進んでいたのでしょう

集落が眼下に見えてきました


朽ち果てている道標があるが全く読めない

案内標識があるので迷わないです

尾根道のよく踏み歩いた道です

神明峠への分岐点、明智越えは真っ直ぐ左



牛松山(629m)だろうか

右に滑り落ちたら大変です


右の山際に、土用の霊泉の立札 が立つ

土用の霊泉
鐘撞堂三叉路より京都側へ少し降りた左側にこんこんと湧き出る清水を「土用の霊泉」と呼んでいる。いかなる夏の暑い土用にも、このような高所にどうして清水が湧き出るのか誠に不思議な感にうたれる。
明智光秀軍の別動隊が本能寺攻めの際、この霊泉に三七草をつけて蘇らせ、それを鎧の袖の下に秘めて進んだと伝えられている。三七草は止血の効卓抜とか。
このところより都の眺めは、天下の佳景ともいえよう。(別動隊が遠回りしてこの道を歩いたのだろうか)

土用の霊泉の先、尾根筋から下りに掛かる辺りに峯堂跡である。
峯の堂跡の説明板
保津より嵯峨へ越える明智越えの眺望絶佳なる右の山の頂にこんもりと茂る老木にかこまれた塚状の円丘を「峯の堂」と呼ぶ。
ここに第56代清和天皇を祀るがある。
879年5月落飾され都を出て、当場所において31歳で崩御された。森の内に納奉り社を建立した。
明智越えは嵯峨に達する道であると同時にまた愛宕神社に参拝する聖なる道ともなっていた。
光秀は亀山城下を整備すると同時に、この道をも騎馬武者や庶民がたやすく通行できるように整備したと考えられる。光秀は天正10年愛宕山参籠の帰り道にも、この清和天皇をお祀りした峯の堂に本能寺攻め必勝の祈願をしたと云われる。
本能寺攻めは一応成功を収めたが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、小栗栖の露と消えた。当「峯の堂」は、いつとはなしに「無念堂」に変わったと伝えられている。



どんどん下っていきます

やはり歴史を感じさせる旧道です


鐘撞堂跡左の先に保津川があってその間にハタ城があった、川と陸路との監視に鐘が用いられた


道幅の狭い下りになっていきます

岩に挟まれた凄い切通の下りです、歩くのが大変

少し荒れた道になっています

標識がなければ分かりにくい前方後円墳39m 石堂古墳



よく踏まれた綺麗な道に変わりました

眺望の地 大見晴らし(大目離)餘部城主 福井一族の悲話 立札があります。眺望は出来ません



帯解け石の立札山帰り、肩荷を解く一服場

保津観音の伝説の立札 伝承民話 身代わり地蔵
立札が並んで立っているが、説明がないので分からないが


亀山城下の盆地が見えてきました

更に下っていきます

土取り場跡


保津城跡

明智越えの取り付け口に間もなくです

山坊の甚五郎住処跡伝承民話 保津三狐


登り口に愛宕神社・貴船神社妙見さん跡


簾戸口と呼ばれる明智越えの取り付き口に出ました(登山口)

ここで少し休んでいると、地元のおじさんが来て話し込んだ、結果、保津八幡宮まで案内してあげるとのことで神社まで話しながら20分ほど歩きました。

明智越え(少し振り返る)
この地は保津町の東方山麓要害の地を占めて南北朝時代に保津城の搦手を登り口として緩やかな坂を登りきると、山道の最高峰、峯の堂に達する。そこより、見晴らしのよい平坦な尾根伝いの道を行くと、鐘撞堂跡、更に下り尾根道の土用水の霊泉をすぎ、水尾から嵯峨鳥居本に達する。この間、およそ8㎞。
光秀、天正10年(1582)5月17日、琵琶湖岸の坂本城に帰り、秀吉を救援すべく中国遠征の軍を整えるため光秀が築城した亀山城に入る。同27日「ハタ」に山塞を構えた愛宕山次郎坊に属する寺侍に案内されて、愛宕山将軍地蔵に願をかけ、太郎坊で占って運を定め、28日西坊に於いて連歌の師匠絶巴と連歌をよみ神前に納めた。光秀の発句に「ときは今、天が下知る五月哉」は、光秀の心境を物語る歌として後世まで語り継がれている。
亀山に帰った光秀は6月1日午後10時、一万五千の軍を三段に分け、北より明智越え、唐櫃越え、老ノ坂越えの三面より本能寺に向かった。明智越えは子供にも老人にもたやすく散策のできる、保津川の渓谷を見下り愛宕山の聖地を望みながら清い空気を五体に吸収しながらのハイキングコースとなっている。尾根伝いの平坦な道である。 (取り付け口の説明板より)
取り付け口より舗装道を右に折れて直ぐまた左に下る

ごばん橋 かつてこの辺りに隋雲院・佛性寺・是高寺跡


谷川砦跡 洞泉寺山上に


サイホン溝水路跡水中川 九右衛門さんの水中跡


登山口を右の折れ、少し集落に入るとすぐの分岐を左の道を進みます。250m程真っ直ぐ西に進んでいくと、左T字路で左手に文覚寺があります。前述の右から愛宕山上から愛宕谷川に沿って下ってきた道がここで合流します。ここから保津八幡宮への旧道は同じです。
おじさんは、保津八幡宮までわざわざ案内していただき説明を受けました。本当にご親切にありがとうございました。
保津町集落内左に 保津八幡神社光秀はここでも戦勝を祈願したことでしょう


保津八幡神社正面

保津八幡宮で明智越えは終了する。八幡宮前の広い新道を南に進み(旧道は分からない)、保津峡を渡り南に進んでいくと、亀岡城址・亀岡駅に出ます。
愛宕山から水尾に下り、亀山城下への古道終わります
とりあえず、明智光秀愛宕神社で句会の後、山を下ったであろう2ルート道の一つです。
おじさんと分かれましたが、この保津川沿いで保津峡駅に通じる道も古いのでと教えて頂き、時間もあるので歩いてみました。(後述します)
亀岡市街地(東)を見る亀岡城跡及び亀岡駅方向。かつてはここからの城はよく見えたことでしょう

保津川に架かる新保津峡橋

左、遠望にトロッコ亀岡駅が望む

【第2】愛宕山頂から亀山城下へのもう一つの裏参道
光秀は5月27日、山城と丹波の国境に聳える標高924mの愛宕山に登った。愛宕山の祭神は愛宕権現太郎坊といい、火難除けの神として崇められていた。27日夕刻山頂へ、翌28日愛宕山五坊の一つ、西坊威徳院で連歌会を催した。主催者は威徳院住持の行祐、主客は光秀、宗匠は連歌師の権威、里村紹巴でその数9名。
その時の光秀の発句が有名な ときは今 あめが下しる 五月哉
里村紹巴は続いて下の句 花落つる 流れの末を せきとめて
連歌の会の後、28日すぐ山を下りて亀山城に入っている。
愛宕山から亀山城への道を歩いて下りましたが非常に厳しい山道であったようです。愛宕神社の裏参道であったようです。
山頂の 愛宕神社社殿で参拝を済ませ石段を下って行きます

愛宕神社で参拝を済ませ石段を下ります

下る石段の途中左に入る地道の細い道があります、すぐ先で石段の所からの道と合流します。左、角の燈籠の袂に
道標が立っているので、この道が正しいかも。

道標二基「右月輪寺道 是より十三丁 寺より清滝へ下二十五丁」明和五年(1768)銘
「あなうへのみち・・・」元禄三年(1690)銘(穴太寺)亀山城下への道

石段を下ると広場となり建物が建っています、左に休憩小屋が建ち左り鋭角に小屋と石段の間の狭い道を進むと明智光秀も駆け下った裏参道の旧道で、亀山城下への山道です。
この道を入っていくと、すぐ先で石段の途中で左に折れた道と合流します

左鋭角に折れる右手広い敷地の一角に、現在社務所の建物が立っている場所辺りに光秀が本能寺の変、四日前に連歌の会を催した、西坊威徳院が建っていた所です。威徳院跡の社務所

ここより裏参道のでもう一つの亀山城下への旧道を進みます(石段途中の道です)
明智光秀も連歌の会の前後に神社に参拝をして戦勝祈願をしたことでしょう。道標の角の道を下から石段を登り右に折れる

この道は暫く愛宕山を左(東から南)に巻くようにして進みます。

すぐ先で右の斜面を下る道があり案内標示があります。月輪寺から表参道登山口の清瀧に下る一つのルートの道です
亀岡へは左真っ直ぐの道です


深い山並みが眺望できます

快適な山道です、右は深い斜面で光秀が歩いたとしたらもっと厳しい山道であっただろうと思い想像しながら歩いています

少し進むと右への分岐道があります。三体の地蔵と案内標示があります右に折れる道は 首無地蔵への道

地蔵を右に見て真っ直ぐ進みます

200m程進むと左に昔遭難でもして亡くなられたのか三基の石仏

その先で、方向を北に変えて愛宕山から離れますが、峰続きには変わりません
さらに200m程進んだところで左(東)に方向が変わりますが、歩いていると方向の変わったのがほとんど感じません

右に立つ案内標示 標識が小まめに立てられているので助かります

右に進むと竜ヶ岳(標高921m)登山口で案内標示が建っています
亀岡へは左真っ直ぐの道です

その先、右に入っていくと旧愛宕スキー場跡で、ここに登ってくるのが大変だったことだろう


今度は左が大きく広がります、きれいな林道で眺望も綺麗です。

はるかかなた下に見えるのが亀岡だろう

振り返ったところです光秀はどのような心境でくだっていったのか

その先で道が分岐しています、亀岡への道は左に下る細い道です。分岐の角に道標と石碑二基があります

道標「左 あなう・・・」下部が埋もれています亀山城下の穴太寺を指しています

案内標示もあります

道標の背後の 石碑うまく読めませんが 「□なら屋・・・」が見えます。かつて茶屋があったのだろうか

古道を感じさせる凹道の下りです

表参道と違ってこちらの道は殆ど神社へ登る人は通らないようです、また倒木も結構多いですが、道標等が結構あります

このような状態で慌てず微かな道跡を見ながら進みます。道を間違えたら大変です。街道歩きも慣れたせいか、あまり大きな間違いはしなくなりました

凹になった道を下ります。木の手入れが行き届いているので日が差し込み、高い木ですが明るいので助かります

方角を間違えないよう下っていきます

前方が開けます、そこで左にカーブします。この付近で右に分岐している道があるのですがよくわかりませんでしたが、嵯峨樒原への道です。
三基の道標があると資料にあります「左 あなう道 右 そのへ道」 「左 あなう」 「従是左 廿一番穴太寺道」

左にカーブした道は、馬の背になった道です

少し下って行った左に 村標「従是保津村」明治十一年(1878)銘

倒木が道を塞いでいます

本当に長い尾根道を下っていきます。まだまだ山深くどれくらいか見当がつきません。幸い快適な道なので助かります


右に鉄塔があるところで開けますが、里までまだまだのようです

山並みの眺望、この先を下っていきます

溝道を頼りに下っていきますが、倒木等で道はあれています

ところどころ溝道が塞がれたりしてなくなり、溝に離れないように傍の平坦なところに沿って下ります

やっと右下に舗装道が見えます。尾根道の厳しい下りを越えたようです

舗装に沿って200mほど下っていきます

右に鋭角に入る下り道が分岐しています。舗装道は真っ直ぐで水尾の里に出て、さらに下っていくと、保津川の保津峡駅に出ます。水尾の里と保津川駅の間に明智越えがあります。

新しい道の舗装道を下っていくと、水尾・ゆずの里、嵯峨嵐山方面の標示。亀岡へはここを鋭角に右に折れます


この分岐は 神明峠
右鋭角に下る道は、愛宕谷林道で車両通行止めの扉があります

広い道であるくには問題ありません

暫く蛇行をしながら下っていきます


左に急カーブの下り

右前方下に綺麗なため池が二つあります


愛宕谷川に沿って下っていきます

厳しい道でありませんが、樹林の中の長い道を下っていきます。

山の斜面は非常に倒木で荒れています。ここにきて車両通行止めがよくわかりました
多分斜面が崩れ道をふさいだ様です


暫く下っていくと、橋を渡り谷川が右に変わり、今でこそ広い道ですが巡礼道として厳しい危険な道であったことでしょう

右に谷川が変わり深くなっていく

右下が愛宕谷川

この辺りに来ると、谷川も数十m下になり、足を踏み外して下に落ちると大変、ガードレールもありませんので危険。車の通行止めもよくわかります。大雨ごとに倒木と地崩れによる道路もえぐれていくようです
でもあるく全体的に快適な道です

やっと保津の集落が見えてきました、真っ直ぐ左の道を進みます

辻の左に多数の お地蔵さんの祠道路に背中を向けています

祠のそばに大きめの 祠と燈籠

やがて突当りを右に折れます。左から、明智越の道が合流してきます

明智越えをすればここで合流。右に折れて進みます

明智越の合流点を振り返る。向かって左の道を下ってきました、明智越えは右の道

合流辻の左に臨済宗文覚寺

道沿い左に常夜燈

右に 臨済宗妙心寺派養源寺



少し先の分岐の角にお地蔵さん

左に 保津八幡宮

明智越を歩いた時に寄っています、境内の杉の大木

神社より南へ新しい広い道を進みますこの先保津川を渡り亀山城下に入ります

振り返ると今越えてきた愛宕山がはるか先に見えています

左(東)を見ると馬堀方面で、その先に篠山街道(山陰道)の老ノ坂があります。
また左はルートの一つ、唐櫃越の尾根道

保津川に架かる保津橋

橋から振り返ると、愛宕山がよく見えます山上から下ってきました

橋を渡り右手にJR亀岡駅、正面には 亀岡城跡です。

明智光秀は亀山城に入り本能寺への体制を整えたことでしょう。
愛宕山からのもう一つの亀山城下への裏参道を完歩
やはり私は、信長の生き方が大好きです。戦国の乱れた世の中を、信長がいなければ心出し半ばとはいえ、戦国の世を終末に向かうには、もっと時間がかかったのでは、秀吉や家康は信長がいたからこそ継いで行けたと思っています。
第二章
【 第 3 】 亀山城より光秀本隊の京都桂川への道
京の信長よりの使者にて陣容改めを行われるため、天正10年(1582)6月1日夜、光秀は1万3000の軍勢で、二度と戻ることのない丹波亀山城を出立。
長い軍列ができるので2軍または3軍に分けたともいわれている。
第1軍は明智秀満の4000人、第2軍は明智光忠の4000人、第三軍は本隊光秀の5000人。
光秀本隊は篠山街道(山陰道)、山城国と丹波国の境にある老ノ坂越を進み大江の谷沿いから桂川に出るルート。
第1軍、第2軍は、明智越えまたは保津川沿いの現ハイキング道を進み途中で右に分岐して保津川を渡り、対岸の山を駆け上り唐櫃越を進んでいる軍に合流したかもしれない。
山陰道と並行して、北2㎞程の峯づたいに「唐櫃越」の狭い山道がありますので、本隊と分かれた別動隊はこの道を通って桂川に出て、本隊と合流したと伝わる。(想像しかありません、後述で2つのルートを紹介します)
合流した光秀軍13000は午前五時ごろ桂川を渡る。本能寺までは約6㎞の地点です。まず、光秀本隊の道本能寺へ進みます。本隊は1日、老ノ坂を越え、沓掛、真直ぐ進み京の桂川へ
(1)亀山城からの本隊
亀山城の堀跡
今も水は満々とありますが、残念ながら、堀内は宗教法人の敷地で入れないのが残念です。城跡の北側はJR亀岡駅で、旧城下は大手門のあった南側から東西に広がっています。

亀山城東への道
本隊は亀山城敷地内の南側、現在の亀岡中学校・その西側の亀岡小学校のあたりから東に行進したと思われる。
亀岡小学校南側には現在、壽仙院・法華寺・本門寺が並び、その南側に本町通り、本町通りの東端はT字路で大手門跡、大手門通りのT字路を北(左)に折れると亀岡中学校で内丸、右(東)手に形原神社があります。またこのT字路は江戸期の高札場跡でした。T字路を右(南)に折れて大手門通りを80m程進むと、新町の十字路に出ます。
私は新町の十字路を左に折れました旅籠町通りです。十字路を右に折れると柳町通り。
旅籠町通りを東に250m程進む、その間には江戸期には本陣跡等があり、城下の中心でした。
古世門跡の十字路を右(南)に折れます。左に丹山酒造をみて150m程進み、御和菓子処三吉堂が右角の建つ十字路を左(東)に折れて、西竪町から東竪町を東に行軍して、年谷川を渡ると、かつての城下を過ぎますが、ここに江戸期の「京口」番屋があった。
亀山城の南西側の東西の本町通り、現亀岡小学校の南に位置する。大手門のあった本町通り東のT字路を見る

本町通りの西端から法華宗鷲林山本門寺

東隣に浄土宗霊松山壽仙院 元亀三年(1572)創建されたと伝わる

東側に 日蓮宗本圀寺派長栄山法華寺 寛正五年(1464)開山。亀山城主小早川秀秋の保護を受けて現在地に移る。

大手門跡南のT字路より本町通り東側をみる。T字路を左に折れると、現亀岡中学校の正面に出てその北側に亀山城跡

T字路のこの付近は高札場跡

御勘定所跡


T字路すぐ北東側に 形原神社

大手門跡前を右に折れます。大手門前から南に新町を進みます。大手門を出て光秀は軍列を整え整然と京への道を進んでいったであろうと

大手門跡前からこの先南への新町交差点を進む。80m程先に新町十字路が見えます。十字路を左に折れて旅籠町通り東に折れます

新町の十字路を左に折れる十字路です。右へは柳町通りです。写真は十字路を左に折れた旅籠町通りで東に真っ直ぐ進んだことでしょう

新町交差点から旅籠町を通り、その先十字路まで250m程の間が宿場の中心地で、本陣・脇本陣・人馬継問屋・旅籠等が並んでいました。

やがて十字路の北東角に古世門跡碑が立っています、十字路を右に折れます。城下町の鍵形の曲がりが続きます。

亀山城古世門跡説明板古世門跡の十字路を右(南)に折れます

進行左手に丹山酒造があります。横町通りを120m程進むと十字路に出ます。西堅町と京町の境の十字路で左(東)に折れます。
十字路手前右に 古世地藏堂横町のお地蔵さんと呼ばれ親しまれてきた。平安末期の武将、源頼政の守り本尊と伝わる「矢の根地蔵」が祀られている

地蔵堂の前に立つ道標、「右 穴太寺 そのべ 能勢妙見 ささ山」「左り 京 ふしみ」 「文化十 京町 大乗妙典行者 酉年□」「南無阿弥陀仏」と刻まれています

西堅町の街並みを進むと、街並みの途中西から曹洞宗嶺樹院 亀山藩主菅沼定芳の母が先祖の菩提を弔うために、慶長八年(1603)に建立。母の戒名より寺名となる

東隣には夫、定盈の菩提寺宗堅寺がある。ともに御土居の内側に並んで創建された。
曹洞宗幸雲山宗堅寺 明応元年(1489)長徳寺として創建、その後、亀山城主の代々の帰依を受けて、宗堅寺と改名されて現在に至る

道を挟んだ北側には 浄土宗名越派最勝山称名寺 境内には 伝和泉式部之墓

小泉村(東別院町小泉)の清泉寺より江戸時代に移転さたもので、現在、清泉寺には和泉式部の娘、小式部内侍の墓があります

西堅町から東堅町にかけてお寺が集まっています。東堅町に入りすぐ右手(南)奥に臨済宗聖隣寺

三宅町の街並みに入りますと、藏や虫籠窓のある旧家が並んでいます。東への真っ直ぐな街道を進んでいます

右手に 八坂神社(祇園社)

やがてクニッテルフェルド通りの信号交点を横断します。その先右に少し入ると 三宅神社

亀山城下は東西に延びている町で、出入口は五か所あった。城下の東から京口・穴太口・清水口・丹後口・亀山口(篠山口)の五口であった。今歩いているところが京口です。
三宅町の三宅神社の少し先十字路を右奥に入ると、鷹匠町に曹洞宗天龍山昌壽院 本尊は阿弥陀三尊仏

鷹匠町と呼ばれていた標示、ここにはかつて楠正成の子孫が住んだといわれる「楠屋敷」跡

やがて年谷川に架かる年谷橋を渡ります。軍は橋よ50m程右(南)側を徒渡したことでしょう

橋より左手方向の景色と橋の西詰、千本松(野橋立)跡 亀山城下町の南東を流れる年谷川、かつてこの両岸の堤防上にみごとな松並木が続いていた。その風景を千本松と呼ばれるほどであったという。一説には亀山城の防御の一つとして、明智光秀が植えたともいわれる

年谷川を渡り東へ、虫籠窓や蔵のある街筋をの旧家を見ながら進みます

その先右に 浄土宗念仏寺(お釈迦さん)境内にある釈迦堂は清瀧山滋福寺という大きな寺であり至徳年間(1388~)に兵火にあい焼失その後、幾たびかの経過を経て、念仏寺が天正十四年(1586)創建された、その後釈迦堂が再建され仏像をおさめた。

東への街道は、旧柏原村から旧馬堀村に入ります。西川に架かる西川橋を渡ります。西川にはかつては土橋が架かっていました。

少し進んだ先で右に折れます。その左(北)に臨済宗天竜寺派徳寿院 その北側200m程のところにJR山陰線の馬堀駅があります

道は右(南)に折れて進む左手、馬堀公民館の北東側にある 桑田神社

少し進むと、左からの広い道に合流します。広い道を北に進みますとJR馬堀駅です。

馬堀駅の右方向の山は、山上の尾根を京都への 唐櫃越です。光秀の別動隊はこの辺りから、本軍と別れ北上して、唐櫃越の道をとったと思われます。尾根道で狭い道です。京都市街地の手前、桂川で合流したと思われます
左(北)奥に安詳小学校を見ながら、南東に大きくうねりながら進みます。

右に亀岡篠郵便局がある、やがて篠町に入り左手の奥に篠村八幡宮

元弘三年(1333)四月二十九日、足利尊氏は篠村八幡宮において、必勝祈願を願い鎌倉幕府に反旗を翻した。その時、戦勝祈願に矢を奉納し埋納した塚が境内裏手に残る。そして老ノ坂を越えて六波羅探題を攻略した。


明智光秀も前もってここに拝ったかもしれない。当日は深夜でもあり、先を急ぐので寄れなかっただろう

境内裏手の矢塚 傍に亀岡の名木ツブラジイ幹回り4.47m・樹高27m


旗立楊かつてこの横を、古代山陰道が通っていました

尊氏公旗立楊の碑


篠村の集落から王子村へ進みます

途中、北垣内地区で古代の山陰道が左に分岐して篠八幡宮のところに抜けていたようですが、今は農道に変わりよくわかりませんでした

静かな集落の街道を進みます

やがて道が分岐しています、左に下っていく道が山陰道古道入り口です、光秀もその道を行軍したことでしょう。
分岐する右手に 王子神社 境内には名木 ツブラジイ常緑高木で幹回り5.23m・樹高28m

王子神社の前の明治時代の道と旧道山陰道と合流するところで、今来た道を振り返る

山陰古道入口の案内板が立っています、向って左が山陰古道、右が明治以降の道光秀も進んだであろう、山陰古道を進む左の道を下った先で振り返る、明治以降の道が合流してくる辻です

辻からの下り道を振り返る

辻からこの先、川の合流している所を見る。橋の辺りがかつての船着場跡。おそらく川幅がもっと広かったのでしょう。

篠町王子地区を進む、船着場跡辺りを振り返る

川に架かる橋を渡ります。占坂を緩やかに上っていくと三軒屋に出ます。今は集落がありませんが、かつては老ノ坂峠への登口で、旅人の休憩地として茶屋が十軒ばかり並んでいたと記されています。景色を見る限り思い浮かべることも難しい田園風景に変わっています

川が接近したところに大木。街道の名残りか

その先少し進むと街道左の大きな杉の木の袂に、大きな石が横たわっています。占い石この岩に腰を掛けて旅人が何か辻占いをした謂れです。

この坂を「占坂」と呼ばれた、竹藪の中に旧道が通っています

雑木林や竹藪の中の古道を抜けていきます。
長閑な田園風景、旧道雰囲気が漂う景色。ゆっくり味わいながら進んできました。振り返る右の山裾の古道を進んできました

やがて旧道は国道に出ます.
国道より山陰古道に入る道で案内板が立っています。ここから西に進んでいました。古道に入る辻を見たところ

その辻の立て案内板山陰古道入口(篠山街道)・占い石三軒屋へ

山陰古道から国道に出たところで、少し右に国道を進みすぐ横断して左の旧道を進みます。左に折れずに少し先にめがね橋がありますが残念ながらめがね橋の橋桁部分のアーチ状部分が撮れていない。

王子めがね橋と新しい国道橋国道に沿っためがね橋への道

国道9号線に出ます。街道は数十m右に折れて左斜めに入り、国道を左に並行して坂を登ります。
国道に出た道を少し【寄り道】しました。国道から左に入らず少しまっすぐ国道の右側を100m程整備された明治以降の旧道を進むと、鵜川に架かる王子めがね橋に出ます。(長さ27m・幅5.4m)明治十七年に完成。
鵜川に架かる美しいアーチ式の石橋は親しまれてきたが、時代の波に勝てずカーブでもあり危険で、昭和四十四年隣に鉄骨の橋に架けかえられ現在国道9号線にとして使用されている。
その結果、この先の峠町の街道や宿場は人が通らなくなり一気に衰退した。
明治十四年から厳しい老ノ坂峠を北に迂回した丹後宮津への道路改設工事が開始、老ノ坂を 下って入り口の京都成章高校正門前の橋に出ます。
めがね橋から戻り、国道を東に入り国道を左に見ながら旧道をほぼ真っ直ぐ上っていきます。
国道に沿った旧道、坂の上から振り返る。上り坂は急ではありませんが、この先も、歴史の遺跡、老ノ坂への旧道は保存していってほしいです。

坂の上に着くと、左の国道9号線に接しるところで旧道は右に折れます。右に折れたところを振り返る

右に折れてすぐに京都縦貫自動車道(京都方面)の高架下を潜り左に折れます。高速道上下線の間を200m程進みます。下り坂で振り返ったところです

200m程下ったところで、今度は右側の高速道の高架下を潜り坂を上ります

切通しを抜けると上り坂となります、上り坂の途中に増井の清水跡があって、今は題目塔、寛永八年(1631)建立があったようですが見逃しました。旅人は喉を潤したことでしょう

その先、左から下ってくる道があります、多分切通し道のできる以前の旧道跡でしょうが、すこしUターンしてみましたが上で旧道跡は消失しています。雪がかなり降ったようで積もっています

いよいよ老ノ坂峠への旧道、写真は亀岡方向ばかりで逆になっています。切通しを抜けると、左に折れる分岐がありますが街道は右へ、左の道は新老ノ坂トンネルの上を越えて、国道9号線の老ノ坂トンネルの東の入口に合流する道です。

老ノ坂峠町に入ります。旧道当時賑わった集落の様子を知る、愛宕燈籠が一基

集落内で小さな川を渡る

国境の立石がある、老ノ坂峠の手前に丹波国で集落、峠町があるが、といっても今は1~2軒の作業場のみです。かつては峠の里といって丹波の産物の市場でもあり賑わった。
旅籠五軒余り並び、煮売り屋・茶屋など店が並び、名物であった編笠餅も売っていた。資料では江戸期の宝暦八年(1758)には25戸、明治初年には38戸の戸数があったと記され。伊能忠敬が文化十一年(1814)測量の途中峠町に宿泊していて、本陣・脇本陣も記されているので宿場として機能されていたようです。当時の様子を偲ぶことはできない。

集落跡を抜けると右に、山城・丹波の国分石(境石)かつては二本の国分石が建っていたようです

右の国分石の前から舗装が切れます。老ノ坂峠に入ります。街道より右に入る道がありますが首塚大明神への道

右手に少し入っていきます、小山のような上に祠が祀られています 首塚大明神 平安時代初期の源頼光と酒呑童子の伝説が残る(由緒書きが)





国分石より老ノ坂峠への山道を上っていきます坂道を振り返る

やがて老ノ坂峠頂上近くの道路橋の下を潜ります。かなり荒れてかなり道が狭くなっています。

道路橋の下を潜ると峠の頂上です。この辺りに先日降った雪が残っています
旧老ノ坂峠 頂上付近には石垣が残っています

峠の頂上に着くすぐ前に、高架の道路が左右に現れます、西部グリーンセンタ―への取り付け道路で、一般道路でありません。頂上から振りかえったところ

峠の頂上あたりはかなり荒れています峠にはかつて地蔵堂・茶屋があった。
この旧道を歩く人も今は殆どいないのでしょう

雑木林の中にしっかりした旧道がついています。ほとんどの写真は亀岡方向向きになっています

暫く老ノ坂峠を下って行くと、フェンスによって道がふさがれていますので、左側の隙間を抜ける
金網のフェンスからは舗装道になります。 遮断されています。何のためか分からないが、老ノ坂峠への上り口です。
振り返ったところで向かってフェンスの右側を抜けます

舗装された山道を150m程下っていきます。右から霊園の道が合流する分岐のところに出ます、向かって左が高速道が新老ノ坂トンネルに入るところ

下っていくと、左に高速道の新老ノ坂トンネルの入口が見えるところにでます、高速道を左に並行して下っていきます。
合流地点から700m程、左の小田川とその向こう側の高速道が並行して下っていきます。右は大枝沓掛町の京都霊園です。下っている途中から振り返ったところ。

緩やかな長い坂を下っていくと、やがて左にカーブして、京都縦貫自動車道の高架を潜り右にカーブします。
その先右にカーブしながら石材店の間を抜けていきます

坂を下りながら、左下に国道9号線、手前の小畑川を見ながら進むこと100m程、やがて正面に京都縦貫自動車の高架がみえ、その西側には京都成章高校、正面は高校敷地内で正面入り口に扉があります。街道はここに出てきて左に折れます。かつての老ノ坂峠への登り口の起点です。正面の道を下ってきました

京都成章高校の前で小畑川を渡り、信号のない国道を横断して右に国道を重複して180m程進みます、右に小畑川が沿います。国道は大変車が多く危険で注意します。国道を進んだところから、老ノ坂峠方向を見たところです。

国道9号線を少し進むと、左への府道142号線と分岐する辻に出ますので、左の府道に進みます。国道9号線から分岐して、府道に入った道から振り返ったところです。道は左に大きく曲がり東への道を進みます

左に曲がるところの左手に 大江関址 その上に大江関跡といわれる関明神の祠


左手斜面に 愛宕山灯籠

少し進んだ左手に 桓武天皇御母御陵参道碑 陵への参道【寄り道】

竹林の参道を入ります

桓武天皇御母陵 光仁天皇皇后

大枝沓掛町の街並み

すぐ先左手高台に 大枝神社

道は左に大きく曲がり東への道を進みます。少し進んだ左T字路の所、沓掛バス停です

さらにその先左に沓掛会館、街道を挟んだ前(南)には 愛宕山大権組常夜

沓掛会館の北側には浄土宗金輪寺 が見えます

沓掛集落の左手には沈砂池があります。東に進みます沓掛の集落を抜けていきます振り返る

すぐさきで信号交差点に出ます。南北の道路は桂坂中央通り。交差点を越えると桂坂口バス停があります。
バス停100m程先左に 兒子神社

すぐ先右にセブンのコンビニがあります。その先、正面左に大枝小学校があります。その手前の分岐を左に折れます。右に大枝小学校があります

静かな集落内を歩いていきますと、下狩川に架かる下狩橋に出ますので渡っていきます

下狩橋を渡り少し進みます、左手に三ノ宮神社への参道がありますので、参道を右に100m程入ると(寄り道)

三ノ宮神社

三ノ宮神社の横をさらに100m程北に入っていくと、桓武天皇夫人宇波多陵


元の街道に戻り少し先、右に地福寺への標示があるので入ってみました(寄り道)

浄土宗地福寺 立派な石垣を備えています

綺麗な竹林の中の街道を東に進みます

この先、道は狭くなり、竹藪と言ったら失礼に当たります、整備された竹林の快適な道を下っていきます。

竹林の中を抜けたところです。振り返る

竹林をぬけて坂を下り国国道9号線に出ます。かつての旧道は、国道を斜め左に直進して、前方の小さな山に進んでいたが、すでに旧道は無くなっていますので、右に折れて100m程進み、信号交差点で左に折れて迂回します。

左のパチンコ・スーパードーム桂店のところに下ります。パチンコ店の前から振り返ったところです。向かって右に見える竹藪へ入っていく上り坂の旧道です。迂回道は下ってきて、鋭角に正面の国道を100m程進み樫原秤谷信号交差点を左に折れます

向かって正面右から国道を進み、樫原秤谷信号

さらに100m程進むと道は分岐していますので左に折れます。すぐ先右に小坂池があります。右の小坂池に架かるところで、左の竹やぶに上る地道がありますので、左に入ります。竹林の中は墓地になっています

竹藪の中に上っていくところの地道、辻を振り返る、左道路向いは小坂池

登り口左袂に石柱があり「維新殉難志士墓在此丘上」刻まれています

小坂池を右に見て竹林の中を上っていくと、墓地の一角に樫原札の辻で戦死した長州集義隊殉難三名が地元の人によりここに葬られる。 幕末維新殉難三士の墓

竹林を抜けた高台に出ます。抜けたところの道を見たところです。かつての旧街道は車の先を真っ直ぐ西に進んで、その先の国道9号線のパチンコ店の南側に下っていましたが、竹藪・墓地で廃道となっていますので今来た道が迂回道です。

竹林を抜けた旧道は、向かって右の道から来ました。左に道は新車道で左は小坂池です。振り返ったところです。祠の手前向かって右の道が旧道のようですが、少し左の車道を進みますと

車道を進んだ左に立派な 祠

車道の右、小坂池の切れたところ土手に指差の柳谷道の道標続いて右に新池があります


新池を50m程進むと池に沿った右(南)への分岐道があります。三ノ宮八幡神社前を通る柳谷道で街道は真っ直ぐ進みます。振り返ったところ。新池の角堤に大きな、三ノ宮神社の石柱 が立っています

前述の祠のある分岐に戻り、左の坂を上りました。多分もの道が旧道と思うが。少し進んだところから振り返る
新しい住宅が並ぶ下り坂を進みます

やがて先ほど分岐した道が右から合流してきます。合流する道の向こう側に鳥居が建っています。
三ノ宮神社の鳥居です。境内にはクスノキの大木も立っています


三ノ宮神社御旅所

鳥居の向い(北側)十字路右角には愛宕山常夜灯・地蔵尊・道標 「左 松尾嵐山道」

札場跡
この辺りに旅籠かわら屋があった。その周辺には、木屋・柴屋・白酒屋・油屋・種屋・うなぎ屋・小間物屋・塩屋等の店が並び、昼間でも三味線の音が聞こえ賑わったそうです。
この十字路を北に進むと嵐山方面に行ける

三ノ宮十字路、鳥居前を東に少し進んだところから鳥居前を振り返る。この先、樫原下ノ町・上ノ町へと進みます

少し街道を進むと【樫原宿】に入ります
左に橿原宿本陣跡現存本陣玉村家住宅

本陣前で街道を挟んだ右に 浄土真宗東本願寺派向陽山無量院 新築された藥医門のある格式高い寺で、大名も頭を下げたという。参勤交代時大勢の時は脇本陣として使用された。

ところどころに旧家の佇まいが残る右に、揚げ素戸ばったり床机の旧家

宿内右に 浄土宗西山深草派紫雲山龍淵寺 辻のお地蔵さん雲林院延命地藏とよび無病息災、尾願成就、安産に霊験あらたかな地蔵さんとして、祀られています。かつて地蔵の前で大きな釜で湯茶を旅人にふるまっていた。今も7月23日に、樫原の人々が健康で過ごせるようにお茶を振る舞い続けている

樫原宿の街並み

左側には、塀を残してマンションが建っている場所が小泉家跡 幕末の頃の当主、小泉仁左衛門は長州藩御用達の油商であった。森田節斎や梅田雲浜などの武士や学者も多く出入りしていた

続いて左側に 勤王家殉難之地碑
元治元年(1864)の蛤御門の戦いで敗れた、長州藩集義隊の藩士三名がここに逃れてきたところを、小浜藩兵に討たれた地。三名の墓は前述の竹やぶの中の墓です

碑のすぐ横に小さな、小畠川(洛西幹線用水路)が、昔から明智川とも呼ばれ、光秀の伝承も伝わる
樫原交差点手前の右に郷倉 江戸時代、樫原の年貢米を保管したり、凶作の時の穀類の備蓄をした倉庫。今も市の面影を残している。

樫原信号交差点に出ます。振り返ったところで、ここは、樫原札の辻で物集女街道と山陰道との交差する辻で、古くから栄え江戸時代には京から一番目の宿場町を形成していた。 丹波・丹後に繋がる山陰道・篠山街道と大坂・西国に繋がる物集女街道と交わる樫原はまさに交通の要衝であった。

(右)交差点から物集女街道の左(北)の筋。蔵の北側の建物は西京署で嵐山への道。(下)交差点から物集女街道の右(南)の筋


樫原バス停のところで左にカーブしてます振り返ったところ川島町で街道沿いには、小野邸他旧家が建ち並んでいます。


その先バス停のある川島粟田町で街道に左から道が合流してきます。少し先から振り返ったところ。

その先も旧家が並んでいます

少し先右に 孝子儀兵衛翁墓参道の道標

街道左に入ると、洛西観音霊場22番浄土真宗本願寺派常楽寺

阪急踏切の手前左に、松尾七社の一つ松尾大社大宮社

松尾大社の前の街道

街道を挟んだ右側には 三宮神社境内には椋の大木が立っています

踏切りの手前線路に沿って右に入ったところに臨済宗建仁寺派明鏡山延福禅寺

延福禅寺の南側に革嶋春日神社

阪急京都線桂駅の南側の踏切を渡ります踏切渡り左を見ると桂駅

踏切を渡り150m程進むと右T字路がありますので左に入ります。

左に折れた先、左手には浄土真宗本願寺西山別院延暦年間(782~806)桓武天皇の勅願により、最澄が創建したと伝わる。

本願寺西山別院の前で道は真っ直ぐの細い道と分岐しますので、右の広い方の道を右(東)に折れます。その左角に 愛宕燈籠

その先十字路右角に 道標「右 西山御坊 よし峯 大原の岩くら」「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」

少し進むと右からの広い道が合流する五差路信号交差点の左角に、江戸時代末期の人で親孝行の模範といわれた
「孝子儀兵衛翁の墓 西南七丁」の碑 が立っています。墓への参道を行くと菩提寺冷聲院があります

街道は左斜め(北東)に進みます、その先、右に将棋囲碁センターの建物があり100m程進むと五差路に分岐、ほぼ真っ直ぐの道を北東に進みます。続いて左に 桂地蔵寺 京都六地蔵巡りの一つで、平安前期の小野篁の作と伝わる、六地蔵が安置されている。

すぐ左に旧家があります

旧家の先、下桂信号交差点を横断します。信号を横断した左に、名物「桂飴」の本家養老亭があり、創業明暦二年(1658)の老舗

100m程先の次の信号を左に少し入った右手に春日神社

真っ直ぐ進んだすぐ右に菓子司 明治16年創業の中村軒 名物の麦代餅歩きながら食べるのに少し買いました美味しかった。

桂春日町に入ると、間もなく桂川に架かる桂大橋西詰の桂橋西詰交差点に出ます。常夜灯(弘化三年)左側一帯に元八条宮家の別荘桂離宮が建っています。

常夜燈はもともと桂大橋の南側の舟渡し場跡の岸にあったのがここに移された。基壇には「往来安全」と刻まれている。

桂大橋西詰より、左斜めの西京極方面を見る

桂大橋より左の桂離宮の杜を見る

桂川に架かる桂大橋はかつて舟渡しであった。桂大橋西詰

6月1日明智光秀の本軍は、深夜老ノ坂を越えて、山城国沓掛に入る。沓掛を右に行けば西山街道から西国街道へ、そして備中へ参陣できるが真っ直ぐ信長の閲兵によくするため京への道を進んできました。
6月2日に日付は変わり、桂川の西詰に到着、午前五時ごろから桂川を渡河し対岸にて、軍を整え、本能寺への約6㎞を粛々と軍列は進みました。別軍と合流したかどうか分かりません。
一旦ここで中断して、亀山に戻り別軍の道を検証します。
(2)亀岡城よりの別動隊 唐櫃越(からとこえ)の道
この街道の大半は山道の尾根を歩く。
旧道には赤いテープや案内標示が至るところの道筋にあるので迷うことも無い。地元の方たちの旧道管理に感謝しながら。万一横道に入ると直ぐ深い谷になり大変だ。私も一度幸い浅い斜面であってよかったが滑り落ちた。
でも旧道の面影が残る最高の道である。結構沢山のハイキングの人達で賑わうそうだ。また 年に一度亀岡から京都市街地までのマラソンでも知られているがとてもじゃないけど走れない感心する。何人かの走っている人とも会って話をした。
スタート近くの登り口から、みすず山までの急斜面のガレ道は滑り落ちるようなかんじできついがこれも旧道らしくていい。とてもやないけど馬も荷車もよく登ったものです。
今日は途中で何人かの人と立ち話ができて楽しかった。
この道も逆に歩いているので、写真は逆方向で見にくいですがよろしくお願いします。
山陰道の北側の尾根道を平行して、亀岡市山本~西京区山田南からまで通っている峠道。長い尾根筋の人一人通るのがやっとの坂道で、さらに道の両側は急峻な谷。
もし光秀の一隊の軍が進んだとすると、馬は無論、荷駄も進めない状況で難儀をしながら長い列で大変なものであったでしょう。(当時はもう少し道幅が広かったのだろう)
この道が歴史上に出てくるのが暦仁元年(1238)2月27日「九条道家施入状」に記されているそうです。その後も再三記載され唐櫃越は戦略上の京・丹波間の軍道であったようです。
本能寺急襲のルートの一つ
光秀の本能寺急襲のルートについては、3つの説があるようですが、1万3千の軍勢をどのようにして深夜に本能寺へ進めたか興味あるところですが。
実際に説のルートを歩いてみました。
1. 山陰道(篠山街道)老ノ坂越で沓掛ルートである。一般的な道老ノ坂を越えて、沓掛で右にとり西国街道にでて備中に進む道ですが、部下にも知らせず行進していた途中で不意に反旗をひるがえし本能寺急襲したというのであれば、光秀以下全ての軍が老ノ坂越をしたことになります。
2.近年の研究では、唐櫃越を支持する説が多いとのことです。ひそかに本能寺を急襲することを始めからの前提であるが、実際歩いてみて現在と違うとはいえ、1万3千もの軍勢をあの尾根道を進むのは大変で、長い軍列ができて時間的に無理と私は思った。
唐櫃越は、亀岡城下を抜け現在の左の山陰線JR馬堀駅の東側辺りから、急坂を駆け上がっていきます。(唐櫃越を支持する方は多分実際歩いてなく机上の論評と思います)
3.または、前述の明智越または保津川に沿ったハイキングコースで途中右に折れて保津川を渡河して、急峻な山中の道を上り、唐櫃越に合流して本能寺へのルート。
また遠回りになるが、保津川沿いに沿って進み、愛宕参道から嵯峨、嵐山に出るルート。
【私見】
実際にすべての道を歩いてみての感想です。
光秀は亀岡城出発にあたりすでに本能寺急襲を周到な計画を練っていた。全将兵でなく、主だったものには計画を話していた。備中への出発前に京都で信長の閲兵を受けるために、速やかに京都に向かう必要もあり、また本能寺へは速やかに全軍が揃う必要があったので、私は少なくとも、2隊・3隊に分けたのが普通と思う。
光秀本隊は老ノ坂越。1隊は馬堀で分かれ唐櫃越。1隊は保津川を沿っての道、この道を進むには、遠回りのため前もって出発しなければ本能寺の近くでの集結は難しい。
どのように進んだかは確定したことがわからないが、少なくとも1万3千もの軍が進むには、老ノ坂越は欠かせないと思います。
(注)逆に歩いた写真が殆ど亀岡むきなので見づらくもうしわけありません。
JR山陰線馬堀駅、篠山街道と分岐して駅の東側を北に進みます光秀の1軍はここを進んで唐櫃越の山道に入ったことでしょう

鵜川に架かるたが橋を渡ると山本集落です。亀岡市篠町山本で保津川下りの船頭さんがたくさん住んでいます。山本集落の背後は、この先、仏坂からみすぎ山への唐櫃越の道。

たが橋を渡ると左(西)に、保津峡を走る終点トロッコ亀岡駅が見えます。

たが橋より見る、北からの東への唐櫃越の尾根

山本の集落から、唐櫃越の尾根を見る突当りを少し左に折れてすぐ右の山への道を進みます

宝泉寺を右にいよいよ唐櫃越の上りに入ります。臨済宗鬼水山宝泉寺 立派なお城のような石垣を持つお寺


宝泉寺から亀岡盆地が一望できます

宝泉寺を右に少し登ります振り返ると篠町山本の集落が眼下の見える

宝泉寺の裏(北)側から唐櫃越の道が続いています。案内標識が立っています

竹藪の中で歴史を刻まれた窪んだ古道を上っていきます。

唐櫃越と呼ばれた旧道は、山陰道(篠山街道)を南に並行して、山々の稜線を進みます。やがて桂川近く、西京区山田まで約10㎞余りの厳しい古道で、丹波と山城を結ぶ最短ルートとして古くからたびたび歴史の舞台に登場してきました。天正十年(1582)6月2日未明、織田信長を襲った明智光秀の軍勢(1万3千)が京都本能寺に信長を急襲した一部もこの道を辿った。
唐櫃越は「太平記」に登場する古道であった。亀岡盆地(亀岡城下)を背後に急坂を歩き始まると、みすぎ山(標高約430m)の山頂近くまで登ります。
猪除けの鉄の扉を開け山に入ります。

扉を開けて入った古道、ごろ石で道が窪み歩きづらいが、歴史を感じる素晴らしい道を上る。
この古道を走っている人が見かける。そのような催し物を例年しているようです、凄いな

古道沿いの石垣、かつては民家が並んでいたのだろうか。下を振り返ったところです。
かつて、この辺りに山城の山本城があったと資料にありますが城跡(砦)

最高の気持ち素晴らしい道、さすが多くのウオーキングの方たちが歩くだけあります


かなり上ってきました、急峻で足元も石がころがり歩きにくいが、もう無我夢中です。

でも、戦国期も同じような道であったとしたら、光秀の行軍も一列縦隊で前後長い列となり前と後ろではかなりの時間ロスがあっただろうし、また荷駄や馬は大変だ。光秀軍深夜全軍歩いたという資料もあるが、実際歩いてみると無理ということがわかる。別動隊の1軍だろう。当時はもっと整備された古道であったのだろう。

この辺りは少しゴロゴロして荒れている

深く削り採られた旧道、人一人通るのがやっとという道

案内標示がありました、上桂への道

厳しい山道を登っていくと、ようやく尾根道に辿り着きました、尾根道を暫く進みます。標高430mのみすぎ山へ到達

頂上には三角点の標示があります

巨大な送電線と鉄塔が見えます。

右手急峻な谷ですが、道が少し整備され広くなっています みすぎ山 からの眺望。素晴らしい絶景です

亀岡盆地の遠望

愛宕山の眺望

比叡山の眺望

思い出せないが、左に登る道みすぎ山への登山道であったのか

暫く尾根道を進みます

後方には巨大な鉄塔が見えています。尾根道をどんどん進んでいきます。一人占めした最高の素晴らしい気分

起伏の少ないダート道が続く


(今歩いてきた道を少し振り返ると)、ハッキリわからないがこの辺りが、天ヶ辻か、標示がないので分からない。峠を越えると左に分かれる道が王子への下り道だが写真では分からない。巨大な送電線の鉄塔が見える辺りから再び旧道となり、標高430mのみすぎ山に到達する。亀山盆地が一望できる、(なでか写真には写っていない)。尾根道を進んでいく途中送電線の鉄塔の下で食事をしていたお寺の関係の人たちの写真撮ったつもりだったが写っていない残念。鉄塔から急峻な道を下る。
快適な古道を進みます。天気も良く最高

林の中から旧道を下っていくと突然舗装道が現れる。話によると山陰道の付け替え工事を計画し始めたが途中で中止している、誰が考えたか全く無用な無粋な無駄遣いだ。旧道を下ってきたところ、ここで少し一休み舗装道に入り旧道を振り返る

下ってきた左に舗装工事のための資材作業場跡の広場、その背景に比叡山の雄姿が望める

ここ玉ヶ辻からの眺望は綺麗、光秀が句会を催した、愛宕神社が鎮座する愛宕山が見えます

舗装道路を東に暫く歩きます

山深い山中に舗装道路、山陰線の付け替え工事用に作られたそうで、作業場の広場になっているが、景観を台無しにする。現在は自然に帰りつつあるが。まもなく舗装道路も終わる

道は分岐します、古道は左の坂道に入ります真っ直ぐへの舗装道路は西山団地方面への下り道。

標識もあり、狭い山道ながら古道の踏みならした道で迷うことがない。

馬の背のような古道でも素晴らしい、写真を見ながらこのような山道を光秀軍は進んだのだと想像してください。写真は殆ど進む方向と逆です


ここも道ですよ、滑り落ちないように注意。雨や雪の日は危険

ただ山道を歩くだけでなく、変化があって楽しく飽きが来ない旧道
山歩きの方には推薦します

樹木が低いから明るくていい

これが旧道かビックリ、人一人歩くのがやっと、でも本当に気持ちがよい、幸い対抗者がいないからいいが
暫くこのような素晴らしい道



刻まれた字が読めないが 標示と道標 カモメ谷への道との分岐 標高(415m)の沓掛山の三角点を過ぎます

振り返った分岐右に下るとカモメ谷、古道は左から進んで来ました


道案内に、木に赤いテープや短冊を垂らして間違わないようしていただいている 感謝


絵になる古道でもこの道を走っている人がいるから感心する、両側が崖となった馬の背の尾根道「かくれ道」

両側が崖で、木の根の上を滑らないよう歩くのが大変
四国の「坂本龍馬脱藩の道」を歩いた時の山道を思い出す

馬の背道が続く


この先、ソヨゴ坂・リョウブ坂・ハイノキ坂と続く

唐櫃越も終盤近くになり、道が分岐する広場と案内標示が建つ。東側の遠望には京都盆地が広がり、西側には、高級住宅地の「桂坂」の家並み。住宅地の一角にある野鳥園への道が分岐。


この辺りが沓掛山(標高415m)の三角点かチョットと不明ですが、

リョウブ坂への道を進みます

しかしその先も厳しい道が続きます、左に滑り落ちたら大変だ、雪や雨は無理かも



左手に沓掛山(415m)

大枝山町の桂坂野鳥公園への下り坂が右へ


ハイノキ坂・リョウブ坂・ソヨゴ坂が何処から何処まではわかりませんがほぼこの前後と思います


道案内標示がしっかりしてあるので迷わない

V字型の尾根道が続きます「かくれ道」すごく歴史を感じる

長年の風雨の浸食で道が凹状になっている

風景が一気に変わり、竹林の間の細い道素晴らしい道を下っていきます

左に下れば西芳寺(苔寺)方面へ出ます

急坂を下りますが、もう少しで両方の崖に土が落ちて道がなくなるのではと思う、素晴らしい古道ですので、どうか保存よろしくお願いします


タケノコを取るためだろう本当に綺麗に整備されている竹林、その中を歩かせていただくので、歩く人も十分注意して荒らさないようにと思います

竹林から雑木林に下って長い尾根道の唐櫃越も間もなく終わりです

今までの古道の途中位置説明は難しいので、殆ど道筋の写真ばかりになりました。
もう一度これまで歩いてきた道筋の説明を振り返っておきます。
共同墓地から山道に差し掛かると、ハイノキ坂~リョウブ坂~ソヨゴ坂といった枝の道が合流し、分岐して左へ下ると桂坂野鳥公園へつながるが。
唐櫃越えは、長年の風雪で両側の崖に削り取られ流れ落ち、木の根も剝き出しになった細い道幅だけ残っている尾根道。灌木に挟まれた「かくれ道」が続く。でも人気の道なのか人と結構会う。
やがて標高415mの沓掛山の三角点に到着、そこを過ぎ、右へのカモメ谷との分岐路を左に進む。迷いそうなところもあるが、赤いテープで目印をしてくれているので心配がない。途中西山団地への至る道が左へ下るがそのまま進む。道は玉ヶ辻にでる、その先で舗装道路に出る。突然舗装道に出るのでビックリする、聞くところによると、山陰線の付け替え工事用に造られたとのこと、こんなところに訳が分からない。資材作業場の広場を後に舗装道が終わる。
この玉ヶ辻辺りから見える愛宕・比叡の眺望も絶景である。資材広場の先も暫く整備された ダート道が続く。
やがて天蓋峠へ差し掛かり峠を越えると、左へ下る道の分岐に出る、左への下り道は王子へ至る、右の道を進む。その先に巨大な送電線の鉄塔がみえるあたりから再び旧道となる。鉄塔の下で山麓のお寺で修行している人たち10名ほど御飯を食べていた。そこを過ぎて進んでいくと、標高430mのみすぎ山に達する、亀岡盆地の眺望が絶景である。暫く尾根道が続くが、しばらくして左への急激な谷筋を下ることとなる。
この道が、山本側へのとりつけ坂で、途中イノシシ除けの柵を開閉したすぐ先が先ほど食事していた人たちの宝泉寺に着く。
閑静な篠町山本の集落に入る。鵜川を渡りJR馬堀駅まで進む。ここで唐櫃越えは完歩。
見ていても素晴らしい古道が残っています、興味のある方は是非お薦めで歩いてください。
決して難しい道でありません、1日ゆっくり楽しめます。都会のごみをはらい清々しくなります
桜谷五ヶ寺共同、墓地墓地の中を下っていきますこの先の急坂は、唐櫃越のとりつけ坂と呼ばれている

振り返ったところ

桜谷五ヶ寺共同墓地を抜けます

驚くような綺麗に整備された竹林に入りました

竹林に挟まれた細い坂道を下ります。西京区の山田開キ町に入ります。とりつけ坂を下ってきたところを振り返る。

さらに緩やかな坂を下ってきた右に浄住寺の道標右に入ると黄檗宗葉室山浄住寺があります
「浄住寺」と刻まれています

さらに下っていく集落の中の閑静な旧道を東へ進みますと十字路に出ます。振り返ったところです。背景の山は唐櫃越です

十字路左(北東)角のお地蔵さん

十字路の先、唐櫃越起点

十字路を左(北西)に緩やかな坂を上っていくと、地蔵院さらに下っていくと、西芳寺・鈴虫寺・松尾大社への道です

十字路の右(北西)角に 二基の道標「左 浄住寺」「右 地蔵院」

十字路の起点より唐櫃越街道を振り返る

更に西に進んだところの交差点が、唐櫃越街道の起点、山田岐れ です。
交差する南北の道は、物集女(もずめ)街道 で、左(北)への道は嵐山渡月橋まで、右(南)への道は阪急西向日駅の北側、西国街道 との分岐です。
交差点の右角に右浄住寺と書かれた道標 物集女街道と、右(南)への道、向日市駅近くの西国街道合流まで

物集女街道の北(左)への道 嵐山渡月橋へ

山田岐れ交差点から、唐櫃越を振り返る

さらに東へ進み、振り返ったところ

広い29号線の山田口交差点に出ます

山田口交差点を真っ直ぐ進むと阪急嵐山線上桂駅の北側踏切に出ます。

山田の岐れで唐櫃越は終わるが、本隊と別軍は合流し真っ直ぐ進み四条通り辺りから本能寺へ進むか。光秀本隊と合流しないでこのまま進み午前6時ごろ、本能寺・二条新御所を急襲したかわよく分かりません。
ここで一旦中断して、もう一つの道に戻ります。
(3) 本隊と分かれた別軍の道(仮設)
かなりの迂回道になるので、ないだろうと思いますが、一応仮説として参考に検証しました。
亀山城をすぐ本隊と分かれて、保津八幡神社に進みます。
ここから
イ 愛宕山から下って来た時歩いた、明智越えを反対側から歩きます。そして水尾の里の保津川に下って行った途中の分岐に出て、右に車道を保津峡駅に下る道。
ロ 保津八幡神社から右に保津川に沿って、保津峡駅に至る道。
ひょっとしたら明智軍の一部隊が(イ)(ロ)この道を進み嵯峨から嵐山に抜けて、本能寺又は信忠の二条御所攻撃に合流したかもと想像しました。でも当時この先道があったかわかりませんし、歴史資料にも乗ってこないので、多分私一人の仮説でしょう。保津川にそって進み、現在の落合橋を渡ったところで東に進み、結構急坂の蛇行を繰り返し、六丁峠を越えます。
そして下って行ったところで嵯峨の鳥居本にでて愛宕表参道の愛宕街道に合流して嵯峨野を進み嵐山に出る道です。あまり隊を分散させて、時間合わせが難しいとも思いましたが。
まず
(イ)保津八幡神社から明智越え、重複するので、この地点からの道です。
明智越えは省略します。右、愛宕山から水尾の里を通り下ってきた道。
左、明智越への古道
振り返ってみる。明智軍の一軍が明智越えを来て、これから右に下って進む道。

右の谷川に沿って下っていきます

右から亀岡の保津八幡宮から保津川の左岸を進む道です。八幡宮近くで地元のおじさんがここの道も古いとおっしゃったので歩いた道です。もしかして明智の一軍が歩いてきたかも。いろいろ想像すると楽しい(後述します)
土砂崩れで完全に通行禁止になっていますが(歩けました)

さらに下っていきます

水尾の里から1時間余り歩くと、赤い保津峡橋に出ます。橋を渡って左に折れていくとJR保津峡駅に出ます。私は橋の手前を左に折れます

橋の手前右に標識が出ています

ここで一旦中断して、元の保津八幡神社に戻り、神社から保津川に沿った道を進んできます
(ロ) 保津八幡宮で明智越えでなく、神社正面の道から保津川を右に見ながら左岸を保津峡駅まで歩く道(仮説)
保津八幡神社保津八幡神社正面

明智越え登り口から神社まで案内してくださったたおじさんの話から、相当足腰にきているが2時間ほどかけて、木津川渓谷沿いのハイキング道を保津峡駅まで戻ることとします。話では少し崩れているが古い道だそうです。
街道でなくハイキング道で保津川の左岸に沿って進み、保津峡駅まで進む道。崖崩れなどがあってかなり危険な道になりつつあります。(旧道と言っても当時は無かったかもしれませんが、いろいろ想像するのも楽しい)
光秀の本能寺の変への道と関係ないと思いますが。別動隊が明智越えでなく、この保津川沿いの現ハイキングコースを進み、途中で右に保津川を渡り山をかけ登り唐櫃越えを進んだという説もあります。
またはそのまま保津川に沿って嵯峨鳥居本まで進んだかも。
八幡神社からの保津川に架かる新保津峡橋

保津八幡宮の南側の401号線を東南に進みます。保津八幡宮を振り返る

右、遠望にトロッコ亀岡駅が望める背後の山並みが唐櫃越え

右に保津川が迫る、左は山、その山裾の道を進んでいきます

馬子の引き場 綱はじき


保津川下りの川船

暫く進むと左の山裾に 請田神社の鳥居

神社の参道を進み【寄り道】

立派な神社です

保津川に向かって建っている社舟の安全を見守っているようです

神社から対岸の眺望、保津川に流れている支流は鵜川で、町は篠町山本で唐櫃越えの起点の町

保津川下りの舟が遠ざかっていきます

右が深い崖の保津川、左は険しい岩山で崖崩れがあったようだ。その間の道

この辺りが崩れたようです

暫く進んでいきます。
川辺に何か碑が立っている、慰霊碑かそれとも明智越えの途中からの道が保津川に下り、対岸に渡り、急峻な山道を登り唐櫃越えに合流していたのか。光秀の一軍がこの辺りを通っても不思議でない


保津峡の景観が続きます。前方に見えるのが、保津川に架かる山陰線


道はかなり高台を進み、山陰本線のトンネルの上を越えます。丁度列車がトンんっるから出てきました。
撮り鉄に方が喜びそうな地点

ここは、山陰線がトンネルを抜けてくる、嵯峨野観光線(トロッコ電車)が左右に対岸の川沿いを走る交差する地点

対岸の山裾を走る嵯峨野観光線

保津川を右に分け、左の山道に分けいります

峠越えにかかります

保津川と少し離れての山道

クマが出そうな雰囲気の所です

下り道を進んでいきます



坂を下るが、この間ハイキングの人とも一度も会わなかった

やっと下の谷川の対岸に道が見えて来た、何時ものことだがホットした瞬間です

正面に明智越えの上る途中の道に出ました

前述の通行止めであった辻明智越えでの水尾の里から下ってきた道に合流。崖崩れで通行止めの看板が立っています

明智越えの道が左から合流。右に折れて保津川への道を下っていきます

水尾川に架かる保津峡駅近くの赤い橋が見えて来ました

赤い橋からJR保津峡駅を遠くに見る

ここから前述の明智越えの道と合流して、仮説として、保津川の左岸に沿った道を歩きます。
2つの道が合流した先の保津峡駅から嵯峨鳥居本への道(仮説)

左に折れて右に保津川を見ながら左岸の道を上っていきます

右手に保津峡谷とJR線が走る

やがてトンネルをくぐります

さらに緩やかな坂を上っていきます

右手対岸にトロッコ保津峡駅が見えてきます。トロッコ保津峡駅に通じる橋


保津峡駅前の道、快適な道ですがやはり新しい道なのだろうか

道左に芭蕉翁句碑の標石 芭蕉句碑があるということは、芭蕉も歩いているのでやはり古道だ

丁度、トロッコ電車が着きました。今日はタイミングがいいな

右の保津川に沿って坂を上っていきます

右下に丁度渓流下りの屋形船が二舟下っています

右の保津川よりかなり高い斜面に道がついていますシーズンより外れているので車も少なく楽です

トンネルをくぐりますが、手前右から回る以前の道が急斜面についています


保津川の峡谷、流れが速いので舟ははや先に進んでいます。JR線やトロッコ電車は向って右の山中をトンネルで進んでいます。JRは第一保津トンネルトロッコ電車は清滝トンネルです

トンネルに入る手前の以前の道、右は急峻な保津川への崖です(旧道跡か)

トンネルを潜ると、保津川に注ぐ分流に掛かるすぐ赤い落合橋を渡ります。橋を渡ると右に下る道がありその左袂に

芭蕉翁句の句碑への道標

そこから、トンネル方向を振り返る

落合橋を渡った左、道が分岐しています左は清滝への道で川沿いに沿って歩く、「丹波散策の道」の標柱が立っています



左が清滝までの川沿いの散策道、私は右の道で六丁峠を越えます

峠まではこのような蛇行の急坂道です

かなり高く昇ってきました

保津峡の素晴らしい眺め、ゆっくり眺めながら歩いています。車ではこの感覚は味わうことができません

親子が歩いて子供さんが疲れたといって歩いていました、微笑ましい

八丁峠の切通につきました、上は車道橋です

峠の標識

峠より急な坂を下ります。暫くは快適な下り道

左に、嵯峨天皇皇后嘉智子嵯峨陵参道 平安時代の第52代嵯峨天皇の皇后で786~850年

間もなく愛宕山登り口の一の鳥居の横に出ます


やがて、鳥居本の愛宕街道に合流します

愛宕神社の一の鳥居、向って左から出てきました。右は愛宕街道でで清滝にでて愛宕山の参道に出ます

道標が二基 「左 清和天皇水尾山陵 嵯峨天皇皇后嵯峨陵参道」「史跡 名勝嵐山拾・・」天皇・皇后の陵がある道なので、やはり古道であったと思われる

一の鳥居、傍にある平野茶屋(鮎茶屋)茅葺の屋根歴史を感じさせる

鳥居から下る筋にも茅葺のお店

鳥居本の愛宕街道、普段は沢山の観光客で賑やかですが、今はコロナウイルスで外人客もまばらです。


人力車がよく似合う街筋で右は化野念仏寺

化野念仏寺のまえから愛宕街道を振り返る

さらに愛宕街道を下って行ったところで分岐します

嵯峨野の中心地で右に進んでいくと、清凉寺で愛宕街道は終点です。(街道の詳細は愛宕街道の資料参照)
そして嵐山へ出て、市街地の本能寺に進むか、嵐山から物集女街道を進み本隊に合流したか。いずれにしても少し遠回りで時間的に調整するのに無理があるようです。
さらに京都市街地を東南方向に本能寺がありますが。かなりの距離があります。
この道を一隊は進軍したか定かではありません。
以上で亀山城からの3つの道を終わります
第三章
【第 4】 桂川から本能寺への道を探る
A 明智本隊は桂川(現在の桂大橋辺り)を渡河し、午前6時ごろよりいよいよ京都市街地に入り本能寺を目指す。桂川から本能寺まで約6㎞の距離です。
阪急桂駅前

駅前を南に200m程進むと、山陰道(篠山街道)の東西の十字路にでます。左に折れます右からの山陰道を見る

山陰道からは踏切を渡り真っ直ぐ東へ進みます(手前に)

すぐ左に本願寺西山別院

左に折れます

左に折れたところの町筋左に、本願寺西山別院の正面

西山別院を左に見て過ぎると、右にカーブする左角に 燈籠

そのすぐの十字路右に道標 右正面の道から手目に歩く十字路

十字路の先で左にカーブします

左にカーブする左角に孝子儀兵衛翁の墓への道標 西南七丁の標柱1724年四条堀川で生まれた、貧乏の中義母への献身的な孝行をした人

東代橋を北東に向かって街道は進みます

桂・市ノ前町20-2 少し先の辻で左の筋を見ると、正面に阪急桂駅が見えます。
すぐ先左に 桂地蔵寺

京洛六地蔵巡り桂地蔵寺の石柱

門前の 愛宕山常夜燈

さらに左、レストランの前庭に 桂の泉


その先桂大橋の手前左に、桂離宮の杜 があります。左塀を背に 祠

桂大橋の手前右に老舗の菓子店、麦代餅で有名な中村軒

桂川の架かる桂大橋を渡る手前を左に【寄り道】します。明智軍はこの付近を渡河したと思う

左に折れる信号右角に、常夜燈と大木

堤防沿いの道を進んでいきます 桂離宮 入口もちろん予約してないので入れません


少し小雨が降ってきました。桂離宮の北側、堤防近くに徳大寺樋門の遺構 桂川の氾濫を防ぐために築かれた、桂離宮への引水にも利用されていた。

桂大橋から左(北)の景色

桂大橋から右(南)の景色 明智の大軍はどのあたりを渡河したのだろう

桂大橋を東詰めに進み、右京区西京極に入ります。橋を渡りすぐ先一つ目の信号交差点を左に折れます


左に折れた西京極地区の街並みを北へ

街筋右に 祠 続いて右に 愛宕大権現常夜燈

すぐ先で道は右(東)にカーブ200m程の左に延命地蔵大菩薩の祠と愛宕山燈籠

天神川(御室川)に架かる七条橋を渡ります。七条通りに入ります。明智の大軍は七条通りを粛々と進んだだろう

七条橋を渡った左角に 祠と燈籠

すぐ先で信号交差点に出ますので、右に折れて東に七条通りを進みます

信号交差点左の筋は、ほほえみ通りの標示があります、入らずに右に折れて進みます

道が狭くなり、信号交差点を渡ります

すぐ左に 浄土宗稱名寺

左に 松尾三宮社の参道

参道左の 祠

参道の 愛宕常夜燈

続いて右に旧天神川に多くの地蔵さんが祀られてます

道は広くなります 西京極大門町

左、天翔の湯を過ぎると、下京区に入り、西七条南月読町に入ります。
旧西高瀬川に架かる月読橋を渡り真っ直ぐの街道を東へ進みます、振り返る。西七条東野町並み

左に 西山浄土宗法性山真導寺

前方にJR山陰線の高架が見えます、右手に梅小路京都西駅

高架の下で左に折れる道が千本通りで、高架に沿って側道を北に進む丹波口駅への道があります。

⦅注釈⦆
明智光秀の一軍はこの道を分かれて北上して、本能寺へ進んだかも、または、唐櫃越をしてきた別軍が、西の北桂駅付近から五条通りを東に進んできて、丹波口駅北側の五条通りを南に折れて七条通りを進んできて、本隊と合流して七条通りを東に進み本能寺へ進んだか。
もしくは丹波口の五条通りを別軍は真っ直ぐ東に進んで先で合流したかは、今は想像するしか ありません。とりあえず、どのような道か丹波口駅まで歩いてみます。
もちろん当時の京都と、今の道の様子は全然変わっているのは承知しています。今更正しい行軍道を歩くのは不可能です。
高架に沿って暫く進むと右に 島原住吉神社





この住吉神社の東側一帯は、京都の花街島原で夜毎賑わったところです。石に刻まれたかつての大門

大銀杏


今は山陰線に沿って、京都の台所、中央卸売市場が広がる、住吉神社前あたり。さらに山陰線高架に沿って北に進んでいきます。やがてJR山陰線の丹波口駅東口前に出ます。九号線と交差する五条新千本信号交差点

五条新千本信号交差点で左からの道は、唐櫃越で上桂辺りで桂川を渡河してきた一軍と合流したのでは、そして、
① 五条通りを東に進む
② 五条新千本交差点で北に折れて壬生寺を通り四条通りに出て東に進む
③ 五条新千本交差点を右に折れて、七条通りを進んでいる本隊と合流して東に進む
いろいろな進軍方向がありますが、あくまで私見で想像の域にすぎません。
参考までも、このまま丹波口駅前から②の道を進んでみます。


交差点を渡り丹波口駅前を振り返る

交差点の先を進みます。道が少し狭くなり、右手は光徳公園があります

公園の先、左に花の湯があります。やがて仏光寺通りの十字路に出ます

(寄り道)十字路を右に折れたすぐ左に壬生寺の南門があります。唐招提寺を本山とする。
律宗別格本山壬生寺 西暦2年(992)創建と伝わる壬生狂言や壬生塚で知られる。「お地蔵さま」を祀る地蔵信仰のお寺。千体仏塔 町中に祀られていた石仏、千体を安置。
境内や周辺には、新選組にまつわる史跡が沢山あります。(詳細は別紙公開している資料ご覧ください)
境内の放生池の中島は「壬生塚」と呼ばれ、新選組隊士の数基の墓が建っています


人丸塚 歌人柿本人麻呂の灰塚

正面 近藤勇の胸像

正面左手に 芹沢 鴨・平山五郎の復元墓塔

右側に勘定方、河合耆三郎及び手前に近藤勇の遺髪塔

壬生寺正面

千本通りに戻り北に進みますと、京福電鉄嵐山本線の高架を潜ります

四条通りの信号交差点に出ます右に折れて東に進むと、地下鉄烏丸駅方向です。
この道から本能寺へ急襲したかもわかりません。

千本通りを振り返る

四条通りの東を見たところで、烏丸・祇園方向をみる

再び元の七条通りまで戻ります。(同じ道を戻るのもつまらないから、関係ないのですが)坊城通りを南に進みました。途中、非公開の新選組屯所跡の旧前川邸の長屋門と側面


すぐ先右に八木家は鎌倉時代より続く旧家壬生郷士、十一代八木源之丞の時に新選組の屯所となった。
入口右に現在の八木家当主が創業した京菓子店「京都鶴屋鶴壽庵」があります。

さらに、丹波口駅前に出て住吉神社の東側には、前述の花街島原があります。
東の 島原の大門

大門を入ると現島原の街筋の一部、ところどころに茶屋跡と思われる建物が残っています

大門から西に真っ直ぐの道を進むと、左角に広大な敷地の島原の代表的な茶屋であった 角屋
中に入って見学できました

角屋正面現存する唯一の揚屋建築


正門の袂に新選組刀傷の角屋の碑

左角が角屋でその角に

長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋の碑が建つています

角屋を左に見て路地を入った突当りに東鴻臚館址

本来の道より外れましたが、元の七条通りに戻り東に進みます

少し進んで振り返ったところです。高架はJR山陰線、左梅小路京都西駅

この広い道路を歩いていて気になっていることが、折角立派な自転車専用側道、それもわざわざ対抗中央線まであるのに、なで、歩道を走るのかマナーが悪すぎる、取り締まるといいと思うが。守っている人もいます。

西本願寺の西側、大宮通りの交差点、この辺りを左に一軍は北上したかもしれない。北上すれば江戸期の二条城に出ます。大宮七条信号交差点を越えます左の大宮通りを見る

西本願寺南門、龍谷大学入り口

門を入ると左に龍谷大学本館(重文)

七条通りに出てすぐ左に真宗興正派本山興正寺を見て進みます。
七条堀川信号交差点より左の西本願寺を見る

七条堀川をさらに東に進みます

七条堀川交差点より三筋目の西洞院通り信号交差点を左に折れて北上します。丁度西本願寺と東本願寺の真中の筋です

西洞通り北上の街筋

左に旧家の長屋門

やがて西洞院五条信号交差点に出ます、更に暫く歩いて4つ目の信号手前左に

更に進んだ右手に菅大臣神社

鳥居の傍に、天満宮降誕之地の碑が建つ

賑やかな四条通りとの信号交差点に出ます

祇園祭の準備で沢山の人、見物の観光客も出ています

やっと元本能寺町地区

四条通りとの交差点を250m程北に進むと東西の十字路、蛸薬師通りに出ます、左が元本能寺町です。旧本能寺は南側が蛸薬師通り・東側が西洞院通り・北側が六角通り・西側が油小路通りに囲まれていた一帯であったようです(確定ではありませんが)。
旧本能寺は四方の一辺が約120mで堀と土塀に囲まれていたとい伝わっています。
明智光秀が桂川を午前五時頃渡河し本能寺までの約6㎞を進むが。
一般的には京七口の一つ、丹波口より市街地に侵入。七条通りを東に進み、千本通り・大宮大路・西洞院通り・室町通りを分かれて北上、本能寺や妙覚寺を目指して軍を進めた。本能寺へは天正10年(1582)6月2日午前6時頃に乱入。本能寺は炎上、織田信長の旗本・小姓等々ことごとく奮戦討死した。
堀川高校本能寺学舎の北側、養護老人ホームの北東角に建つ
本能寺跡


本能寺が炎に包まれたのが午前7時ごろ、光秀は続いて(別動隊による)軍勢を本能寺の北600m程の所にある、信長の嫡男、織田信忠(26歳)の宿泊する妙覚寺に西洞院通・室町小路を北上してせよった。信忠は光秀が迫る前に異変を知り、本能寺に駆け付けようとしたが、京都所司代を務めていた村井貞勝、息子の貞成・清次と共に妙覚寺に駆け付け、本能寺は炎上時すでに遅く勧めにより、妙覚寺のすぐ近くの二条御新造に1000名程で防戦したものの、信忠は自刃し建物は炎上したという。
すべてが終わったのが午前9時頃であった。
信長・信忠父子を守って戦死した者は、本能寺で55人、二条御所で61人、村井貞勝父子等々が信長・信忠父子に殉じた。
本能寺で信長を攻め、炎上したのを見届け、光秀の軍は西洞院通を別軍は室町通りを北上、信忠の宿舎妙覚寺に攻め寄せる。信忠は妙覚寺より50m程離れた、二条新御所で迎え撃ち自刃。
光秀の信長本能寺急襲の道の本隊が進んだであろう想像の道を達成しました
引き続き、別動隊に戻る前に、その関連史跡をまわります
旧本能寺跡を見て、本能寺跡の東側の筋、西洞院通を北上します

通り右手に名水柳の水跡


その先すぐ左に祠 更に右に 祠があります。
地下鉄東西線の御池通と交差する信号交差点に出ますので右に折れます

右に折れた四筋目が室町通です。

更に二筋目が烏丸御池の信号交差点で、地下鉄烏丸線と交差しています。

烏丸御池交差点より400m程東に進むと、河原町通と交差する京都市役所信号交差点に出ます。左手には京都市役所があります。その手前右側にアーケードのある商店街を右(南)に入ったすぐ左に現在の、大本山本能寺 があります。西洞院の旧本能寺から東北へ1.5㎞程のところに建っています。

本能寺の正門前 外国人も含め結構沢山の人が見学に来ています。
本能寺の変は前述の旧本能寺です

本能寺の本堂昭和三年再興、創建当時の面影が残る


向かって本堂の右奥にある 信長公廟 信長の三男・信孝の命により建立された。

織田信長の墓
事件の1ヶ月後に墓が建てられたといわれてます。信長人気で多くの外国人も含めて見学に来ています

信長の墓の傍には本能寺・二条新御所で戦死した家臣たち100名ほどの合祀墓が今も信長を守るようよ共に眠っています。信長と共に戦死した家臣の 合祀墓


さらに境内に手前から後方にたてに 三基の塔 が
徳川九代家重夫人の供養塔、管中納言局庸子の石塔、島津義久夫人の石塔



日條聖人御墓


一番奥に 日承王聖人の御墓



本能寺を出て、烏丸通の広い道を北に渡った市役所前から振り返る。本能寺は正面ビルの向こう側にあります。

西の烏丸御池交差点に戻り、一筋目の両替町通に出て右(北)に折れます、二条殿町です。室町通より一筋東の筋です。すぐ右の京都国際漫画ミュウジアムの西側(裏側)の塀の袂に、
此の附近徳川時代銀座遺址碑

此附近 二條殿址碑
妙覚寺から二條御新造に移った信忠、最初は本能寺の異変を知って、500の手勢を率いて本能寺に向かおうとしたが、京都所司代の村井貞勝父子が駆け付け、すでに本能寺は炎上と知らされ、急遽、妙覚寺の東50m程にあった、この地に移動、付近の旗本も駆け付け1000名程で防戦激戦した、この戦いで織田の歴戦の旗本達も奮戦戦士した、信忠も御所に火を放ち自刃して果てた場所です。今はただ石柱の碑のみが場所を知らせるのみです。戦闘が終わったのが午前10時頃と伝わる。

二条新御所址の京都国際漫画ミュウジアムの東側。

両替町通、三基の碑が建っています、南方向

北方向

二条殿址碑の両替町通より、西の筋、室町通を越えた次の衣棚通の次の西側の筋、新町通の北向に見たところから右辺りが 妙覚寺址
何も史跡がなくマンションが建っています。北に歩き一筋目の十字路より南を見たところ

十字路を右に折れました。右側に妙覚寺があったのかな

次の十字路の衣棚通を右に折れました。右手辺りに妙覚寺があったのか、丁度一回りしたが何も痕跡はありません

ただ右手に、下妙覚寺町の標示がありました

妙覚寺より西に真っ直ぐ進むと、江戸期の二条城があります。当時はここにはありませんでした

ここで、本題の明智光秀の本能寺・二条殿の急襲、亀山城からの道が達成しました。
後は少し関連遺跡を巡ります。二条殿址と妙覚寺址を後にして
西洞院通をさらに北に進みます

やがて下立売通に突き当ります

正面に京都府庁があります

下立売通を右に折れて300m程東に進むと室町通の交差点に出ます。右角が平安女学院の校舎があり、その角に旧二条城跡の碑が建っています
旧二条城跡碑


交差点から東を見ると、京都御所の杜が見えます

元の京都府庁のT字路に戻り、左に折れてすぐ右に折れる道、西洞院通を北に進みます。下長者町通を越えて進みます

下長者町通を過ぎるとすぐ左に真宗大谷長徳寺

会津藩洋学所跡碑と説明


その先左に 大峰寺跡


その先、武者小路通のT字路に出ますので左に折れます

左に折れた右に大きな屋敷があります武者小路千家の官休庵

千利休・小庵・宗旦と続いた四代目が三千家に分かれ、武者小路千家官休庵、表千家不審庵、裏千家今日庵となって現在に続いている。


進んでいくと、今出川通を越える、左にファミマがあります。小川通をさらに北に進むと右に小川児童公園のところで上立売通の突当りで左に折れます。すぐまた右に折れて北へ進むとすぐ先左に
浄土宗鳴虎報恩寺


小川通が再び寺之内通に突当り左に折れます。

すぐ先で再度右に折れます。この先の小川通の右には、表千家不審庵、裏千家今日庵の千家の建物が並びます。
左には人形の寺とも呼ばれる、尼門跡寺院禅宗寺院臨済宗宝鏡寺

左角に小川と百々橋の礎石の案内板。右手に 千利休居士遺蹟不審庵碑

中を覗きましたが入れません格式のある表門で何か雰囲気が違います。中には入れない


表千家・裏千家と続いた小川通を振り返る。

この通りは一趣独特な情緒があり、近寄りがたい

小川通の向かいには、南から宝鏡寺・茶道資料館・本法寺と並んでいます。日蓮宗本山の一つ本法寺


本法寺の先で、小川通と上御霊前通との交差点に出ます、交差点左角にはお茶道具専門店があります

交差点から小川通を振り返ると、交差点の手前左角にも、お茶道具専門店があります、三千家の街並みだけはあります

交差点を右に折れた左が日蓮宗妙覚寺 一時、信長や信忠の京都での宿舎であったが、本能寺の変後、秀吉によりこの地に移設(変事の旧妙覚寺は前述の所)


塔頭には狩野元信之墓があります


旧本能寺址・旧妙覚寺址・二条新御殿址を巡り、現在の本能寺・妙覚寺を訪問しました。
午後は小雨が時折振っていましたが、妙覚寺にきていよいよ本格的に降り始めました。今日はもう一か所行きたいので雨の中頑張って歩きます。
妙覚寺より東に進み、地下鉄烏丸線の鞍馬口駅の南を進み、上御霊前通に入り、左に上御霊神社を見て、その先で寺町通の交差点を右に進んでいくと左にある
浄土宗蓮台山阿弥陀寺 織田信長公廟所
院号は総見院、本尊は阿弥陀如来。天文24年(1555)創建天正10年(1582)、本能寺の変後、住職の玉誉清玉は現地に向かい、信長・信忠の遺骨を拾い墓を造って祀ったという。さらに犠牲者も阿弥陀寺に葬り供養したと伝わる。

本堂

本堂に向かって右に入っていきます
織田信長・信忠、家臣の本廟入口の案内

正面 織田信長・信忠の墓


塀に沿って 森蘭丸・坊丸・力丸の兄弟、福富秀勝、津田信貞、津田九郎治郎、赤座七郎右衛門、団平八郎、湯浅甚介、桜木傳七郎、青柳勘太郎、桑原吉三の墓が並ぶ

上から 蘭丸、坊丸、力丸




【第4】 明智別軍の桂川からの本能寺・二条新御所への道
明智軍の亀岡城下から別の一軍が通ったと思われる、唐櫃越から現在の阪急嵐山線上桂駅辺りから桂川を渡り、五条通りに出て東へ進み、JR丹波口駅を抜けて堀川五条に達し、前回歩いた西洞院通の二筋目先の室町通を左(北)に折れて四条通りの先で、旧本能寺に向かう。途中、信長・光秀の史跡を回ります。
阪急上桂駅の北側の、唐櫃越からの道。踏み切りより西側を見たところです

東への道を進みます

左に御霊神社が見えてきます

御霊神社 御霊神社境内のクスノキの大木


すぐ左に光現院千光寺 洛西観音霊場第26番、並んで西山浄土宗霊鷲山長恩寺

その先で、左からの道が合流したすぐの、上桂御辻町信号交差点で9号線に合流して左に折れます

暫く車の多い9号線を進み、桂川に架かる西大橋を渡ります。当時は渡河か船渡しであったのだろうか

橋より右(南)の桂離宮方向

桂川の西北嵐山方向

すでに31度に達しています橋を渡った先

9号線に架かる歩道橋より五条通りの西を振り返る

五条通りの先を見たところ

葛野通との交差する葛野大路五条交差点に出ます。振り返ると京都光華女子大があります

少し進むと阪急京都線の高架を潜ります

西大路五条信号交差点に出ます

道は広くきれいな道になります、左に京都看護大学、市立病院があります

道が広くなり、更に自転車専用側道が中央分離線まである贅沢な走る道があるのに、非常識な自転車が歩道を大きな顔をして走るマナーの悪い自転車、後ろからスピード出して走ってきます、折角の自転車専用道が悲しい京都の人よ常識を知りなさい

更に五条通りを東へやがて前方にJR山陰線の丹波口駅が右に見えてきます

前回のルートの一つとして、この交差点に出てきました。右丹波口駅で千本通り

ここで本能寺への道は一旦中断します。JR丹波口駅より山陰線で3駅先の花園駅まで乗り妙心寺へ移動します。
花園駅から北に少し進んでいくと、妙心寺に着きます京都市北区に位置する臨済宗妙心寺派大本山妙心寺南総門入り口

広大な山内には47を超える塔頭があります

山門・仏殿・法堂・大方丈と続く(重文)

左、妙心寺境内の南東に位置する。玉鳳院・開山堂(微笑庵)玉鳳院は山内で最も古く妙心寺発祥の地

玉鳳院の入口よりの庫裏(非公開)正面より見る

今回の目的地であります

前の参道

玉鳳院内の北には 織田信長・信忠の五輪塔2基 (入れません)
開山堂の東北隅には、武田信玄・勝頼・勝頼の子信勝・信玄の甥で信豊の4基の五輪塔
豊臣秀吉の長子・棄丸(鶴丸)祥雲院殿霊屋の廟があります(非公開)

南総門の並び勅使門を見て妙心寺を後にします

再び花園駅からJRで丹波口駅に戻り、五条通を東に進みます、本能寺への道を進軍します

堀川通と交差する堀川五条信号交差点の歩道橋にでます。広い交差点に架かっています歩道橋

交差点より先の五条通

すぐ左に真宗大谷派長覚寺

すぐ先の一筋目は先日歩いた西洞院通

西洞院通を左(旧本能寺方向)に見る

次の信号交差点の室町通を左に折れた先、本能寺の少し東に出るが、この筋を北上したかも

室町通の筋を北へ進むと、高辻通と交差します。左に下京区高辻通室町西入繁昌町 繁昌社



交差点左の繁昌社を見てすぐ先、室町通右に 日吉神社

日吉神社のすぐ先が、仏光寺通との交差点です。【寄り道】左に折れて数十m入ると、左に路地があります。そこを入っていくと

突当り正面に祠延命地蔵尊祠の 祠 を右に折れた右角に

斑女(はんにょ)塚




元に戻り、やがて四条通との信号交差点に出ます。左手前に池之坊短大があります

交差点を越えて室町通を北へ

二筋目の蛸薬師通の交差点に出て左方向が 旧本能寺 です

旧本能寺跡碑
前述の時はここまで来ていなかった、交差点を左(西)に折れて西洞院通を越えると左、西側の油小路沿いに建つ碑


本能校跡碑
本能寺小学校がありましたが、現在は特別養護老人ホーム、市立堀川高校、本能寺会館が建てられています

老人ホームの北東角に建つ旧来の 本能寺跡の碑、前回ここまで来ました

織田信長の定宿であった旧本能寺は、南側は蛸薬師通、北側は三条通、東側は西洞院通、西側は油小路の区域との説が通説となっています。東西約100m・南北約200mで堀を巡らせていたそうです。
南東角からの北への筋

南東角からの西への筋

旧本能寺への桂川渡河後の2ルートからの探索も終わり目的は達成しました。
本日も猛暑日で水ばかり飲みながら歩きました。この後、前回いけなかったもう少し、
信長・光秀の墓を回っていきます。
旧本能寺跡から前回北に進んだ、西洞院通を(北向に撮影)南に少し進み、地下鉄烏丸線の烏丸駅へ、地下鉄で北大路駅へ移動して大徳寺へ行きます

地下鉄北大路駅から東に20分ほど歩き大徳寺門前に着きました。

臨済宗大徳寺派大本山大徳寺
禅の道を守り、茶の湯を育てた、京都随一の大禅林、室町時代の応仁の乱後衰退した寺を、一休宗純が復興に尽力した。広大な神域を有し、境内には別院始め塔頭が24、本坊を囲むように山門を構えています。とても短い時間では散策もむりです。



大徳寺全体が国宝や重文の宝庫です。沢山ある塔頭には戦国武将たちの墓がありますが、殆どは非公開です

南門や総門を入ると、勅使門・三門・仏殿・法堂・庫裏が並んで建っています。

信長の総見院への途中、左の塔頭が 三玄院



三玄院の過ぎた角を左に折れた先、右に 織田信長公廟所の総見院
このお寺にも信長の墓があります

総見院正面、非公開

門から少し中を見たところです。廟所は見えません、沢山の塔頭がありますが、今回は総見院が目的なので終わります。

大徳寺を出て再び地下鉄北大路駅から河原町駅まで移動して、駅から鴨川を渡ります

鴨川を渡ると右に祇園四条南座があります。

四条通を八坂神社手前の祇園交差点まで歩きます八坂神社の前の祇園四条信号交差点八坂神社の南東の高台に建つ

浄土宗龍池山大雲院
本能寺の変で二条御所で自害した信忠の菩提を弔うため、二条御所跡に創建したのがはじまりで、信忠の法名である大乗院からつけられた。
その後、たびたびの火災等により昭和47年この地に移転された。
織田信長慰霊碑、信忠の菩提を弔うために建てられた

大雲院正門 (ここも非公開です)

大雲院祇園閣

明智光秀の首塚へ
次に大雲院から八坂神社の境内を抜けて北へ移動します。知恩院前の信号に出たところで、右の白川に沿う川沿いの道を三条通の方へ進みます。三条通が近くなった白川沿い右に光秀饅頭が並ぶ「餅寅」和菓子店(残念ながら休み)があります。
その角に案内道標が立っていますので、20m程右に折れたところに、光秀の首塚があります、私は全く知らなかったがある資料で知りました。(東山区白川筋三条下る梅宮町475)
情緒豊かな風景、白川に柳が靡き、町屋が建ち並ぶ京都ならでの素晴らしい景色


白川と左に入るところ、着物姿の女性が案内標示を見ています。何か風景にマッチします

食べようと思っていたが残念ながら休みです

路地の入口にある道標、右が餅寅、数十m先左に、小さな祠があります。先ほどの女性も見ていました

この史跡はあまり知られていないようです、私も知らなかった




路地に隠れるようにひっそりとした 墓所明智光秀の首塚

かなり朽ちていますが、光秀の首塚か


光秀の墓や供養塔が何か所かありますその一つです。

首塚を後に、すぐ先の三条通に出て、白川に架かる白川橋を渡る左角に 道標

傍に立つ新しい道標

橋を渡って三条通を西に歩き京阪三条駅へ

以上で愛宕山から本能寺への道を終わります
第四章
【第5】本能寺の変前後の光秀とその他の関連
(1)西国街道と山崎の戦い
西国街道は、古代から京と西国を結ぶ幹線道路として栄えた。山崎街道とも呼ばれていた、江戸時代に入り西国大名等の参勤交代の道としても利用された。
今も主要自動車道より外れているので旧道や宿跡等の街並み色濃く残る楽しい道です。
起点は京の七口の一つ、東寺口が置かれた羅城門跡からのスタートとなります。その西国街道沿いに、光秀と秀吉が戦った地が山崎の戦です。
天正10年(1582)6月2日未明丹波口から京都に入り、本能寺で信長、二条御所で信忠を自刃させた後、羽柴秀吉が中国より大返しで電光石火の東上で想定外の展開となった。
6月13日朝から雨だった、夕刻から光秀軍約1万5千と羽柴軍約3万5千と西国街道沿いで激突、光秀軍は劣勢の中よく戦ったが壊滅する。光秀の12日間の天下は儚く夢が破れた戦い。
その地は西国街道沿いの天王山の麓、山崎で繰り広げられた、山崎は宇治川、桂川、木津川などが合流して淀川となる地です。淀川と天王山に挟まれた平地に西国街道が通っています。
西国街道を歩いた時、合戦の後を見て歩いたので一部掲載します。
【西国街道の詳細は西国街道編をご参照ください】
西国街道を進み左にJR長岡京駅を見て、南に下っていくと神足2のT字路に出ます。T字路に出る右角に灯籠二基
このT字路を左に折れてJR高架を潜り先に進むと勝竜寺城にいきます。

道を挟んだ向かい左に 道標「右 山ざき 左 よど」

西国街道はT字路を右に折れてすぐ先で右からの67号線が合流します。車道の片弘信号交差点に出るので、少し重複して左に進むと、犬川を渡ります。手前右に万代があります。
犬川に架かる橋を渡ると、すぐ分岐するので左の旧道に入ります。暫く進んでいきます、左に大阪成蹊大芸術学部のキャンパスがあります

その先友岡地区と調子地区の境に 道標「右 よと 左 やなき谷」

やがて車道に出ますので右を見ると、調子八角交差点がありますので、そちらに折れて交差点を左に曲がります。左に馬の池がありますが工事塀で囲われています。
大山崎町に入ります、小泉川に架かる小泉橋を渡ります、円明寺地区に入ります

この辺りの街道は新しく開発されていて、旧道の面影はありませんが、右手前方には天王山が見えています。この付近一帯は戦場跡でしょうが、その面影を偲ぶことはできません

暫く進んでいくとJR東海道線の高架を潜ります。

さらに進むと名神高速道路の高架を潜ります

高速の高架を潜るとすぐ左に大山崎町役場があります。少し先右に、大山崎小学校があります。
立派な大山崎町役場、大山崎小学校より200m程で左からの久我畷道の古道が合流してきます。かつて離宮八幡宮神領を示す東の入り口の「黒門」が立っていたようです

左からの合流点に200m余り先右に真宗大谷派龍華山聞法寺

すぐ街道沿い南側天王山を背景に鳥居と安養院への案内標示があります

ここで古戦場跡の天王山へ登りました。念願の天王山の史跡を散策します
鳥居のすぐ先で東海道本線と阪急京都線の高架をトンネルで潜ります。トンネルを潜り少し右に折れると 浄土宗安養院

右に折れたところに戻り真っ直ぐ登っていくと山崎聖天(観音寺)鳥居

参道の石段を上ります

山崎の聖天さんとして信仰を集めている。境内の建物はすべて禁門の変で焼失して、明治に入り再建されました。
立派な灯籠がたくさん立てられています

さらに山頂へと登っていくと七合目付近に 旗立松の碑 山崎の合戦の時、秀吉が味方の士気を高めるべく松の樹上高く、千成ひょうたんの旗印を掲げたところで、現在の松は六代目だそうです

旗立松から少し上ると山崎の戦いの激戦地。
時代は新しいですが幕末の禁門の変で自刃した 十七烈士の墓 樹林に囲まれて整然と並んでいる

禁門の変(1864)の時戦いに敗れた隊長 真木和泉守保臣 以下十七名はこの地で自刃。明治維新は変の4年後でした


天王山に祀られている 三社宮

墓所よりさらに上ると山頂に 白玉手祭来酒解神社(重文)
延喜式内社、乙訓地方で最も古い神社。本殿の手前の神興庫は鎌倉時代の建築で板倉では最古。(重文)


天王山頂上(標高270.4m)樹木で見通しがきかない

天王山より山崎の合戦の地を見る6月13日夕刻から戦いが始まる、明智軍も健闘したが数千名が戦死して壊滅した。天王山より東北がやや開けた景色、今歩いてきた方向橋を境に南側が明智軍、北側秀吉軍


下って行く途中に 宝積寺 聖武天皇が勅願して行基が建立したと伝わる古刹。寺には多数の文化財が保存されています

三重塔

更に少し下ると浄土宗知恩院派大念寺

天王山登り口に出ました、逆に歩いたことになります。登り口は、室町時代の連歌師、山崎宗鑑冷泉庵跡

JR山崎駅の南側に出ますと 離宮八幡宮

嵯峨天皇の「河陽の離宮」があった地で、貞観二年(860)僧行教が宇佐八幡神を離宮の一角に勧請したことにより始まると伝わる。油の生産を独占する油座を造った。美濃の斎藤道三も山崎の油売りから身を起こしたともいわれる。

離宮八幡宮を出て直ぐ近くの山崎駅へ、駅前広場の東側に 妙喜庵
室町時代後期に東福寺の僧春嶽が開山、当庵には国宝の茶室待庵がある。千利休が唯一残した茶室といわれている。
この辺りの山崎一帯は戦場跡でしょう。

明智光秀軍は山崎の戦いで大敗すると、一旦後方の勝龍寺城へ退きました。勝龍寺城に退いたものの、兵は逃亡者が多く千人に満たなく、籠城は不可能と判断、夜半に僅かな近親者と共に光秀の居城である坂本城に移動します
前述の分岐の辻へ戻り左へ、現在復元された勝龍寺城公園があります
勝龍城址
暦応二年(1339)細川頼春が築城したと伝わる。天正六年(1578)明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁いだ城で、後の山崎の合戦では光秀が本陣を構えた。平成四年に一部再現され城公園として整備された。

本丸内の 細川忠興とガラシャ像 玉は慶長五年(1600)の関ケ原の戦いで悲劇的な最期を遂げる



山崎の戦の古戦場をあとにします
(2)明智光秀終焉の地 小栗栖街道の一部
小栗栖街道は明智光秀終焉の街道で、短い道のりだが大満足な街道歩きであった。
(詳細は小栗栖街道資料参照してください)
小栗栖街道は、京阪墨染駅・藤森神社(起点)~六地蔵~随心院
桃山丘陵の東斜面はかなり急で、地名にも岩ヶ淵・牛ヶ渕・西谷・北谷などの名が付く。そのなかで比較的較的高い平坦地を大和言葉で「くるす」というらしい。大岩山山麓のせまい高台の集落は、小さなくるすで、「小来栖」であった。この小栗栖から深草の大亀谷へ抜ける道が、昔から伏見への近道として、この峠を利用されていた。道の入り口に「弘法大師の水」がある。湧き水でここを歩く人々にとっては一息できる休憩地であった。
天正十年(1582)6月2日の本能寺の変の後、明智光秀は京都山崎近くの勝竜寺城を本陣としていたが、羽柴秀吉の大返しにより6月13日夕刻、光秀の軍1万5千と羽柴軍3万5千と宇治川・桂川・木津川などが合流して淀川となる山崎の地で激突。激闘むなしく、光秀の12日間の天下は儚くも夢に終わった。
敗れた光秀は少しの家臣と居城の坂本城へ敗走する途中、光秀一行は南に醍醐山が見える山科の小栗栖の竹藪に差し掛かったところ、落武者狩りに遭遇、あえなく槍に突かれて家臣溝尾茂朝に介錯されて果てたと伝わる。
首級と胴体は本能寺の焼け跡前で晒されたといわれている。またその後、坂本城も攻められ一族と共に落城した。
その足跡、終焉の地までを分からないまでも歩いてみました。
京阪墨染駅から東に進み、JR奈良線藤森駅の間左に 藤森神社をスタートするも、光秀の通った道はもう少し先になる。神社の鳥居を潜ると、広い参道の道が拝殿に続く。
平安遷都以前に建立された古社、「菖蒲の節句」発祥の神社として知られている。毎年五月五日の藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駆馬神事」が行われるところから、勝運と馬の神社として信仰が厚い。また日本最初の学者である舎人親王を祭神としてるところから、学問の神としても信仰されている。
本殿は、正徳二年(1712)に中御門天皇より賜った宮中内侍所の建物。本殿背後の八幡宮、大将軍社、どちらも重要文化財。本殿東の、神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名づけられたという名水「不二の水」は有名である。
一部の写真を掲載します

境内の神鎧像参道入り口の 石造り鳥居は正徳元年(1711)の銘があり、この鳥居には額がないが、むかし、御水尾天皇宸筆の額が掲げてあり、江戸時代前の道が西国大名参勤交代の道筋にあたり、各大名は神社前を通る時、駕籠からおり拝礼をして、槍などをたおして通行をしなければならなかった。しかし幕末動乱の時代となりこのような悠長なことでは時代に即しないと新撰組の近藤勇が外したといわれている。(社務所)

神社参道入り口前を東に進み、JR奈良線の藤森駅南側の手前の道を左に折れ、藤森駅を右にみてJR線と並行して少し北に進んでいきます。
少し進んだ左、民家の塀際植え込みに 道標 「みぎふしみみち ひだりきょうみち」すぐ先、東寺町バス停のところその先で、JR奈良線の踏切を右に高架を越えます。

高架を渡り突当りを左に折れます

高架を渡り左への坂を下り進んでいくと、突き当たるので右におれます、その折れる左側に祠があります。
緩やかな坂を暫く東に上っていきます左に、久宝寺参道の 指さし道標 かなり高台に上ってきた感じです

その先一音寺の墓地だがお寺の建物がない 道標があるが読めない

やがて竹林をみながら坂を下る。竹林の中の道を右にカーブしながら下っていきます。
きれいに整備された竹林、松茸の生産林だろう

先に進んでいくと、竹林となり整備されているので綺麗。何度か今まで歩いた中で、荒れた竹藪は薄気味悪いが、反面整備されていると綺麗な見応えのある竹林に変る

この先で竹林が切れて視界が一旦広がるが、再び竹林に入ります、この辺りは伏見区深草地区
道標示がしっかりしてくれている。なかなか街道の説明がしにくいので、写真で道順を見てください。見ごたえのある街道です。

突き当たるので右に折れます

人とは全く出会わない。クマが出てきても絵になるような景色。全然望みませんが

右に折れた先の竹林

真っ直ぐ進むと間もなく分岐があります
ここで真っ直ぐ行きすぎないこと。左鋭角に下る道があるので、左に下ります。左鋭角に下る所を、正面から見る。正面から歩いてきて、左への鋭角の道。手前真っ直ぐ進んでいけば、山科峠へ

素晴らしい下り坂の竹林を一人占め見事

下っていくと左への地道が二本続くが、あくまで舗装された道を下る
やがて左に山小屋風の建物が現れるが お堂

弘法大師の杖の水

傍に 道標 「右 京道」

ようやく山麓に下ってきたので住宅が数軒

分岐に出ますので左への道をとります。枝道もありますが真直ぐ


振り返った正面の竹林の山(峠)が今下りてきた道です

この辻(左に小栗栖宮山小学校)で一旦中断して、右(南西)の京阪六地蔵駅近くの六地蔵まで行って、別の小栗栖街道への道をここの辻まで進んでくることにします。
ここまでも小栗栖街道ですが光秀はこの道でなく、光秀は山崎の戦いに敗れ勝龍寺城から東北に敗走、伏見区桃山町の六地蔵交差点辺りから、小栗栖街道を東北に進んだのではないだろうか
桃山西尾の交差点、交差点の周囲には王将、イズミヤがあり。南には京阪宇治線の六地蔵駅やJR京都線の六地蔵駅があります。光秀はこの辺りに出てきた

ここ桃山西尾交差点から小栗栖越の街道を北東へ広くない道を進むが、その入口左にある浄土宗玉泉寺

玉泉寺を左に過ぎたところで道が分岐します、この道も旧道で左が、山科峠を越えて墨染駅方向への旧道。右の道を進みます。

左、山科峠への墨染通りの道筋

分岐の右の道を進んでいくが、かつては寂しい山道であったのだろうが、今は新興住宅地として旧道の面影のない、
旧小栗栖街道


小栗栖街道の緩やかな坂を進む

新しい住宅やマンションが建ち並びますが、いずれも右の真っ直ぐな道
両側一帯には府営小栗栖住宅棟が並ぶ中の信号交差点

かつては想像ができない山中であったのだろう、光秀主従は懸命に脱走を試みていただろう。
左に光の子保育園を過ぎる辺り、大きく弓を描いて右にカーブしている。
やがて右にある栗原医院の所での分岐を左にカーブ

前述の竹林から下ってきた小栗栖街道の辻に戻りました。突当り左から下ってきました

合流して突当りを右(北東)に進みます、すぐ左に、小栗栖宮山小学校があります。
小学校の南側の街道を進みます。景色が一変して喧騒から長閑な街道となりました。緩やかな坂道です。

右に 小栗栖の灸
明智越えの近く、右に‘’おぐりす灸‘’と書いた字が目につく。今から200年ほど前、信仰深い老女が、通りかかり虚無僧から秘伝を伝授されたという。元は深草にあったが、1704~⒑頃にここに移りすんだそうです。昭和の初めには、毎日200人~1000人の人々が長蛇の列をなすほど繁盛したそうです。右に小栗栖の灸
明智越えの近く、右に‘’おぐりす灸‘’と書いた字が目につく。今から200年ほど前、信仰深い老女が、通りかかり虚無僧から秘伝を伝授されたという。元は深草にあったが、1704~⒑頃にここに移りすんだそうです。昭和の初めには、毎日200人~1000人の人々が長蛇の列をなすほど繁盛したそうです。
現在6代目で営業しています。

次の分岐を左の道

左に小栗栖八幡宮 清和天皇の御代、貞観七年(865)に建立されたという古社。

神社の奥にはマムシや蜂が多いとのこと、注意というより奥に近寄らないことだ
地元の人々が祭りの準備中

小栗栖八幡宮を過ぎ左にカーブする、手前左に、本経寺と明智藪の案内立札があります


いよいよ光秀の終焉の地です。どのような竹林なのか少し興奮します
その先左に、八体仏を見て進むとすぐ、明智光秀終焉の地である明智藪であるが、思っていたのと全然状況が違って(あたりまえだろうが)本当の場所が分からない。が表示に従って進むことにする。
八体仏の先で道が分岐するが、右の真っ直な道を進む。真っ直ぐな道より左の道はやや広いです

少し先で道が再び分岐、明智藪は標識通り右の道に進むが。左は本経寺への道なので少し(寄り道)します


左に50mほど進むと右に 日蓮本宗本経寺 永正三年(1508)創建というからこの地にあれば、その時の状況時には建つっていたのだ

明智藪の近くに本経寺檀林があり、日蓮宗の道場があった

境内に 明智光秀公終焉の地碑

境内本堂横に、明智光秀公終焉の地碑があり、近江、坂本城主、明智光秀は天正十年六月二日(1582)本能寺の変に依り、天下を征服したが、その後明智光秀軍は六月十三日に京都山崎に於いて天下分け目の合戦で豊臣秀吉軍に敗れ、近臣十余名と共に坂本城をめざしたが当地小栗栖にて敢えない最期を遂げた。ここに悲運の武将の光秀公の供養を捧げて歴史の一端を伝える。(碑文より)

本経寺より降りてきて下の分岐する辻を右に進むと、左に明智藪の標識が立つ

道の説明が難しく、写真と標識に沿って進むと此処に出ます。この正面の民家のやや左りよりの藪を抜けていくのが、 明智藪

竹藪か雑木の中かと思っていたが、今は住宅が建っています。その民家の軒のような細い道を進みます、藪に入る手前左に碑が立つ

明智藪の碑
明智光秀敢えない最期の地、碑文は薄くなっていて解読できませんでしたが要約すると
山崎の合戦で敗れた光秀は、勝龍寺城から間道をとり伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃げる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えられる。碑には、信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により、云々と記されている。(碑文より)


往時の街道とは全く様相は変わっているだろうが、この辺りであったことを想像する感慨深い


明智藪を通っていると、様相は違っていても、なんとなく雰囲気が伝わってきます。時代が変わったので当たり前ですが、余りにも私が思っていた景色が違っていてびっくりしました。

抜けていきます


東の出口付近はゴミ捨て場のようだ

出たところから、明智藪を振り返る

やはり、折角の史跡が廃品で景観が崩れている、市が買い取って整備し明智藪公園として残してほしい。勝手なお願い

法琳寺址
明智藪から西方の大きな藪のなかに、昔、法琳寺というお寺があった。天智天皇のこり、藤原鎌足の長子定恵が唐より帰朝して、三重塔・弥勒堂・薬師堂などの七堂伽藍を建てたところで、当時、法琳寺といった。現在も奈良時代初期の複弁蓮華文の瓦が出土しているが、建物遺構は残っていない。
光秀の敗死により居城の坂本城も落城、一族もろとも自刃。小栗栖街道はこの先続きますが、光秀終焉の地、明智藪で終わります。
この後の詳細は(小栗栖街道資料参照)してください。
この街道先に 明智塚 がありますのでそこまで進みます。
明智藪を東に出たところで、車道にでます車道に沿って北東に進む


すぐ右に、かがやき保育園があります。
その先で、旧道は左に分岐して坂を上る道がありますので左に入ります。

集落の細い道を進んでいきます。
右角に西方寺お寺にしてはなかなかモダンな建築
再び右からの車道に合流します。
合流したところから、斜め左前方を見ると北小栗栖天神宮の森が見えます

北小栗栖天神宮
108段の結構きつい石段、法琳寺の創建時に鬼門除けとして天神社を建立されたと伝わる。

天神宮から街道に戻り緩やかな坂を上りながら進む
左に浄土宗南昌院があります
その先、左に墓地があります、そこで旧道は左に分岐しています。左の旧道に入ります。

旧道を暫く進んでいきますと

明智光秀の胴塚
旧小栗栖街道道沿い右側にある小さな看板。その傍の工務店の敷地内にある工務店の傍の細い道か、敷地内を通らせていただいて、右の車道に出ると少し広場になった車道の左、精米機の横にあるのが、明智光秀の胴塚です。
一筋右の筋の車道左、よく見なければ分かりにくいです

明智光秀之塚碑
明智藪で討たれた光秀の胴体が埋められた場所と伝わっています。

旧道より見ると胴塚碑は、工務店の敷地内か、正面の白い軽トラックの所辺りです。

この先暫く小栗栖街道は山科区を北に進みます
そして橋を渡ると間もそし交差点に出る。小栗栖街道の終点(起点)で
交差点を左から京街道勸修寺越え道が。右へは京街道醍醐道となる、主要な分岐点の辻(交差点)

交差点の左への京街道・勧修寺越え街道すぐ右に宮道神社が見える、勸修寺も近いです。

交差点右、京街道・醍醐道を進むと、山科川の東出橋を渡る

小栗栖街道、明智光秀終焉の地はここで終わります
(3)本能寺の後、戻ることのなかった居城、坂本城跡
坂本城跡
西近江街道沿いの坂本に、光秀の居城であった坂本城跡があります。今は殆ど何もありませんが、僅かに琵琶湖に注ぐ石垣が残っています。
坂本城は、琵琶湖の西岸で、西に比叡山の山系を望む位置にあります。元亀二年(1571)織田信長の命により、比叡山の抑えとして光秀が築城した。あたかも湖岸に浮かぶ名城と言われた。光秀が山崎の戦いに敗れ坂本城へ敗走の途中、小栗栖の藪で死去した。坂本城に入城した明智秀満は6月14日、光秀の妻子や我妻と共に自害し落城した。
大津市下坂本1丁目の四ッ谷信号交差点で分岐する道を左の旧道に入ります。信号手前右にKKRホテルびわこがあります。
ここの分岐を左、下阪本に入ります

下阪本1の町並みを進みます

すぐ先下阪本の町を流れる四ッ谷川に架かる四ッ谷橋を渡ります

その先で下阪本一丁目交差点を横断します阪本の街並みも旧家が点在して街道情緒が漂う

交差点を左に150m程入ると 天台真盛宗正法寺 西教寺の末寺で、開基は伝教大師で立派なお寺。本尊は 阿弥陀如来

旧柳町の石柱

阪本も比叡山の山麓ということもあって、お寺や祠が多い素晴らしい街並みが続きます、慌てずゆっくり楽しみながら歩く、車では味わえない

すぐ先の交差点左角に 道標「三十番神守護」「すぐ・・・・」

道標の十字路を右に折れると、坂本城址があるので 坂本城址の石標

右に折れた正面に 天台宗東南寺 延暦年間(782~806)に伝教大師が創建した寺、比叡山の東南、戸津ヶ浜にあったので東南寺という。本尊は釈迦如来

坂本城落城時(1582)討死した、明智一族とその家来たちの首塚がある。


明智塚
東南寺の北側に、落城の際に光秀脇差名刀の郷義弘並びに宝器物を埋めた跡で明智塚という


道標のある十字路まで少し戻り、西に200m程入り西大津バイパス(161号線)の手前に 日蓮宗蓮聖寺
本尊は日蓮大菩薩、創立は弘安十年(1287)小堂を建立したところから始まる。元亀の兵火で消失したが、慶長十年(1605)に再建された。

街道に戻ると左に 地藏堂と灯籠と石標「西近江路・浜坂本」


下阪本の街並み、この辺り旧大道町の石標 天正十四、十五年(1586~7)ころ、坂本城が廃され大津へ移転。
その跡地の堀を埋めて北国へ通じる大道をつくったことからきた町名と伝わる。なお、町は南北二町からなって、江戸時代には西近江路となり交通の要衝であった。

右に 真宗大谷派蓮瑞寺 本尊は阿弥陀如来像で、創建は延暦七年(788)

お寺より東に進み161号線を横断した先、琵琶湖畔に 坂本城跡の石垣 が残るが

明智光秀の居城坂本城
坂本城は元亀二年(1571)九月比叡山焼き討ちのあと、明智光秀がここに築城。琵琶湖の水を引き入れた琵琶湖に浮かぶ水城のような豪壮な城であったという。天正十年(1582)六月の本能寺の変で戦死後、娘婿の明智秀満が坂本城で豊臣方の堀秀政を迎え撃ち、城に火を放ち妻女・家臣とともに討死した。
その後、丹羽長秀が再建し、杉原・浅野氏に城主が変わったが、1586年廃城となった。徹底して城の遺構は壊されたようです。
街道に戻りまだ下阪本の街並みが続いています。この先藤ノ木川に架かる橋を渡ると比叡の辻に入ります。坂本城下周辺はここで終わります。沢山見るものがあり楽しいです。(詳細は西近江街道を参照して下さい)

坂本城下周辺の散策終わります
(四)明智一族の菩提寺西教寺へ
比叡山延暦寺と日吉大社の門前町、坂本の北西部に佇む西教寺は、全国に400余りの末寺有する天台真盛宗の総本山。
西教寺は、七世紀の初めに聖徳太子が創建したと伝わる。推古天皇の二十六年(618)に大窪山の号を賜り、天智天皇の八年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝わる。
元亀2年(1571)信長による比叡山焼き討ちで焼失したが、光秀の支援もありその後復興されました。
昭和二十一年に天台宗三派、延暦寺(山門)三井寺(寺門)西教寺(盛門)が分離、天台真盛宗として独立現在に至る。
天台真盛宗西教寺
坂本の人々に愛され光秀も篤く信仰したという古刹




総門

萬日供養塔









濃州妻木(明智)一族供養塔



坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓

明智光秀と妻燕子の墓


聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像



山門

西教寺を後にする

(五)真言宗谷性寺へ
篠山街道の亀山城下を更に西へ湯の花温泉を越えた先。
街道左に大きな石に「ふるさとの碑」と刻まれています

続いて お堂

お堂の隣の旧家の軒には桔梗紋が入っています明智一族に関係のある旧家なのかな


その先、猪倉バス停のところを右に入る道があります

右に250m程入ると光秀の首塚がある谷性寺の案内標識があります。どこが本当の首塚か分からない


正面がお寺ですが右の入り口から花畑を通っていきます

真言宗大覚寺派清瀧山谷性寺
本尊は不動明王で平安時代の創建による古刹、明智光秀が天正十年(1582)山崎の戦で最期を遂げると、光秀の尊敬厚い不動明王の傍に墓碑を建立。

境内の本堂前に 明智光秀公首塚横に七重石塔

南門は移築 明智山門 輪法紋・桔梗紋の彫刻が施されている

お寺の北側に 篠葉神社 延喜年間(902~928)に創建された古社

谷性寺を見学して終わります
(六)高野山奥の院廟所
奥之院参道の24町石の先、石田三成の墓所近く 明智光秀墓所


奥之院手前の御廟橋33町石近くに 織田信長公墓所


向かって左隣の墓は 筒井順慶 右 織田信長


以上で、明智光秀天下取り本能寺への信長急襲迷走の道を歩く
終わります

